百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮)   作:匿名さん

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8話『その感情の名前は』

 

屋内プールに足を踏み入れると、ひどく湿った空気と、鼻の奥を突くような強い塩素の匂いが立ち込めていた。

 

今日から始まる、立華琴音の臨時コーチ。その第一日目である。

 

プールサイドのベンチに腰掛け、左足を固定していた重いウォーカーブーツを外す。

 

ベルクロを剥がす乾いた音が、水音だけが響く広い空間にやけに大きく反響した。

ブーツを脱ぐと、痛々しくテーピングで固められた足首が露わになる。

次に立ち上がり、着ていたTシャツを脱ぎ捨てる。

下には、黒一色の無骨な競泳用ハーフスパッツを穿いていた。

 

「……ぉぉ」

 

目の前にいた立華が、小さく息を呑むのが分かった。

 

「ん? なんだよ?」

「……え? あっ!? いや、ちがうんです!」

「ちがうって、何がだよ。いきなりフリーズして」

「何気にそのボコボコした気持ち悪い腹筋とか! 間近で見るの初めてだと思って!」

「気持ち悪いって……。そういう反応されるのが嫌だからいつもはラッシュガード着てたんだけど、今日は忘れたんだよ」

 

俺はため息をつきながら頭を掻いた。

立華の指摘通り、俺の腹部はトレーニングによって不格好なほどに隆起し、深く割れている。

 

少し離れた場所で練習を始めていた水泳部の女子部員たち――中原、唐島、遊佐の三人組が、こちらを盗み見ながら色めき立っていた。

「あ! 見て。大海先輩だよ、今日から琴音のコーチなんだっけ?」

 

「そうそう! わぁ、相変わらず凄い……見てよあの大胸筋下部の張りから、外腹斜筋を伝って鼠径部に落ちるセクシーなVライン! 上半身、怪我する前より大きくなってない? いや、絶対に大きくなってる……う゛ぁ゛、でっか♡」

 

「ねぇ遊佐、あんたと友達やめていい?」

 

恍惚とした表情で口元を覆う遊佐に、唐島が冷ややかな声を落とした。

 

楽しげなさざめきが、プールの水面に反射してこちらまで届いてくる、さらに彼女たちは、練習の手を止めてこちらに大きく手を振ってきた。

 

「大海せんぱーい! 琴音ー! 頑張ってー!!」

「大海先輩!!!!! スクショタイムお願いしますー!!!」

「先輩!遊佐の無礼を許してやってください。気にしないでください!  殴りつけてやるんで!」

 

俺は居心地の悪さに視線を泳がせた。

小さく会釈をして立華に向き直ると、彼女は皮肉たっぷりに口を尖らせた。

 

「……はっ。流石は白帆島のスター様は違いますねぇ。その余裕、アタシにも少し分けてほしいもんです、ヘッ!」

「……茶化すなよ。ほら、それより始めるぞ。お前、水に入る前から腰が引けてるじゃないか」

 

俺は慎重に手すりを伝ってプールへと入った。

腰まで水に浸かると、ひんやりとした感覚が熱を持った顔を少しだけ冷ましてくれる。

 

プールサイドで所在なさげにしていた立華をなだめ、なんとか水に降ろす。

 

泳げるようになって莉緒と海に行きたい。そんないじらしい願いを叶えるため、俺は自作の練習メニューを提示した。

 

「まずは25メートルを目標にするぞ。七瀬と海に行きたいっていう熱意があれば、絶対に泳げるようになる。俺が保証する。……だから、俺のことも信じろ。いいな?」

 

俺の言葉に、立華は探るようにこちらの顔を見つめ、やがて少し照れくさそうに視線を水面へと落とした。

 

 

「……先輩、今日はなんだか優しいですね」

 

「お前が突っかかってこないなら、俺はいつもこんな感じだけどな」

 

「むっ……アタシはいつだって素直で可愛い後輩ですー」

 

「はいはい。とにかく、目標に向かってやるぞ!」

 

「はいっ!!」

 

 

不本意そうに唇を尖らせつつも、元気よく返事をしたその瞳には、確かな信頼の色が滲んでいた。

 

俺は水の中で両手を差し出した。

 

立華は俺の手の傷――昨夜のロープ登りで潰れた豆の痕――を心配そうに見つめながらも、自分の小さな両手で、俺の手をぎゅっと強く握りしめた。

 

「見捨てないで、ちゃんと教えてくださいね。コーチ!」

「ああ、任せろ。じゃあ、まずは膝を曲げて、顔を水にゆっくりでいいから――」

 

(よし! 今日の立華はやけに素直だし、このままいけば良いスタートが――)

 

だが、顔を水に近づけた途端――それは起きた。

 

ドォォォォォォォン!!!

