褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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戦闘シーンはほぼノリです。


第四話「GREAT ENEMY FELLED」

 深雪は、前へ出た。

 

 陽太より先に。それが当然だというように。

 

 細剣の切っ先を正面に向け、半身に構える。刃に意識を向けると、冷気が指先からじわりと染み出し、刀身を白く曇らせていく。深雪が持つ固有のスキル——氷雪の刃。それが今、深雪の剣に宿った。

 

 接ぎ木の倣いは、一歩動くたびに音が鳴った。

 

 軋む音だった。骨が、あるいは何か別の硬いものが、無理な方向へ曲がるたびに立てる音だ。腕が六本。狼の頭が二つ。折れた鳥の羽が背中に重なり、泥のような黒い魔力が全体をぬめりながら繋いでいる。どこに目があるのか——あるいは目があるのかどうかすら、判然としない。

 

 深雪が踏み込んだ。

 

 細剣の一閃が、倣いの肩口へ吸い込まれる。冷気の軌跡が宙を走り、命中した箇所に白い霜が瞬時に花開いた。手応えはある。確かに斬れている。

 

 しかし——重い。

 

(……Cランクのはずなのに)

 

 深雪は舌打ちを堪えながら、二の太刀を繰り出した。肩から胸へ、返しで脇腹へ。三連の斬撃が倣いの体表を刻み、霜が広がる。氷結の効果で動きが僅かに鈍る——はずだった。

 

 鈍らない。

 

 霜は纏わりついているのに、倣いの六本腕は止まらなかった。まるで痛みという概念が存在しないかのように、その腕が深雪へ向かって弧を描く。

 

 後退して距離を取る。腕の一本が空を掴み、床を抉った。石畳が砕ける。倣いが方向を変え、再び深雪へ体を向ける。

 

(動きが読めない……何だ、この気味の悪さ)

 

 戦闘の経験から言えば、魔物の動きには必ず”癖”がある。本能的な攻撃パターン、獲物の追い方、体重の乗せ方——それを読んで、避けて、斬る。それがAランク探索者としての深雪の戦い方だった。

 

 しかし倣いの動きには、そのどれもが当てはまらない。

 

 攻撃の意図が見えない。どこを守り、どこを狙っているのかが、体の動きから読み取れない。強いて言えば、まるで——何かを模倣しようとして、しかし模倣が体に馴染んでいない、とでも言うべきか。

 

 斬った手応えが、異様だった。Cランクの魔物を斬るときの感触ではない。刃を通しても、どこか「外れた」ような感覚がある。まるで、斬っている対象が何か別のものの上に覆い被さっているような——

 

 嫌悪感が背筋を走った。

 

(気色が悪い……でも退けない)

 

 深雪は再び踏み込んだ。

 

 倣いが腕を振り回した。狼の頭が噛みつこうとし、鳥の羽が風圧を作る。どこかから引っ張り出した棍棒を、継ぎ目から生えた腕が力任せに叩きつけてくる。深雪は半身を引いて躱し、すぐさま踏み込んで返しの一撃を入れた。また通った。また手応えがおかしい。氷結による鈍化が、あまり効いていない。

 

 氷の軌跡が複数の腕の間を縫い、倣いの胸を貫こうとした——その瞬間、倣いの動きが変わった。

 

 

 

 

 最初は、わずかな違和感だった。

 

 六本腕の振り方が、少しだけ変わった。肘の曲げ方、踏み込む足の角度——それが、先ほどまでの”ぎこちなさ”と質の違う動きに移行し始めた。

 

 深雪の目が細くなった。

 

 腕の一本が、嵐を帯びた。

 

 正確には、嵐のように見える何かだ。黒い魔力が渦を巻き、腕の周囲に不規則な乱気流が生じる。それが大きく振り下ろされた瞬間——深雪は反射的に後退し、床が大きく抉れる衝撃を背中に感じた。

 

(動き変わった——ッ!?)

