百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮) 作:ちお
太陽が天頂を過ぎ、じりじりとした暴力的な日差しがアスファルトを焼き焦がす正午を少し回った頃。
今日から俺は、立華に水泳を教えることになっている。
ひょんなことから引き受けた臨時コーチ業の、その記念すべき一日目だ。
……が、まずはその前に腹ごしらえだ。
「うわー、見事に誰もいないじゃない」
「なんたって夏休みだかんなー」
「って言うか、鍵、開いてていい訳?」
「知るかよ。俺に訊くな」
「無用心ねー。夏休み前に私物持って帰れって言うの、良く分かったわ」
「全くだな」
普段の喧騒が嘘のように静まり返った三年の教室へ、立華と俺は忍び込むように足を踏み入れた。
締め切られた空間には熱を孕んだ重たい空気が淀み、窓から差し込む陽光の帯の中で、埃の粒子が白く細かに踊っている。
立華の華奢な肩には、部室から持ってきたトートバッグが揺れていた。
その中には綾音ちゃんが準備してくれた、俺たち二人分の弁当箱が入っている。
「あ、閉めて閉めて」
「はいはい」
後から入った俺が、後ろ手でドアを閉める。
乾いた音が響き、湿った埃の匂いと、微かに感じる誰かの残り香が鼻を突いた。
やっぱ、夏だな……。そんな、ひどくありふれた感傷が胸を微かに掠めていった。
「窓、開けようぜー」
「そうだね」
「風吹いてないですねー。あちー」
立華は片手を開いて、汗ばんだ自分の顔をパタパタと仰ぐ。
制服に透ける肌の白さも相まって、その無防備な仕草は、残酷なほど真っ直ぐな夏の日差しによく似合っていた。
「砂埃、入ってこなくて丁度いいんじゃねー?」
「そか。でゅっ、でゅっ、でゅ〜♪」
歌詞の無い、拍子抜けするほど陽気な謎の歌を口ずさみながら、立華が窓の鍵を次々と開けていく。
「でゅっ、でゅっ、でゅっでゅっ〜♪」
「……開けるの、一箇所で充分じゃない?」
「この方が涼しいよ」
「そうかぁ?」
「多分。でゅでゅっ、でゅわ〜♪」
「全部開けなくても」
「もう開けちゃったし」
立華は悪戯っぽく笑いながら、一番後ろ、窓際の机の上にトートバッグをことんと置いた。その席は、俺のクラスでの定位置だ。
「で、どこでしたっけ? 大海先輩の席って」
「どの席でもいいじゃん、別に誰も来ないんだし」
「知ってる人の席の方が、なんか安心するし」
俺は立華の顔を覗き込んだ。
「ん?」
「いや。面白い奴だな、と思って」
「はい? えっ、なんでよ?」
なんでよ、と訊き返されても、上手く答えようがない。
彼女の放つ、理屈では割り切れない不規則な生命力のようなものが、可笑しくもあり、同時に少しだけ眩しくもあったからだ。俺はそれ以上追求することを放棄して手招きをし、立華を俺の席へと呼んだ。
◆◆◆
校内にたった二人きりしかいないような錯覚に陥る、静寂に包まれた教室。そこで向き合って食べるお弁当。
開け放った窓から風は入ってこないけれど、深く息をすれば、外の新鮮な空気が肺へ流れ込んでくるのを感じる。
熱を帯びた酸素が、体をゆっくりと満たしていく。
机の上に広げられたのは、立派な重箱に水筒。
ただの部活の昼食に重箱なんて……お姉ちゃん、もしかしたら風畑先輩への対抗意識なのかな?
