褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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エルデンリングのどの要素を出すか考えているときが楽しい。


第六話「背中の距離」

 センターの小会議室は、いつも通り狭かった。

 

 蛍光灯の白い光だけが、テーブルの上に広がった資料を照らしている。深雪は書類に目を落としながら、向かいに座った職員の言葉を聞いていた。

 

「変質した魔物の報告が、先週から急増しています」

 

 水瀬梓は、資料を一枚めくりながら続けた。登録時から顔を合わせている、いつもの女性職員だ。

 

「体の一部が別の生物のように変形しているもの、動きが既存の分類に当てはまらないもの。Cランク相当のダンジョンについても、当面はBランク扱いで入場制限を引き上げることにしました」

 

「……それで、今日の依頼は」

 

「今朝、別の報告が入りました」

 

 職員は言葉を選んだ。それが深雪には分かった——言いにくいことを、しかし言わなければならない、という間の置き方だ。

 

「既存の魔物のどれにも該当しない個体が確認されました。目撃した探索者は、『指のようなものが束になって動いていた』としか言えなかったようです」

 

 深雪は手を止めた。

 

「……指?」

 

「はい。複数の指が手首から伸びたような形状で、天井と壁を這っていたと。青白い色をしていたとも言っています」

 

 テーブルの向こうで、陽太がわずかに目を細めた。

 

 深雪はその変化を見逃さなかった。ほんの一瞬だけ——陽太の表情に、何かが過った。驚きではなかった。確認、に近い何かだ。

 

「……そうですか」

 

 陽太が静かに言った。声が、いつもより少し低かった。

 

 職員は陽太を一度見てから、深雪へ視線を戻した。

 

「今回はその個体の確認と記録をお願いしたいと思っています。危険度が読めないため、Bランク扱いの現場に九条さんに入っていただきたい」

 

 深雪は書類を受け取った。依頼書を握る手が、ほんの少しだけ固くなった。

 

(……指が束になって動いていた)

 

 どういう生き物だ、それは。これまで見てきたどの魔物の説明にも合致しない。しかし——

 

 陽太は知っている顔をしていた。

 

 深雪は陽太を横目で見た。陽太はすでに表情を戻し、書類の端に視線を落としていた。

 

(またあの顔だ)

 

 聞けなかった。聞く言葉が、まだ見つからなかった。

 

 

 

 

 センターを出た後、陽太が深雪を呼び止めた。

 

「九条さん、少し良いですか」

 

 深雪が足を止めると、陽太は静かに目を閉じた。わずかな間だった。何かを確かめるように、内側へ意識を向けている——深雪にはそう見えた。

 

 やがて陽太は魂の底へ手を向けた。

 

 音もなく、装備が展開された。

 

 見た目は、いつものショートソードだった。傷の入った刃、使い込まれた柄——変わりない。しかし深雪は、一歩離れたところから、その剣をしばらく見ていた。

 

 何かが、違う。

 

 外見ではない。刃の形も、長さも、いつもと同じだ。しかし剣の内側に——言葉にするなら、眠っている何かがある。静かに、しかし確かに、熱を帯びた何かが。

 

(……これは、炎?)

 

 感じ取った、というより——深雪の体がそれを知った、という感覚に近かった。理由は分からない。

 

「三咲、それは?」

 

 思わず疑問が口をついた。

 

 深雪の問いかけに、陽太は数瞬考える素振りを見せ——「備えです」とだけ短く答えた。

 

 陽太は左手に聖印を構え直し、歩き出した。

 

 深雪はそれ以上の疑問を飲み込んだ。

 

(やることは変わらない。未知の魔物を調査して、生きて帰って報告する。それだけだ)

 

「行こう」

 

 深雪は前を向いた。

 

 

 

 ダンジョンの入口は、見た目こそいつもと変わらなかった。

 

 蒲田の外れにある廃工場の地下——改装されたシャッターの向こうに石畳の廊下が続いている。発光体の青白い光が壁面に規則的に並び、視界は問題ない。しかし足を踏み入れた瞬間、陽太は一歩手前で止まった。

 

