褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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遅くなってごめんなさい。一回書いてから作り直してました。


第九話「輝く竜」

 会議室の窓には曇天が広がっていた。

 

 蒲田センターの三階。長テーブルの向かいに座った水瀬梓は、書類を一枚、深雪の前へ静かに滑らせた。

 

「確認してください」

 

 書類には、三咲陽太の同行義務に関する通達が記されていた。深雪は一行ずつ読んだ。読み進めるほどに、活字が重さを増していく。

 

「……陽太の同行は、元々センターの要請に従ってのことです」

 

「はい。ですが今回は上層部からの指示で、義務として明文化することになりました」

 

 水瀬の声は平坦だった。感情を乗せない訓練を積んだような、職業的な平坦さ。ただ、視線だけが書類の端でわずかに止まる。深雪はその一瞬を見逃さなかった。

 

(水瀬さん自身も、好きでここに座っているわけじゃない)

 

 そう思ったところで、状況は変わらなかった。

 

「三咲陽太の評定については、センターとして正式に記録する段取りを整えています」水瀬は言葉を選びながら続けた。「彼の実力と素行。記録された評定次第で、今後の同行義務の継続についても判断が変わってきます」

 

 遠回しだったが、意味は取れた。陽太の「使いどころ」を見定めたい。ダンジョンの異変に対処するための駒として価値があるかを測りたい——センター上層部の思惑が、水瀬の言葉の裏に透けている。

 

「同行任務の評定を行う探索者として、藤宮すずを同行させます」

 

「……すずを」

 

「Bランク。三年の実績があります。九条さんの後輩ですね」

 

 深雪は反論の言葉を探した。すずは優秀だ。それは知っている。だが優秀であることと、この役目に適しているかは別の話——陽太の隣で何かを「評定」する役目を負わせることが、すずにとって何を意味するか。

 

「九条さん」

 

 水瀬が一枚、別の書類を差し出した。

 

「Aランクの維持には、一定以上の実績が継続して記録されている必要があります。今期の実績記録について、現状では……不確定要素が多い、という評価になっています」

 

 今度は遠回しですらなかった。

 

 降格。その二文字を水瀬は口にしない。だが書類の行間には、はっきりと刻まれていた。深雪の実力が問題なのではない。センターが「不確定要素が多い」と判断すれば、記録はいかようにも書き換えられる。

 

(これが、圧力というものか)

 

 苛立ちが喉の奥に澱んだ。正面から押しつぶすのではなく、制度の形を借りて、じわじわと逃げ場を塞いでくる。

 

 深雪は書類を引き寄せ、署名欄に名前を書いた。ペンを置く音が、妙に大きく響く。

 

 水瀬が小さく息を吐いた。安堵とも、自責ともつかない音だった。

 

「……九条さん」

 

「はい」

 

「判断を誤らないでください」

 

 前に聞いた言葉だった。だが今日の水瀬の声には、命令ではなく懇願に近い何かが混じっていた。深雪は視線を上げたが、水瀬はすでに書類へ目を落としていた。

 

 

 廊下に出ると、陽太が壁際に立っていた。

 

 腕は組まず、足を肩幅に開いて、ただそこに在るように立っている。深雪の足音に気づいて、顔だけをわずかに向けた。

 

「終わりましたか」

 

「終わった」

 

 短く返して、深雪は前を向いたまま歩き始めた。陽太が並んで歩く。二人分の足音がリノリウムの床を打つ。

 

 陽太は何も訊かなかった。

 

 それがありがたくて、同時に胸に刺さる。訊かれれば言い訳ができる。訊かれなければ、黙っていることを選んだのは自分だ。

 

 センターの思惑。すずに押しつけられる役目。水瀬の最後の声。

 

 全部、言えなかった。

 

「……また厄介なことになったな」

 

 呟きは自分に向けたつもりだったが、陽太は半歩だけ歩調を変えた。聞こえていたのだと分かった。

 

「何か、俺にできることがあれば」

 

 低く、静かな声だった。

 

 深雪は前を向いたまま、答えを探して、見つからなかった。

 

「……今はいい」

 

 エレベーターのボタンを押す。下降を示すランプが灯った。

 

 二人は並んで扉が開くのを待つ。沈黙は穏やかだったが、深雪の胸の底では、抗えない現実への苛立ちが静かに燃えたままだった。

 

 

 センターのロビーは、いつも人の密度が一定だった。

 

 受付カウンター越しに職員が声を交わし、装備チェックを終えた探索者たちが出入り口へ向かう。深雪はその流れの端に立って、すずを探した。

 

 すぐに見つかった。

 

 藤宮すずは、ロビーの中央でまっすぐ立っていた。背筋が伸びていて、視線が定まっている。緊張しているのに、それを悟られまいとしている立ち方だった。深雪の姿を認めた瞬間、表情がほどけた。

