百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮)   作:匿名さん

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9話『ファインダー』

照りつける太陽が、アスファルトだけでなく公園の砂地をも白く焼き焦がしていた。

海沿いから少しだけ内陸に入った、古びた児童公園。

錆びついたブランコと、ペンキの剥げたシーソー。

アスファルトからは蜃気楼のように陽炎が立ち上り、耳鳴りのような蝉時雨が絶え間なく降り注いでいる。

 

木陰にあるベンチに座り、大海迅は左足の重いウォーカーブーツを投げ出すようにして、ただじっと父親を待っていた。

 

両親が離婚したのは、迅がまだ小学校に上がる前のことだ。

国内外を飛び回って多忙を極める母親に引き取られた彼にとって、「父親」という存在はひどく希薄なものでしかなかった。

恨んでいるとか、憎んでいるとか、そういう激しい感情はない。

ただ純粋に、よく分からなかったのだ。

 

迅から会いに行くことも、やろうと思えばできた。

だが、多忙な中で自分たちを養ってくれている母親への遠慮もあったし、何より、今更どんな顔をして会いに行けばいいのか分からなかった。

 

自分が格闘技で有名になれば、いつか向こうから「会いたい」と言ってくるんじゃないか。

 

心のどこかで、そんな子供じみた淡い期待を抱いていた時期もあったのかもしれない。

しかし結局、十数年もの間、父親はただの一度も接触してこなかった。

迅たちは、父親にとって会う価値もない存在だったのだろうか。

 

今回、十数年ぶりに会うことになったのは、島中が注目していた迅の予選での派手な怪我を心配しているからだと聞かされていた。

 

今朝、出張の合間に一時帰宅した母親から、「荷物の整理をしてたら、あんたの赤ん坊の頃の服と一緒にこれが出てきたの。あの人が大切にしてたやつだから、ついでに返してきなさい」と、色褪せた古い箱を押し付けられた。

 

中に入っていたのは、今ではレトロな雑貨屋くらいでしか見かけない、未開封のインスタントカメラだった。

 

なぜ、断らず今さらそんな気まぐれな誘いに乗ってしまったのか。

 

迅は自分でもわからず空を見上げた。

 

 

ザッ、と。

乾いた砂利を踏む足音が近づいてきた。

 

「……迅か?」

 

こういう時、なんて答えればいいんだろう。迅は何度も考えていたはずなのに、うまく頭が回らない。

 

「はい、そうです」

「待たせたな」

 

背後から掛けられた、潮の匂いと煙草の匂いが混ざり合ったしゃがれた声。

振り返ると、日に焼けてひどくシワの刻まれた男が立っていた。

 

「どうも」

 

迅は短く返し、軽く頭を下げた。

記憶の底に僅かに残っていた「見上げるほど大きかった父親」の欠片よりも、ずっと矮小で、くたびれた初老の男がそこにいた。

 

「お前。テレビで見るよりずっとデカいな」

 

男は迅の顔を見上げ、小さく瞬きをした。

十数年という空白の時間は、目の前の男から「父親としての自然な振る舞い方」を完全に奪い去ってしまったようだった。

 

ヨレヨレのTシャツにサンダルというだらしない格好の男は、気まずさを隠すように頭を掻き、片手に持っていた小さなコンビニ袋から、冷えたスポーツドリンクのペットボトルを取り出した。

 

「ほらよ」

 

不器用に放られたそれを、迅は片手で受け取る。

表面にびっしりと水滴がついたボトルは、手のひらが痛いほどに冷たかった。

 

「……ありがとうございます」

「格闘技やってる奴が、そういう甘いもん飲むのか知らねぇけどよ。まぁ、この暑さだ。飲まねぇと死ぬぞ」

 

男はそう言って、自分は缶コーヒーのプルタブを開け、迅から少し距離を空けてベンチの端に腰を下ろした。

 

「……今年の夏は、異常だな。本当に暑い」

 

男は首筋の汗を拭いながら、ギラギラと光る真夏の空を恨めしそうに見上げた。

 

「海の水までお湯みたいにぬるくてよ。潮の流れもメチャクチャだ。漁に出ても、魚がさっぱり上がらねぇ。たまんねぇよ、全く」

「……そうですか。大変ですね」

 

迅はペットボトルのキャップを開けながら、淡々と相槌を打つ。

近所のよく知らないおじさんに返すような、礼儀正しいけれど、ひどく分厚い壁のある言葉。

 

男はその距離感に微かに肩を落とし、手持ち無沙汰なように缶コーヒーを一口あおった。

息が詰まるような気まずさが、夏の重い湿気と一緒に二人の間に横たわっている。

 

