褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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すれ違う心情を描きたかった。


第五話「揺らぎ」

 接ぎ木の倣いを倒した直後のことを思い返す。

 

 霧が晴れていた。

 

 おかしい——それが、深雪の最初の感覚だった。

 

 霧の壁は、通常のダンジョンには存在しない。ボス部屋への入口は石や木で出来た扉や格子門など扉に準ずるもの、あるいは単なる開口部だ。霧のような境界が生じること自体、探索者になってから、深雪は一度も経験したことがなかった。先輩探索者の話の中にも、該当する事例はなかった。

 

 その霧が、倣いを倒した瞬間に消えた。異常が終わったのか——それとも、異常の形が変わっただけなのか。問題は、その後だ。

 

 ボス部屋の空気が、変わっていた。

 

 深雪は廊下へ続く入口に足を踏み出す前に、もう一度部屋を振り返った。Aランクに達した探索者は皆、ダンジョンの魔力の流れを肌で感じ取れるようになる。まるで空気の密度が変わるように、魔物が湧く予兆も、素材が凝縮した場所も、熟練した探索者にはそれとなく分かる。

 

 何も、ない。

 

 正確には——流れていない。

 

 ボスを倒した後には必ず、魔力が還る感触がある。魔物が蓄えていた力が解放され、それが討伐した探索者の内側へ流れ込んでくる——探索者が強くなる仕組みの根幹だ。体の奥底に何かが積み重なり、一定の閾値を超えた瞬間に覚醒が深まる。三年間、その感触だけを頼りに深雪は強くなってきた。

 

 しかし今この部屋では、その流れが起きなかった。

 

 力が還ってこない。討伐した実感はある。倣いは確かに消えた。なのに体の内側が、何も受け取っていない。まるで、戦いの結果が——どこか別の場所へ、吸い上げられてしまったように。

 

 素材も、ない。

 

 魔石すら残っていなかった。あれほどの体躯のボスを倒せば、通常は何かしら残る。魔石、あるいは武器の欠片、特殊な素材——それが探索者の収入源であり、ダンジョンに潜る理由の一つだ。しかし黒い染みだけが広がる石畳には、それらしいものが何一つ見当たらない。

 

(……前例がないものばかりだな)

 

 深雪は記憶を探った。三年間の探索者生活で、これほど完全に何も残らないボス討伐に遭遇したことはない。

 

 倣いが消えた直後、一瞬だけ光の揺らぎがあった。美しい、でも見ていると不安になる——そんな淡い光の粒が宙に浮かんで、消えた。あの光は何だったのか。深雪はそれを誰かに問いたかったが、問える相手はこの場に一人。そしてその一人は、答えない。

 

「……行きましょう」

 

 陽太の声が、背後から届いた。

 

 振り返ると、陽太はすでに廊下の方を向いていた。ボス部屋を振り返りもしない。まるでここで起きたことの全てが、彼にとって既知の出来事であるかのように——ただ前を向いて、立っていた。

 

(……やっぱり、知っている)

 

 深雪は唇を引き結んだ。聞きたいことは山ほどあった。しかし今は、聞けなかった。

 

「そうだな」

 

 それだけ言って、深雪は廊下へ足を踏み出した。

 

 

 

 

 センターへの道中、深雪はずっと考えていた。

 

 報告をどうするか。

 

 Aランクとして、深雪には報告義務がある。ボスの部屋の異常、素材の消失、規格外の魔物の出現——これらは全て、センターに速やかに伝えなければならない事案だ。探索者になってからというもの、深雪はそれを守ってきた。規律を守ることがAランクの矜持だと、自分自身に言い聞かせながら。

 

 しかし——

 

 隣を歩く男の横顔を、深雪はちらりと見た。陽太は前を向いたまま、街の景色を静かに眺めている。眺めている、というより——確かめている。街並みの一つ一つを、記憶と照合するように。

 

(どこから来たんだ、お前は)

 

 正直に報告すれば、陽太は追及される。今朝の登録時の職員の目を、深雪は覚えていた。「計測不能のケースは、過去に数例あります。いずれも後から問題が発覚しました」——あの含みのある言葉と、隠しきれない不信感。陽太を詳細に報告すれば、それが引き金になる。

 

 なぜそれが嫌なのか。

 