 

「深雪さん!」

 

 小走りで近づいてくる。明るい声だ。受付の職員が二人、顔を上げて視線を向けるくらいには、明るい。

 

「久しぶり。元気そうだな」

 

「はい。……でも、今日はちょっと緊張してます」

 

 すずは笑いながらそう言った。正直な子だと、深雪はいつも思う。感情が顔に出る。隠せない。それがすずの欠点でもあり、深雪が放っておけない理由でもあった。

 

「センターからの話は聞いたか?」

 

「一緒に同行させてもらうって聞きました。……もう一人、いるんですよね」

 

 その「もう一人」という言葉の選び方が、すでに答えを持っていることを示している。センターが事前に何らかの情報を渡しているのかもしれない。あるいはすずなりに調べたのか。

 

 深雪が答える前に、エントランス側から足音が近づいてきた。

 

 陽太だった。

 

 すずの笑顔が、一瞬で止まった。

 

 止まった、というより——固まった。表情が変わったのではなく、変わりきれずに途中で止まった、という感じだった。陽太はそのすずを一瞥し、深雪へ視線を移した。

 

「この方が?」

 

「藤宮すず。今日の探索に同行してもらう」

 

「三咲陽太です」陽太はすずへ向き直り、軽く頭を下げた。「よろしくお願いします」

 

 丁寧な所作だった。声も穏やかだった。だがすずの硬直は解けなかった。

 

 深雪には分かった。陽太の礼儀正しさや声の温度ではなく、その"在り方"全体が、すずの中の何かに引っかかっている。立ち方、目の動き、呼吸の深さ——人間が無意識に発する生活の気配のようなものが、陽太からはひどく希薄だ。探索者として三年を過ごしたすずの感覚が、それを正確に拾ってしまっていた。

 

「……藤宮すずです。よろしくお願いします」

 

 すずは笑顔を作り直した。完璧ではなかったが、努力の跡は見えた。

 

 深雪は二人の間に入るように一歩動いた。

 

「三咲は無愛想だけど、悪い奴じゃない。心配するな」

 

「……はい」

 

 すずの返事は短かった。深雪の言葉を受け取ったのか、宙に流したのか、判断がつかない返事だった。

 

 陽太は自分への評価を横で聞きながら、特に何も言わない。否定も肯定もせず、ただすずが落ち着くのを静かに待っている。その待ち方が、また少しだけすずの表情を動かした。

 

(……複雑だな)

 

 深雪は内心でそう思いながら、すずを促して出口へ向かった。三人分の足音が、ロビーの石畳に落ちた。

 

 

 ダンジョン装備の専門店は、蒲田駅から徒歩十分ほどの雑居ビルの一階にあった。

 

 ガラス張りのショーウィンドウには魔力遮断フィルムが貼られていて、内側の照明が外に漏れない。店内に入ると、金属と樹脂の入り混じった匂いがした。探索者向けに特化した店特有の、機能だけを詰め込んだ空気。

 

 入店してすぐ、すずは陽太の格好を改めて確認した。

 

 薄い生成り色に近い、くすんだ白の長衣。布地は厚みがあって、それでいて動きを妨げない仕立てになっている。裾に向かって重なりが増し、腰回りには細い帯が巻かれていた。袖は短く、その下から伸びる腕には革の腕帯。落ち着いた色合いの中に、縫い目の細かさだけが異様なほど丁寧だった。

 

(……探索者の装備、じゃないな)

 

 二秒ほど眺めて、目を離した。深雪がこの人を連れてきているのだから、何かしら事情があるのだろう。そう自分に言い聞かせた。

 

 入店してすぐ、目の前の棚が視界に飛び込んできた。

 

「あ、これ新しいやつだ。耐水スマートランタン、もう入荷したんですね」

 

 棚から手に取り、側面のボタンを押す。青白い光が点灯して、すずの顔を下から照らした。魔力干渉下でも安定して点灯する素材を使っているらしく、値札の裏にその旨が小さく記されていた。

 

「深雪さんも絶対一個持っておいた方がいいですよ。最近のダンジョン、光源が不安定になるケースが増えてるって聞きましたし」

 

「……検討する」

 

「絶対買った方がいいです」

 

 すずは迷いなく断言して、自分のカゴに一つ放り込む。もう一つ取って、深雪のカゴにも放り込んだ。

 

「おい」

 

「検討終わりました」

 

 すずは涼しい顔で棚の奥へ進んでいった。深雪はカゴの中のランタンを見下ろして、小さく息を吐いた。

 