……なんて、普段は大人しい姉の秘めた闘志に密かに戦慄しつつ、私たちはおせち料理でも囲むように二人で中身をつついている。
「取り皿ぐらいつけてくれてもいいのになぁ、お姉ちゃん」
「贅沢言うなよ。こんな豪華なもん作ってくれただけでも、有り難いって」
今回は二人きり。
大海先輩の席で、二人向かい合って座っている。
普段なら文句の一つも言いそうな状況なのに、それがそんなに嫌じゃないのは、きっと、お姉ちゃん謹製のお弁当が美味しすぎるからだ。
◆◆◆
「はーーーっ」
口いっぱいに頬張りながら、立華が唐突に心底恨めしそうな特大の溜息を吐いた。
「なんだよ」
「これで向かいにいるのが、莉緒先輩だったらねー」
「我慢しろ。どうせ今まで二人きりとかしょっちゅうやってきたんだろ?」
「何度やってもいいモンよ、蜜月ってーのは」
「そうですか」
「そーでーすよーだ。あー、先輩と同じクラスだったら良かったな」
「学年が違うだろ」
「だから、学年も一緒だったら良かったよなーって」
「無茶言うなよ」
「無茶かな?」
「綾音ちゃんが、立華より上の学年になる日が来るぐらい無茶かもな」
「微妙だ」
「微妙か」
ふと、他愛のない会話が途切れた。
開け放たれた窓の外から、けたたましい油蝉の声と、遠くを走る海沿いの電車の音が微かに風に乗って運ばれてくる。
二人きりの教室。
向かい合わせの机。
立華は箸を止め、どこか居心地の良さそうな凪いだ顔つきで、窓の外の青空をぼんやりと見つめていた。
少し汗ばんだ前髪。長い睫毛。
その無防備な横顔が、夏の光に透けて酷く綺麗に見えた――その直後だった。
急に立華が机にぺたりと突っ伏し、体をくねらせ始めたのだ。
……莉緒の席だ。
「……ふぅ……せんぱぁい……すりすり〜」
「……きっしょ」
「ん゛ぁ゛! へっ、変態じゃないわよっ! アタシっ」
「言ってねー。思ったけど」
我に返った立華は、頬を朱に染めて抗議の声を上げた。
「いいじゃないのよっ! ちょっとくらい妄想したってっ!! 大海先輩は『幼馴染』って言う最強のアドバンテージがあるから、アタシのこの切実な気持ち、分かんないかもしんないですけどねー!」
「そんなに羨むものか?」
「ほら、分かってない。……はぁっ」
心底羨ましそうに再び溜息を吐く立華に、俺は呆れながら、お姉ちゃん特製の唐揚げを口に放り込む。
「て言うかさ?」
「なによ」
「最近は俺よりずっと、お前の方が莉緒と親しいって。嫌味とかじゃなく」
事実を告げると、立華の動きがふっと止まった。
「そう? そうかな?」
「ああ。だからホレ、弁当食え」
「はーーーい」
綺麗に空になった弁当箱の蓋を、パチンと閉める。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
トートバッグに弁当箱を無造作に詰め込みながら、俺は立ち上がった
「ほら、そろそろ行こうぜ。さっさと水泳部の仕事終わらせて、立華のコーチ始めなきゃなんねーし」
「あっ、うん、そうですね」
二人は椅子を立った。
立華が俺の前の席へ、自分の座っていた椅子をカラカラと音を立てて戻す。
その乾いた摩擦音が、人気のない静かな教室に少しだけ寂しい余韻を残して消えた。
「まずは……洗濯物?」
「ん。洗濯物干すのって結構好きー。アタシ」
足元に置かれた、水気を吸ってずっしりと重い脱水済みの洗濯カゴを見下ろしながら、立華がパンッとタオルのシワを伸ばした。
「こっそりと莉緒の水着に口づけとか出来たりなんかしちゃうからかー?」
「しっしっしっしないわよっ、そんな事!!!」
図星を突かれたのか、立華は持っていたタオルを握りしめ、顔を真っ赤にして本気で怒鳴り声を上げた。
