隠し通路に踏み込んだ瞬間から、空気の質が変わっていた。
湿度でも温度でもなく、もっと根本的な何かが——深雪はその感覚を言葉にできないまま、通路の先へ足を向け続けた。粒子に引き寄せられていた引力は消えていたが、体の奥底にその余韻がまだ残っていて、思考の縁が少しぼやけている。細剣の柄を握る感覚だけが、確かだった。
陽太は半歩後ろにいた。
音がない。足音を殺した歩き方で、しかし確かについてきている。深雪はそれを振り返って確認はしなかったが、背中越しに感じていた。陽太の存在が、今は少し違う密度で、そこにある。
※
通路が終わった先に、広がりがあった。
深雪は出口の手前で足を止め、その先を見渡した。視界に入ってくる情報を整理しようとしたが、暗い。光源がない。入口から差し込む薄明かりが石畳の表面をわずかに照らしているだけで、空間の奥は黒いままだった。天井も見えない。広さの感覚だけが、暗さの中に滲んでいた。
陽太が深雪の横に並んだ。
並んだまま、動かなかった。正面を向いて何かを測るような静けさで、闇の奥を見ていた。警戒が、これまでとは桁が違う。全身の感覚が鋭くなっている——深雪にはそれが、隣に立つだけで伝わってきた。
陽太の意識が、深雪の様子を横目に捉えていた。入口から続く引力の残滓が、まだ彼女の動作に滲んでいる。この空間は、それを生んだ何かの源に近い。言葉にはしなかった。今は別の何かが、この暗さの奥にいる——何かに干渉されている、そう感じながら、陽太は闇の奥への警戒を一段引き上げた。
二人は動かなかった。
しばらく、沈黙だけがあった。
正面の闇の中に、二つの火が灯った。
丸い。橙でも白でもない、赤と青の境目にある色の、小さな光が二点、並んで浮かんでいた。揺れない。瞬きもしない。ただ、そこに在った。次の瞬間、地面に一つ、炎が生えた。青白い、冷えた色の炎が石畳の一点から湧き出るように灯り、一つ、また一つと等間隔に、部屋の壁に沿うように連なっていく——誰かが決めた場所に、決めた順序で火を置いていくような、静かな儀式の所作だった。
部屋の輪郭が、青白い炎の列に縁取られた。
その向こうに、形が現れた。
翼があった。長い首があった。鉤のように折れ曲がった嘴があった——ただし、すべてが本来の尺度を逸脱していた。翼の縁には羽毛ではなく骨の突起が不均等に並び、首は深雪の身長をゆうに超える長さで、体躯は部屋の横幅の半分を占めようとしていた。足には鈎爪が三対あり、青白い炎がその内側から透けるように揺れている——生きているのではなく、燃えている。死の概念を形にしたような、そういう存在感だった。
「死儀礼の鳥——」
陽太の口から、声が漏れた。意図した言葉ではなかった。
鳥が、咆哮した。
低く、長く、腹の底まで届く振動が部屋を満たした瞬間、深雪の胸の奥で何かが冷えた。声ではなく、圧だった。
この声を聞き続けてはいけない——じわじわと、昏い穴底が近づいてくる感覚があった。深みのある暗さが少しずつ積み重なり、いつの間にか取り囲まれているような。深雪は奥歯を噛んだ。ぼやけていた思考の縁が、一気に引き締まった。足の裏が石畳の感触を取り戻す。手の中の細剣の重さが、戻ってくる。
深雪は前に出た。
※
最初に来たのは、炎だった。
死儀礼の鳥が翼を一度打つと、地面を這うように蒼白の炎が広がった。石畳の継ぎ目をなぞりながら流れていく炎は速くはなかったが——退かなかった。燃え広がるというより、染みていく。部屋の床の半分が、青白く染まっていった。深雪は後方へ跳び、炎の外縁のぎりぎりに着地した。
かすりさえしていないのに、熱い。体温を奪うような、なのに熱い——どちらでもある相反する感覚が、同時にあった。
これは焼くのではない、削り取る種類の炎だ——深雪はそう判断しながら、炎の外で体勢を立て直した。
陽太は深雪と逆の方向へ離脱していた。炎が広がりきる前に、言葉なく位置を分けている。深雪はそれを確認する余裕もなかったが、間合いの取り方だけで陽太の動きを把握できた。