 三人はそれぞれのペースで棚の間を歩く。すずは気になるものを見つけるたびに深雪へ話しかけ、深雪は消耗品を確認しながら相槌を打つ。陽太は少し離れた棚で商品を一つずつ手に取り、重さを確かめ、戻していた。買い物というより品定めに近い動き方だったが、深雪はもう慣れていた。

 

 すずはそうではなかった。

 

 棚の角からそっと陽太を窺い、何かを言いかけて引っ込める——という動作を三回繰り返したあと、深雪の袖を引いた。

 

「……深雪さん、あの人って普段からああいう感じなんですか」

 

「ああいう感じ、というのは」

 

「なんか……静かすぎて、こっちが喋りかけていいのかどうか分からないというか」

 

「慣れる」

 

「慣れるものなんですか」

 

「慣れた」

 

 すずは「はあ」と納得したような納得していないような声を出して、また陽太を窺った。ちょうど陽太が棚の奥へ移動するところで、すずの視線はするりと空振りになる。

 

 

 装飾品のコーナーで、陽太が足を止めていた。

 

 深雪が追いつくと、陽太は小ぶりなイヤリングを手の平に乗せて眺めていた。青みがかった石がついている。耐魔素材製で、一応は微弱な気配察知の効果があるらしい。

 

「……深雪さんに似合いそうですね」

 

「何で私」

 

「色が合いそうだと思いました」

 

 陽太はそれだけ言って、イヤリングを棚へ戻す。品定めして、戻した。それ以上でもそれ以下でもない動作だったが、深雪の耳がじわりと熱を持った。平静を装って前を向く。

 

 後ろから足音が近づいてきた。

 

「深雪さーん、魔力遮断フィルムって複数枚買っておいた方が——」

 

 すずが棚の角から顔を出して、二人を見て、止まった。

 

 止まって、陽太を見て、深雪を見て、また陽太を見た。

 

「……何してたんですか」

 

「イヤリングを見ていた」と陽太。

 

「二人で?」

 

「たまたま同じ場所にいた」と深雪。

 

「そう、ですか」

 

 すずの声のトーンが、入店時より半音ほど下がっていた。カゴを両手で持ち直し、棚の反対側へ向かう。三秒後、棚越しに声だけが飛んでくる。

 

「深雪さん、こっちのランタン用の予備電池も買った方がいいと思います。絶対」

 

「さっきも絶対と言っていたな」

 

「今回も絶対です」

 

 深雪はこっそり陽太を見た。陽太はすずが消えた方向を一瞬だけ眺め、それから何事もなかったように次の棚へ歩いていった。気づいているのかいないのか、まったく判別がつかない。

 

 棚の向こうでは、すずが必要かどうか微妙な消耗品を次々とカゴに積み上げている気配がした。

 

 

 ダンジョンの入口は、駅裏の更地に口を開けていた。

 

 地面が垂直に断ち切られたような裂け目で、縁に沿って簡易柵と警告灯が設置されている。受付テントの職員に登録票を提示し、三人は順番に梯子を下りた。最初に陽太、次に深雪、最後にすずが続いた。

 

 十メートルほど下りると、足が石の床についた。

 

 すずは一歩踏み出して、息を詰めた。

 

 通路の両壁が、青白く光っていた。

 

 岩盤から直接生えた結晶が、天井まで隙間なく並んでいる。光源がどこにあるのか分からない。結晶そのものが淡く発光して、その光が奥へ奥へと連なり、まるで水の底を覗き込んでいるような錯覚を起こさせる。

 

「……きれい」

 

 すずが思わず漏らした。

 

「見惚れるな」深雪が前を向いたまま言った。「足をすくわれるぞ」

 

 事実だった。結晶の根元は岩盤が隆起していて、踏み場を選ばないと足首を取られる。すずは視線を床へ落とし、慎重に歩き始めた。

 

 水滴の音がした。どこかで水が垂れている。反響して、音の出所が掴めない。

 

 陽太はすずより二歩前を歩いていた。深雪がその少し後ろ、すずが最後尾。陽太の視線は通路の正面を向いているようで、実際にはわずかに左右へ流れていた。結晶の隙間、天井の陰、岩盤の継ぎ目——人間の目には何もない場所を、順番に確かめている。

 

 すずはその背中を見ながら歩いていた。

 

 さっきの装備店での出来事を、まだ引きずっている。引きずっている自分に気づいていたが、やめられなかった。

 

(似合いそう、って)

 

 深雪さんに言うか、普通。

 

 別に深雪さんのことを何とも思っていないんだろうけど、でも、それはそれで何か——

 

 陽太が、止まる。

 

 すずの思考が途切れた。

 

 陽太は何も言わない。ただ右手を、ゆっくりと横へ広げた。止まれ、という意味だと分かった。分かったのですずとともに深雪も足を止めたが、すずには何も見えなかった。聞こえなかった。水滴の音と自分の呼吸だけがある。

 

