褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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一旦、細かい整合性は考えずに書いてみます。


第二話「見えざる導き」

 目が覚めたとき、陽太はしばらく天井を見つめた。

 

 白い、なんの変哲もない天井だった。

 

 狭間の地に来てから——あるいはそれ以前から——こんな天井を見上げたことが、果たして何度あっただろう。廃墟の石床で目を覚ますことが当たり前だった。鎧の重さを体に感じながら意識を取り戻すのが、毎朝の習慣だった。

 

 陽太は自分の体を見下ろした。

 

 軽い。

 

 深雪が手配してくれたビジネスホテルの、薄い布団の上に横たわっている。鎧がない。兜がない。剣も聖印も、全て魂の底に格納されたまま眠っている。何も身に着けていない状態で眠るのがこれほど妙な感覚を与えるとは、昨夜は思いも寄らなかった。

 

 狭間の地では、装備を外して眠ることはなかった。いつ何が来るか分からない場所で、無防備な眠りは死に直結した。

 

 ここでは——そうでないらしい。

 

 陽太はゆっくりと起き上がり、窓の外を見た。曇天の朝だった。蒲田の街が、灰色の空の下に広がっている。電車の音が遠く聞こえ、どこかで車のエンジンがかかる。生活の音だ。戦いの音ではない。

 

 昨夜のことを、静かに振り返った。

 

 広間に満ちていた魔物の群れ。神の遺剣から迸った黄金波。倒れかけていた少女——九条深雪の傷に染み渡った黄金樹の回復の光。そして深雪から聞いた、この世界の十年分の歴史。

 

 ダンジョン。探索者。覚醒。

 

 魔物を倒して素材を売れば収入になる、と深雪は言っていた。探索者として登録すれば、合法的にダンジョンへ入れる。登録しなければ、今夜からの宿代すら払えない。

 

 するつもりはなかった、とは言い切れなかった。

 

 やむを得ず——という言葉が、頭の中を静かに通り過ぎた。

 

 力が、まだ残っているか。

 

 確かめる必要があった。

 

 

 

 

 まずは、タリスマン。

 

 陽太は魂の底から四つのタリスマンを引き出し、順番に手のひらへ乗せた。集う信徒の誓布、ラダゴンの肖像、アレキサンダーの破片、ゴッドフレイの肖像。一つ握るたびに、体の奥底で何かが応える感触がある。祈祷の威力が底上げされ、詠唱が加速し、力を溜めた一撃の切れ味が研ぎ澄まされる——狭間の地と変わらない、確かな恩恵だ。

 

 次に、神の遺剣。

 

 魂の深部から引き出すと、手の中に馴染み深い重さが戻ってきた。黄金と黒が混ざり合った刀身が、曇天の朝の光を鈍く照らしている。柄を両手で握り直し、意識を刃の奥へ向けた。

 

 往時の黄金が、じわりと宿っていく。

 

 低く、重い音が部屋に響いた。壁が微かに震えた。扇状に広がる波の感触が指先に蘇り、黄金の残滓が刀身を伝って揺れる。昨夜と同じ力だ。この部屋で全力を解放すれば、建物ごと消し飛びかねない。

 

 陽太は静かに剣を魂へ戻した。

 

 最後に、聖印。

 

 黄金樹の聖印を左手に構え、右手を軽く開く。信仰の奥底に意識を沈め、黄金の律へ向けて静かに呼びかける。

 

 黄金樹に誓って。

 

 掌から温かい光が溢れた。

 

 体の内側から力が漲ってくる。全身の筋肉が引き締まり、感覚が研ぎ澄まされ、意識の輪郭が鮮明になっていく。攻撃の鋭さが増し、外からの傷を受け流す何かが体を包む——狭間の地で幾度となく繰り返してきた祈りが、この世界でも完全に機能していた。

 

 光が収まった後、陽太はゆっくりと息を吐いた。

 

 そのとき——部屋の空気が、わずかに変わった。

 

 気づいたのは、足元だった。

 

 床の中央に、淡い黄金の粒子が静かに集まり始めている。焚き火のように、しかし炎ではなく光の粒が、地面からゆっくりと湧き上がりながら舞っていた。消えずに漂い続け、その場所だけが柔らかく明るい。

 

 ——祝福の導き。

 

 狭間の地では各地の祝福が拠点となり、そこに触れることで体の消耗が癒された。この部屋はホテルの一室——休む場所だ。その性質が、この世界なりの祝福を呼び寄せたのかもしれない。

 

 陽太はその光の中へ、静かに足を踏み入れた。

 

 その瞬間、胸の奥に熱が灯った。

 