 深雪は自分の内側を探ったが、明確な答えが出なかった。嘘をついている目ではなかった、と昨日も思った。命を救われたから、というのも理由の一つかもしれない。しかしそれだけではない気がした。もっと別の何かが、胸の奥で小さく熱を持っていた。

 

 答えを出す前に、センターの入口が見えてきた。

 

 深雪は息を一つ吸って、決めた。

 

 

 

 

「普段と様子の違うボスが湧きました。私が対処しましたが、討伐後に素材が残らず、討伐による強化も得られませんでした。加えて、ボス部屋への入口に霧の壁が発生していました。前例のない異常として報告します」

 

 受付カウンターの前で、深雪は淡々と述べた。

 

 職員——陽太が登録した時と同じ女性——の手が、書類の上で止まった。

 

「……九条さん、同行者の方は」

 

「新人の実地研修です。戦闘には参加していません」

 

 嘘だった。

 

 声に出してみると、思ったより滑らかだった。それが少し、怖かった。深雪は表情を動かさないまま、職員の視線を受け止めた。

 

 職員は陽太を見た。陽太は深雪の少し後ろに立ち、何も言わずに正面を向いていた。止める様子もない。深雪が何を言うかを、静かに待っていた。

 

(……止めないのか)

 

 止めればよかったのに、と深雪は思った。止めてくれれば、自分が何故こんなことをしているのかを考えずに済んだ。しかし陽太は止めなかった。深雪の選択を変えようとしなかった。

 

 それがなぜか、信頼されているようで少し嬉しかった。

 

「素材が残らないというのは」と職員が続けた。「魔石も何も?」

 

「はい。痕跡すら」

 

「霧の壁、というのは」

 

「ボス部屋への入口に発生していました。戦闘終了後に消えています。発生から消滅まで、私の知る限りこれまでのダンジョンでは報告例がありません」

 

 職員の眉が、わずかに寄った。書類にペンを走らせながら、もう一度陽太へ視線を向ける。

 

「三咲さん」

 

 名指しだった。陽太が小さく顔を向けた。

 

「今日の探索で、何か気づいたことはありますか」

 

「特には」

 

 陽太の答えは短かった。嘘をついている声ではなかった。しかし全てを言っている声でもなかった。

 

 職員はしばらくペンを止めていた。やがて書類を揃えながら言った。

 

「九条さん。少しよろしいですか」

 

 別室へ促された。陽太だけが受付前に残される形になった。深雪は一瞬だけ陽太を振り返ったが、陽太は表情を変えなかった。ただ変わらず、そこに在るだけだった。

 

 

 

 

 別室は小さな会議室だった。テーブルを挟んで向かいに座った職員は、書類を脇に置いて、深雪を真っ直ぐ見た。

 

「三咲さんのことです」

 

 前置きはなかった。

 

「登録時の計測エラー、今回のボス部屋の異常、そして——九条さんの報告内容が、少し」

 

「少し?」

 

「不自然です」

 

 深雪は答えなかった。職員は構わずに続ける。

 

「Aランクの九条さんが、Dランク新人の実地研修に同行することは通常ありません。しかも今日の探索先はCランクダンジョン。Dランクには難易度が高い」

 

「私の判断です」

 

「そうですね」と職員は言った。否定ではなく、確認するような声だった。「それは理解しています。九条さんの判断を疑っているわけではない。ただ——」

 

 一拍置いた。

 

「三咲さんは、何かを隠しています」

 

 深雪は黙っていた。

 

「計測不能という結果は、私たちには説明がつきません。今日のボス部屋の異常も、前例がない。そして九条さん、あなたは探索者として登録してから三年間、一度も虚偽報告をしたことがない」

 

「今日も虚偽報告はしていません」

 

「ボスを倒したのは三咲さんではないですか」

 

 また、二人の間に沈黙が落ちる。

 

 深雪は職員の目を見た。責めている目ではなかった。ただ、知っている——という目。

 

「……証拠はありますか」

 

「ありません」

 

 職員は静かに言った。

 

「だから、こうして聞いています。九条さんが庇っているなら、それだけの理由があると思っています。ただ——センターとしては、三咲さんの行動を把握する必要があります」

 

 深雪は腕を組んだ。

 

「監視、ということですか」

 

「同行、とお願いしたいです」

 