 十秒ほど、三人は静止した。

 

 陽太が口を開いた。

 

「気づかれています。戦闘になるかもしれません」

 

「どこに」深雪が低く訊いた。

 

「前方と、左の壁の奥。二体以上」

 

 すずは左の壁を見た。結晶が光っているだけで、何もなかった。何もないのに、陽太は「壁の奥」と言った。

 

(壁の奥、って)

 

 どうやって分かるのか。何を感じ取っているのか。すずは陽太の横顔を見た。表情は変わっていない。恐怖も緊張も、顔のどこにも貼りついていない。ただ、奥を見ていた。

 

 それが、すずには不可解だった。

 

「……数は」

 

「確認中です」陽太は視線を前へ戻した。「近づいてきています」

 

 水滴の音が、一瞬止んだ。

 

 止んだ、とすずが思ったとき、結晶の光が揺れた。それまで静止していた青白い輝きが、壁の中で波打つように明滅する。

 

 すずの首筋が粟立った。

 

 きれいだと思った光が、今は別の何かに見えた。結晶の向こうに、こちらを測っているものがいる。その確信が、言葉より先に皮膚に届いた。

 

「深雪さん」

 

「分かってる」

 

 深雪はすでに構えを取っていた。細剣の柄に手をかけ、重心を落として、前を見ている。その横顔は静かで、すずが知っている深雪の顔だった。

 

 陽太がゆっくりと前へ出る。

 

 三人の間に、戦闘前の沈黙が落ちた。

 

 

 最初の一体は、壁から滲んだ。

 

 結晶と岩盤の境目、光の届かない継ぎ目から、影が染み出すように現れた。半透明の輪郭、人の形をしているが、関節が逆を向いている。足が上を向き、腕が下から生えているような、見ているだけで平衡感覚が狂う姿だった。

 

 すずは細剣を抜いた。

 

 深雪がすずの前へ出て、左手を通路へ向けた。冷気が指先から走り、床を這って影の足元へ達した。霜が広がり、影の動きが鈍くなる。

 

「左、もう一体」

 

 陽太の声が飛んだ。

 

 すずが振り向くより先に、陽太はすずの横を抜けていた。壁から半身だけ出てきたところの二体目へ踏み込んで、剣が一閃した。影が霧のように散った。

 

 一秒もかからなかった——気づいたときには、すずの背後に影の残滓が霧になって消えていくところだった。

 

「前、まだいる」深雪が言った。「すず、右を頼む」

 

「はい!」

 

 体が先に動いた。訓練の反射だった。右の壁から滲んでくる影に向かって踏み込み、細剣を突き入れる。影の輪郭が揺れ、四散した。

 

 確認する間もなく、通路の奥から新たな気配が膨れ上がった。

 

 四体、いや五体。結晶の光が一斉に明滅して、床という床から影が滲み出てくる。すずは一歩後退した。数が多い。囲まれる前に——

 

 陽太が群れの中心へ向かって歩く。走らない。ただ歩く。

 

「ちょっ——」

 

 すずの制止など聞こえていないように、陽太は群れに飲み込まれた。結晶の光が乱れ、通路の中央が一瞬暗くなった。深雪が床へ向けて冷気を解き放ち、足元から霜が走って影の動きを縫い止める。

 

 光が戻ったとき、陽太は群れの反対側に立っていた。

 

 無傷だった。

 

「……えええ!? なんでそれで平気なんですか!? 飲み込まれてましたよね今!?」

 

 すずの声が結晶の通路に反響した。

 

 陽太が振り返る。きょとん、という言葉が似合わない顔に、それに近い間があった。

 

「……問題なかったので」

 

「問題なかったって何ですか問題なかったって!」

 

「右奥、一体残っています」

 

「話終わってないですよ!?」

 

 深雪がすでに右の通路へ踏み込んでいた。霜が奥へ伸び、くぐもった音がひとつ——それで終わり。

 

 沈黙が戻る。水滴の音だけが、また静かに満ちてきた。

 

 すずは剣を下ろして、陽太の背中を見た。長衣の裾が乱れていなかった。呼吸が乱れていなかった。

 

(……なんで? なんで普通に立ってるの?)