 痛みではない。狭間の地の祝福に触れたときと同じ——乾いた大地の底から水脈が湧き出すような、深いところから満ちてくる温かさだ。昨夜の消耗が、ほんのわずかだが和らいでいく。かすかな手応えとともに、乾いていた聖杯瓶の内側に潤いが戻る感覚がある。満ちる、というより——思い出す、という感覚に近かった。体がまだここにある、と確かめるような。

 

 「……この世界にも、祝福の導きは宿っている」

 

 声に出してから、陽太は静かになった。

 

 しかし——なぜ、この世界に。

 

 祝福は狭間の地のものだ。黄金律の恩寵であり、大いなる意志の導きだ。それがなぜ、ダンジョンの中に宿り、このホテルの床から湧き出しているのか。昨夜、あの石畳の廊下を踏んだとき、どこか既視感があったのもそのせいかもしれない。構造だけでなく——何か、もっと根本的な部分で、あの空間と狭間の地は繋がっているような気がしていた。

 

 気のせいかもしれない。しかし——

 

 答えは、今は出ない。

 

 ただその粒子が、自分以外の目にも映るのかどうか——それだけは確かめることができる。

 

 

 

 

 ノックの音がしたのは、それから三十分後だった。

 

 「三咲、起きてるか」

 

 深雪の声だ。陽太は聖印と残っていたタリスマンを魂へ収め、扉を開けた。

 

 昨夜と同じ黒髪、同じ鋭い目。深雪は部屋の中へ自然に視線を走らせた。床の中央では、祝福の粒子が相変わらず静かに舞っている。

 

 「……光が見えますか」

 

 陽太は静かに問いかけた。

 

 深雪は首を傾げた。

 

 「何も見えないが。……何かあるのか」

 

 「いや……」

 

 陽太は言葉を打ち切った。

 

 深雪は一瞬だけ陽太を見てから、それ以上は追わなかった。

 

 「朝食、付き合え。話がある」

 

 それだけ言って、廊下を歩き出した。

 

 

 

 

 ホテルから徒歩五分のファミレスは、朝の時間帯にしては空いていた。

 

 案内された窓際の席に座ると、外の景色が目に入った。車道を走る車。自転車を漕ぐ主婦。制服姿の学生。全員が当たり前の顔をして、当たり前の朝を生きている。

 

 当たり前の朝。

 

 陽太にとって、それは十年ぶりの感覚だった。

 

 深雪はコーヒーとトーストを頼み、陽太はコーヒーだけ頼んだ。運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、甘ったるい香りが口に広がった。インスタントに近い、安っぽい味だ。狭間の地では水すら貴重だったことを思えば、贅沢な話だが——どこか現実感が薄い。カップを持つ手の感触だけが、妙にはっきりしていた。

 

 向かいに座った深雪が、まず口を開いた。

 

 「昨夜は助かった。改めて礼を言う」

 

 「お気になさらず」

 

 「お気になさらず、じゃない。お前が来なければ私は死んでいた」

 

 淡々とした口調だったが、言葉に重さがあった。深雪はトーストを齧りながら、視線だけを陽太に向けた。

 

 「Bランク階層で単独行動したのは私の判断ミスだ。それは認める。だが——」

 

 言葉が、少し間を置いた。

 

 「あの状況から一人で全部片づけるのは、普通じゃない。Aランクの私でも無理だった」

 

 深雪の声に、初めてわずかな感情の揺れが混じった。怒りでも感謝でもない——測りかねている、という感じの揺れだ。

 

 「お前は何者だ」

 

 問いというより、独り言に近い声だった。

 

 陽太はコーヒーカップを置いた。

 

 「三咲陽太です。それ以上でも、それ以下でもありません」

 

 「……そうか」

 

 深雪はそれ以上追わなかった。しかしトーストを齧りながら、視線は陽太から離れなかった。品定めというよりも——何かを確かめようとしている目だった。

 

 しばらくして、深雪が話題を変えた。

 

 「今朝、部屋で何かやっていたか」

 

 「少し、確認をしていました」

 

 「低い音が廊下まで響いていた。それと——ドアの隙間から光が漏れていた。黄金っぽい色の」

 

 「ご迷惑をおかけしました」

 

 「迷惑というわけじゃないが」

 

 深雪はそれ以上追わず、コーヒーに口をつけた。

 

 窓の外を流れる朝の景色を眺めながら、陽太は静かに考えていた。

 

 部屋の祝福は、深雪には見えなかった。気配すら感じていなかった。

 