死儀礼の鳥が首を持ち上げた。
次の瞬間、暗がりから何かが降ってきた。光に見えたが、降下しながら形を固めていく——それは怨霊だった。死者の残滓が凝集して槍状になり、雨のように地面へ向かって落ちてくる。一本や十本ではない、数えきれないほどの槍が、上空から収束しながら降り注いでくる。深雪は炎の切れ目を踏みながら斜めへ走った。槍が石畳に刺さるたびに地面がひびを入れ、足元の選択肢が次々と塞がれていく。
やがて槍が止み、炎が少し引いた。今だ、と判断した。陽太が左から、深雪が正面から挟撃の形で鳥との距離を詰めにかかる。炎の切れ目を辿りながら間合いを詰めた瞬間、鳥が翼を広げた。
飛んだ。
天井の見えない暗がりへ、蒼白の炎の帯を引きながら上昇する。深雪は舌打ちを堪えながら見上げた。広い部屋の上空を滑空しながら、鳥は位置を変えていく。
そして、降らせた。
今度は違った。さっきは一点に集中していた槍が、今度は面になって降ってくる。部屋の全域を、均等に、くまなく——逃げ場所を計算する前に、すでに選択肢が潰されていた。深雪は転がるように体を低くし、腕で頭を覆った。幾本かが肩口の空気を裂き、着地した石畳が砕けた。
立ち上がったとき、陽太の左腕を炎が包んでいた。
払う動作は即座だった。手のひらで直接叩いて消し、すぐに右手で聖印を取り出す——戦場の所作だ。深雪が何か言うより前に、低い声で言葉が紡がれ、黄金色の光が傷ついた腕を包んだ。
「大丈夫かッ!」
「問題ありません。それより、厄介ですね」
陽太の声は平静だった。腕には火傷の跡が残っているはずなのに、その顔には痛みの色も焦りの色もない。深雪は一瞬、返す言葉を失った。問題ない、厄介、この状況でそれだけ言える人間が、自分以外にいるとは思っていなかった。
鳥が旋回しながら再び位置を変えはじめ、炎が地面に広がりかけた。二人の間隔が自然に開く。攻め入る機会を探しながら、しかし炎に遮られ、足を踏み出すたびに潰されていく。
少しずつ、こちらが削られている——深雪は呼吸を整えながら現状を計算した。氷結の刃は当たっている、しかし有効打には程遠い。触れる物すべてを凍てつかせるその力も、あの鳥には響かなかった。陽太の祈祷も確実に効いているが、その消耗は深雪には計れない。このまま続けば先に倒れるのはこちらだという確信が、じわりと広がってきた。
陽太が、深雪を見た。
「一度下がってください」
理由はなかった。それだけだった。深雪は一拍止まり——奥歯を噛んで、後退した。理由を問い返す言葉は喉の前で呑み込んだ。陽太が言う言葉に、これまで一度も無駄がなかった。壁際まで引いて、足を止めた。
陽太が、一人で残った。
武器を構えていない。盾も出していない。ただ立っていた——死儀礼の鳥の正面に、まるで場所を明け渡すように。深雪はその背中を見ながら、何をするつもりか把握できないまま、全身に力を入れていた。
鳥が、地面に降り立った。
飛翔で消耗させ、炎で削った——その作業を終えたとでも判断したのか、翼を畳んで静止した。首をゆっくりと巡らせ、陽太を見た。瞬きもせず、動きもせず、まるで足元に転がった獲物の状態を確かめるように、じっとねめつける。あの鋭い眼が、抵抗を諦めた獲物を見る目だった。
陽太は動かなかった。
それが決断だと、鳥は判断した。助走もつけず、ただ首を沈めて嘴を前に向け、地面を蹴る——突進だ。速い。あの巨体のどこにそれだけの加速が宿っているのか、質量と速度が一点に凝縮して、陽太へ向かっていく。陽太は、最後まで動かなかった。
「三咲——ッ」
声が出た、と後で気づいた。
嘴が、陽太の腹を貫いた。
衝撃もなく、音もなく——ただ、通った。
貫かれたまま、陽太は倒れなかった。その手が、鳥の首を掴んだ。両手で、首に力を込める。鳥が抜け出そうと暴れた——翼を打ち、足を蹴り、首を振る。しかし陽太の手は離れなかった。地面に血が落ちていた。一滴ではない、足元が染まっていくほどの量が、陽太の立つ場所を赤く塗り替えていった。
それでも。