 

「怪我は」深雪が陽太へ確認した。

 

「ありません」

 

「すずは」

 

「だ、大丈夫です……」

 

 大丈夫と言いながら、頭の中の整理がまったく追いついていなかった。

 

 陽太がすずの方を、一瞬だけ向いた。何かを確認するような目だった。怪我がないか、動けるか——そういった実務的な確認をする目で、それ以上でも以下でもなかった。すずと目が合ったが、陽太は特に何も言わなかった。

 

 すずは笑顔を作る。今日何度目かの、作り直した笑顔だった。

 

 三人は奥へ向かって歩き始めた。しばらく無言で進んだあと、陽太がぽつりと言った。

 

「……否定はしません」

 

「何が」深雪が訊いた。

 

「俺が、普通ではないということです」

 

 すずはその言葉を聞いて、思わず吹き出しそうになった。

 

「……今更ですか」

 

「今更でしたか」

 

「めちゃくちゃ今更です」

 

 深雪が小さく息を吐いた。呆れているのか笑っているのか、その中間くらいの音だった。

 

「三咲はそういう奴だ。慣れろ」

 

「慣れろって言われても」

 

 陽太は特に何も言わず、前を向いて歩き続ける。すずはその背中を見ながら、小さくため息をついた。

 

(……慣れる気が全然しない)

 

 ただ、さっきまでの緊張は、少しだけほぐれていた。

 

 

 大広間への入口は、通路の突き当たりにあった。

 

 アーチ状の開口部。縁に沿って結晶が生えているが、その光だけが妙に弱かった。青白い輝きが、広間の奥から滲む別の光に飲まれている。すずは一歩踏み込んで、足を止めた。

 

 水が、あった。

 

 靴底が浸った。くるぶしにも届かない深さで、それでいて底が見えなかった。水が薄く張った岩盤の表面が、結晶の光を受けて鏡になっている。自分の足元が、水の中にもう一人いるような錯覚を起こさせた。

 

 天井が、高かった。

 

 通路の圧迫感に慣れた目には、それだけで別世界だった。霧のような水気が漂い、広間の輪郭を溶かしている。対岸がどこにあるのか判然としなかった。水面だけが続いて、その先が霞の中に消えていた。

 

 静かだった。

 

 水滴の音も、足音の反響も、ここでは別の何かに吸われて消える。通路で感じていた音の存在感が、広間に入った瞬間に薄れた。代わりに満ちてきたのは、音ではなく気配だった。

 

 すずは息を詰めた。

 

 広間の中央に、それはいた。

 

 竜だった。だが、すずが想像していた竜ではなかった。

 

 鱗がなかった——正確には、鱗があった場所に別のものが生えていた。青白く透き通った結晶が、体の表面を隙間なく覆っている。一枚一枚が厚く、硬質で、光の加減によって半透明になり、内側を流れる何かがぼんやりと透けて見えた。脈打つような、淡い青白い光だった。魔力なのか、血液なのか、すずには判断がつかない。

 

 巨大だった。

 

 天井近くまで届きそうな首。翼を畳んだままでも、その存在が広間の空気を押しつぶしていた。頭部には長い角と、クリスタルの棘が幾重にも生えている。多面体のファセットで構成された頭蓋が、まるで巨大な宝石の彫刻のようだった。

 

 美しい、とすずは思った。

 

 思った直後に、その感想が間違いだと気づいた。美しいのではない。美しく見えるように出来ているのだ。宝石が人を引き寄せるように、光が虫を誘うように——この輝きは、近づかせるためにある。

 

 竜が動いた。

 

 首をゆっくりと持ち上げる。鱗同士が擦れ、キン、と高い音が広間に響いた。結晶が鳴いている。その音が天井の結晶に反響して、広間全体が微かに共鳴した。水面が細かく震える。

 

 瞳が、こちらを向いた。

 

 青白く輝く瞳だった。瞳孔も虹彩も、全てが輝石で出来ているような冷たい光。感情が読み取れなかった。読み取れないのではなく、そもそも感情というものがそこにない、という種類の目だった。

 

 すずの喉が、乾いた。

 

「……見てるだけで、体が震える……」

 

 声が出たことに、自分で驚いた。

 

 その目がすずを捉えた瞬間——すずがここ数年で積み上げてきた実績も、経験も、Bランクという肩書も、何一つ意味を持たない場所に今立っていると、骨の髄から理解させられた。値踏みされているのではない。ただ、認識された。それだけだった。それだけで十分だった。

 

 陽太が、前に出る。

 

 すずは反射的に腕を伸ばしかけて、止めた。陽太の背中を見たからだった。

 

 恐れがない。

 

 背中が、そう示していた。肩に力が入っていない。呼吸が乱れていない。あの目と正面から向き合って、それでも陽太の足は止まらなかった。水面を踏む音だけが、静かな広間に響いた。

 

 深雪がすずの隣に並ぶ。すずは深雪を見た。深雪の横顔は静かだったが、陽太を見る目に、一瞬だけ細い不安が走っている。

 

 すずが感じたのと、同じものだと分かった。

 

(深雪さんも……分からないんだ)

 

 陽太が何者なのか。あの平然さが何から来るのか。あの目を前にして怖くないのか、あるいは怖さを感じる機能がそもそもないのか。

 

 輝石の竜が、息を吸う。

 