 職員は言葉を選んだ。

 

「九条さんが三咲さんと行動を共にする間、定期的に報告をいただきたい。それだけです」

 

 深雪は少し間を置いた。

 

 陽太が庇ってくれ、と言ったわけではない。陽太は何も言わなかった。ただ受付の前で、静かに待っていた。あの姿が——なぜかまだ、頭の中にある。

 

「……分かりました」

 

 深雪は答えた。

 

「その話、お受けします」

 

 

 

 

 センターの外に出ると、夕方の空気が頬に触れた。

 

 陽太は入口の脇に立って待っていた。深雪が出てくるのを見て、小さく体の向きを変えた。何も聞かない。何も言わない。ただ、待っていた。

 

「三咲」

 

 深雪は歩きながら言った。

 

「しばらく、私と行動してもらう。センターの要請だ」

 

「……監視ですか」

 

「同行、と言われた」

 

「同じことですね」

 

 陽太は短く言って、それ以上は追わなかった。文句を言う様子もない。むしろ——深雪にはそう見えた——ほんの僅かに、何かを確認したような顔をした。

 

「ありがとうございました」

 

 陽太が言った。

 

 礼の言葉だと、一拍遅れて分かった。偽装報告のことだろう。深雪は前を向いたまま、「礼はいい」と返した。声が少し、素っ気なくなり過ぎた気がした。

 

 しばらく、二人並んで歩いた。

 

 陽太が、ふと立ち止まった。

 

 深雪は気づいて足を止め、陽太を見た。じっとこちらを見つめていた。視線は合わなかった。それは深雪の胸の辺りに向けられていて——

 

「……おい、どこを見ている」

 

「別に、何も」

 

 一秒か、二秒か。

 

 それだけで、陽太はまた前を向いた。

 

(全く、何なんだこいつは……!!)

 

 深雪はそれ以上何も聞けなかった。聞く言葉が見つからなかった。ただ、見られた場所が妙に意識に残った。それは疲労のせいだと、深雪は自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 夜が来た。

 

 陽太はホテルの窓を少し開けたまま、椅子に座っていた。眠る気にはなれなかった。眠れない、というより——眠るための手順を、体がまだ思い出せていない。

 

 狭間の地では、祝福に触れれば消耗が回復した。夜の概念はあったが、眠りの概念は薄かった。体が「休んだ」と感じるのは、常に祝福を通じてだった。だからこうして布団を目の前にしても、体がどうすればいいか分からないでいる。

 

 窓の外から、街の音が届いた。

 

 遠くで救急車のサイレンが鳴った。高い音が夜気を切って、遠ざかっていく。続いて、電車の走る音。踏切の警告音。どこかの居酒屋から漏れる声と笑い。

 

 生活の音だ。

 

 狭間の地には、こういう音がなかった。あの世界にも人の声はあった。しかしそれは、嘆きか、呪いか、あるいは戦いの叫びだった。こんなふうに、何でもない夜に何でもない声が漏れてくることは——なかった。

 

 陽太は目を閉じた。

 

 今日の戦いが、静かに蘇った。

 

 接ぎ木の倣いが模倣しようとしていたもの——その本物を、陽太は知っていた。狭間の地で幾度となく対峙した存在の動きが、あの醜い継ぎ目の体の中に潜んでいた。劣化し、歪み、体に馴染まないまま模倣されていた。それを見たとき、陽太の中に何が生じたか——怒りではなかった。哀れみでもなかった。ただ、静かな確信だけがあった。

 

 この世界は、侵食されている。

 

(……どこまで、広がっている)

 

 陽太は目を開け、天井を見た。白い天井だった。

 

 深雪のことを考えた。

 

 考えた、というより——自然に思考がそこへ向いた。今日の偽装報告のことではない。センター前で立ち止まったとき、深雪の胸の奥に、あの気配が揺れた。黄金の、しかし祝福とは微妙に異なる何か。陽太が聖印を通じて感じる律の気配に似ているが——同じではない。模倣に近い。しかし、模倣とも言い切れない。

 

 狭間の地で、祝福なき者がその気配を帯びることはなかった。それは生まれつきか、あるいは大いなる意志によって授けられるものだった。では、なぜ深雪が。

 

(……自分が来たことで、何かが変わったのか)

 