手は、離れなかった。
死ぬ。
その言葉が、思考より先に来た。あのままでは死ぬ——死儀礼の鳥が暴れるたびに嘴が腹の中を抉り、血が地面に増えていく。陽太の足が揺れた気がした。気のせいではない。あの陽太の足が、ぐらついた。
(三咲が——死ぬ)
深雪はもう考えていなかった。走り出しかけた足を、どうにか止めた。今飛び込んでも、何もできない。氷結の刃を当てれば陽太ごと凍らせる。何かしなければ、でも何も——その焦りの中で、陽太と目が合った。
一瞬だった。その目に何かがあった。言葉ではなく、視線だけで伝わってくるものが——お前がやれ、と。
体の底で、何かが開いた。制御しようとしたが、間に合わなかった。溢れた。深雪の瞳が、金色に輝いた。
地面から、氷柱が生えた。
一本ではない。巨大な氷の柱が次々と、死儀礼の鳥の胴体を、翼を、首を、串刺しにしながら天井へ向かって伸びた。鳥の身体が静止した。翼が止まり、暴れていた足が固まり——一瞬の後、光の粒子に分解されていった。炎が消え、怨霊が霧のように散る。青白い光だけが少しの間宙に残ってから、消えた。
陽太が、仰向けに倒れた。
深雪は走っていた。膝をついて陽太の傍にしゃがみ込んだ瞬間、腹の傷が目に入った。嘴が貫いた痕は、見るも無残な有様だった。風穴が空いている、文字通りに。その縁から血が溢れ、石畳を赤黒く染めている。顔色も悪い。失血が速い。
「死ぬな!」
声が出た。懐からポーションを取り出し、傷口に押し当てながら、持っていた布で圧迫する。指先が震えていた。できることをやれ、考えるな、とにかく手を動かせ——そう自分に言い聞かせながら、深雪は陽太の上体を少し起こした。
「死ぬな、死ぬな、死ぬな……」
自分でも気づかないうちに、同じ言葉を繰り返していた。ポーションを傷口に当て、滲み込ませながら、もう一度、また一度。陽太の胸が動いている。息はある。でも血が、まだ、止まらない——深雪は布を傷に押し当てたまま、陽太の顔を見た。
「死なないでくれ……」
声が、掠れた。
「勝手に殺さないでください……」
陽太の声がした。ひどく弱々しかったが、確かにあった。
「生きているなら返事をしろ!! バカ!!」
涙が出そうになった。笑いも出そうになった。どちらでもある、変な声が喉から漏れた。深雪は陽太の胸倉を掴みかけて——その手が震えているのに気づいて、ゆっくりと離した。
今度こそ死ぬ、と思った——陽太は意識の底でそう感じながら、深雪の顔を見ていた。祝福に還ろうとした、あの感覚を体は知っていた。死の淵の手前まで引きずり込まれて、戻れなくなる一歩手前で、何かに引き留められた。深雪から流れ出た脈動が、その境界線のぎりぎりで踏み止まらせた。それが何であるかは、分からなかった。名前も、説明も、なかった。ただ、確かにそこにあった。
深雪が、陽太の頭を抱き寄せた。
唐突だった。陽太は動けなかったから、そのままになっていた。深雪の手は震えていた。服に血が移っているはずだったが、深雪はそれに気づいていないようだった。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
※
歩くのは、辛そうだった。
大きな傷はポーションで塞いだが、火傷の跡は残り、失った血は戻らない——陽太の足取りは、深雪がこれまで一度として見たことのない種類の頼りなさで、壁をなぞるように続いていた。深雪は陽太の腕を自分の肩に回し、歩き出した。体重がかかる。陽太の方が背が高いので角度が合わず、深雪の首がわずかに引っ張られる感覚がある。それでも、歩ける。
ちらりと、肩越しに見た。陽太の横顔は、まだ表情がなかった。痛みをどこかへ片づけてしまったような、あの顔だった。ただ、眉の位置がいつもと少し違う。口角の力が、わずかに抜けている——普段の「何もない」とは異なる、体の正直さが、そこに滲んでいた。
深雪はまた前を向いた。