 広間全体の空気が、その口元へ向かって引き寄せられていく。

 

 

 輝石竜が、翼を広げた。

 

 それだけで広間の空気が変わった。翼端に散らばった結晶の棘が光を弾き、キン、と鳴く。翼が水面を叩いた瞬間、白い飛沫と輝石の粒子が霧のように舞い上がった。

 

 暴風が来た。

 

 すずは腕で顔を庇った——間に合わなかった。気流が体を捉え、足が水面を滑る。踏ん張る間もなく、背中が壁に当たった。息が詰まる。視界がぶれて、粒子の霧の向こうに輝石竜の輪郭が揺れていた。

 

 影が、割り込んだ。

 

 すずと竜の間に、陽太が立っていた。いつ移動したのか分からなかった。さっきまで深雪の隣にいたはずなのに、気づいたときにはすずの前にいる。

 

 竜の首が振り下ろされた。

 

 陽太は横へ体を流した。首が水面を叩き、轟音と飛沫が広間を揺らす。着地の衝撃が水面を伝い、すずの足元まで震動が届いた。

 

 深雪が動いた。

 

 左手を広間へ向け、魔力を解き放つ。冷気が水面を走り、輝石竜の足元へ向かって霜の結晶が広がっていく。輝石竜の動きが——止まらなかった。

 

 霜が鱗に触れた瞬間、弾けた。

 

 青白い光が散り、冷気が霧になって消える。輝石竜の体表を覆う結晶が、深雪の魔力を飲み込んで無効化した。鱗の内側で魔力の光が脈打ち、またすぐに静まる。竜は微動だにしていなかった。

 

(通らない)

 

 深雪の目が細くなった。氷の魔力と輝石の魔力が干渉している。力をぶつけるほど、相殺される。

 

 すずが壁を蹴って駆けた。深雪が足止めする隙に側面へ回り込み、剣を振り抜く。鱗に刃が当たった——金属音が手首まで跳ね返ってきた。

 

 弾かれた。

 

 刃こぼれしていないか咄嗟に確認する。刃は無事だったが、腕がしびれていた。鱗の一枚も欠けていない。すずの全力の一撃が、ただ弾かれただけだった。

 

「かたっ……!」

 

 思わず声が出た。輝石竜がすずへ視線を移した。その目が向いた瞬間、すずの足が止まりそうになる。

 

 陽太が竜の正面へ踏み込んだ。

 

 剣が鱗を捉えた。弾かれなかった。鱗の継ぎ目を正確に抉り、青白い光が傷口から漏れる。輝石竜の首がわずかに揺れた——ダメージが通った。

 

 だが。

 

 竜が息を吸った。

 

 広間の空気が変わった。空気ではなく、空間そのものが変わったような感触だった。壁に、天井に、水面の下に眠っていた無数の輝石結晶が、一斉に浮かび上がる。砂粒ほどのものから、拳大のものまで。それらが光を帯びて宙に静止した。

 

 陽太の足が、止まった。

 

(これは)

 

 見たことがない。

 

 十年、狭間の地で戦った。この竜とも、かつて対峙したことがある。首の振り下ろし、翼の暴風、鱗の硬度——全て知っていた。だが、これは違った。この攻撃を、陽太は知らなかった。

 

 結晶が、飛んだ。

 

 無数の輝石が矢のように収束し、陽太へ向かって殺到する。陽太は跳んだ。水面を蹴り、横へ体を投げる。結晶の数本が長衣を裂き、背中を掠めた。着地した瞬間、熱が走った。

 

 深雪が冷気を張り直す。すずが側面へ回り込む。陽太が正面を押さえる。三人の動きは噛み合っていた。だが、噛み合っているだけだった。

 

 攻撃が通らなかった。

 

 深雪の冷気は鱗に触れるたびに弾かれ、すずの剣は継ぎ目を狙っても滑った。陽太だけが鱗の隙間を抉れたが、傷口はすぐに輝石の魔力で塞がれていく。削っても削っても、竜は微動だにしない。

 

 浮かび上がった結晶が、また静止した。

 

 第二射の準備だった。陽太は舌打ちをこらえた。距離を取れば結晶が飛んでくる。踏み込めば首と翼が来る。輝石竜はその二択を交互に使い、三人を広間の端へじわじわと押し込んでいた。

 

(手段を変えるか)

 

 魂の奥に、別の重さを感じていた。狭間の地から持ち帰った力——祈祷の熱、あるいは戦技の切れ味。それを使えば、この膠着を崩せるかもしれない。だが、ここで全力を使うことの意味も、陽太には分かっていた。

 

 この竜は、まだ本気ではない。

 

 そう確信していた。根拠はなかった。ただ、十年間狭間の地で生き延びた感覚が、そう告げていた。それに、すずの目もある。今ここで手の内を晒すのは——

 