 

水面が、まるで爆発したかのような音を立てて、大量の水がはじけ飛ぶ。

高いところから巨大な鉄塊が叩きつけられたような、凄まじい衝撃音。

 

「えっ、ちょっ――」

声を上げる間すらなかった。 次の瞬間、俺は足元を乱暴に刈り取られたような、天地がひっくり返る勢いで水中へと引きずり込まれた。

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

「……ねぇ。今の見た?」

 

「すごい〜! 大海先輩、パニック映画の水辺で未知の生物に引きずり込まれる犠牲者みたいな消え方したけど平気かな?」

 

「大海先輩だし大丈夫でしょ。……あ、ビート板だけ浮いてきた」

 

「あのビート板、どこから出てきたんだろうね……」

 

のんきに水面を観察して首を傾げる中原と唐島の横で、遊佐だけはまったく別の、ひどく危険な閃きを得ていた。

 

「……そうか。溺れた振りをすれば、合法的に大海先輩の裸体に抱きついてもおかしくないんだ……! 大海先輩っ! ついでに琴音! 今、助けに行くついでに私も溺れますからぁ!!」

 

「遊佐、それ以上はいけない」

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

俺は死に物狂いで大暴れする立華の動きを制し、その細い首根っこをガシッと鷲掴みにした。

 

激しく水面を割り、半ば強引に立華を引きずり出しながら、俺は這うような勢いで彼女をプールサイドのタイルへと放り出し、自分もその横へと崩れ落ちた。

 

その瞬間、静まり返っていた空間に、割れんばかりの熱い拍手と歓声が降り注ぐ。

 

「大海せんぱあああぁい! ナイスレスキューです!! その荒々しい首根っこ掴み、最高にシビれましたぁ!! 私の首も絞めてくださあああああい!!」

「大海先輩すみません遊佐は私が処理しておくのでお気になさらずですお疲れ様でした!!!」

「白帆島ビーチガールズ一同、大海先輩の勇姿に、琴音ちゃんのガッツに感動しましたー!!」

 

遊佐を筆頭とした女子部員たちから送られる、煩悩に満ちたあたたかい声援。

だが、俺と立華は声援に応える余裕もなく、冷たいタイルの上で仰向けになり天を仰いで荒い息を吐き出していた。

 

「…………死ぬかと思った…………」

 

「……お疲れさまです、先輩…………」

 

「立華も、お疲れ…………」

 

全身の力が抜け、指一本動かすのも億劫だ。肺が焼けるように熱い。

 

「人に泳ぎを教えるのが、こんなにも大変だとは……」

 

「うう、お世話ばっかりおかけしちゃってゴメンなさい。努力はしてるんです。信じてください、先輩〜」

 

「……うん、それは信じる。ただ、まさか俺が力負けして引きずり込まれるとはな」

 

初日から疲労の極みに達した俺たちの視界に、一人の人影が落ちた。

 

「二人とも、お疲れー」

 

ひょっこりと顔を出したのは、莉緒だった。

その声を聞いた瞬間、電光石火の早業で立華が飛び起きる。

 

「七瀬先輩っ! いやもう全然平気っスよ!! あっはっはっは!」

「ははは……。大丈夫? 琴音。無理はしないでね? 今日はもう帰って休んだ方がいいよ」

 

元気に笑う立華と、それを優しくなだめる莉緒。二人のやり取りを横目に、俺は一人、冷たいタイルに手をついたまま深く反省していた。

 

「……それにしても、なんであの腰までの浅さで、あんなにダイナミックに溺れることができるんだ。完全に指導する俺の実力不足だ。帰ったらすぐに原因を究明しないと……」

「真面目か!」

 