ジリジリと肌を焼く日差しの中、遠くで聞こえる波の音と、うるさいほどの蝉の声だけが間を持たせていた。

 

「……足の怪我、どうなんだ?」

 

沈黙に耐えきれなくなったように、男が口を開いた。

 

「……ちょっと酷い捻挫みたいなものです。来年には復帰します」

 

だが、男の視線は、迅の左足を固める重々しいウォーカーブーツにじっと注がれていた。

素人が見ても、ただの捻挫でないことは明らかだ。

本当はもっと絶望的な状態だということくらい、とっくに耳に入っているはずだ。

 

「……そうか」

 

男は迅の嘘を咎めることも、深く踏み込んでくることもなかった。

心配してやりたい。無理をするなと叱ってやりたい。

そんな父親らしい言葉を飲み込むように、男は少しだけ苦しそうに視線を逸らした。

他人の人生に深入りする資格が、自分にはないと思っているかのように。

 

「……母さんは元気か?」

「ええ。相変わらず仕事で飛び回ってますよ」

「そうか。……茜はどうした。アイツも一緒じゃないのか」

「姉貴は家を出てるんで、最近は顔を見てませんね」

 

迅が淡々と答えると、会話は再び途切れた。

 

男はどう相槌を打っていいか分からないのか、所在なさげに空になった缶コーヒーを握りしめ、自嘲するように、ヘラっと薄ら笑いを浮かべた。

 

「しかし、お前……ずいぶん有名になっちまったなぁ。俺の漁師仲間の間でも、お前の試合の日は仕事にならないって騒いでる奴がいてよ」

「…………」

「『あれは俺の息子だ』って自慢したかったけどよ……まぁ、今更どの面下げてって話だよな。もっと上手くやれていれば、俺なんかが父親面してアドバイスの一つでもしてやれたのかもしれねぇけど……お前はもう、俺の言葉なんか似合わねぇくらい、立派な男に育ってたな」

 

ぽつりとこぼれ落ちたその言葉に、迅は静かに息を吐き出した。

相変わらずヘラヘラと笑ってはいるが、その目には、どうしようもない負い目と後悔が滲んでいた。

 

(……なんだ。そんな理由か)

 

自分たちが、会う価値もない存在だったわけじゃない。

家族を手放してしまった後ろめたさと、どんどん遠い存在になっていく息子に対して、この不器用な人は、ただ一歩を踏み出す勇気がなかっただけなのだ。

 

拍子抜けするほど情けない理由。

だが、それを知っただけで、ずっと胸の奥につかえていた正体不明の重いしこりが、ふっと消えていくのを迅は感じた。

 

もう十分だ。

これ以上、お互いに無理をして、この気まずい時間を引き延ばす必要もないだろう。

 

「じゃあ、俺はそろそろ」

「なんだ、もう帰るのか?」

「ええ。後輩の面倒見ないといけないんで。……あと、これ」

 

立ち上がりざま、迅はズボンのポケットに入っていた四角い感触を無造作に掴み出し、男の目の前へと突き出した。

 

「これは?」

「母さんの荷物の中にずっと紛れてたらしいです。……あなたが昔、大事にしてたやつだって」

 

それは、今朝母親から押し付けられた小さな箱だった。

色褪せたパッケージの、古いインスタントカメラ。

 

「……あいつ、こんなもん……」

 

男の口元から、ヘラヘラとした笑みが消えた。

無言で箱を受け取ると、少しだけ震える手つきでパッケージを破る。

 

「……昔はよく、カメラでお前のことを撮ったもんだ」

 

背後から、ぽつりと落とされた声に、迅は思わず足を止めた。

 

「高いビデオカメラも買ったんだ。本当に高くてなぁ……今思えば、使い方もよく分からなくて、ほとんど使わなかったな」

 

振り返ると、男は取り出したプラスチック製のカメラを弄りながら、どこか遠くを見るような目をしていた。

 

「ここの公園でもよく撮ったんだ。お前が散歩するって聞かなくてな」

 

迅の父は、自分の目の前にカメラを構えるような仕草をした。

そして、迅が手に持っている飲み物のボトルを指差す。

 

「昔はそこの角に自動販売機があってな。お前、散歩の途中に『カロピス』買ってくれって聞かなくて。こっちはもう漁でクタクタに疲れてるのに、わざわざここまで歩かされて、さらにジュースまで買わされて……」

 

男はふっと、どこか懐かしむように笑った。

 

「甘いものを飲ませるとお前の母親はすぐに怒るから、『絶対内緒だぞ』って言ってんのに……お前、家に帰るなり言うんだよ。『パパに買ってもらったよ』って嬉しそうにさ。いつもそうだ。それで俺はいつも怒鳴られてよ。理不尽だと思ったよ」