「……その激しい反応……したな?」
「してないっ、してなーーーーーいっ!!」
「安心しろ、誰にも言わず黙っててやるから」
「してないってば!!」
「分かった分かった」
本気で怒って詰め寄ってくる立華の肩を、ぽんと軽く叩いて宥め、屋上へ続くドアの方へと向かう。
熱を持った彼女の肩は、シャツ越しでも痛々しいほど華奢で、そして温かかった。
「ほんっとしてないからねっ。あっ。じゃあね〜、莉緒先輩」
立華は俺からぷいっと顔を背けると、虚空の莉緒に向かって猫撫で声を作りながら歩き出す。
「お前にはなにが見えているんだ……」
あきれ果てて息を吐き、重く錆びついた鉄扉を押し開けた瞬間だった。
押し寄せる息苦しいほどの熱気と、暴力的なまでの夏の光が、視界を容赦なく白く塗り潰した。
そこは、抜けるような青空とむせ返るような潮風だけが支配する、静かで開かれた天空の空間だった。
「天使さまはご降臨 Yeah Yeah♪ アタシのハートに ご法輪 Woo Yeah♪」
パチン、パチンと洗濯バサミを鳴らす音に混じって、立華の口から陽気な歌が零れて行く。
高く眩暈がするほど青い空の下、何十枚もの白いタオルが、海から吹き上げる強い風を受けてバサバサとはためいている。
「れっつ げっりろーん♪」
ずらりと並んだ物干し台は、もう根元が赤茶色に錆び付き、崩れ落ちそうなものが殆どだった。
海沿いの町特有の塩を含んだ風が、容赦なく鉄を蝕んでいるのだ。
「バシっとひとつ新品のアルミ製にでもすりゃいいのにな……」
「んー?」
十メートルほど離れた向こうの列から、立華が聞き返してくる。
二人、手分けして洗濯物を干して行っていたから、間にいくつもの白いタオルの壁ができ、今の俺たちの距離は少し離れていた。
潮風に彼女の細い声が混ざり合い、遠ざかってはまた近づく。
「ん、なんでもないー」
「ね、知ってるー?」
タオルのはためく音に負けないよう、立華が少し大きめの声を出す。
「んー、なんだー?」
俺も、風の音に負けないように少し強めの声で訊き返す。
見上げた空の青が、吸い込まれそうなほど深い。
「軽トラで回ってくる物干し竿屋って、アレ、殆ど詐欺なんだって!」
「へー!」
「二本15000円で売ってきたりするから、買っちゃダメだってさ」
「知らなかったー!」
「だからー、物干し買う時にはホームセンターとか雑貨屋とかでー」
言葉を続けながら、立華がタオルの列の隙間を縫ってこちらへ近づいて来る。
――その瞬間だった。
突風のような強い潮風が屋上を吹き抜け、干してあった大判のタオルを大きく煽った。
それは、歩いてきた立華の顔を、まるで白い花嫁のヴェールのようにペチャリと見事に覆い隠した。
「ぅわっ」
不意を突かれた間の抜けた光景に、俺は思わず吹き出しそうになる。
なんか、笑え……いや、微笑ましい。
「やだ、なにこれぇ」
タオルだ、タオル。ただの洗濯物だぞ。心の中でツッコミを入れておく。声には出さずに。
立華はくぐもった声で唸りながら、前が見えないまま自分の顔を覆うタオルを両手でモゾモゾと引き剥がした。
現れたのは、静電気で少しだけ乱れたツインテールと、照れくさそうに細められた大きな瞳。
「ふふふ」
俺が必死に笑いを堪えてじっと見つめているのに気が付くと、彼女は誤魔化すように声に出して笑い、バツが悪そうにすっと目を伏せた。
「引っ掛かったのか?」
「いや、いきなり、バサッて覆いかぶさってきた」
「タオルじゃなくって、物干しの方。詐欺」
「ああ……アレ」
「意外としっかりしてんだな、立華も」
「お姉ちゃんが言ってた」
「なんだ、納得だわ」
「なッ、なによぅ。いいじゃないよう、別に」
「悪い悪い」
「て言うかさ、大海先輩って買いそうなんですもん。思いっきり」
