褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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戦いを書きたい衝動 vs しっかり謎を書きたい衝動


第七話「呼び声」

 個人経営の喫茶店というのは、チェーン店と空気が違う。

 

 深雪はカウンター席に座りながら、そのことを改めて思った。木製の椅子。年季の入ったカウンターの表面。コーヒーの匂いが壁に染みついている。午前の時間帯はまだ静かで、奥のテーブル席に老いた男性が一人いるだけだ。

 

 依頼書をカウンターに広げた。

 

「Cランクダンジョンの空間異常調査だ。先週から三件、地図との不一致と内部構造の変化が報告されている。魔物の出現数に変化はなく、負傷報告もない。ただし——内部を一定時間歩くと、出発点に戻ってくる、という証言が複数ある」

 

 陽太は隣の椅子に座り、深雪の手元へ視線を向けた。

 

「……出発点に戻って来る、ですか」

 

「そう記録されている。原因は不明だ」

 

 短い確認だった。深雪は書類を畳んだ。

 

 陽太は書類を受け取り、一度だけ目を通した。読んでいるというより、確認している——必要な情報だけを素早く拾い上げる、そういう目の動かし方だった。深雪はその横顔をちらと見た。

 

 三咲陽太という人間は、何をするときも余分な動作がない。書類を手に取るときも、椅子に座るときも、何かを判断するときも——すべてが過不足なく、意図の通りに動いている。探索者歴三年で多くの人間と組んできたが、こういう動き方をする人間には会ったことがなかった。

 

(慣れている。何に、慣れているんだ)

 

 センターのデータベースには、仮Dランク登録の他に何も記録がない。それなのに、この男の所作には一つの迷いも見当たらない。訓練の跡でもなく、才能の輝きでもなく——もっと別の、長く重い何かが、この動き方の底にある気がした。

 

 深雪は問いを切り上げた。考えても答えは出ない。

 

 ちょうどそのとき、店主がメニューを差し出した。薄手のラミネートカードに、手書きの品書きが並んでいる。

 

「ここ、エビのパスタが人気らしい」

 

 深雪はカードを眺めながら、陽太へ声をかけた。特に意味のある提案ではなかった。任務前の時間を埋める、それだけの言葉のつもりだった。

 

 しかし陽太は、一拍遅れた。

 

「……エビは、苦手です」

 

 深雪は陽太を見た。「苦手」——アレルギーか、あるいは単純に食べられないのか。いずれにせよ珍しい反応だった。

 

「じゃあ、カニクリームコロッケはどうだ。こっちも人気みたいだ」

 

 カードには「人気No.2!!」の文字とともに、湯気を立てたコロッケの写真が存在を主張していた。

 

「……カニはもっと厄介だ」

 

 今度は、声の質が違った。「苦手」ではなく「厄介」。深雪は眉をわずかに動かした。

 

(厄介……?)

 

「奴らは横から来る。油断したら死ぬ」

 

「どこの世界の話をしている!?」

 

 思わず声が出た。カウンターの向こうで店主が振り返った。深雪は咳払いをした。陽太は表情を変えなかった。

 

 妙だ、と深雪は思った。笑いたいとも思った。実際に、口元が緩んだ——それに自分で気づいた瞬間、おかしなことが起きた。

 

 胸の奥に、ひやりとした感覚が走った。

 

 笑いが引いた跡に残ったのは、ひとつの問いだった。静かな、しかし妙に根の深い問いだった。

 

(……私はこの人のことを、何も知らない)

 

 エビが苦手な理由も、カニが厄介な理由も——どこの世界の話か、深雪には分からない。探索を共にして何度か戦い、互いの動きを覚え始めているはずなのに、陽太という人間の輪郭は、近づくほど形が摑めなくなっていく。

 

 深雪はメニューカードを伏せた。

 

 陽太は正面を向いていた。表情は変わっていない。深雪が笑ったことも、その後で口を結んだことも、おそらく見ていた——そのことだけが、妙に確かだった。

 

 

 

 

 Cランクダンジョンの入口は、住宅街の外れにある細い路地に口を開けていた。

 

 地面の継ぎ目が不自然に広がり、その先に石畳の段差が続いている。通常のCランクダンジョンならば、ここから一本道が伸び、センターから提供を受けた地図と照らし合わせながら進むことができるはずだった。

 

 しかし——

 

「……変だ」

 

 深雪は入口の段差で足を止めた。

 

 通路が、三つに分かれていた。正面、左斜め、右斜め——それぞれ材質が違う。正面は石畳、左は土を固めたような地面、右は何かの金属が敷き詰められている。地図に記されている通路は一本だった。

 

「報告通り、構造が変わっているようですね」

 

 陽太が静かに言った。前に出て、三方向を順に見渡す。

 

 深雪はセンターから受け取った地図を広げた。入口から延びる一本の通路、中央の広間、右手に分岐、奥に階段——どれも、目の前の光景と合致しない。

 

「これじゃ迷う」

 

「地図は破棄しましょう」

 

 陽太の言葉は短かった。迷いがなかった。深雪は地図を折り、ポーチへ戻した。

 

 正面を向いたとき——深雪の視界の端を、何かが流れた。

 

 金色の、粒だった。

 

 光の筋ではない。煙でもない。無数の細かい粒が、空気の流れに乗るように、正面の通路の方へ向かっていく。深雪は目を細めた。

 

(……光の粒?)