 輝石竜が、口を開いた。

 

 牙の隙間から青白い光が漏れ始める。鱗の内側で魔力が脈打ち、その脈動が急速に大きくなっていく。空気が引き絞られるような感触が、広間全体を満たした。

 

 ブレスだ、と陽太は理解した。

 

 理解した瞬間、すずが視界に入った。壁際で体勢を立て直そうとしている。竜の正面に、無防備に立っていた。

 

 陽太は考えなかった。

 

 水面を蹴り、すずの前へ飛び込む。青白い奔流が広間を薙いだ。熱ではなかった。冷たく、鋭く、魔力が皮膚を裂くような感触だった。背中から肩にかけて、輝石の魔力が叩きつけられる。

 

 着地した。

 

 膝が水面を打ち、飛沫が上がる。痛みは後から来た。背中が灼けるように熱く、同時に芯から冷えていた。輝石の魔力が傷口に残っている感触があった。

 

 陽太は立ち上がった。

 

「三咲っ」

 

 深雪の声が飛んだ。氷の魔力が水面を走り、輝石竜の足元へ向かって霜が広がっていく。竜が視線を深雪へ移した。その隙に陽太が下がり、三人の距離が一瞬だけ開く。

 

「下がれ」深雪がすずへ言った。「今すぐ」

 

 すずは頷いた。頷いてから、陽太の背中をもう一度見た。

 

 痛みを見せていなかった。

 

 肩が動いていない。呼吸が乱れていない。灼けた跡を背負ったまま、竜を正面に見据えて立っている。痛くないはずがない。痛みを感じる機能がないとしたら——

 

「すず」

 

 深雪の声で、思考が途切れた。

 

 すずは壁を蹴って駆けた。深雪の隣へ滑り込む。輝石竜がまた翼を動かした。キン、と結晶が鳴く。次の一撃が来る。

 

 輝石竜がまた息を吸い始めていた。第二射の準備だった。

 

「撤退する」

 

 深雪の声が広間に落ちた。判断は早く、迷いがなかった。

 

「三咲、聞こえているか?」

 

「聞こえています」

 

 陽太の声は変わっていなかった。平坦で、静かで——ただ、輝石竜から目を離さなかった。離せなかった、と言う方が正確だった。見たことのない攻撃パターン。知らない動き。その意味を、陽太は撤退しながらまだ考えていた。

 

 三人は通路へ駆け込んだ。

 

 輝石竜は追わなかった。広間の中央から動かず、浮かび上がった結晶をゆっくりと水底へ沈めていく。まるで、これが終わりではないと知っているように。

 

 キン、と遠く、結晶の音だけが響いた。

 

「……やっぱり……普通じゃない……」

 

 走りながら、すずが呟いた。輝石竜のことを言っているのか、陽太のことを言っているのか、自分でも判断がつかなかった。

 

 

 通路を駆けて、結晶の光が届かない区画まで戻った。

 

 深雪が「ここでいい」と言って足を止めた。輝石竜の気配がない。追ってきていない。三人は壁を背にして、それぞれ息を整えた。

 

 すずは自分の右腕を見た。輝石のブレスを受けた気流が掠めた跡が、手首から肘にかけて赤く残っている。熱を持っていた。じくじくと、脈に合わせて痛んだ。

 

 陽太の背中が目に入った。

 

 長衣の上からでも分かった。ブレスをまともに受けた跡が、肩から腰にかけて広がっている。すずの傷より、明らかに深かった。

 

「三咲さん、ちょっと待ってください」

 

 すずはポーションを取り出した。自分の傷より先に、陽太へ向けて差し出す。

 

「傷、見せてもらえますか。ポーション——」

 

「大丈夫です」

 

「大丈夫じゃないですよ、あれだけ受けて——」

 

「本当に大丈夫です」

 

 陽太の声は穏やかだったが、有無を言わせない静けさがあった。すずは差し出したポーションを引っ込めて、それなら自分の傷に使おうと腕に当てた。

 

 染みた。だが、それだけだった。

 

 液体が傷口の上で弾かれている。皮膚に馴染まない。浸透しない。もう一度押し当てた。変わらなかった。

 

「……これ、竜の魔力……?」

 

 じわりと怖くなった。ポーションが効かない傷など、三年の探索経験で一度も受けたことがなかった。

 

 陽太が右手を自分の傷口へかざした。

 

 光が、滲んだ。

 

 白い光ではなかった。もっと古い色をしていた。金に近いが、金よりも深く、暖かく——光というより、熱の記憶のような色だった。結晶の青白い輝きが満ちた通路の中で、その光だけが質を異にしていた。場所が違う。時代が違う。どこか遠い場所から持ち込まれたような、そういう光だった。

 

