褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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全体の構想は出来たので完結させられるよう頑張ります。


第三話「接ぎ木の倣い」

 蒲田の廃ビルは、外から見れば何の変哲もない建物だった。

 

 シャッターが下り、窓ガラスのいくつかは割れたまま放置されている。しかし正面の路地の奥、目立たぬ場所に設けられた仮設の受付テントに、数人の探索者が順番を待っていた。装備の重さで背が丸くなった若者、傷だらけの革鎧を着た中年の男。それぞれが当然の顔をして、今日の探索へ向かう準備をしている。

 

 陽太は深雪の隣に立ちながら、その光景を静かに眺めた。

 

 昨夜のダンジョンは突然の遭遇だった。しかし今日は違う。名前を名乗り、カードを提示し、順番を待つ。それが、この世界の流儀らしい。

 

 受付の列に並んでいると、隣の探索者たちの視線が動いた。最初は陽太を見て、次いで深雪に気づく。小声のやり取りが聞こえた。

 

 「九条さんがCランクに? 珍しいな」

 

 「しかも連れがいる。あの人誰だろう」

 

 深雪は視線を前に向けたまま、わずかに眉だけ動かした。慣れているのだろう——こういう反応に。

 

 受付を済ませ、入口へ向かう途中、深雪が低く言った。

 

 「目立つ真似はしない方が良い。ここは人が多い」

 

 「心得ています」

 

 「昨夜のような真似は控えろ。あの黄金の波も、回復の光も——妙な"目"を向けられたくなければな」

 

 深雪の口調に、忠告以上の何かが混じっていた。昨夜陽太が見せたものを、彼女はまだ整理しきれていないのだろう。強大な力。見たことのない術式。そして、どんな状況でも揺れない目。

 

 陽太は静かに頷いた。

 

 「控えます」

 

 「……それから」

 

 深雪が足を止め、陽太を見た。

 

 「お前をここに連れてきたのは、親切心だけじゃない。お前の実力を、もう少し近くで見たかった。それだけは言っておく」

 

 正直な言葉だった。陽太は少し考えてから、答えた。

 

 「構いません。こちらも、慣れない場所で道案内は助かります」

 

 深雪は何も言わなかった。ただ、口元が少しだけ動いた気がした。

 

 

 

 

 入口でIDカードを提示し、ダンジョンへの入場が許可された。

 

 「Dランクの方は通常、このCランクダンジョンには——」

 

 「同行者として私が許可します」

 

 深雪の一言で、受付の職員が口を閉じた。

 

 二人で入口をくぐった瞬間、空気が変わった。石畳の廊下。壁面に張りつく発光体の青白い光。かすかな腐臭と、遠くから届く低い唸り声。

 

 昨夜と同じだ。

 

 陽太は足を踏み出しながら、体の感覚を確認した。この空気の質、地面の感触、魔力の密度——狭間の地のものと微妙に重なっている。昨夜も感じた違和感が、今日は一層はっきりとしていた。ここはただの迷宮ではない、という予感が、体の奥で静かに鳴っていた。

 

 また戦うのか。

 

 胸の奥に、微かな疲労が滲んだ。

 静かに生きたい——そう思ったはずなのに、足は自然と前へ進んでいる。

 

 「装備はそれだけか」

 

 深雪が陽太の手元に視線を落とした。

 

 「少し待ってください」

 

 陽太は静かに、自らの内に意識を向けた。

 

 何もなかったはずの空間に、音もなく重さが生まれた。使い古されたショートソードと、傷の多い鉄の円盾。昨夜まで魂に格納していた、地味で、しかし手に馴染んだ装備だ。

 

 深雪が目を見開いた。

 

 「今……どこから」

 

 「懐から」

 

 「懐に大盾が入るか」

 

 陽太は答えなかった。

 

 深雪はしばらく陽太を見てから、細く息を吐いた。昨夜から続く「この男は何者だ」という問いが、また一つ積み重なった顔だった。

 

 しかし——陽太がショートソードを構えた瞬間、深雪は言葉を失った。

 

 重心の置き方、剣先の角度、視線の向き。全てが一点の隙もない。地味な装備が、まるで王の帯剣のように見えた。

 

 ぞっとするほど、隙がない——

 

 深雪は自分の細剣の柄を握り直してから、前を向いた。

 

 

 

 

 Cランクダンジョンは、昨夜のBランクよりも明るかった。壁の発光体が規則的に並び、視界は広い。しかしその明るさが、逆に魔物の影を濃くしていた。

 

 入口を抜けてすぐ、陽太は周囲を見渡した。

 

 先行している探索者パーティが一組いた。四人編成、それぞれがCランクに相応しい装備を身につけ、隊列を組んで慎重に進んでいる。先頭の大剣士が手を上げると、全員が足を止めた。魔物の気配を察知したのだろう。

 

 「……Cランクのパーティ、ですか」

 

 「そうだ。悪くない練度だが。動きが少し硬いな」

 

 深雪が静かに答えた。

 

 「Cランクで死者が出るのは、主に単独行か、連携が崩れたときだ。四人なら互いをカバーできる」

 