 答えは出なかった。ただその問いだけが、夜の街の音に混じって、静かに漂い続けた。

 

 いつの間にか、目が閉じていた。

 

 街を行き交う人々の喧騒が、嫌に耳に残った。

 

 

 

 

 翌朝、深雪が指定した集合場所はセンターから二駅離れた駅前のコンビニだった。

 

 陽太が着いたとき、深雪はすでにそこにいた。コンビニの壁に背を預け、缶コーヒーを片手に持ったまま、何かを考えている顔をしていた。陽太が近づくと、深雪は顔を上げた。

 

「早いな」

 

「九条さんの方が早かったようです」

 

「……習慣だ」

 

 深雪は缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱へ投げた。それからコンビニの袋を陽太に差し出した。

 

「朝食。食べながら歩く」

 

 袋の中を見ると、おにぎりとペットボトルのお茶が入っていた。陽太の分だろう。

 

「……ありがとうございます」

 

「別に」

 

 深雪は歩き出した。陽太はその背中を一瞬見てから、後に続いた。

 

 並んで歩きながら、深雪は前を向いたままだった。昨日と同じだ。しかし昨日と何かが違う。昨日の深雪は陽太を「警戒しながら観察している」という空気だった。今朝の深雪は——どこか、落ち着かない様子がある。歩く速度が少し速い。缶コーヒーを飲み干したのも、早かった。

 

 陽太はおにぎりの包みを開けながら、何も言わなかった。

 

 深雪の胸の奥で、気配が揺れた。

 

 昨夜考えていたそれだ。祝福に似た、しかし祝福ではない何かが、深雪の体の内側で静かに動いている。陽太が近くに来るたびに、その揺れが少し大きくなるような気がした。

 

(……やはり、自分に反応している)

 

 陽太はおにぎりを口に運びながら、横目で深雪を見た。深雪は気づいていないだろう。自分の内側に何かが宿っていることを。

 

 告げるべきか。

 

 答えはすぐには出なかった。告げたとして、深雪がどう受け取るかが読めない。それ以前に、陽太自身もその気配の正体を掴めていなかった。確信のないことを言うのは、陽太の性分ではなかった。

 

「……昨日の報告で」

 

 深雪が口を開いた。

 

「お前が気づいたこと、全部話せ。戦いの中で感じたことでもいい」

 

「昨日も聞かれましたが」

 

「昨日は人前だった。今は違う」

 

 陽太は少し間を置いた。

 

「……あの部屋が、閉じた、という感じがしました」

 

「閉じた?」

 

「倒した後、あの場所にいた魔物の気配が完全に消えました。これ以上何も生まれない、という感触です。うまく言えないんですが——」

 

「魔力が抜けた、ということか」

 

「抜けたというより、完結した、という方が近いです」

 

 深雪はしばらく黙った。

 

「……以前いた場所でも、そういうことがあったか」

 

「ええ」

 

「それは……」

 

 深雪はそこで言葉を止めた。続きを問い詰めようとして、やめた。問い詰めても今は出てこない——昨日、そう判断したはずだった。

 

(なのになぜ、また聞こうとしている)

 

 深雪は小さく息を吐いた。

 

 言いかけてやめた深雪の横顔を、陽太は静かに眺めた。九条深雪という人間は、聡い。そして、感情を制御することに慣れている。しかし今朝から——昨夜の帰り際からかもしれない——その制御に、小さなずれが生じていた。歩く速度。言葉の止め方。缶コーヒーを飲み干すタイミング。一つ一つは小さいが、積み重なると分かる。

 

 何かが、この女の中で動いている。

 

(……あの気配と、関係があるのか)

 

 陽太には、まだ分からなかった。

 

 

 

 

 ある日のセンターの廊下は、午前中にしては人が多かった。

 

 最近では慣れつつある——ダンジョン探索の報告を終えて廊下を歩く深雪と陽太の横を、複数の探索者が通り過ぎていく。すれ違いざまに、視線が動いた。陽太の装備を見る目、深雪を認識する目、そしてその二人が並んでいることへの驚きの目。

 

 廊下の端に数人の探索者が固まって話していた。声は抑えられていたが、廊下の反響で言葉は届いた。

 

「あれが例の"無音の処刑人"か……」

 

「聞いたぞ。新人のくせにボス部屋から生還してるって」

 