 深雪の言う通り、光は漏れていた——祈祷の光は見える。しかし床から湧き上がる祝福の粒子は、深雪の目には何も映していなかった。この世界の人間には、そもそも見える性質のものではないのだろう。

 

 つまり——祝福の導きを感じられるのは、この世界で自分だけだ。

 

 ならば、なぜ。なぜこの世界に祝福が宿っている。なぜダンジョンの中に、狭間の地と同じ構造を感じた。自分が持ち込んだものが馴染んでいるのか、それとも元からここに何かがあったのか。

 

 答えは出ない。しかしその問いだけが、コーヒーの湯気とともにゆっくりと立ち上がっていった。

 

 向かいで深雪がコーヒーカップを置く音がした。小さな、ただの音だ。しかしその音が、妙に耳に残った。

 

 隣に人間がいる。

 

 それがこれほど不思議な感覚だとは、思っていなかった。狭間の地では、誰かと同じ時間を過ごすことがほとんどなかった。人がいれば、大抵は戦うか、やり過ごすか、どちらかだった。

 

 こうして朝食を共にするというのが——どれほど久しぶりのことか、陽太は正確には思い出せなかった。

 

 

 

 

 深雪の車は白い国産SUVで、助手席に乗り込むと革の匂いがした。

 

 「蒲田支部まで二十分もかからない」

 

 ハンドルを握りながら深雪が言った。陽太は窓の外を眺めた。

 

 朝の蒲田の街が流れていく。商店街、住宅地、コンビニ、パチンコ店。どこまでも平凡で、どこまでも現実的な景色だ。

 

 昨夜潜ったあの石畳の廊下と、この街が同じ場所にあるとは思えない。しかしダンジョンは確かにここにあり、魔物たちはその中で生きていた。

 

 狭間の地と、構造が似ている——と昨夜も思ったが、朝の光の中で改めて考えると、似ているというより何か根本的なところで同じ匂いがする、という感覚に近かった。あの石畳の感触。発光体の青白い光。魔物の気配の質。どれも、狭間の地で幾度となく感じてきたものと微妙に重なっていた。

 

 単なる偶然か。それとも——

 

 「着いた」

 

 深雪の声で、陽太は窓から視線を戻した。

 

 

 

 

 蒲田支部は、商業施設の裏手にある四階建てのビルだった。入口に「ダンジョン探索者センター 大田区蒲田支部」と書かれたプレートが掛かっており、ガラス張りのロビーに数人の人間が見える。

 

 中に入ると、まず壁の掲示板が目に入った。ダンジョン攻略情報の更新告知、素材の買取価格一覧、Bランクダンジョン攻略隊の募集——様々な紙が所狭しと貼られており、何枚かは端が破れかけていた。

 

 待合室には低ランクと思しき探索者が数人座っていた。軽装の若者二人が小声で「昨日のCランク、ボスが強化されてたらしい」と話し合っている。中年の男性は素材らしき袋を膝の上に乗せ、買取カウンターの順番を待っていた。誰もが、ここに来ることを当たり前としている顔をしていた。

 

 十年間でこれが日常になったのだ、と陽太は思った。

 

 魔物と戦い、対価を得て、階位を上げる。狭間の地でやっていたことと、形だけを見れば変わらない。違うのは、ここでは全員が同じ世界の住人だということだ。

 

 受付カウンターへ向かうと、二十代後半の女性職員が顔を上げた。深雪を見て、わずかに目が広がった。

 

 「九条さん、お久しぶりです。今日はどのようなご用件で」

 

 「知人の新規登録を」

 

 「かしこまりました。ご本人は——」

 

 職員の視線が陽太に移った。陽太は軽く頷いた。

 

 書類が出てきて、記入が始まった。名前、年齢、生年月日——十年のブランクを頭の中で処理しながら、陽太は淡々と書き込んでいく。

 

 「希望登録ランクはいかがでしょうか」

 

 「Dランクで」

 

 職員の手が、一瞬止まった。

 

 顔を上げた職員の目に、隠しきれない不信感があった。

 

 「……Dランク、ですか。Aランクの九条さんが連れてきた方なのに」

 

 「はい。Dランクで構いません」

 

 職員は小さく眉を寄せながら、書類の続きを進めた。

 

 

 

 

 能力測定のため、別室へ案内された。

 

 待合室の探索者たちは何も知らないまま、それぞれの順番を待っている。別室に入ったのは陽太と、引率の深雪と、先ほどの職員の三人だけだった。

 

 部屋の中央に、机ほどの大きさの測定器が置かれていた。金属製の台座の上に水晶に似た素材の板が乗っており、ケーブルが壁の機械へと繋がっている。

 