「…………」

 

そんな昔の記憶は、迅の中ではとうに風化している。

だが、その時の情景を語る父親の顔は、ひどく穏やかだった。

 

「……このベンチの位置も、ずっと変わってないな」

 

男は静かにカメラを持ち上げ、ファインダーを覗き込んだ。

 

「その後ろの桜の木の前で、お前がよく『写真撮って』ってせがんできたな」

 

レンズが、迅の方へ向けられる。

プラスチックの古びたファインダー。

その小さな四角い枠の中に、十数年ぶりに息子の姿を収めた瞬間、

 

――迅の父の視界は、不意にぐにゃりと歪んだ。

 

レンズの向こう側にいるのは、見上げるほど大きく、無骨で、全く可愛げのない、それでも自分の何よりの誇りである一人の青年の姿だった。

 

かつてこの同じ枠越しに見ていた息子は、もっとずっと小さかった。

汗ばんだ手でズボンの裾をぎゅっと握りしめ、「パパ」と舌足らずな声で男を見上げていた。

転べばすぐに泣きべそをかき、無条件の信頼と満面の笑顔を向けてくる、ただただ愛おしい自分の子供。

 

今の迅は、ファインダーの枠に収まりきらないほど大きく、逞しい。

自分なんかよりも、ずっと立派な男の姿だった。そうなってほしいと思っていた。

 

その『成長の証』が、男の胸を、心が燃え尽きるような強烈な切なさで抉った。

自分が身勝手に逃げ出し、目を背けていた十数年という残酷な歳月。

その間に、小さな息子がどれほど歯を食いしばり、傷つき、立派な青年に育っていったのか。

その途方もない時間の重さと、決して取り戻せない過去が、四角い枠の中いっぱいに詰まっていた。

 

今の立派な姿は、俺がいない間に、こいつが一人で歯を食いしばって勝ち取ったもんだ。

俺はその瞬間を、何一つ見てやっていない。

 

父親らしいものを何一つ手渡してやれなかったという痛切な後悔と、それでも真っ直ぐに育ってくれたことへの、言葉にならない、申し訳なさと愛おしさ。

 

この子にとって自分は世界で一番のヒーローだったはずなのに。

今はただ、取り返しのつかない感情だけが、カメラを握る手のひらの中で虚しく震えている。

自分が手放して逃げ出した日々の残酷な重さが、そこにはあった。

 

「…………っ」

 

不意に、男の動きが止まる。

これ以上、真っ直ぐに育った息子を直視することができないというように、男は微かに肩を震わせ、乱暴な動作でカメラを下ろした。

 

「……もっと色々買ってやれば良かったな。父親らしいこと、もっとしてやればよかった」

 

ぽつりと、何かの糸が切れたような懺悔がこぼれ落ちる。

 

「……」

 

それを聞いて、迅の中で完全に答え合わせが終わった。

 

なんだ、結局この人も、不器用なりにずっと自分たちのことを引きずって生きてきたんじゃないか。

 

不意に、ソースが焦げるような、甘くて香ばしい匂いが記憶の底からせり上がってきた。

料理の苦手な母親が、自分たちのために台所に立って作ってくれたハンバーグ。

少し焦げていて、お世辞にも形が良いとは言えない不格好なそれだったが、父親は「美味い、美味い」と笑って食べていた。

 

もちろん、幼かった迅にとっても、それは世界で一番不味くて、世界で一番美味しくて、なによりも大好きなハンバーグだった。

 

……でも、本当は。

本当は、味がどうかなんてどうでもよくて、両親が揃って食卓にいて、笑い合ってくれている。

ただ、家族全員が一緒にいてくれる。

迅が欲しかったのは、それだけだった。

 

間違いだらけで、傷つけ合って、最後には壊れてしまった家族だったけれど。

自分という人間は間違いなく父と母、不器用な二人に愛されて、ここまで来たのだ。

 

心の奥底に封じ込めていたはずの情景が鮮明に蘇る。迅は微かに視界が滲むのを感じた。

らしくない、と自分の頬を叩き、小さく息を吸い込む。

そして、滲む空を仰ぐと、丸くなった背中に向かって口を開いた。

 

「……父親らしいことなら、今からでも出来るんじゃないですか?」

「迅……」

「一回くらい顔を見にそっちからきてくれたらいいのになって、そう、ずっと思ってはいたし。正直……」

 

大きく息を吐き出す。

これ以上、言葉にするのは無理だった。

今の大海迅にはこれが限界だった。

だから、

 

「だから、また、会いませんか? ……よければですけど、今度は姉貴も連れてきますよ。首根っこ掴んででも」

「……迅」

「それは、嬉しいな」

 