深刻な顔でぶつぶつと呟いていた俺の肩を、莉緒が容赦なくひっぱたいた。

 

「出てる出てる。迅から『一人で反省中』ってオーラが滲み出すぎ。迅が悪いんじゃないんだから、そんなに深刻にならないでよ」

 

莉緒は呆れたように笑いながら、けれどどこか嬉しそうに俺の顔を覗き込んでくる。

 

「ほら、二人とも。風邪引く前に着替えて帰ろ?」

 

帰り支度を済ませ、ウォーカーブーツを履き直した俺は、莉緒と立華の三人で校門へ向かう道を歩いていた。

全国を目指す水泳部の練習中だったはずの莉緒だが、「大好きな二人が心配だから一緒に帰りたい」という純粋な直訴で吉岡先生を言いくるめ、今日は特別に上がらせてもらったらしい。

「……それにしても、迅の足、本当に大丈夫なの?」

 

隣を歩く莉緒が、俺の左足をちらちらと気にしながら心配そうな声を出す。

 

「さっき琴音を引き上げる時、かなり無理な体勢になってたでしょ? 痛めてない?」

「そ、そうです! もしアタシのせいで悪化とかしてたら、その……寝覚めが悪いっていうか、責任取れないっていうか……!」

 

立華も申し訳なさそうに、上目遣いで俺の顔を窺ってくる。

 

「ああ、全然問題ないって。さっきはほとんど上半身の力だけで引き上げたから、痛いところなんて一つもないよ。心配かけて悪いな」

 

俺が笑顔で大丈夫だと伝えた瞬間、立華の顔からしゅんとした表情が一瞬で消え去った。 ほんのわずかに安堵の息を吐き出し、ホッとしたように目元を緩ませたかと思うと――すぐに気を取り直したように、わざとらしく唇を尖らせる。

 

「……ふーん。なんだ、心配して損しましたっ!」

「おい」

「莉緒先輩~♡」

「……切り替え早いな……」

 

俺の存在などすでに頭から消し飛んだかのように、立華は莉緒の腕にギュッと抱きつき、甘えた声を出している。

 

「あはは、琴音はほんと可愛いなあ」

「だって、せっかく七瀬先輩と一緒に帰れるんですから!」

 

キャッキャと楽しげに笑い合う二人。

俺はその半歩後ろを、呆れ半分でついていく。

オレンジ色に染まり始めたアスファルトの上に、三人の影が長く伸びていた。

だが、ふと立華の足取りが少しだけ遅くなった。

はしゃいでいた声が止まり、横顔に申し訳なさそうな色がスッと混じる。

 

「……でも。なんだか、悪いなぁ」

 

急にうつむいた立華に、俺と莉緒は顔を見合わせた。

 

「どうしたんだよ、急に」

 

「いや……今日の部活の片付けとか、アタシがやる分の洗濯とか……。結局、アタシが溺れたせいで先輩たちに丸投げして帰ってきちゃったなって思って」

 

「いいんじゃないかなぁ」

 

莉緒が優しく微笑みかける。

 

「白帆島ビーチガールズのみんな、すっごく嬉々としてたし。みんなで仲良く、洗濯籠を揺らしながら屋上向かってったから気にしないで」

 

「でも……」

 

「お互いさま……だよ。立華」

 

俺が声をかけると、立華は弾かれたように顔を上げた。

夕陽を反射したその瞳の奥には、戸惑いのようなものが揺れていた。

 

「お前は今まで充分、他の奴らの為に尽くしたんだから……引け目なんか感じる事もないって」

 

「……おぅ。それって……」

 

隣を歩いていた莉緒がぱちくりと目を丸くして驚いたような顔をした。

 

莉緒のそばにいたくて、全く泳げないカナヅチのくせに水泳部に入ってきた女の子。

『お姉ちゃんがいないと何もできない』と泣いていたあの頃と比べれば、今のあいつは別人のように逞しくなった。入部の動機こそ莉緒目当てだったかもしれないが、マネージャーとして誰よりも真面目に働き、常に周りのために走り回っていたのだ。

 

「あ、七瀬先輩」

「ん?」

 

