鼻をくすぐるいい匂いに目を覚ますと、もう夕暮れが庭を茜色に染めていた。
好きな時に起き、好きな時に寝ていると、しばしばこんな風に昼寝しすぎてしまうことがある。誰に咎められるわけでもないが、それでも少し罪悪感を覚えるのは、規則正しい毎日を送っていたじいちゃんの小言が脳裏に甦るからだろう。
「今日のご飯はなんだろな」
匂いを辿って台所までいくと、ヨクバリスが慣れた手つきで皿を並べていた。豆で作ったハンバーグが、卓袱台の上で湯気を立てている。
「ヂュ」
流しを指さされ、私は大人しく頭を下げた。
「はい。手を洗ってきます」
石鹸で指先までしっかり洗い、きちんと拭く。このヨクバリス、料理上手なのはありがたいが、人間よりもマナーに厳しい。手を洗わずに席に着いたらタネマシンガンを撃たれて以来、このリスに逆らうのだけはやめておこうと決めている。
コリンクのリンタロウもやってきて、私の隣に座る。みんなで一斉にいただきますしてからフォークを握った。
「ん。今日もうんまい」
ふわふわの食感とねっとりしたソースが絡み合って口の中が楽しい。甘く煮られたにんじんグラッセと瑞々しいブロッコリー、そして丁寧に裏ごしされたマッシュポテトも絶品だ。つけあわせのパンには砕いたくるみが練り込まれ、香ばしさが食欲を唆る。
パセリを散らしたコーンスープはびっくりするくらい味が濃かった。わざわざ生クリームから作ったらしい。
ソースまで綺麗に平らげ、皿を下げる。どこからかチラーミィたちがやってきてお皿を洗いはじめた。
その後ろ姿を肘をつきながら眺めていると、壁掛け時計がぼぉんぼぉんと鳴った。夕方六時を指している。近頃は日が延びたから、この時間でもまだ外が明るい。
「…………釣りでも行くかあ」
玄関近くの納戸から釣竿とバケツを引っ張り出し、町外れの川へと歩く。流れる風が心地いい。寒くもなく暑くもない、いい季節だ。
適当な場所に腰をおろし、糸を投げる。釣りはじいちゃんに教わった。鍼師をやっていたじいちゃんは、仕事終わりによくこうやって釣りをしていたものだ。
釣れることの方が珍しかったので、楽しいのかと訊いたことがある。
じいちゃんは釣りの時だけ吹かす煙草を旨そうに喫いながら答えた。
「時には、なーんも考えん時間が必要なんだ。大人も子供もな」
「いまならわかるよ、じいちゃん」
口の中で呟く。
川のせせらぎに耳を預け、瞼を閉じる。
自然の音というのは案外種類が豊富で、しかも結構うるさい。人工的な音と違ってトゲトゲしくないから、いつまででも聞いていられるけれど。
鳥の声。
石が擦れる軋み。
木の葉のざわめき。
どこかで何かが跳ねる水音。
そういうものに耳を澄ませていくと、だんだん頭の中がぼーっと白くなっていく。
この酩酊するような時間が、わたしは好きだった。
────くン。
「お?」
頭を白くしてから幾らも経たないうちに、竿に手応えがあった。珍しい。この川は釣果が上がらないことで有名なのに。
しかもかなり重かった。大物だ。なんだろう、オヤブンコイキングだろうか。
「よ、い、しょお!」
気合いを込めて竿を引く。ざぱあっ、と引き上がったそれを見て、わたしは目を丸くした。
「…………クソデカモンスターボール?」
それはどこから見ても、クソデカモンスターボールだった。
〇〇〇
シンオウ地方では、通常よりも遥かに大きく育つ個体が生まれることがある。俗にオヤブン個体と呼ばれ、世界にはオヤブンだけを捕獲しようとする
「だけどオヤブンモンスターボールなんてないよねえ」
河原に鎮座するクソデカモンスターボールを見下ろしながら、わたしは途方に暮れた。
でかい。
ほんとうに、でかい。
ひと抱えほどもある。
そのくせ、赤と白の塗料はきちんと塗られていた。
ボール工場の不良品が川に落ちてここまで流れてきたとか?