「殺しても死ななそう……」

 

「隣の女の人、Aランクの九条深雪じゃないか? なんで一緒に」

 

「……もしかして、そういう関係?」

 

 陽太は前を向いたまま歩き続けた。噂話には慣れている。狭間の地でも、褪せ人の噂は各地に先回りしていた。

 

 しかし——

 

 隣の深雪の歩調が、止まった。

 

 陽太は一歩進んでから、振り返った。深雪は廊下の端に視線を向けていた。耳が、心なしか赤い。

 

「九条さん」

 

 深雪は噂話をしていた探索者たちの方へ、一歩踏み出しかけた。

 

「九条さん」

 

 陽太はもう一度呼んだ。

 

 深雪の足が止まった。振り返った顔は、普段の無表情だったが——目の端が、わずかに険しい。

 

「何だ」

 

「行きましょう。時間が惜しい」

 

「……別に、少し話をするだけだ」

 

「顔が怖いです」

 

 深雪は一拍固まった。

 

 それから、小さく鼻から息を吐いた。

 

「……くだらない」

 

 そう言いながら、歩き出した。陽太と並ぶ形になる。深雪は前を向いたまま、何も言わなかった。耳はまだ少し赤かった。

 

(……なぜ気になっている。あんなくだらない噂)

 

 深雪は自分の内側へ問いを向けたが、答えを探す前に廊下の先から声がかかった。

 

 受付カウンターの奥から、昨日とは別の職員が小走りで近づいてきた。三十代半ばの男性で、手に書類を持っている。

 

「九条さん、少しよろしいですか。三咲さんも」

 

 二人が足を止めた。

 

「今朝、本部から連絡が入りました」

 

 職員は書類を開きながら言った。

 

「このダンジョンだけじゃないんです」

 

 深雪の眉が、わずかに動いた。

 

「他のダンジョンでも——ここ数日で、ボス部屋の異常が複数報告されています。ボスの変質、素材の消失、霧の壁の出現。場所はバラバラですが、全て同じような性質の異常です」

 

 深雪は陽太を見た。

 

 陽太は職員の言葉を聞きながら、前を向いていた。表情は動いていない。しかし深雪には分かった——この男の視線が、今、どこか遠くを見ている。

 

(……知っていた顔だ)

 

 昨日のボス部屋で、陽太が「やはり、こうなるか」というような顔をしていた。あれと、同じ目だった。

 

 今後も続く可能性がある——と職員は続けた。

 

「原因の究明をセンター全体で進める予定ですが——九条さんと三咲さんには、引き続き現場での情報収集をお願いしたいと思っています」

 

「分かりました」

 

 深雪は短く答えた。

 

 職員が戻っていく。廊下に二人が残された。

 

 深雪はしばらく沈黙した後、陽太を見た。

 

「三咲」

 

「はい」

 

「何か知っているか」

 

 陽太は少し間を置いた。

 

「……広がっている、とは思っていました」

 

「広がっている、って」

 

「ここだけではないだろうと。昨日の時点で」

 

 深雪は陽太の目を見た。静かな目だった。隠している目ではない。しかし——全てを言う目でもない。

 

 問い詰めても、今は出てこない。

 

 それは分かっていた。昨日も今朝も、そう判断していた。しかし今、深雪の胸の奥で何かが小さくざわついた。苛立ちではなかった。焦りでもなかった。

 

 もっと知りたい——という、形のない衝動だった。

 

(……また、これだ)

 

 深雪は視線を外した。

 

「……今日はここまでだ。明日の集合場所と時間を送る」

 

「分かりました」

 

 陽太は静かに頷いた。

 

 深雪は踵を返して歩き出した。廊下を進みながら、陽太との距離が開くにつれて、胸の奥のざわつきが静かに沈んでいく。

 

 落ち着くはずなのに——その静けさが、どこか落ち着かなかった。

 

 おかしい、と思った。

 

 ただの勘違いだ、と打ち消した。

 

 それでも——角を曲がる直前に、深雪は一度だけ振り返った。

 

 陽太はまだ廊下に立っていた。深雪が振り返ったことに気づいて、視線が合った。

 

 何も言わなかった。お互いに。

 

 深雪は前を向いて、廊下を歩いた。

 

 胸の奥の揺らぎは、消えずに残り続けた。

 




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