 深雪は先行パーティと適度な距離を置いて歩きながら、陽太を横目で見た。

 

 「お前は集団戦の経験はあるか」

 

 「……あまり」

 

 「そうか。基本的に私についてこい。無理はするな」

 

 陽太は頷いた。

 

 その言葉が、深雪なりの気遣いだと分かった。自分の実力を測りに来た、と正直に告げた女が、それでも「無理はするな」と言う。矛盾しているようで、矛盾していない。

 

 先行パーティの前方で、低い唸り声が響いた。

 

 血に飢えた猟犬——ブラッドハウンド。赤黒い体毛、鋭い爪、異様に長い舌。廊下の先から姿勢を低くしつつ、じわりと距離を詰めてくる。

 

 先行パーティが動いた。

 

 大剣士が前に出てブラッドハウンドの注意を引き、その隙を突いて魔術師が白緑の光弾を放つ。猟犬の体が吹き飛び、壁に叩きつけられた。

 

 続けて別の個体が脇の通路から飛び出した——こちらは集団の後衛を狙っている。

 

 「まだだ、来るぞ!」

 

 先頭の大剣士が叫び、剣を構え後衛との間に割り込む。しかし猟犬の動きは速すぎた。大剣士の肩に爪が食い込み、血が飛ぶ。

 

 「くそっ、援護——!」

 

 弓使いが必死に狙いを定めるも味方が近すぎる。あれでは同士討ちの危険が及ぶ。

 

 魔術師が詠唱を始めるが、焦りで言葉が噛み合っていない。

 

 死者が出るのは、主に単独行か、連携が崩れたとき——

 

 その言葉が陽太の頭をよぎった刹那。

 

 「行くか」と深雪が低く呟いた。

 

 足を、踏み出していた。

 

 細剣が閃く。刃に淡い蒼白の光が宿り、猟犬の首筋を走る。一閃。血ではなく冷気が散り、氷の霜が魔物の体表を瞬時に覆った。凍りついた猟犬は体勢を崩し、床に転がる。深雪は止まらなかった。返しの一突きが、動かなくなった猟犬の心臓を正確に貫いた。

 

 舞踏のように見えた。しかしその動きには、美しさと同じだけの冷徹さがあった。

 

 氷の軌跡が宙に残り、ゆっくりと消えていく。

 

 「……これがAランク」

 

 先行パーティの魔術師が呆然と呟いた。

 

 「三咲、後ろに——」

 

 深雪が振り返った瞬間、すでに遅かった。

 

 また別の個体が——今度は深雪の首元を狙って跳躍していた。

 

 陽太は円盾を「置いた」。

 

 ただそこに、自然に。まるで最初からその位置にあったかのように。

 

 金属音が響き、火花が散る。猟犬の体が流れた。体勢が崩れ、喉元が無防備に晒される。陽太のショートソードが、迷いなくそこへ吸い込まれた。

 

 肉を断つ感触。骨を砕く重い手応え。猟犬は声も上げずに崩れた。

 

 速い。いや、違う。

 

 深雪は息を呑んだ。

 

 パリィは知っている。盾で攻撃の軌道を弾き、相手の体勢を崩す——基礎の中の基礎だ。しかしあれは、何だ。技術の次元が違う。スキルでも魔術でもない。純然たる体術と剣術——その極北。

 

 陽太は剣を引き抜き、血を払う。

 

 「次が来ます」

 

 陽太はすでに前を見ていた。

 

 重装ゴブリンの群れが廊下の奥から湧いた。鉄製の棍棒を振りかざし、咆哮を上げながら突進してくる。

 

 深雪が剣を構えた。蒼白の光が刃に滲む——もう一度魔術を編もうとした、その瞬間。

 

 陽太は歩き出していた。

 

 走らない。跳ばない。ただ、歩く。

 

 だがその歩みは、魔物たちにとっては死の宣告だった。

 

 一体目の棍棒を、円盾で受け流す。体勢を崩したゴブリンの胸に、剣を突き立てる。

 

 二体目の横薙ぎを、半歩下がって避ける。そのまま喉元へ刃を滑り込ませる。

 

 三体目の突進を、盾で弾き飛ばす。倒れたところへ、迷いなく剣を振り下ろす。

 

 先行パーティの大剣士が、構えることも忘れた様子で呆然と呟いた。

 

 「……何だ、あれ」

 

 魔術師は詠唱を忘れ、口を開けたまま陽太を見ていた。

 

 深雪も、剣を構えたまま止まっていた。

 

 何だ、この戦い方は。

 

 魔術もスキルも使わない。ただのショートソードと円盾。それだけで、Cランクの魔物を「歩きながら」屠っていく。スキルの光も、魔術の爆音もない。ただ剣が動き、魔物が倒れる。その静けさが、かえって異様だった。

 

 陽太の周囲だけが、異様な静寂に包まれていた。

 

 彼女が知る「強さ」は魔力量とスキルの威力だった。しかし陽太のそれは違う。技術が、経験が、読みが——人間の限界を超えたところで研ぎ澄まされていた。これは覚醒の力ではない。膨大な年月と経験によって培われたもの。与えられたものではなく、積み上げたものだ。その重さが、一つ一つの動作に宿っていた。