 すずは息を止めた。綺麗だと思った。思った直後に、その感想が場違いだと気づいた。ダンジョンの通路の中で、竜に傷つけられた男が、ポーションでもない何かで自分の傷を塞いでいる。綺麗だと思っている場合ではなかった。

 

 光が、じわりと広がった。

 

 陽太の傷口を包んでいた金色の光が、通路の空気に滲むように薄く広がっていく。その余波がすずの腕に触れた瞬間、じくじくとした熱がすうっと引いた。皮膚が閉じていく感触があった。赤みが薄れていく。

 

 気づいたとき、傷が消えていた。

 

「……ポーションが効かない傷が」すずは自分の腕を見た。「しかも私の分まで」

 

 言葉が続かなかった。

 

「三咲は少し、特殊な魔術を使えるんだ……」

 

 深雪が言った。

 

 説明になっていなかった。深雪自身も、それは分かっているはずだった。それでも他に言いようがない、という顔をしていた。

 

 すずは陽太を見た。陽太は光を収めて、長衣の襟を直していた。傷の跡が残っているのかいないのか、表情からは何も読み取れない。

 

「三咲さん」

 

 陽太が顔を上げた。

 

「あなた、本当に何者なんですか」

 

 通路に、静かな間が落ちた。

 

 陽太はすずを見た。それから深雪を見た。深雪は視線を返したが、何も言わなかった。

 

「探索者です」陽太は言った。「今は」

 

 今は、という二文字が、すずの耳に引っかかった。今は、ということは、以前は違った。以前は何だったのか。何者だったから、竜の魔力が残る傷を三十秒で塞げるのか。何者だったから、輝石竜を前にして怖くないのか。

 

 陽太はそれ以上何も言わなかった。

 

 すずも、それ以上訊けなかった。

 

 結晶の光だけが、三人の間に静かに満ちていた。

 

 

 センターの屋上は、風が通った。

 

 夜の蒲田は明るかった。駅前のネオンが低い雲を橙に染め、遠くでサイレンの音がして、消えた。すずは手すりに両肘をついて、夜景を見ていた。ダンジョンの青白い静けさとは正反対の、雑然とした光の海だった。

 

 隣に深雪が来たのは、しばらく経ってからだった。

 

「傷は」

 

「治ってます。おかげさまで」

 

 すずは苦笑いをした。深雪は正面を向いたまま、それ以上訊かなかった。二人で夜景を見た。風が吹いて、すずの髪が揺れた。

 

「深雪さん」

 

「ん」

 

「三咲さんのこと、どこまで知ってるんですか」

 

 深雪は答えなかった。すぐには、答えなかった。

 

「全部は知らない」しばらくして、深雪は言った。「たぶん、本人も全部は話せない」

 

「それで、信頼できるんですか」

 

「できる」

 

 間がなかった。すずは深雪の横顔を見た。迷った様子がなかった。怖くないのか、と訊こうとして、やめた。怖いかどうかで信頼を決めていないのだと、その横顔が言っていたから。

 

「今日、何度か思ったんです」すずは手すりを握り直した。「あの人、人間じゃないんじゃないかって」

 

「……そうかもしれない」

 

 深雪の声は静かだった。否定しなかった。すずは少し驚いて、また夜景へ視線を戻した。

 

「怖くないんですか」

 

「怖い」深雪は言った。「たまに、すごく」

 

「それでも?」

 

「でも、信じたいんだ。あいつのことを」

 

 風が吹いた。深雪の髪が揺れて、また静まった。すずはその言葉を、しばらく自分の中で転がした。信じたい、という言葉だった。信じている、ではなかった。信じると決めた、でもなかった。それでも手放さない、という意味の言葉だった。

 

「……深雪さんがそう言うなら」

 

 すずは息を吐いた。

 

「もう少しだけ、様子を見ます」

 

 深雪が、すずの方を向いた。何か言おうとして、やめた。代わりに、小さく頷いた。それで十分だった。

 

 二人はまた、並んで夜景を見た。

 

 

 水没した大広間に、音はなかった。

 

 戦闘の跡が残っていた。水面には輝石の破片が漂い、岩盤には霜の痕が白く残っている。浅い水が、それらをゆっくりと飲み込んでいた。

 

 広間の中央で、輝石竜は動かなかった。

 

 翼を畳み、尾を水底に這わせて、ただそこに座している。鱗の内側で魔力の光が静かに脈打ち、また静まる。それを繰り返していた。

 

 瞳が、開いた。

 

 青白く輝く瞳が、広間の入口へ向いた。三人が駆け込んでいった、あの通路の方向へ。感情は読み取れなかった。ただ、その目には終わりの色がなかった。

 

 キン、と結晶が鳴いた。

 

 誰もいない広間に、その音だけが長く響いた。




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