 

 考える間もなく、倣いが転がった。肉の塊が回転し、その全体が床を転がりながら深雪を追う。異様な光景だった。ありえない方向に腕が折れながら、それでも体が止まらない。魔物が回避技術を——しかもそれが、人間の動きを模した何かに見えた。

 

 深雪は横へ跳び、倣いの軌道から外れた。転がり終えた倣いが立ち上がる。一拍遅れて、背中の羽がボロボロと崩れ落ちた。自らの動きに体がついていかない——そのことに、倣い自身は頓着していない様子だった。

 

「……誰かの戦い方を、真似している?」

 

 深雪は呟いた。声に出るとは思っていなかった。

 

 陽太の声が、横から届いた。

 

「……模倣か」

 

 静かな声だった。驚きではなく、確認するような声だった。

 

 深雪は横目で陽太を見た。陽太はまだ前に出ていない。円盾を腕に通し、ショートソードの柄に手を添えたまま、倣いをじっと見ている。戦闘開始からずっと、この距離を保っている。

 

 観察している——

 

 それが分かった。この男は今、倣いを——何かを知っているような目で、見ている。

 

 深雪は問いかけを飲み込んだ。今は戦闘中だ。

 

 倣いが、また動いた。嵐を帯びた腕が再び迫る。深雪は細剣で受け流しながら、倣いの動きを追い続けた。棍棒の振り方が変わっている。先ほどまでの力任せの一振りではなく、体の回転を使った、重心の乗った振り下ろし。先程までの動きとは異なる秩序に則った動き。見たことはない。しかし、その動きは何らかの”文法”を準えようとしている。

 

(誰かが、こんな戦い方をしていた?)

 

 答えは出なかった。ただ、背筋の冷えだけが積み重なっていった。

 

 

 

 

 肉塊の表面が、蠢いた。

 

 泥状の黒い魔力が盛り上がり、皮膚のように見えていた部分が膨れ上がる。深雪は一歩後退しながら、その変化を目で追った。

 

 何かが形を成しつつあった。

 

 倣いの肩の上に、新しい頭部が生まれていく。狼の頭とは違う。鱗に覆われ、顎が前へ突き出している。眼窩は光を持たず、しかしその形は——

 

「また新しい頭が……あれは、獣?」

 

「いや」

 

 陽太が、短く答えた。

 

「——竜だ」

 

 深雪はその言葉の意味を理解するより先に、竜頭の喉奥に光が灯るのを見た。

 

 赤い光だった。

 

 空気が、一瞬で熱くなった。

 

 陽太の腕が、深雪の腰に回った。一切の説明もなく、一切の猶予もなく——体が横へ引き倒され、二人は床の上を大きく横跳びした。

 

 その瞬間、先ほどまで深雪が立っていた場所を、炎の奔流が通過した。

 

 石畳が溶けた。赤熱した空気が肌を焼き、息が詰まる。倣いの竜頭が炎の息吹を吐き続け、廊下の壁が炭化していく。

 

 深雪は床の上で、陽太の腕の中にいた。

 

 数秒間、そのことを処理できなかった。

 

(……何故私は抱えられている)

 

 次いで、今の攻撃の意味が追いついてきた。

 

(いや、それより今の……竜? 竜の火炎……?)

 

 陽太が立ち上がり、深雪を引き起こした。

 

「怪我は」

 

「……ない」

 

 深雪は答えながら、竜頭を見た。倣いの肩の上で、赤い光が消えていく。竜頭は、しかし倣いの体と完全には馴染んでいなかった。首のあたりから黒い魔力が絶えず滲み出し、鱗が剥がれ落ちている。

 

(この男は、何を知っている)

 

 深雪の胸の中で、疑問が形を変えた。

 

 竜だと、即座に分かった。炎が来ると、動く前に分かっていた。この男はあの頭部を見た瞬間に——自分よりも先に、何が来るかを知っていた。

 

 恐怖と、奇妙な引力が、同時に膨らんでいた。

 

 

 

 

 倣いとの距離が、再び詰まった。

 

 竜頭からの炎。六本腕による嵐の薙ぎ払い。棍棒による地を揺らす一撃。接ぎ木の倣いは今や、複数の攻撃手段を持つ存在へと変質していた。

 

 深雪は氷の魔術で応戦した。

 

 細剣を通じて冷気を迸らせ、竜頭へ向けて打ち込む。冷気が竜頭の鱗に触れた——しかし弾かれた。氷の魔術が、まったく通らない。

 

(……駄目だ、竜には)

 