立華は微笑した唇の上に人差し指を当てて、莉緒へ可愛らしくウィンクをする。

 

「……ああ、はいはい」

 

莉緒が、言いかけた何かを飲み込んで小さく笑った。

これはなんだろう、女の子同士の秘密のサインみたいな感じなのだろうか。

 

「ふぅ」

 

一つ小さく息を吐き出すと、立華がひょいと俺の顔を下から覗き込んできた。

いつものツンケンした態度はそこにはなく、初夏の暖かな溜息と一緒に、ひどく優しい声を落としてくる。

 

「大海先輩、今日プールで助けてくれたことも。さっきの言葉も……ありがとうございます」

 

「……素直だな」

 

「はいっ。素直で可愛い後輩ですから!」

 

立華はパッと顔を離すと、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべて数歩後ろへ下がる。

 

「それじゃぁ、七瀬先輩っ、大海センパイ、また明日!」

 

言うが早いか、小走りで立華が駈けて行く。

莉緒は俺の隣で、片手を握ったり開いたりしてさよならの合図を送っている。

 

遠ざかる背中が路地の角を曲がって完全に見えなくなるまで見送り、俺と莉緒は二人きりで家路をたどる。騒がしい後輩がいなくなった途端、周囲の空気が急に静かになった気がした。

しばらく無言のまま歩みを進め、緩やかな坂道を下り始めると、俺たちの正面に白帆島の港が見渡せた。

空は燃えるような茜色から深い群青色へと溶け合うようなグラデーションを描き、穏やかな波が黄金色に照り返している。

 

「どう?」

 

不意に、隣を歩く莉緒が口を開いた。

 

「どうって、何が?」

「久々に水に入った気分は」

「んー」

 

少し考えてみた。鼻をくすぐるのは、髪の毛にほんのりと残るプールの塩素の匂いと、港町特有の濃い潮風の香り。

 

「わからないな」

「曖昧だねぇ」

「曖昧か? ハッキリ分かんないってるぞ?」

「ハッキリって言うのは、もっと違うでしょ。例えばほら……嬉しいとか、辛いとか、疲れたとか」

 

日中の刺すような日差しはすでに和らいだが、代わりにアスファルトが吸い込んだ熱気が、足裏からじわりと立ち上ってくる。

どこかの家から漂ってきた蚊取り線香の微かな煙たさが、胸の奥をギュッと締め付けるような夏を感じさせた。

 

「疲れたっていうのはあるかもな。立華の指導は……なんちゅーか物凄い労力を必要とする事が判明致しました」

「ああ、なんだ。そっちの疲れか。ふふっ」

 

生ぬるい海風が頬を撫で、わずかに肌をべたつかせる。

夕焼けの空に、ヒグラシの声と、遠くで鳴くカモメの声が溶けていく。

先ほどまでの喧騒が嘘のように、二人の間には穏やかでノスタルジックな時間が流れていた。

 

「しかし、琴音も、あそこまで酷いとは……」

「うーむ……確かに……」

 

莉緒はふう、と小さく息を吐き出すと、少しだけ歩調を緩めた。

茜色に染まったアスファルトを蹴る彼女のつま先が、どこか所在なさげに揺れている。海風に煽られた髪を指先でそっと耳に押さえながら、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「無理に泳ぎの特訓始めさせちゃったし、しかも迅に怪我の身でコーチまで押し付けちゃったわけで……。なんだか罪悪感、感じちゃう」

 

「まぁ、立華が決めたことだし莉緒はもう気にしなくていいと思うけど」

 

「むー」

 

「……あいつさ」

 

「ん?」

 

「入学してすぐの頃にも、お前を賭けて俺に水泳勝負を仕掛けてきたことがあっただろ。あの時も、勢いよく飛び込んだ瞬間にパニックを起こして溺れて……結局、俺が引き上げてやったっけな」

 

俺が苦笑いしながら当時のことを振り返ると、莉緒も思い出したようにくすくすと声を立てて笑った。

 

「ああ、そう言えばそうだったっけ。ふふっ……琴音は、他の子たちと全然違うもんね。水泳選手としての私は、ホントはどうでもいいみたいな」

 