 

 いつかこの男が敵に回ったら。

 

 その想像が、一瞬だけ深雪の脳裏をよぎった。

 

 

 

 

 中層の広間に、壊れかけた木箱が転がっていた。

 

 「運が良い。素材箱だな」

 

 深雪が近づこうとしたとき、陽太が突然足を止めた。

 

 無言のまま、物陰を見る。天井を見る。地面を見る。円盾を微かに持ち直し、ショートソードの柄に親指をかける。体が、わずかに緊張した。

 

 「……どうした」

 

 陽太は答えず、箱から二歩後退した。視線は天井の暗がりに向いたままだ。

 

 深雪は呆れたように肩をすくめた。

 

 「このダンジョンで素材箱に罠が仕掛けられていたという事例は報告されていない。安心しろ」

 

 「……念のため」

 

 「念のためにしては、本気の顔をしているぞ」

 

 深雪は箱に近づき、蓋を開けた。素材の欠片がいくつか、無造作に入っている。罠は、ない。

 

 陽太はようやく、わずかに肩の力を抜いた。しかし視線は、しばらくの間、箱の周囲を離れなかった。

 

 「……以前いた場所では、宝箱がそのまま魔物だったことがあったので」

 

 深雪は一拍置いた。

 

 「それは……ひどい場所だったんだな」

 

 「ええ」

 

 陽太は短く答えてから、前を向いた。

 

 

 

 

 最深部へ向かう廊下は、見た目こそ変わらなかった。

 

 壁の発光体は同じ青白い光を放ち、石畳の継ぎ目も先ほどと同じだ。魔物の残骸が散らばる以外、何も変わっていない。

 

 しかし——何かが、変わっている。

 

 陽太はその感覚を言語化できないまま、足を進めた。狭間の地で幾度となく感じてきた、祝福の切れ目のような感覚ではない。もっと根本的なところで——この場所の「性質」が変わっている。何かが引き寄せられているような、あるいは何かが目を覚まそうとしているような。

 

 どこかで、感じたことがある気がした。

 

 (……どこで?)

 

 答えは出なかった。ただ、足の裏から伝わる石畳の感触だけが、わずかに違った。

 

 深雪が前を向いたまま言った。

 

 「……この先がボス部屋だ。グレーター・オーガのはずだ。3メートル近い巨体で、鉄骨を束ねた棍棒を持つ。正面から受けたらBランクでも吹き飛ぶ。足元を崩しながら——」

 

 ボス部屋の扉が、音もなく崩れ落ちた。

 

 深雪の言葉が止まった。

 

 現れたものは、グレーター・オーガではなかった。

 

 (……何だ、これは)

 

 深雪の視界に、それが映った。

 

 肉の塊が、複雑に絡み合っていた。複数の魔物の腕が無秩序に生えており、狼の頭が二つ、鳥の羽が背中に折り重なっている。泥のような黒い魔力が全体を繋ぎ合わせ、継ぎ目から腐臭が漂う。グレーター・オーガの面影はどこにもない。本来のボスを取り込んだのか——あるいは、何かに作り変えられたのか。

 

 探索者になってから数多くのダンジョンに潜ってきた。しかしこんなものは、見たことがない。

 

 「これは……Cランクのボスじゃない。何だ、これは」

 

 深雪は自分の声が、わずかに揺れているのを感じた。

 

 「——撤退しましょう」

 

 陽太の声は穏やかだった。

 

 「……同意する。来た道を——」

 

 その言葉が終わる前に、廊下の入口が塞がった。

 

 霧だ。

 

 薄い、しかし明らかな境界を持つ霧の壁が、二人の退路を覆っていた。黄金でも腐敗でもない——ただ、そこから先へは戻れないと、体が知っていた。陽太にとっては、見慣れた光景だった。

 

 「……どうやら、逃がしてくれそうにはないですね」

 

 深雪は霧の壁を見て、次に魔物を見て、それから陽太を見た。

 

 陽太の視線は魔物に向いたまま、揺れていなかった。

 

 複数の腕が絡み合い、何かを模倣しようとして失敗したような、その醜い継ぎ目を見ながら、陽太は独り言のように呟いた。

 

 「……どこの世界にも、醜い接ぎ木はいるものだな」

 

 接ぎ木の倣い、とでも呼ぶべきか。醜悪さは完璧だが。

 

 円盾を構え直す。ショートソードの柄を、静かに握り直す。

 

 深雪はその横顔を見ていた。

 

 圧倒的な脅威を前にして、この男は変わらない。呼吸も、目の色も、重心の置き方も——全てが、戦闘の始まりに向けて静かに整えられていくだけだ。

 

 深雪はこれまで幾多のダンジョンに潜り、数え切れない魔物と戦ってきた。しかし今初めて、隣に立つ人間に安堵を感じた。

 

 同時に——その安堵が、なぜだか恐ろしかった。

 

 接ぎ木の倣いが咆哮する。

 

 陽太は、一歩踏み出した。ただそれが当たり前であるかのように。




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