 ならば本体を——と細剣を返したとき、嵐を纏わせた棍棒の横薙ぎが飛んできた。深雪は後退したが、距離が足りなかった。

 

 衝撃が、左腕を掠めた。

 

 体が流れ、石壁に背中を打ちつける。息が詰まる。左腕が痺れている。深雪は壁を手で支えながら体を起こし、倣いを見た。

 

 六本腕の一本が、こちらへ向かって迫っていた。

 

 回避できない。

 

 陽太が、深雪の前に出た。

 

 間に合わない——そう判断する前に、体が動いていた。

 

 腕が、深雪の肩を後ろへ押した。同時に、陽太自身はその場に踏み留まった。盾を構える時間はなかった。円盾を腕に通したまま、ただ体でその場所に立った。

 

 倣いの腕が、陽太の右側面を直撃した。

 

 体が、横へ飛んだ。石壁を背中で叩き、そのまま床へ落ちる。右腕が壁と床の間で挟まれるような形になり——鈍い、しかし確かな感触が肘から先を走った。

 

「三咲……!?」

 

 深雪の声が、遠くに聞こえた。

 

 陽太はしばらく床の上にいた。息を整える。右腕を動かそうとして、動かなかった。折れている。それだけは分かった。

 

 左腕だけを使って、ゆっくりと体を起こす。立ち上がった瞬間、深雪が駆け寄ろうとするのが視界の端に映った。

 

「下がっていてください」

 

 声は、普段と変わらなかった。

 

 深雪が足を止めた。

 

 あの一撃は——Bランクの探索者でも骨を砕く威力があった。自分ならば弾き飛ばされていた。それを、陽太は真正面から受けた。

 

 そして——立ち上がった。何事もなかったかのように。

 

 深雪の恐怖が、別の質へと変わった。

 

 

 

 

 陽太は、自分の右腕を一度見下ろした。

 

 骨が折れている感覚はある。しかし動く。問題はない。

 

 静かに、懐へ手を伸ばした。

 

 引き出したのは、小さな瓶だった。

 

 深雪はその瓶を見て、眉をひそめた。どこから取り出したのかという疑問より先に——中身が光っていることに気づいた。黄金の、淡い輝きを帯びた液体が、瓶の中で揺れている。

 

 陽太は迷わず口をつけ、一気に傾けた。

 

 その瞬間、陽太の体から何かが変わった。

 

 損傷が消えていく。目に見えて、ではなかったが——体の輪郭が、どこか充ちていく様子が深雪には感じ取れた。傷を負った者特有の、微かな緊張と抑制が——払われていく。

 

「……回復魔術じゃない。何だ、これは」

 

 深雪は呟いた。回復魔術の光は知っている。術者から光が流れ、傷口へ染み渡る——あれとはまるで違う。外側からではなく、内側から満ちていく。まるで器の底から何かが湧き出してくるような、そういう充ち方だった。

 

(この男は、本当に人間なのか)

 

 陽太は瓶を魂の底へ戻した。

 

 そして、一度だけ息を吐いた。

 

(……また戦うのか)

 

 この世界に帰ってきても、結局こうなる。静かに生きたい——その決意が、今夜だけで何度崩れたか。それでも体は動く。剣を持てば、前を向く。

 

 これが自分というものか、と陽太は思った。

 

 倣いが、また咆哮した。

 

 竜頭の喉奥に光が灯り始める。嵐の腕が再び構えられる。それを見ながら陽太は——もう一度だけ、静かに目を閉じた。

 

 狭間の地での日々が、一瞬だけ脳裏を過った。幾度も死んで、幾度も立ち上がって、その果てに辿り着いた場所。あの旅路で学んだことは、戦い方だけではない。何のために剣を持つか。誰のために体を動かすか。

 

 隣に、人間がいる。

 

 それだけが、今この瞬間の答えだった。

 

 陽太は目を開いた。

 

「——殺し合おう。導きのままに」

 

 誰に向けた言葉でもなかった。しかし声に出ていた。

 

 

 

 

 ショートソードと円盾を、魂の底へ戻した。

 

 代わりに、引き出したものがある。

 

 一振りの刀だった。

 