「そうかぁ?」
「買いに行くのとか面倒くさがって」
「物干し竿をか? どういうイメージなんだそれ......。まぁ、ウチは間に合ってるから平気だな」
「どうだかー」
「でもまぁ、ここのはちゃんとしたやつ買ったほうがいいよな。ここの物干しって」
俺が錆びて塗装の剥がれた支柱をコンコンと指の関節で叩くと、中身の詰まっていない空虚な音が鳴った。
「そうですね。なんか、柱に穴空いてるのあるし」
「莉緒が全国で優勝したら、市とか県とかから大枚ふんだくって買い替えだな」
「……まだ優勝するって決まった訳じゃないって」
「......へぇ? 意外だな」
◆
「......へぇ? 意外だな」
大海センパイが、少し目を丸くして振り返った。
「なによ」
「立華の口からそんな弱気が出て来るとは思わなかった」
いつもストイックで現実的なこの人が、莉緒先輩のこととなると途端に手放しの信頼を寄せる。その事実のほうが、アタシにとってはよっぽど意外だった。
「アタシにしてみれば、大海センパイの口から、そんな楽観的な言葉が出てきたほうが不思議だわよ。先輩は不安とかないんですか? 例えば、試合前とか」
アタシの棘のある問いに、センパイはふっと顎を上げる。
空へ向けた目。眩しい太陽の光が、長い睫毛を黄金色に縁取っていた。
「ない。一度もない。考えるとしたらどうやって勝ってやろうか、とか?」
「それはさすがに大袈裟……」
呆れて言い返そうとしたアタシは、その瞳を見て息を呑んだ。
冗談でも、安っぽい強がりでもない。この人は、本気で言っているのだ。
(……ああ、そっか)
大きく出たはずのその言葉が、不思議と嫌味な自慢には少しも聞こえなかった。
この人にとって勝利への執念は、呼吸をするのと同じくらい当たり前の事実でしかないのだ。
アタシは莉緒先輩のことが大好きだ。
だから、いつもその隣にいるこの人は、ただのデリカシーのない、ちょっと邪魔なセンパイなんだって、ずっとそう思いたかったのに。
でも、最近こうして二人で話す機会が増えるたび……ダメだ。
何か決定的なものを突きつけられるようで、どうしようもなく心が揺さぶられてしまう。
気のせいだ。
「……相手が強くて、負けるかもしれないっていう恐怖とか、ないんですか?」
「それが怖いなら、最初からケージになんて立ってないよ」
センパイはコンクリートの照り返しから目を逸らし、高く、どこまでも続く夏の空を見上げた。
「まぁさ。莉緒は大丈夫だってこと」
「……大海センパイの『ゴール』って、どこにあるんですか?」
気がつけば、無意識のうちにそんなことを聞いていた。
もうやめておいた方がいいのに。
わかっているのに。
センパイは、まるで明日の天気を口にするような、ごく自然なトーンで答えた。
「ゴールっていうか、スタートっていうか......」
「まずは世界一だろ。それ以外にあるか?」
一切の迷いがない、未来への絶対的な確信。
不敵な笑顔。
普段死んでいる表情筋がこんな時に仕事するな、と思う。
莉緒先輩のただの幼馴染。
ちょっと邪魔な幼馴染。
気のせいだ。
私のこの気持ちは偽物なんかじゃない。
アタシは、こんなにも莉緒先輩のことが大好きだもん。
風に煽られた白いタオルが、バタバタと大きな音を立てる。
そうだありえない、と。
自分に呆れて思わず笑ってしまう。
お姉ちゃんがそばに居てくれたらきっと、
それはことの勘違いだよ。って言ってくれるはず。
「......危なかったぁ」
熱く火照ってしまったアタシの顔を、海から吹き抜ける潮風が、少しだけ優しく冷ましてくれた。
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