 「手を乗せてください」

 

 職員に促されるまま、陽太は右手を板の上に置いた。

 

 機械が起動した。低い駆動音がして、水晶板が薄く光り始める。

 

 数秒後、モニターにエラーが出た。

 

 職員の表情が、僅かに硬くなった。操作をやり直し、もう一度測定を試みる。また同じエラーが出た。三度目も変わらない。「魔力値・戦闘力:計測不能」という文字がモニターに繰り返し表示されている。

 

 「……少々お待ちください」

 

 職員は機械を再起動させ、測定を続けた。何度やっても、結果は変わらなかった。

 

 やがて職員は機械から離れ、陽太の方を向いた。不信感を隠そうとしているが、目に出ていた。

 

 「三咲さん、これまでどのダンジョンで活動されていたんですか」

 

 静かな、しかし抑揚を抑えた問いだった。

 

 「日本国内で未登録のまま探索を行うのは違法ですが……海外でしたら一部の国で認められているケースもありますので、正直にお答えいただけますか?」

 

 陽太は視線をわずかに逸らした。

 

 「……少し遠いところで、いろいろと」

 

 「少し遠いところ、というのはどちらの国でしょうか」

 

 「明言するのが難しい場所です」

 

 「難しい、というのは」

 

 「そのままの意味です」

 

 職員の目が鋭くなった。

 

 その沈黙を、深雪が破った。

 

 「彼は昨夜、私がBランク相当の階層で包囲されたところを助けてくれました」

 

 穏やかな、しかし揺るぎない声だった。

 

 「術式も戦い方も、私が知っているどの探索者とも違います。計測不能なのはその術式の性質によるものだと思いますが——本人が望んでいるのはDランク登録です。昨夜の状況を見た限り、少なくとも他者に危害を加えるような人間ではないと、私が保証します」

 

 職員は深雪を見てから、もう一度陽太を見た。

 

 長い沈黙があった。

 

 「……かしこまりました」

 

 職員はそう言って、書類の処理を再開した。しばらくして、薄いカードが出てきた。

 

 「仮Dランクとして登録を完了いたします」

 

 陽太はカードを受け取った。「三咲陽太 仮Dランク」とある。

 

 「ただ」

 

 職員が、カウンターに書類を揃えながら付け加えた。

 

 「後日、追加の確認が必要になるかもしれません。それと——」

 

 職員は一拍置いてから、声をわずかに低くした。

 

 「計測不能のケースは、過去に数例あります。いずれも後から問題が発覚しました。くれぐれもご留意ください」

 

 含みのある言葉だった。陽太はカードをポケットへ入れながら、静かに頷いた。

 

 隣で深雪が、小さく息を吐くのが聞こえた。

 

 

 

 

 センターの外に出ると、曇天がそのまま続いていた。

 

 深雪がビルの壁に背を預け、腕を組みながら陽太を見た。

 

 「取れたな」

 

 「おかげさまで」

 

 「礼はいい」

 

 短い沈黙があった。遠くで車のクラクションが一度だけ鳴った。

 

 深雪は腕を組んだまま、陽太をじっと見た。品定めではない。何かを——決めようとしている目だった。

 

 「一つ聞いていいか」

 

 「どうぞ」

 

 「お前は、目立ちたくないんだろう」

 

 「……ええ」

 

 「だったらなぜ昨夜、あの広間に踏み込んだ」

 

 陽太は少し間を置いた。

 

 廊下の奥から聞こえた悲鳴。考えるより前に、体が動いていた。理由があったわけではない。ただ——

 

 「放っておけなかったので」

 

 深雪は何も言わなかった。しばらく陽太を見てから、視線を空へ向けた。

 

 「……そうか」

 

 それだけだった。しかし声の質が、少しだけ変わっていた。

 

 やがて深雪が空から視線を下ろし、何気ない口調で言った。

 

 「今日、軽く中層のダンジョンを一緒に見てみないか」

 

 陽太は少し間を置いた。

 

 職員の視線が、頭の中に残っている。「計測不能のケースは、過去に数例あります」という言葉も。それからあの測定器が弾き出したエラーの文字も。

 

 このまま目立たずに生きていきたい、という朝の決意も。

 

 しかし——ダンジョンの中で感じた、あの違和感の正体が、まだ分からないままだ。

 

 「……少しだけなら」

 

 気づいたら、答えていた。

 

 深雪の口元が、ほんのわずかに緩んだ。

 

 「行くぞ」

 

 それだけ言って、駐車場の方へ歩き出した。陽太はその背中をしばらく見てから、後に続いた。




次回、再びダンジョンへ。
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