 刀身が赤黒い。鍛えられた刃だが、表面に無数の刻みが走り、使い込まれた痕が隠しようもなく残っている。柄を握ると、指先を通じて何かが伝わってきた——血の滾る感触。この刃が通った者たちの、残滓とでも言うべき何かが宿っていた。数え切れぬ人を斬った、その歴史が、刃の重みに混じっている。

 

 屍山血河。

 

 次いで、左手に聖印を構えた。黄金樹の紋章が象られた、狭間の地の信仰の中心にあったもの。エルデンリングが砕け、黄金樹が陰った後も——ひたむきな信仰に応え続けた、その器。

 

 タリスマンを換えた。四つのうち、三つを入れ替える。

 

 腰のあたりで、変わらず気配を放ち続けるもの。アレキサンダーの破片が、静かに脈打つ。蕩けた屍肉がこびりついたその欠片の中に、かつての英雄の遺品が宿っている——戦技の一撃が、より鋭くなる感触がある。英雄の意志が、刃の向こう側で息をしているようだった。

 

 もう一つ——義手の形をした金の装飾品。朱い戦乙女が用いた、剣を掲げる形で固まった掌。これを付けると、攻撃を重ねるたびに体の奥で火が高まるような感覚がある。その素晴らしき裏切りの末に花開いた命が、今は陽太の戦いを底上げし続けていた。

 

 それから——血の気配を持つタリスマン。周囲で血が流れると、体の奥で何かが応える。闘争を喜ぶような、昏い熱。血の君主が好む、修羅の生き様に呼応するような。

 

 最後に、翼を模した徽章。腐敗の女神に仕える戦乙女たちが纏ったという。攻撃を重ねるほど、刃が飢えていく——そんな感触がある。

 

 深雪はその様子を見ていた。

 

 何も言えなかった。

 

 見たことがない。この世界の探索者が持つマジックアイテムとは、似て非なる何かだ。しかし理解はできた——あの化け物を殺すためのものだ、と本能が告げていた。

 

「三咲、そのアイテムは……」

 

 声が、かすれた。

 

 陽太は答えなかった。

 

 左手の聖印を前に構え、意識を信仰の奥底へ向けた。

 

 黄金の光が、陽太を包んだ。

 

 粒子だった。昨夜のホテルで、深雪の目には何も見えなかった祝福の光とは違う——これは見える。深雪の目にも、はっきりと見えた。黄金の粒が陽太の全身を包み、体の輪郭が光の膜に覆われていく。攻撃の鋭さが増し、体そのものが戦いへ向けて引き締まっていく。それは戦士が戦いを前にして気を高めるのとは違う——もっと根元的な、何かに誓うような厳かさがあった。

 

 黄金樹に誓って。

 

 祈りの名が、静かに頭の中に浮かんだ。

 

 

 

 

 陽太は、歩いた。

 

 倣いへ向かって。走らず、跳ばず——ただ歩く。

 

 倣いが反応した。六本腕が一斉にこちらへ向けられ、嵐の気配が腕の周囲に生まれる。竜頭の喉奥に、再び赤い光が灯り始める。

 

 陽太は炎の来る方向を、見た瞬間に知っていた。

 

 体が勝手に動いた——そうではない。見て、判断して、動いた。ただその速度が、深雪の目には勝手に動いているように映るだけだ。半歩右へ。炎の奔流が左を通過する。熱が頬を撫でる。それだけだった。

 

 深雪は息を呑んだ。

 

(……避け方を、知っていた)

 

 炎の来る方向を——予測ではなく、知っていたかのように避けた。

 

 三咲はこれを、どこかで見たことがあるのか。

 

 考える間もなく、陽太は倣いの懐に入っていた。

 

 赤黒い刀身が、弧を描いた。

 

 六本腕のうちの一本が、宙に舞った。

 

 切断面から、何かが溢れた。血に似ているが、血ではない。黒い液体が飛び散り、床に落ちる。倣いが体を捩る——そこへ、返しの斬撃が走る。

 

 深雪の目が、追いつかなかった。

 

 陽太の動きに、無駄がない。一撃ごとに体全体が使われ、足が次の動作の準備をしながら、腕が刃を導いていく。倣いの六本腕が迫るたびに、陽太はその隙間を通り抜けた。潜り抜けるのではなく——そこが通れると最初から知っているように。

 