 

 一秒にも満たない時間だった。気のせいかもしれない。しかし確かに見えた。金色の何かが、正面の石畳の向こうへ流れた。

 

 陽太は深雪の視線の方向を、静かに確認していた。

 

 

 

 

 正面の通路を選んで進み始めると、最初の魔物はすぐに現れた。

 

 天井の影から、それは落ちてきた。

 

 小柄だった。人間の子どもほどの体躯に、しかし人間とは似ても似つかない造形がある。全身が灰色がかった石の外皮で覆われており、関節の部分だけが黒く変色している。頭部は頭蓋骨を思わせる角張った形で、目に当たる部分には濁った黄色の光が宿っていた。四肢は短いが太く、指先には鈎爪が生えている。天井を這って移動していたのだろう、鈎爪の先端には石屑が付着していた。

 

 落下しながら、それは爪を振りかぶった。

 

(……石像みたいな外見なのに、動きだけ妙に速い)

 

 深雪は細剣を抜いた瞬間には、もう動いていた。細身の体に石のような外皮、四肢が短く横に広い——見たことのない形状だが、動きの軌道は読めた。着地点を外しながら横へ体をずらし、細剣を一閃する。氷結の刃が外皮を割り、白い霧が走った。個体は床に転がり、動かなくなった。

 

 凍結の跡が、石畳の継ぎ目に薄く残った。

 

 深雪は個体が霧散していく様子を、しばらく見つめた。外皮の質感は岩石に近く、氷結によって割れた断面は中が均一に詰まっているように見えた。内臓のような器官の痕跡はなく、生物なのか、それとも別の何かなのか——判断がつかなかった。

 

 しかし、霧散した後に魔石は残らなかった。通常の魔物ならば、霧が晴れれば魔石が落ちているはずだ。それがない。

 

(……変質魔物と同じ。素材も魔石も残らないタイプか)

 

 深雪は視線を上げると構えを解かないまま、周囲を確認した。他に動く気配はない。

 

「今のは?」

 

「インプです。天井や壁に張り付いて、上から仕掛けてきます」

 

 陽太は淀みなく答えた。深雪を見ずに、通路の先を見たまま。当然知っているんだろう、と声をかけたつもりだったが、答えは予想通りだった——予想通りすぎて、違和感だけが積み重なって行く。

 

(……なぜそれを知っている)

 

 センターのデータベースにも記録のない魔物だ。しかし深雪は問いを飲み込んだ。今は進む方が先だ。

 

 通路の奥へ歩き出した。

 

 

 

 

 インプは、その後も繰り返し現れた。

 

 壁の亀裂から、段差の影から——一体、また一体と。深雪が迎撃し、陽太が仕留める。あるいは逆に、陽太が前に出て、深雪がフォローに回る。会話はなかった。しかし動きに淀みはなかった。

 

 やがて——見覚えのある光景が現れた。

 

 石畳の継ぎ目に、白い霧の跡。

 

 深雪は足を止めた。その跡を、もう一度見た。形が、さっき自分がつけたものと同じだった。位置も、広がり方も。

 

「……戻ってきている?」

 

「そうみたいですね」

 

 陽太の声は変わらなかった。深雪はこれまで歩いてきた道を頭の中で辿った。分かれ道はなかったはずだ。ずっと一本の通路を進んでいた。それなのに、出発点に戻ってきた——いや、正確には「戻っていないのに同じ場所にいる」という感覚に近かった。

 

「分かれ道を選ぶたびに構造が変わっているのか、それとも……」

 

 深雪は言葉を止めた。続きが出てこなかった。「それとも」の後に来るべき仮説が、うまく形にならない。

 

「繋がり方を変えているんだと思います」

 

 陽太が静かに言った。

 

「繋がり方……?」

 

「どこへ向かっても、ここへ戻るように——そういう構造になっている。道に問題があるのではなく、ダンジョン自体が迷わせるように作られている」

 

 深雪は陽太の言葉を反芻した。道ではなく、ダンジョンそのものが迷宮として機能している——それは単純な構造変化とは、次元の違う話だ。

 