自分の中の正体不明の重さが、スッと軽くなった気がした。

誰かに残された見えない愛情の切れ端を、ちゃんと受け取れたような感覚。

迅はゆっくりと歩き出した。

 

「……怪我、無理せず慎重に治すんだぞ」

 

背後から、ひどく掠れた声が聞こえた。

 

「もっと有名になるんだぞ。そしたら俺も漁師仲間に『あれは俺の息子だ』って勝手に自慢させてくれ」

「……はい」

 

迅は短く答え、今度こそ踵を返した。

容赦ない太陽と、うるさいほどの蝉時雨だけが、新しい場所へ向かって帰る彼の道を包んでいた。

 

 

◆◆◆

 

 

家に帰る。

ドアを開けても、当然誰もいない。

むせ返るような夏の熱気と、しんと静まり返った空気だけが俺を迎えた。

ドアを閉めようとするとズボンのポケットで、スマホが短く震える。

画面を確認すると、莉緒から『おかえり』のスタンプが届いている。

 

何気なく道路を挟んだ向こうの家の二階を見ると、窓の向こうで莉緒がこちらに向かって小さく手を振っていた。

直後、手に持っていたスマホから着信音が鳴る。

 

「もしもし?」

『ちっす』

「うい」

 

いつもの、間延びしたやり取り。

 

『夕飯食べていかない? 迅の好きなハンバーグ』

「……行く」

『よしよし入りたまえ。今日はいつもと違ってもっとおいしいはずだよ』

「ん?」

 

スマホを耳に当てたまま道を渡り、莉緒の家の玄関前でチャイムを押す。

 

『いわゆる一つの愛が入ってるからね』

「莉緒のおばさんの?」

『お母さんと私の、かな?』

 

通話越しに悪戯っぽく笑う声。

 

『玄関のカギ開いてるから入ってー』という言葉に従い、俺はドアノブを引いた。

 

「お邪魔します」

「はーい。どうぞー」

 

奥のキッチンから莉緒の母親の明るい声が聞こえ、同時にタッタッタッ、と階段を軽快に下りてくる足音が響いた。

スマホを耳に当てたまま降りてきた莉緒と目が合い、二人して同時に通話を切る。

 

「迅ってホント、ハンバーグ好きだよね。そういう子供っぽいところ、普段可愛げがないぶん、ギャップがあっていいと思うよ?」

「なんの話だよ……」

「でも、他のものだと『体のためだ』とか言って我慢するのに、何でハンバーグだけはいいの?」

 

不思議そうに首を傾げる莉緒の顔を見て、俺の脳裏に再びあの光景が蘇った。

料理の苦手な母親が作った、焦げて不格好なハンバーグ。

それを親父が美味いと笑って食べていた顔。

家族がただ一緒にいるだけのささやかな当たり前の空間。

 

俺はただ、あの温かい記憶を、無意識にずっと追い求めていたのか。

 

思いがけず胸の奥が締め付けられ、俺の表情が微かに崩れたのがわかった。

 

「……迅?」

 

莉緒が驚いたように目を見開き、それでも何も聞かず、ただ静かに俺の右手を両手で包み込むように握ってきた。

その柔らかくて温かい感触に、俺はハッと我に返る。

空いた手で自分の頬を軽く叩き、誤魔化すように笑った。

 

「そうだな……それは、いわゆる一つの愛、ってやつかもな」

「そっか」

 

莉緒はそれ以上踏み込まず、小さく呟いて俺の手を引いた。

キッチンへと向かう、わずかな時間。

 

「……莉緒は、いい奴だよなずっと」

 

思わず口に出た言葉に、莉緒は前を向いたまま、ふふっと笑った。

 

「んーん。迅の前だけだよ、たぶん」

 

「……そうなのか?」

 

「んふ。これもいわゆる一つの愛、だね」

 

「よーし行くぞ、あ! 待ってまずは手を洗おう~」

 

明るく洗面所に連行されながら、俺は繋がれた手の温もりを静かに握り返した。

形は不格好で、間違いだらけの家族だったけれど。

 

あの寂れた公園で親父から確かに受け取ったものは、莉緒の温もりと混ざり合って、今の俺をほんのりと優しく満たしている。

 




書きたい話がありすぎて寄り道してました。
アンケ、姉妹の良い子(姉)全然出番ないのに妹と同票はさすがに笑ってしまう。

参考までに。どのキャラクターとの絡みが見たいですか?

  • 七瀬莉緒(幼馴染)
  • 立華琴音(アホの子)
  • 立華綾音(良い子)
  • 風畑さゆり(お嬢様)
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