 深雪はその静止に気づいた。

 

 陽太は何も言わなかった。ただ、鼻腔をわずかに動かした——においを確認するように。

 

 深雪は同じ空気を吸った。湿気が重い。石畳とコンクリートが混在する、地下特有のにおいのはずだった。しかし何かが違う。言葉にするなら——腐葉土が雨に濡れた夜のような、有機物が静かに変質していくような重さが、空気の底に混じっている。

 

(……匂いが違う)

 

 視覚的には何も変わっていない。発光体の光も、石畳の継ぎ目も、いつも通りだ。しかし空気だけが、妙に肌にまとわりつく。

 

 陽太は、その空気をもう一度吸い込んだ。

 

(……近づいている)

 

 石と湿気と、腐敗の手前にある何か。王都ローデイルの地下に潜り——忌み捨ての地下の入口に立ったとき、この空気と似たものを感じた。地上の繁栄とは切り離された、光の届かない場所の空気。そこに棲むものたちが、静かに満たしている重さ。

 

 狭間の地のものが、この世界に滲み出している。

 

 陽太は前を向いた。

 

「行きましょう」

 

 それだけ言って、歩き出した。深雪は一拍遅れて後に続きながら、陽太の横顔を盗み見た。表情は戻っている。しかし目の奥が——どこか遠くを見ていた。

 

(何を感じている、この男は)

 

 問いを飲み込んだまま、深雪は歩いた。

 

 

 

 

 前層に入ると、最初の魔物はすぐに現れた。

 

 ブラッドハウンドだ。赤黒い体毛、鋭い爪——何度も倒してきた、分類の確かな魔物。それが二体、通路の先から姿を現した。

 

(……普通だ)

 

 深雪は細剣を構えながら、内心で首を傾げた。変質した魔物が増えているという報告と、目の前の光景がかみ合わない。センターの話では、このダンジョンで未知の個体が確認されたはずだ。しかし二体のブラッドハウンドは、これまでと変わらない動きで向かってくる。

 

 深雪は氷雪の刃で一閃し、陽太は剣と盾で淡々と処理した。難なく倒した。

 

 さらに奥へ進んだ。通路が折れた先で、今度は岩外皮の四足歩行の魔物が現れた。これも分類が確かな魔物だ。深雪が先に仕掛け、陽太が後方からフォローに入る。これも難なく倒した。

 

 また奥へ。また見慣れた魔物。また倒す。

 

(……変質した個体が、一体も出ていない)

 

 深雪は違和感を強めていた。センターの報告では変質した魔物が増加しているとのことだった。しかしここに来てから遭遇したのは全て、これまで見てきた通常の魔物ばかりだ。

 

「……三咲。変質した個体が出ていない。センターの報告と違う」

 

「ええ」

 

 陽太は前を向いたまま答えた。

 

「ただ……空気は、そう思わせてくれません」

 

 深雪は陽太の言葉を反芻した。空気は、そう思わせてくれない——言い得て妙だ、と思った。深雪にも、先ほどから肌にまとわりつくような重さは感じていた。魔物の様子は普通なのに、この場所の何かが、普通ではないと告げている。

 

「……同意する」

 

 深雪は前を向いたまま、短く答えた。

 

 また一体、見慣れた魔物が現れた。ブラッドハウンドの同種だ。深雪が細剣を構えた瞬間——その魔物が、動きを止めた。

 

 倒れたわけではない。傷を受けたわけでもない。ただ、立ち止まった。鼻先を上げ、空気を嗅ぐように頭を揺らし——それから、踵を返した。

 

 走り出した。深雪たちとは逆の方向へ。

 

(……逃げた?)