いやいくらなんでもそんな
というかこんだけ大っきく作っちゃったボールとか絶対途中で気づくだろ。なんで色塗りまでされてんだ。工員はどんな気持ちで塗装したんだ。全員酔っ払ってたのか。
色々と、言いたいことはあったけど。
「…………置いてこ」
釣竿とバケツを持って踵を返す。
さすがにデカすぎて抱えられないし、かといって駐在を呼びにいくのも面倒くさい。このままここに放っとけば、誰かが気づいて通報するだろう。たぶん。
スマホロトムを家に置いてきちゃったから自分で通報もできないし、わたしは悪くない。
うん。悪くない。
そんな言い訳をかましながら一歩踏み出したとき。
「…………ひゅる」
風が狭い穴を通り抜けるような、僅かな音程を伴った声が、クソデカモンスターボールから漏れ出た。
「…………え、もしかしてこれ、ポケモン? ウソでしょ?」
いや、この世にはビリ……ビリビリダマ? とかいう、モンボにそっくりなポケモンがいるとは聞いたことがあるけれど、まさかこれがそうなのか? だとするとオヤブンビリビリダマ?
「えー……ポケモンなら見捨てられないじゃん」
わたしはげんなりと息を吐いた。
家までこのクソ重たいボールを運ぶ手間が、考えるだにしんどかった。
〇〇〇
「つ…………い、た……」
ぜぃはぁと汗水垂らしながら
一拍遅れて傍らのクソデカモンスターボール(?)に気づいたらしく、「ぶわっ」と威嚇の雄叫びをあげて青い毛を逆立てた。
「あー、だいじょぶだいじょぶ。悪さしないよ」
「……ぶ……?」
ほんとか? と疑り深い眼差しで、わたしとボールを交互に見やっている。
水と川藻に塗れたきったない有様に、リンタロウは顔をしかめた。猫系はおしなべて綺麗好きだ。
自分の
「これからピカピカにするからさ、チラーミィたち呼んできて」
「……ぶ」
リンタロウは何度も振り返りながら家の奥に引っ込んだ。すぐにチラーミィたちが走ってくる。磨き甲斐のある獲物の存在に、瞳をきらりと光らせた。
この家はむかーしむかし、武家屋敷だったとかで、どこもかしこも広く造られている。
今いる三和土も、十人が一斉に靴を履いてもまだゆとりがあるくらい広い。
作業場としては充分だろう。
チラーミィが持ってきてくれた雑巾片手に袖をまくった。
「よし。ちゃっちゃと終わらせよう」
〇〇〇
「……それで、元気になったのがその子なの?」
スマホロトムの画面越しに、幼馴染が指をさす。彼女の視線の先には、クソデカモンスターボールだったポケモンが楽しげに歌を歌っていた。
ボールを綺麗にしてすぐ、「ひゅるひゅる」と鳴きながら変型し、赤いスカートを履いた少女に見えなくもない姿に変わったのである。画像検索したところ、マギアナというのが分かった。
「マギアナというのは聞いたことあるわ。たしか数百年前の、とても科学技術が進んだ国で造られたポケモンだったはず。どうしてそんな子がカンナギの川に落ちてたのかしら」
幼馴染が顎に手を置き、むむむと唸った。
考古学者の性か、現役チャンピオンの習性か、一度気になるととことん調べようとする癖がある。わたしとしてはどうでもいい。この世の中、分かることの方が少ないというのが持論だからだ。答えの出ない問いなんて、考えるだけムダだろう。
「……で、いつものごとく、飼わないのよね」
「うん」
わたしはきっぱり頷いた。
この家のルール。来る者拒まず去るもの追わず。自分の食い扶持は自分で稼ぐ。
これは全員に等しく適用される。例外はない。
「……調べたところ、どうもその子は鋼タイプみたい。鋼好きの御曹司に見つからないようにしてね。たぶんとっても面倒なことになるから」
そう言って、幼馴染は通話を切った。
わたしは首を傾げた。
鋼好きの御曹司とやらが、こんなド田舎に現れるわけないだろうに。
〇〇〇
釣りをしていたら妙なものが引っかかった。
マギアナというポケモンらしい。
身体を変形させることが出来、ボールのような形態になれる。面白いやつだ。
食事を必要とせず、陽の光に当たることで活力を得るらしい。天気のいい日はボールのまま日向ぼっこしている。
庭に来る野良ニャビーたちの格好のおもちゃだ。どれだけ激しく転がされても平気でいるのは、鋼タイプだからだろうか。
あんまり揉みくちゃにされている光景がおかしくて、動画を撮って幼馴染に送るつもりが、うっかりポケッターに送ってしまった。
開設したあと一切呟くことなく何年も放置しているアカウントだから、誰もフォローしてないしされてない。
ま、そんなに再生数も伸びないだろう。削除するのも面倒なので放置する。
明日は何をしようかな。
とりあえず寝よう。日記おわり。
???「ちょっとシンオウに行ってくる」