「なるべく、あいつの真っ直ぐな想いには応えてやるんだぞ」

 

俺が静かに告げると、莉緒はピタリと笑いを止め、少しだけ射抜くような視線を向けてきた。

 

「おぉ? 迅が私にそれ言う?」

「……間違いないな。悪い」

 

痛いところを突かれ、俺はバツが悪くなって視線を逸らした。

アスファルトに落ちた二人の影が、わずかに距離を開けて揺れている。

莉緒はすぐにいつものふんわりとした笑顔に戻った。

 

「ううん。うん、分かってる。ほんとだよ。意地悪だった、ごめんね」

 

少しだけ空いた気まずい間を埋めるように、莉緒はわざと明るい声を出して顔を覗き込んできた。

 

「ていうか今は寧ろ、迅の方なんじゃないのぉ? 気をつけるの」

「俺? なんでよ?」

 

莉緒は歩幅を合わせて俺の隣に並ぶと、いたずらっぽく目を細めた。

茜色に染まった彼女の頬が、夕陽のせいなのか、それとも楽しんでいるのか、ほんのりと赤みを帯びて見える。

「教え子とコーチ、イケナイ関係になったりして」

「ありえないな」

「えー、そうかなー。学園生活最初の夏なのよ? ほらこう、やっぱりアバンチュールでもってこう……」

 

両手で波打つような謎のジェスチャーを交えながら、莉緒がニヤニヤと揶揄ってくる。

からかっているのは明白だが、その言葉選びにはどうにも引っかかるものがあった。

 

「お前は吉岡先生とイケナイ関係になったりすんのかよ?」

「うわ、ありえなーい……」

 

莉緒は本気で嫌そうな顔をして、ぶるっと大げさに身震いしてみせた。

 

「だろ?」

「でもさ? 迅と琴音は吉岡先生と私ほどには歳が離れてないわけじゃん?」

 

なおも食い下がってくる莉緒の声に、俺は一つ溜息をこぼす。

潮の香りを孕んだ風が、二人の間を通り抜けていった。

 

「やけにこだわるなぁ……」

「それに琴音って、迅の事、結構な度合いで信頼しているように見えるのよねぇ」

 

莉緒の口から出た予想外の言葉に、俺は思わず足を止めた。

あいつが根は真っ直ぐで、決して悪い奴じゃないことくらいは俺も分かっている。

だが、顔を合わせるたびに噛みつかれ、挙句の果てには道連れに水底へ沈められかけたというのに、「信頼」なんてくすぐったいものを向けられている実感はどうにも湧かなかった。

 

「そう、なのか?」

「……違う? 迅はわかってるようでわかってないよね、変なところは勘が鋭いのになぁ」

 

莉緒はわずかに首を傾げ、俺の目から本心を探り出そうとするかのように見つめてくる。

その執拗な探り合いに、俺は居心地の悪さを感じて頭を掻いた。

 

「俺に訊くなよ。俺と立華はなんていうか、例えるなら磁石の――」

 

言い淀む俺の言葉の先を奪い取るように、莉緒が楽しげに割り込んでくる。

 

「磁石のSとN?」

「いや違う、それじゃくっつくだろ。……お前、さっきからなんでどうしてもそういう方向へ持っていきたいんだよ」

 

呆れたように眇めてみせると、莉緒はえー? そんなことないよー、とくすりと笑って誤魔化す。

 

ただのからかいに過ぎないのだろうが、今日の彼女はやけに俺と立華を結びつけようとするきらいがあった。

 

その執拗な誘導の底に何があるのか測りかねるまま、彼女のペースに巻き込まれている自分が少し悔しくて、俺はわざと幾分か歩みを早めた。

 

遠く海峡の方から、定期船の低い汽笛が、波の唸りのように重く響いてくる。

気がつけば、見慣れた住宅街に差し掛かっていた。道路を挟んで向かい合う、互いの家の前。幼い頃から幾度となく繰り返された、帰着の場所だった。

 

「じゃあな」

「うん、じゃぁ……また明日」

 

俺が自身の家の門扉へ向き直ろうとした、その時だった。

 

「迅」

 

「ん、なに?」

 