こいつはいつだって、傷ついても平気な顔をして戦っていた、と思っていた。何があっても超然として、死とは対極の場所にいるような人間だと——でも今、肩越しに感じる重さはただの人間のものだ。血が出た。足が重くなった。一つ間違えれば、今頃この通路の床に倒れていた。
強くなろう——静かに、しかし骨の内側から来る決意だった。陽太があんな手段を選ばなくても良いように。あんな量の血を流さなくても良いように、もっと力をつけなければ、自分が。
足元に、小さな振動が来た。
地震か、と思った次の瞬間、歩いてきた通路が崩れ始めた。石畳が剥がれ、天井の一部が落ちた。別々の材質で継ぎ合わされていた壁が、その継ぎ目から分解されていく——接着を失ったように、石は石で、土は土で、金属は金属で、それぞれ無関係に崩れていく。さっきまで迷宮として機能していた構造が、役目を終えたように自ら解体しているように見えた。
「走るぞ!!」
陽太を引っ張るように、深雪は走り出した。
崩れるのは速かった。後方が順に塞がれていく。深雪は前を見ながら、陽太の重さを肩に感じながら、進路を探した。もとの構造を信じることはできない、この迷宮の通路はどこへ向かっても約束がない——そう思った瞬間、視界の端に粒子が流れた。
金色の、粒だった。
深雪は一瞬、足を緩めた。あれに引かれて踏み込んだ先に、死儀礼の鳥が待っていた。また罠ではないか。また、あの暗さへ引きずり込まれるのではないか——その逡巡が、一秒も持たなかった。
肩に、陽太の体温があった。
人間の、熱だった。
迷っている暇はない。深雪は粒子を追って走った。通路が折れ、下り坂になり、また折れる。崩れる音が後ろに迫ってくる。粒子は見失いそうになるたびに、また現れた。
明かりが見えた。深雪は最後の力で加速した。外の空気が流れ込んでくる。夕方の光がまぶしかった。二人は出口を抜け、外へ転がり出た。
首元にじっとりとした汗が伝い落ちた——あと少し遅ければ、という想像が一瞬頭をよぎり、深雪はそれを振り払った。
振り返った。
ダンジョンの入口が、崩れていた。溶けるように、というのが正確だった。石と金属と土でできた継ぎ接ぎの構造が、接着を失ったように素材ごとに分解され、地面と同じ高さへ沈んでいく。跡形もなくなるまで、深雪はそれを見ていた。
「こんなのは二度とごめんだ……」
ぽつりと、声が漏れた。陽太は答えなかった。壁に背を預けて立っており、その横顔はまだ、平静だった。
※
翌日の夕方まで、陽太は宿で眠り続けた。
夜になってから深雪がドアをノックすると、陽太は既に起きていた。何ともない顔をして立っていた。それがまた、深雪の呆れを誘った。引っ張り出すように連れ出した居酒屋は、宿から歩いて三分の場所にある。カウンター席に並んで座り、取り敢えずの乾杯をした。
「普通の人間は胴体に風穴が空いて無事な方がおかしいが……」
深雪はジョッキを置いて、正面を向いたまま横目で陽太を見た。
「慣れているので」
「それはおかしい」
まあいい——と深雪は思った。追求しても核心は返ってこない、陽太がそういう人間だということはもう分かっていた。今夜は飲む。それだけでいいと決めると、思ったより楽になった。
そして三十分後、深雪は完全に出来上がっていた。
頬が赤い。目の焦点が、少し甘い。ジョッキを持つ手に、余分な力が入っている。傍目にも分かる仕上がりだったが、深雪本人はまったく自覚していないようだった。
「聞いているのか、三咲ぃ!!」
ビールジョッキをカウンターに叩きつけながら、深雪は言った。叩きつけた理由も、この会話の経緯も、正確には頭の中で繋がっていなかった。ただ、積み重なっていた何かをぶちまけたかった。
「どうしてお前はいつも何も話してくれないんだ!! 探索者センターの追求を躱すのも大変なんだぞ!!!!」
陽太は黙っていた。深雪の言葉を聞いていないわけではなかった——その目が、静かに深雪の方を向いていた。
深雪は、もう勘弁ならないという顔をした。カウンターの上に乗り出すように身を乗り出し、陽太の手首を掴んだ。引っ張って、自分の頭の上に乗せる。
「労われ、撫でろ」