「センターへの報告内容が変わるな」

 

「ええ」

 

 言いようのない不安が、深雪の胸の内で滲むように広がる。

 

 陽太は通路の先へ視線を向けていた。その横顔には、驚きがなかった。

 

「見落としがあったかもしれない。慎重に進もう」

 

 深雪は前を向いた。

 

 しかし内心では、見落としがあったとは思っていなかった。分かれ道はなかった。壁に触れながら歩いたわけではないが、それほど広い通路でもない。見落とせる要素がどこにあったか、具体的に思い当たらなかった。

 

 それでも、引き返すという選択は取りにくかった。依頼は調査だ。原因を確認せずに戻れば、報告できることが何もない。

 

 陽太は何も言わずについてきた。その沈黙が、深雪にはいつもと少し違って感じられた。困惑ではなく——何かを待っているような、静かな沈黙だった。

 

 深雪は自分の足音を聞きながら、通路を進んだ。

 

 今度は壁の材質を意識して歩いた。継ぎ目の位置、天井の高さ、床の傾き——通常のダンジョンならば、こうした細部に一貫した規則がある。しかしこの迷宮は、通路が変わるたびに材質が切り替わる。石畳から土、土から金属、また石畳へ。まるで別々の場所を無理やり繋ぎ合わせたような、継ぎ接ぎの構造だった。

 

 壁を指でなぞってみた。石の感触。冷たい。普通の石だ。

 

(見落としがあるとするなら——)

 

 段差か、あるいは床の模様の変化か。深雪は足元に視線を落としながら歩いた。陽太は深雪の少し後ろを、無言でついてきた。

 

 二つ目の分かれ道が現れた。

 

 深雪は足を止めた。分かれ道は、なかったはずだ。しかし目の前に、左と右に伸びる二本の通路がある。記憶の中の道筋と、今目の前にある光景が、また食い違い始めていた。

 

「……また構造が変わっている」

 

「ええ」

 

 陽太の声は短かった。深雪は左の通路を見た。天井が低い。次に右を見た。やや広い。どちらが正しい方向か、判断する根拠がない。

 

「右だ」

 

 根拠のない選択だったが、今は前に進むしかなかった。

 

 

 

 

 それから、どれほど歩いたか。

 

 インプを撃退しながら、深雪は通路を進み続けた。一本道が続く。曲がり、また曲がり、ときに広くなり、ときに低くなる。分かれ道が現れるたびに選択した。左、右、また右、正面——どれを選んでも、行き着く先は同じような通路だった。

 

 深雪は途中から、壁に細剣の柄で小さな傷をつけ始めた。通った道の目印にするためだ。しかし二十分ほど歩いたところで、自分がつけたはずのない傷が壁に現れた。どこかで見た継ぎ目のパターン、どこかで壊したダンジョンの設置物——同じものが、また現れる。

 

(ループしているだけではない。構造そのものが変わっている)

 

 どれほど注意深く歩いても、この迷宮は行き先を変える。異変はなかった。ただ、進んでも進んでもボス部屋が現れなかった。

 

(ボス部屋がない? そんなことがあるのか……)

 

 ダンジョンに、構造上ボス部屋がないということは起こりえない。しかしどれだけ進んでも、終点の気配がない。

 

 陽太は何かを探すように、時折、壁や床へ視線を落とした。何を探しているかは分からない。深雪は聞かなかった。

 

 一度だけ、陽太が立ち止まった。壁の一点を、しばらく見ていた。深雪も同じ場所を見た。継ぎ目が、他の場所と少し違う——気がした。しかし具体的に何が違うかは、言葉にできなかった。

 

 陽太は何も言わずに歩き出した。

 

 やがて、二人は無言のまま足を止めた。

 

「……構造の変化とインプ以外、明確な異常はない。引き返すか」

 

 深雪がそう言いかけたとき——視界の端に、それが現れた。

 

 金色の粒だった。

 

 入口で見たものと、同じだった。しかし今度はやけにはっきりしていた。無数の粒が、空気の中に漂いながら、通路の先へ向かって流れている。揺れるように、引くように——まるで何かが奥から手を差し伸べているように見えた。

 

「あれは入り口で見た……」

 

 声が出た。深雪は自分でも気づかないうちに、その粒の流れを目で追っていた。

 

 引力があった。論理ではない。説明のできない、体の奥から来る引力が——粒の流れる方向へ、深雪の足を向かわせようとしていた。

 

 陽太は深雪の様子を、静かに見ていた。表情は動かなかった。しかしその目が、ほんの僅かに——何かを確かめるような色になった。

 

 

 

 

 気づいたら、歩き出していた。

 

 深雪は粒の流れを追っていた。意識して追ったわけではない。足が動いていた。粒が揺れる方向へ、自然に向かっていた。

 

