百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮) 作:匿名さん
12話『きっと大丈夫』
「莉緒?」
「七瀬先輩?」
「…………え?」
左右から同時に名前を呼ばれて、私はようやく顔を上げた。迅と琴音が、示し合わせたわけでもないのにそっくり同じ角度で首を傾げ、こちらを覗き込んでいる。
二人の声はさっきからずっと耳には届いていたはずなのに、坂の下から寄せてくる波の音とヒグラシの声に混ざってしまって、意味のある言葉として頭の中まで浮かび上がってこなかったらしい。まるで、水の底から呼ばれていたみたいに。
「だからさ。白帆島の郷土料理って言ったら、ブルーベリーとヨーグルトだよなって話」
「あ……ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
頬に落ちてきた髪を耳へかけながら、誤魔化すように笑ってみせる。
この顔なら何百回も作ってきたから、失敗のしようがない。
「うん。まぁ、ブルーベリーが名産ってことにはなってるね」
「へぇー。地元民なのにアタシ、そういうの全然知らないんですよねぇ」
三人で横に並んで、海沿いへ続く緩やかな坂道を下っていく。
昼のあいだ島じゅうを真上から焼いていた太陽は、もう海のすぐ上まで落ちていた。
西の空にはまだ目の奥が痛くなるほどの茜色が残っているのに、頭上はとっくに薄い群青へ変わりはじめていて、その二つが溶け合うあたりに、夏の夕暮れにしか出てこない頼りない紫が滲んでいる。名前のつけようもない色だ。
毎年見ているはずなのに、どうしてか一度も覚えていられない。
潮を含んだ風は、日が傾いた今でもまだ生ぬるかった。
昼の熱をたっぷり吸い込んだアスファルトも冷めきっておらず、歩いているとスニーカーの底から気怠い熱が上がってくる。塩素の抜けきらない髪。
汗で湿った制服の襟。どこかの家の換気扇が吐き出しはじめた夕飯の匂。
どこを切り取っても、白帆島の夏の夕方だった。
全国大会までは、まだ二十日ある。
夏休みだって始まったばかりで、夏の終わりを数えるには早すぎる。
それなのにこの頃の私は、夕方になるときまって、今日という一日が終わってしまうことさえ惜しくなる。
楽しい時間ほど、いつか必ず終わる。
そんな誰でも知っていることを、この時間の空だけが先に知っていて、毎日律儀に教えにくるみたいだった。
「王家牧場の牛乳で作ったヨーグルトと相性が抜群なんですよ~。アタシ、牛乳は苦手なんですけど、ヨーグルトなら全然いけるんです!」
「それは偉い」
「え?」
琴音が得意げに胸を張った、その途端だった。
迅が何のためらいもなく、当たり前みたいにその頭へ手を伸ばした。
「よしよし。立華は偉いなぁ。なでなでなでなで」
大きな手が、小さな頭を遠慮なくかき回す。
琴音は一瞬だけ気持ちよさそうに目を細めて「えへへへ……」と随分だらしのない声まで漏らしたくせに、すぐ我に返ったのだろう、バシッと乾いた音を立てて迅の手を叩き落とした。
せっかく整えていた髪を乱され、耳まで赤くしたまま睨みつけている。
三秒。もしかしたら四秒。
迅の手があの子の頭に乗っていた時間を、私は無意識のうちに数えていた。
数えてしまってから、そんなことをしている自分に気づいて、慌てて前へ視線を戻す。
「お。今の可愛かった。九十点」
「え、ほんと?」
「そのまま永遠に可愛い後輩モードでいてくれたらな」
「……う」
琴音は反射的に喜びかけて、それからどう受け取ればいいのか分からなくなったのか、そのまま口を噤んでしまった。
怒るのか喜ぶのかも決められないまま、視線だけが行き場をなくして揺れている。
その頬に残った赤みを見たとき、胸の奥に小さな棘が引っかかった。
痛いというほどのものではない。
歩いているうちに忘れてしまう程度の、ごく微かな摩擦。
迅が女の子の頭を撫でたから。私はまずそう考えて、それで納得したことにした。