振り返ると、莉緒は道路を渡ることなく、俺のすぐ背後で足を止め、じっとこちらを見上げていた。

 

「琴音が迅の事、信頼してるのは、多分、ホントだよ」

 

「さっきからどうしたんだ、莉緒?」

 

「迅と琴音が仲悪いのを側で見てるのって、精神衛生上良くないのよね、私はほら、迅も琴音も好きだから」

 

 

彼女はそう言って、いつものようにふわりと、花が綻ぶように微笑んだ。

 

「心配すんなって、俺は誰も嫌いじゃないし、立華のことはむしろ好きだよ」

 

俺が宥めるように言うと、莉緒はつま先でアスファルトをこつんと叩いた。

「そっか、じゃあ、私のことは?」

 

夕暮れの影が伸びる中、彼女はわずかに首を傾げ、上目遣いでこちらを覗き込んでくる、声のトーンが、先ほどよりもほんの少しだけ甘く沈んでいた。

 

「……嫌いな奴に泣きつきそうになったり、抱きしめられて慰められたりするか?」

 

過去の不格好な記憶を引っ張り出しながら、俺はわざと視線を海の方へと逸らした、遠くで鳴る波の音が、二人の間に落ちた僅かな空白を埋めていく。

 

「ねえねえ、好き? 嫌い?」

 

はぐらかそうとする俺を逃がさないように、莉緒はさらに一歩、俺のパーソナルスペースへと踏み込んできた。

 

「マジかよ……」

 

俺はたまらず天を仰ぎ、深く息を吐き出した。

 

「琴音のことは好きって普通に言ったのに、私には言えないのー? ねえええ?」

 

シャツの袖口を軽く引かれ、縋るような声で急かされる、夕闇に溶けかけた彼女の瞳が、いたずらっぽく、けれどどこか真剣な熱を帯びて俺を捉えていた。

 

「立華は今ここにいないし、好きってそういう意味じゃないの知ってるだろ?」

「知ってる、言われたいだけだもん」

 

憑き物が落ちたような、あけすけで無防備な一言だった。夕風に揺れる彼女の髪から、微かに甘い香りが漂ってくる。

その真っ直ぐで嘘のない眼差しに射すくめられ、俺は観念したように短く息を吸った。

 

「……好きだ」

 

躊躇いを孕んだ声は、自分でも驚くほど小さく、夕暮れの空気に溶けていく。

 

「んんんん? 聞こえないんですけど? 迅ってそんなに声小さかった?」

 

莉緒はからかうように目を細め、さらに背伸びをして顔を近づけてきた、その瞳には、揶揄するような悪戯っぽい光が揺れていた。

 

あまりにも無防備で、楽しげなその貌を、俺は衝動のままに両手で挟み込んだ。

掌の裡に、彼女の柔らかな頬が押し潰される感触が伝わる。

俺は至近距離で、逃げ場のないほど真っ直ぐに莉緒の瞳を見つめ返し、はっきりと口にした。

 

「莉緒、好きだ」

 

そして、熱を持った手を弾かれたように離すと、己の照れを隠すための予防線を張るように付け加えた。

 

――――友達として。

 

「…………」

 

拘束から解放された莉緒は、呆然としたまま、ただそこへ縫い留められたように身動き一つしなかった。

やがて、夢の狭間をたゆたうような、茫洋とした表情のまま、蕩けるような甘い吐息が零れ落ちる。

 

「……わたしも、すき」

 

――――友達として。

 

同じようにそう、囁くと、彼女はふわふわしたゆるんだ顔でばいばーい、と右へ左へフラフラと揺れながら薄暮の道路を渡り、向かいに建つ自分の家の玄関へと吸い込まれていった。

 

 




アンケ見ると莉緒が圧倒的ですね
そしてここまで読んでいただきありがとうございます。
相変わらずタイトル詐欺な作品ですがみなさんの評価やブクマ、ここすきなど頂けて本当に大感謝です。とてもモチベーションになっています!

参考までに。どのキャラクターとの絡みが見たいですか?

  • 七瀬莉緒(幼馴染)
  • 立華琴音(アホの子)
  • 立華綾音(良い子)
  • 風畑さゆり(お嬢様)
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