 陽太は何も言わずについてきた。止めなかった。問いもしなかった。深雪はそれを確認する余裕もなく、ただ前を見ていた。

 

(……行かなきゃ)

 

 なぜそう思うのか、言葉にならなかった。しかし確かに——この光の先に、何かがある。その確信だけが、胸の奥にあった。

 

 通路が折れた先に、壁があった。

 

 行き止まりに見えた。しかし粒は、その壁をすり抜けるように消えていく。深雪は壁の前で立ち止まった。

 

 この先に何かあるのか——

 

 深雪がじっと壁を見つめていると、陽太が一歩前に出た。

 

 右の拳で、壁を軽く叩いた。石を叩く音ではなかった。もっと軽い、空洞に近い音がした。陽太は徐にショートソードを構え、その刃で思い切り壁の表面を横に引いた。

 

「三咲、何を——!?」

 

 続く言葉は出なかった。

 

 壁が、霧のように消えた。

 

 深雪は息を止めた。

 

 壁があったはずの場所に、通路が続いていた。暗い。入口からの光が届かない、奥へと伸びる通路が——何もなかった場所に、口を開けていた。それは、これまでのダンジョンでは見たことのない事象だ。

 

「隠し道か……」

 

 陽太は淡々と言った。驚きは、やはりなかった。

 

 深雪は一度だけ陽太を見た。隣にいるはずなのに、どこか遠い。そんな感覚が、ふと胸をかすめた。

 

 陽太は消えた壁の跡を確認してから、通路の奥へ視線を向けた。

 

 二人は、暗い通路へ踏み込んだ。

 

 

 

 

 変わった。

 

 一歩入っただけで、それが分かった。湿度ではない。温度でもない。もっと根本的な何かが——この場所の空気は、さっきまでいた場所と性質が違う。

 

 深雪は足を止めないまま、その変化を肌で感じた。

 

 通路の壁が、石ではなくなっていた。手を伸ばすことなく、深雪にはそれが分かった。材質が変わったのではない。壁が、まるで厚みを失ったように感じられる。この先に何かがある、その何かを隔てているだけの薄い膜のような——そういう存在感に変わっていた。

 

 足元の石畳も、歩くたびにわずかに沈む感覚があった。実際に沈んでいるわけではない。しかし踏みしめるたびに、地面がこちらの重さを確かめているような、奇妙な手応えがあった。

 

 胸の奥のざわつきが、強まっていた。

 

 引力と恐怖が、同時にあった。この先へ進むことへの恐怖は確かにある。足が重くなる感覚がある。しかしそれと同時に——身を委ねたい、という感覚がある。抗えない何かが奥から呼んでいる、というその感覚を、どう言葉にすればいいか分からなかった。

 

(……呼ばれている)

 

 初めて、そう思った。

 

 何かに、呼ばれている。声ではない。言葉でもない。しかしこの奥の、暗い場所から——何かが、深雪を引いている。

 

 深雪は自分の手を見た。細剣の柄を握っている。指先に力が入っている。それは恐怖からではなく——前に進もうとしている体の、自然な反応だった。

 

 おかしい、と思った。怖いはずだ。インプとは別の次元の気配が、この先の暗さに潜んでいる。

 足を止める理由はいくらでもある。それなのに、体は前へ向かい続けていた。

 

 深雪は歩みを緩めなかった。

 

 陽太は深雪の半歩後ろを歩いていた。その位置で、ただ黙っていた。

 

(九条さんの中の気配が……強くなっている)

 

 陽太は表情を動かさなかったが、歩調をわずかに落とし、足音を殺した。

 周囲への警戒を、静かに一段引き上げる。

 

 通路の奥に、影が積み重なっていた。

 

 深雪は、その暗さの底に“何か”を感じた。ただの魔物ではない。

 地の底で揺らめく、儀式の残り香のような——昏い意志だけが、そこに沈んでいた。

 

(……行かなきゃ)

 

 陽太は足を止めた。

 

 暗さの向こうを、時間をかけて見た。そこにいる“何か”は動かないまま、冷たい脅威だけを放っていた。

 

 聞こえて来るのは確かな、そして色濃い死の息遣いだった。

 

 深雪は振り返らなかった。前を向いたまま、一歩踏み出した。陽太は言葉を挟まず、後ろについた。

 

 陽太の意識は、深雪の背中と、暗さの底の気配を、同時に捉えていた。どちらから目を離すこともしなかった。深雪が進む限り、陽太も進む。それだけだった。

 

 先に何が潜んでいるかは分からない。ただ、深雪の中の気配が奥へ引かれていくのを感じる。

 その動きを確かめるように、陽太は黙って歩調を合わせた。

 

 二人の足音が、暗さの中に消えていった。

 




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