昔から、迅がほかの子と親しそうにしているのを見るのはあまり好きじゃない。
まして自分から手を伸ばして、相手が嬉しそうな顔をしていれば、胸がざわつくくらい珍しくもなんともない。
そう、いつものことだ。そういうことにしてしまえば、それ以上、自分の中にある黒くて重い感情と向き合わなくて済んだ。
「いや、ツッコミ入れろよ。今のところ」
「あっ。そ、そうかそうか。よぉし、ツッコむぞツッコむぞぉ。ずんずんパンパン突っ込んじゃうぞぉ~」
「……もういいって」
「そ、そう……ですか。はぁぁ……」
「ため息つくと幸せ逃げるぞ」
「うっさいなぁ」
二人がまた、どうでもいいことで言い合いを始める。
私はほんの少しだけ歩調を緩めて、半歩ぶん後ろから、並んだ横顔を眺めた。
最近、こういう時間が増えた。
迅が琴音に泳ぎを教えるようになってから、二人のあいだには私の知らない小さな出来事が、日ごとに一つずつ積もっていく。
昨日はどこまで顔をつけられたとか、本当に、笑ってしまうくらいどうでもいい話ばかりだ。
私はすぐ近くのレーンを泳いでいるし、見ようと思えばいつだって二人を見られる。
それなのにときどき、二人が「昨日のあれ」と言うだけで通じ合って笑って、私だけが何の話か分からないまま置いていかれる。
そういうとき、胸の内側に、ごく小さな空白ができる。
喜ぶべきことのはずだった。二人に仲良くなってほしいと望んだのは私で、私の大切な人たちが、私を間に置かなくても笑い合えるなら、それはきっと素敵なことだ。
何度そう言い聞かせても、なぜだか自分ひとりだけが半歩遅れて歩いているような感じが消えてくれない。
こんなことで寂しくなるような性格では、なかったはずなのに。
そういえば、交換日記にさゆりや綾音ちゃんも混ぜようという話も、まだ琴音には切り出せていない。
みんな一緒の方が楽しいと言い出したのは私のくせに、どうしてか今日は、その話を持ち出す気にどうしてもなれなかった。
「あっあ~~んっ! 七瀬せんぱぁぁぁぁぁい!」
突然、琴音が私の腕へ勢いよく抱きついてきた。
「きゃっ。わっ、なに? どうしたの琴音」
「なんでもないですけど、急激に先輩に甘えたくなりましたぁぁぁん。すりすり~」
「あはは。もう、琴音ったら」
胸元に頬を寄せ、猫みたいに擦りついてくる。
汗と、シャンプーと、微かに残った塩素。
一日中プールにいた女の子の、夏の匂い。
私は自然と手を伸ばして、夕日に透けて柔らかい茶色に見える髪を、指先で梳くように撫でた。
さっきまで胸の内側にあったざらつきが、嘘みたいに凪いでいく。
この子が私にくっついていて、迅がその向こうにいて、三人で同じ坂道を下っている。
並び順がこれでいい、と思った。
それだけで、こんなにも安心してしまう。
「あの男、なんか人生舐めたこと言ってやがりますよねっ、七瀬先輩っ」
私の胸元に顔を埋めたまま、琴音が迅を睨む。
「あはは……」
笑いながら、私はいつのまにか髪を撫でる手を止めていた。
「七瀬先輩?」
琴音が顔を上げる。夕焼けを映した大きな瞳の中に、今は私がいる。
この子はずっと、こんな目で私を見てきた。
入学したての頃から、少し優しくすればすぐ真っ赤になって、好きです、と呆れるくらい何度も言ってくれた。
琴音が私を見ていると安心する。腕に抱きついてくれば嬉しい。
誰かと楽しそうにしていると、少しだけ面白くない。
並べてみればどれも同じ形をしていて、その感情に名前をつけようとして、私はやめた。今の自分には、うまく答えられそうになかった。
「……俺もやってみようかな。すりす――」
「迅は夜ね」
口のほうが、先に動いていた。
「…………」
「…………」
二人が同時に私を見る。ずいぶん遅れてから、自分が変なことを言ったのだと気づいた。
「……そこは『殴るよ?』とか、そういうツッコミが欲しかったんだけど。夜ってなんだ? えっ、夜ってなんだ……?」