 

 深雪は思わず陽太を見た。陽太は逃げていく魔物の背中を、静かに目で追っていた。

 

「……追うぞ」

 

「はい」

 

 陽太の答えは短かった。しかしその声に、普段とは質の違う緊張があった。

 

 二人は走った。逃げた魔物の軌跡を辿るように、通路の奥へ。折れた先の広間へ飛び込んだ瞬間——深雪は追い詰めた、と思った。

 

 広間の隅で、先ほどの魔物が足を止めていた。逃げ場がない。深雪は細剣を構え、踏み込んだ。

 

 その瞬間だった。

 

 天井の影が剥がれた。

 

 床の継ぎ目が裂けた。

 

 魔物が振り返るより早く——青白い異形が、上と下から同時に飛び出した。複数の指が放射状に伸び、その全てがうねるように蠢いている。一体は深雪の頭上から、一体は深雪の足元から、それぞれ別の軌道で迫ってくる。

 

 深雪の思考が、一瞬止まった。

 

(追い詰めたのは——こちらだと思っていた)

 

 体が動いた。思考が追いつくより先に、足が後退していた。体をひねっていた。天井から落ちた個体の着地点を外し、床から伸びた個体の指先が篭手をかすった。追い詰めたはずの魔物が、混乱の中で広間の奥へ消えていく。

 

(これは——最初から、誘き寄せられていた)

 

 動揺が胸を走った。しかし体は、動揺とは裏腹に、すでに次の構えを取っていた。

 

(なぜだろう……いつもより、体が動く)

 

 回避できた。ギリギリだったが、間に合った。普段の自分ならば、間に合わなかったかもしれない。

 

 体勢を立て直しながら、深雪は異形を見た。

 

 陽太の表情が、わずかに固くなった。一瞬だけ。深雪はその変化を見逃さなかった。

 

(知っている。この男はまた、知っている顔をしている)

 

 恐怖より先に、悔しさに近い感情が来た。

 

 陽太は深雪の回避を確認した次の瞬間には、もう動いていた。

 

 ショートソードを一閃。

 

 炎の性質を帯びた刃が、最も近い個体の体を斜めに切り裂く。切り口から、炎が走った。青白い表皮が内側から燃え上がり、異形は石畳の上で大きく身をのたうち回らせた。指が無秩序に暴れ、床を叩く。しかし立ち上がれない。炎が、その体の動きを奪っていく。

 

 陽太は燃え続ける一体には構わず、すぐに左手の聖印を二体目へ向けた。意識を信仰の奥底へ、炎の系譜へと向ける——指先に、熱が集まった。放たれた炎の塊が、接近してくる二体目の正面で炸裂した。

 

 引火した。

 

 青白い表皮に炎が走り、その生き物はのたうち回った——石畳に転がり、もがき、動きが完全に止まった。陽太は一歩踏み込み、ショートソードを一閃した。動きの止まった個体の、指の付け根を断つ。異形が沈黙した。

 

 火付け。

 

 炎の塊を投げつける祈祷が——深雪の知らない術が、あの異形に対して完璧に機能した。

 

 もう一体が、深雪へ向かっていた。

 

「九条さん」

 

「分かっています」

 

 深雪は細剣を構え直した。

 

 

 

 

 中層へ進むにつれ、通常の魔物の姿が消えた。

 

 代わりに、通路の壁や天井の影が増えた。剥がれるように、静かに、一体また一体と——異形が這い出してくる。複数の指が石畳を叩く音が、廊下に奇妙なリズムを刻んだ。

 

 陽太が前に出た。聖印から炎の術を放ち、接近した個体に引火させる。炎が走った個体はのたうち回り、隙を晒す——そこへショートソードが入る。一体、また一体と処理していく。

 

 しかし数が増えた。

 

 四体が同時に、包囲するように迫ってくる。

 

 深雪は一瞬だけ状況を読んだ。四方から来る。陽太が前を抑えれば、背後と側面が空く。考えるより先に、足が動いていた。奇襲を回避した勢いをそのまま使い、陽太の背中側へ滑り込む。向き直して、構えた。

 

 陽太がわずかに振り返った。一瞬だけ、深雪の位置を確認した。それだけだった。

 

 次の動きが、変わった。

 

 陽太の立ち回りが、深雪の存在を前提にし始めた。背後を気にしない。側面への警戒を手放す。前方の二体だけに集中して、迷いなく踏み込んでいく。言葉はなかった。しかし深雪には、その変化の意味が分かった。

 

(……任せた、ということか)

 