陽太は、一拍止まった。
深雪の手が陽太の手首を掴んだまま、頭の上に置いている。それが命令なのか懇願なのか、酔った深雪本人にも分かっていないようだった。陽太はその手を——そのままの形で、少し動かした。ぽん、と。それ以上でも以下でもない、重さだけの接触だった。
「それで良い」
満足げな声が、漏れた。深雪の手が、ゆっくりとカウンターに戻っていった。
陽太は手を引いた。戸惑いが、確かにあった。こういう動作を最後にしたのがいつだったか思い出せない——そういう類の戸惑いだ。しかし同時に、何か奇妙な軽さが胸の内にあった。うまく言葉にならないが、なかったわけでもない何かが、そこにあった。
狭間の地には、こんな場所はなかった——形になる前の感触を、陽太はそっとそのままにしておいた。夜が、続いた。
※
目が覚めたとき、喉が焼けるように渇いていた。
「水……」
ぼそりと呟いた深雪の視界に、すっとコップが差し出される。
「どうぞ」
何食わぬ顔で陽太が言った。
「ああ、助か……る?」
受け取ろうとして、深雪の手が止まった。
なぜか横に陽太がいた。
同じベッドに。
しかも裸で。
「……は?」
次いで、自分の格好を見る。薄い色のキャミソールに、花柄のショートパンツ。探索者としてのクールな外見からは想像もつかない、ふわりとした可愛らしさがそこにあった。
「~~!!??」
声にならない叫びが喉から漏れる。
再び陽太を見る。どうやら下は履いているようだ。安心した——いや、違う。
混乱の極みにある深雪を見て、ダンジョンで奇声を上げながら飛びかかってくるインプに似ている——陽太はそう思ったが、口には出さなかった。
酒精の影響とは異なる赤が深雪の頬を染めた。
戸惑いのまま深雪は早口でまくし立てた。
「なぜ同じ部屋にいる!?」
「無理やり連れ込まれました、九条さんに」
「なぜ裸なんだ!?」
「無理やり脱がされました、九条さんに」
「~~~~!!!!????」
二度目の絶叫。もはや、語るべき言葉はない。後はただ、懇願するのみ。
「忘れろ!!」
「嫌です」
即答だった。深雪は枕を掴んで顔を埋めた。陽太は水を持ったまま、動かなかった。
◆◆◆
数日後、探索者センターから呼び出しがあった。
会議室は相変わらず手狭だったが、二人ともすでに勝手を知っていた。前より物が増えた気がする、と深雪は思った。壁際に新人講習の教材が積まれ、扉の脇には探索者募集のポスターが貼られている。センターが忙しくなっている証拠だったが、何がそこまで忙しくさせているのかを考えかけたとき、向かいで水瀬が咳払いをした。
水瀬の顔を見て、深雪は何かを感じ取った。いつもより疲れている——目の下の隈が普段より濃く、声にも肩にも普段とは違う重さがある。仕事量だけではない種類の疲れ方だと、深雪には分かった。
厄介ごとを持ってくる顔だ——そう思いながら、深雪は背筋を正した。
「Dランクのままでは、制度上の矛盾が限界に来ています」
水瀬は書類を手元に置き、陽太を見た。
「深雪さんのAランク資格の審査・更新に影響が出る恐れがある。パーティでAランク以上のダンジョンに入るには、同行者の三咲さんはBランク以上でなければならない——制度上の規定です。それに、周囲の目も無視できなくなってきました。三咲さんの実力は誰もが認めているが、記録上のランクが低いままでは、他の探索者からの不信が深雪さんの評判に傷をつけかねない」
陽太が、深雪を見た。一度だけ、それから目を閉じた。
「……分かりました」
水瀬の肩から、わずかに力が抜けた。
「特例で依頼を用意しました。今回の案件でBランク相当の実績を記録として残し、その後段階を踏みます」
多少強引ですが何もしないよりはマシでしょう——
水瀬は一拍、置いた。視線が深雪と陽太の間を一度往復してから、止まった。
「今回の討伐対象は——竜です」
会議室の空気が、変わった。深雪は正面を向いたまま、その一言を体の中で転がした。たった一つの言葉が、部屋の体積を変えた気がした。
感想お待ちしてます。