 道中の戦いでも感じた。スキルではない。魔術でもない。純然たる体術と剣術が、人間の限界を超えたところで研ぎ澄まされている。与えられたものではなく、積み上げたものだ。その重さが今、一撃ごとに違う形で現れていた。

 

 かの大斧を模した攻撃が、床へ叩きつけられた。石畳が砕け、衝撃が周囲へ広がる。陽太は跳躍していた。倣いの頭上を取り、重力と共に刃を振り下ろす。

 

 着地と同時に、陽太は刀を構えた。

 

(……今だ)

 

 体の奥で、何かが頂点に達した感触があった。タリスマンの一つが強く脈打ち——溜めた力が弾ける寸前を、体が知っている。

 

 屍山血河の刀身に仄暗い光が集まった。それが弾けた瞬間、倣いの体に絡みついた呪われた血が——刃となった。陽太の大剣が交差する軌跡を描き、連続した斬撃が倣いの体幹を刻む。

 

 深雪には、その軌跡が赤黒く見えた。

 

 死屍累々。

 

 呪われた血が刃となり、交差する連撃が倣いを穿つ。倣いの体から大量の黒い液体が噴き出した。それが床に落ちた瞬間、陽太の体の奥で何かが応えた。血の気配に反応する昏い熱——タリスマンが喜ぶように、体の内側から力が底上げされていく。

 

 倣いの体が傾ぐ。それでも止まらない——六本腕が再び迫る。

 

 しかし、おかしかった。

 

 倣いの動きが、重くなっていた——そう見えた。

 

(いや、違う……)

 

 深雪は一拍遅れて、それに気づいた。倣いは変わっていない。六本腕の振りも、竜頭の光も、先ほどと同じ速度で動いている。重くなったのは倣いではなく——陽太の側が、加速していた。

 

 一撃ごとに、刃の踏み込みが深くなっている。足の運びが鋭くなっている。間合いへの入り方が、最初の一歩と今の一歩とでは、まるで別人のように見えた。まるで戦えば戦うほど、体が研ぎ澄まされていくように——

 

(攻撃するほど……鋭くなっている)

 

 深雪は装備の意味を、遅れて理解した。

 

 あのマジックアイテムが、そうさせている。

 

 戦えば戦うほど強くなる。倣いにとって、この男を削り合いで消耗させるという手段は——最初から成立しない戦い方だったのだ。

 

 

 

 

 倣いが、崩れ始めた。

 

 六本腕のうち三本が失われ、竜頭の鱗が次々と剥落していた。黒い液体が床に広がり、倣いの体の輪郭が曖昧になっていく。しかし——止まらなかった。

 

 動いた。

 

 床に転がっていた魔物の残骸へ向かって、倣いが手を伸ばした。黒い魔力が触手のように伸び、残骸を掴む。引き寄せる。

 

 深雪の胃が縮んだ。

 

 接ごうとしている。

 

 倒れかけた体へ、新しい腕を。崩れかけた頭へ、別の頭部を。死体から引きちぎった部位を、自らの体へ継ぎ足そうとしている——その光景が、深雪の目に入った瞬間、胃の底から吐き気が込み上げた。断末魔すら上げず、ただ補修しようとする。痛みも、恐怖も、誇りも持たないまま、ただ形を維持しようとする。その有り様が、生物としてのちぐはぐさを超えて、根本的な何かへの冒涜に映った。

 

 生き物としての道理から外れている——

 

 悍ましかった。強さや恐ろしさとは別の——根本的な何かを冒涜されているような感覚だった。

 

 陽太が、静かに言った。

 

「見苦しい」

 

 感情のない声だった。怒りでも嘲りでも、哀れみでもない。

 

 ただ、事実として。

 

 陽太が踏み込んだ。

 

 刃が、空気を断ち切った。

 

 一閃だった。

 

 弧を描く軌跡が、倣いの体の中心を通り抜けた。継ぎ足そうとしていた腕が、接続される前に床へ落ちた。黒い魔力の接合が、断ち切られた。

 

 倣いが、静止した。

 

 一瞬だけ——まるでその異形が、それでも何かを模倣しようとするかのように、残った腕を上げかけた。

 

 しかし、動かなかった。

 

 体が、内側から崩れていった。黒い液体が石畳に広がり、肉の塊が軽くなるように溶けていく。狼の頭が、竜の頭が、鳥の羽の残骸が——順番に、形を失っていく。

 