 側面から回り込んできた一体が、陽太の死角へ入ろうとしていた。深雪は細剣を閃かせた。

 

 氷雪の刃が走った。

 

 その瞬間——刃の色が、変わった。

 

 冷気の青白い軌跡が、ほんの一瞬だけ金色に似た何かを帯びた。一秒にも満たない、瞬きほどの時間。そして消えた。深雪は気づかなかった。ただ剣を振り、個体の動きを封じ、踏み込んで仕留めた。それだけだった。

 

 陽太は気づいた。

 

 前方の個体を処理しながら、視界の端で確認した。深雪の細剣の軌跡が——一瞬だけ、質が変わった。冷気ではない。もっと深い場所から来る、律に近い何かが、刃に混じった。

 

(九条さんの"力の質"が、変わった。一瞬だけ——)

 

 陽太は表情を動かさなかった。深雪を見た。深雪は気づいていない。今は戦闘中だ。何も言わない。

 

 後方の個体が、深雪の足元を狙っていた。深雪はそれも追った。氷結の追撃で動きを鈍らせ、細剣で断つ。

 

 廊下に、静寂が落ちた。

 

 指の残骸が、青白い光を失いながら石畳に広がっている。その先端が、まだ微かに動いていた。

 

 深雪は息を整えながら、陽太を振り返った。

 

(……いつの間に、この男の動きを覚えていた)

 

 陽太が前の二体と対峙したとき、次に側面が危ないと——体が知っていた。観察していたわけではない。気づいたら、分かっていた。そして、陽太の背中側へ移動したとき——陽太が立ち回りを変えた。言葉もなく、確認もなく、ただそれが当然であるように。

 

 その事実が、妙に深雪の胸の奥に刺さった。

 

 陽太は深雪の方を向いた。

 

「ありがとうございました」

 

 短い言葉だった。しかし深雪には、その言葉の重さが分かった。陽太が礼を言うのは、それが本当に必要だったときだけだ。

 

 深雪は何も言わなかった。ただ前を向いた。耳が、少し熱かった。

 

 

 

 

 全ての個体を処理した後、廊下は静かになった。

 

 陽太はショートソードを魂の底へ戻した。聖印も戻す。装備を収める動作を、淡々とこなしている。呼吸も乱れていない。表情も変わらない。剣を拭う手つきも、いつも通りだった。

 

 深雪はその様子を、少し離れたところから横目で見ていた。

 

(……先ほどの戦いで感じた気配、あれは)

 

 陽太の思考は、深雪の視線よりも先ほどの刃の色に向いていた。

 

 深雪自身は気づいていなかった。しかし陽太には見えていた。

 

 冷気の軌跡の中に、一瞬だけ混じった別の何かが。あれが何であるか、陽太には心当たりがあった。しかし確信を持つには、まだ早い。

 

 考えながらも陽太は剣を拭う手を止めなかった。深雪の視線には気づいていたが、あえて反応しなかった。

 

 深雪は、しばらく迷った。

 

 問いかけるべきか。この男はいつも、聞いても核心を語らない。それは分かっている。しかし——廊下に残された指の残骸を見ながら、深雪の中で何かが決まった。

 

 一歩、近づいた。

 

「……三咲」

 

 声が、自分でも気づかないうちに低くなっていた。

 

「お前は、以前からああいうものを知っていたのか」

 

 陽太の手が、一瞬だけ止まった。剣を拭う動作が、ほんの僅かに。すぐに再開した。視線を、残骸の散らばった石畳に落としたまま。

 

「……似たようなものは、以前いた場所で何度も見ました」

 

 深雪は次の問いを選んだ。

 

「ずっと一人で、そういうものを相手にしていたのか」

 

 答えは、なかった。

 

 陽太は黙った。否定ではなかった。肯定でもなく——ただ、問いを受け取った、という重みのある沈黙だった。

 

 深雪は陽太の横顔を見た。

 

 陽太が、ふと色褪せて見えた。

 