 最後に残ったのは、薄い光の粒だった。

 

 黄金でも腐敗でもない、淡い光が、倣いの存在した場所から静かに浮かんで——消えた。

 

 霧の壁が、音もなく晴れていった。

 

 閉ざされていた道が、開いた。

 

 

 

 

 深雪は、しばらく動けなかった。

 

 倣いが消えた場所を見ていた。石畳に黒い染みだけが残り、崩れた天井の欠片が散らばっている。それ以外は、何もない。

 

 体が、小刻みに震えていた。

 

 戦闘の恐怖ではない——もっと内側の、深いところからくる揺れだった。見たことのない敵。見たことのない装備。見たことのない戦い方。そして——竜の炎を、まるで知っていたかのように避けたあの男。

 

 Aランクの探索者として、深雪はこれまで多くの同業者を見てきた。強い者も、速い者も、術の威力が桁違いな者も。しかしあの戦い方は、そのどれとも違った。強さが外側に向けて爆発するのではなく、全てが内側に向けて収束している。一つ一つの動作が最小限で、しかしその一点に全てが乗っている。あれは——戦い方ではなく、繰り返しの果てに残ったものだ。削ぎ落とせるものを全て削ぎ落とした先に、ああなる。深雪はそう感じた。

 

 陽太は屍山血河を一度振り、血を払った。赤黒い刃が、ボス部屋の薄明かりを鈍く照らす。それから静かに、刃を魂へ戻した。タリスマンを換え直す。何事もなかったかのように、淡々と。

 

「……怪我は」

 

 陽太が振り返り、深雪を見た。

 

「多少痛むが……問題ない」

 

 答えながら、深雪は自分の左腕を見た。嵐の腕に掠められた場所に、鎧の上から痛みが残っている。しかし深くはない。

 

「三咲」

 

 深雪は口を開いた。

 

「あれを、知っていたか」

 

「……どういう意味ですか」

 

「竜の炎だ。お前は避け方を知っていた。予測じゃない——見た瞬間に、体が動いていた。あんな動きは、知らなければできない」

 

 陽太はしばらく答えなかった。

 

 深雪は続けた。

 

「あの魔物も——お前には見覚えがあったんじゃないか。戦いながら、観察していた。知っているかどうかを、確かめていた」

 

 陽太の目が、わずかに動いた。

 

 否定しなかった。

 

「……以前いた場所で、似たようなものを見たことがあります」

 

「似たようなもの、じゃない」

 

 深雪は一歩前へ出た。

 

「あれと全く同じものを、お前はどこかで倒したことがある。そうじゃないか」

 

 沈黙があった。

 

 陽太は深雪の目を見た。静かな目だった。隠しているというより——どこまで言うべきかを、計っているような目だ。

 

「……全く同じではありません」

 

 やがて、答えた。

 

「ただ、あれが模倣しようとしていたもの——その原型を、私は知っています」

 

「原型」

 

「あの紛い物が、動きを学んだ元になったもの。それが何か、私には見当がつきます。しかし詳しくは——」

 

「話せない、か」

 

「今は。すみません」

 

 深雪は陽太を見た。陽太は視線を逸らさなかった。

 

 嘘をついている目ではなかった。しかし全てを言う気もない——その目だった。

 

(……この男は)

 

 深雪はゆっくりと息を吐いた。

 

 問い詰めても、今は出てこない。それは分かった。だが——話す気がないのではなく、話せない何かがある。その違いは、深雪には読み取れた。

 

「分かった」

 

 深雪は踵を返し、廊下の方へ向かった。

 

「帰るぞ。今日はここまでだ」

 

「……はい」

 

 歩き出しながら、深雪の胸の奥で、ある感触が生まれた。

 

 微かな、それ以上でも以下でもない、しかし確かな——

 

 脈動だった。

 

 黄金の、光に似た。

 

 昨日と一昨日には、なかったもの。

 

 深雪は立ち止まらなかった。顔にも出さなかった。ただその感触だけを、胸の奥で静かに確かめながら、廊下を歩き続けた。

 

 陽太が後に続く足音が、石畳に響いた。

 

 霧の晴れた廊下は、どこまでも静かだった。




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