 肉体の疲れではない。もっと深い場所——長い時間をかけて、少しずつ削れてきた何かが、この一瞬だけ表面に出た。そういう色だった。圧倒的な強さを持ちながら、しかしその強さの背後にある空白が、今この廊下で少しだけ見えた。

 

 胸が、痛んだ。

 

 理由を考える前に、そうなっていた。

 

(以前いた場所——この男は、どこにいたんだ。どれだけ長く、一人で戦っていたんだ)

 

「……行きましょう」

 

 陽太が前を向いた。声は、普段通りだった。

 

 深雪は何も言えなかった。ただ、陽太の背中を見た。前を向いて歩き出すその背中に、先ほど見えたものの残滓が、まだ漂っているような気がした。

 

 

 

 

 センターへの帰還は、静かだった。

 

 深雪は報告を淡々と済ませた。変質した魔物の形状、出現場所、討伐の経緯——事実だけを、過不足なく述べた。陽太の関与については、今回も詳細を伏せた。

 

 水瀬は書類にペンを走らせながら、深雪の言葉を記録した。陽太は深雪の少し後ろに立ち、何も言わずに正面を向いていた。

 

 報告が終わった。

 

 水瀬が書類を揃えた。立ち上がりかけた深雪に、声がかかった。

 

「九条さん」

 

 水瀬は、最後に一度だけ顔を上げた。

 

「あなたは優秀です。三年でAランクに達した探索者は、この支部には他にいない。だからこそ——判断を誤らないでください」

 

 何を指した言葉か、水瀬は説明しなかった。

 

 深雪は表情を動かさないまま、頷いた。

 

(判断を誤るな——分かっている。分かっているが……)

 

 水瀬の言葉が、胸の奥で小さく引っかかったまま、消えなかった。

 

 それから水瀬は、少し間を置いて付け加えた。

 

「それと——三咲さんの扱いについては、いずれ本部で協議が必要になるでしょう。念のため、ご承知おきください」

 

 深雪は頷いた。陽太は何も言わなかった。しかしその沈黙が、水瀬の言葉を正確に受け取っているものだと、深雪には分かった。

 

 

 

 

 センターの外に出ると、夕方の空気が頬に触れた。

 

 陽太は入口の脇に立っていた。深雪が出てきたのを確認して、小さく体の向きを変えた。

 

 二人は並んで、しばらく歩いた。言葉はなかった。信号が変わり、車が通り過ぎ、遠くで子どもの声がした。当たり前の夕方が、当たり前に流れている。

 

 深雪は陽太の横顔を、視界の端に捉えたまま歩いた。

 

(先ほどの言葉を、聞くべきか)

 

 「以前いた場所で何度も見ました」——その場所とは、どこだ。何度も、とは、どれほどの回数だ。一人で、とは——どれほど長い間、どれほど深い場所で、この男は戦い続けてきたのか。

 

 問いが、喉元まで来た。

 

 しかし、出なかった。

 

 陽太が、立ち止まった。

 

「また明日」

 

 それだけ言って、歩き出した。深雪とは別の方向へ。

 

 深雪はその背中を見送った。

 

 夕方の光の中で、陽太の背中は小さくなっていく。人々の流れの中に混じり、どこにでもいる人間のように見える——しかしどこにも属していない、そういう歩き方をしている。

 

(以前いた場所——どれだけ長く、あの男は一人だったのか)

 

 廊下で見た、あの色褪せた一瞬が、まだ深雪の胸の奥に残っていた。

 

 あれは、一日や二日で積み重なるものじゃない。

 

 深雪は前を向いた。歩き出しながら、胸の奥の熱が静かに灯ったままでいることに、気づいた。陽太との距離が離れても、今日は冷めなかった。

 

 おかしい、と思った。

 

 戦闘の緊張が抜けていないせいだ、と打ち消した。

 

 しかし——打ち消した言葉が、いつもより遅く沈んだ。

 

 同じ頃、陽太は別の方向へ歩きながら、深雪の刃の色を思い返していた。

 

(ダンジョンの変質と……同じ"方向"の気配だった)

 

 足を止めずに、静かに考え続けた。

 

 沈みゆく夕日が陽太の顔に影を作った。

 




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