死ぬのか俺はと迅が呟く。
「……七瀬先輩、ご機嫌悪いですか?」
「違う違う」
私は笑って首を振った。夜、と口が勝手に言った理由については、考えないことにする。
「ちょっと考え事してただけ」
「大会のことか?」
迅が、何でもないことのように聞いてくる。
「うん。さすがに分かる?」
「分かるけど……不安っていうより、決意って感じがするな」
思わず迅の顔を見てしまった。
こういうところだけ、迅は鋭い。
普段は人の心なんて、呆れるほど何も分かっていないのに。
迅は昔から優しい。誰かが泣いていれば黙って隣に座るし、困っていれば当たり前みたいに手を貸す。
けれど自分の一言が相手の中にどれだけ深く残るのかは、たぶん私たちが教えなければ一生知らないままだ。
深く考えているわけでもなく、その場でそう思ったからそう言う。
ただそれだけのことを、迅は十年近くやり続けている。
だからこそ、迅の優しさの隣は楽だった。
人の心の中を勝手に覗こうとせず、本当はこう思っているんだろう、なんて決めつけもしない。
私が笑っていれば、笑っている私をそのまま受け取ってくれる。
裏側を見ようとしない人のそばは、隠し事だらけの私にはちょうどよかった。
「ほんと、そういうところ、すごいなぁ」
「なんだよそれ」
「なんでもない」
風に吹かれて頬に張りついた髪を、もう一度指で払う。
「何考えてるんですか?」
琴音が下から不思議そうに覗き込んでくる。
私はその頭から手を離して、ほんの少しだけ身体を離した。数センチにも満たない距離だったのに、さっきまで琴音の体温があった場所へ夕方の風が入り込むと、その隙間が妙に広く感じられた。
「大したことじゃないよ」
「だから気になるんですって」
「んー……頑張ろうかなって」
「はい?」
「全国大会」
琴音がぱちぱちと瞬きをする。
「十分頑張ってると思いますけど……」
「でも、もうあと二十日くらいでしょ。だから、もうちょっとだけ本気になってみようかなって」
口にしてから、自分でも少し可笑しくなった。
私はこれまで、水泳に本気になったことなんて一度でもあっただろうか。
高校に入ったばかりの頃、迅が格闘技の補強に学校のプールを使うと言い出したから、私も泳ぐことにした。
理由はそれだけだ。
一日に十分でも二十分でも、同じ建物の同じ水の中にいられる。
当時の私には、本当にそれで充分だった。
それなのに泳いでみたら速くて、勝って、また勝って、気づいたときには島の人が私の名前を知っていた。
世間から見れば、迅と私は「白帆島が生んだ二人の天才」という、よく出来た綺麗な物語の主役なのかもしれない。
でも私は、全国へ行きたくて泳いだわけでも、誰かの記録を破りたかったわけでもない。欲しかったものは最初から一つきりで、それは今も変わらない。迅のそばにいたかった。
その迅は今すぐそこにいて、琴音まで一緒にいて、昔の自分が覗き見たら羨ましくて泣き出しそうな夏のはずなのに、どうしてか時々、息が苦しくて寂しくなる。
「ダメかな? 足りない?」
自分でもうまく掴めない気持ちを押し隠すように笑うと、迅はしばらく考えるようにして、夕焼けの海へ目をやった。
「俺から見れば足りてはいない」
「あーやっぱり? 手厳しいなあ……」
「でもそれは俺の主観だからな。それを決めるのは俺じゃないけど。今のタイムでも全国トップクラスだろ」
「莉緒の主人は莉緒だけだ。足りてないと思うなら足りるようにやるしかない」
「うん」
「そこから莉緒が本気を出すなら、俺が気になるのはもう結果じゃないな」
「じゃあ、なに?」
「どう勝つか。それだけ」
全員ねじ伏せて圧倒的に勝て。そういって笑う迅の笑顔が眩しくて、嬉しくて思わず笑みがこぼれた。
昔から何ひとつ変わらない。勝てるかどうかを心配するより先に、どう勝つのかを考える。私を信頼している。だからと言って負けても私のことを気遣うことなんてしないと思う。
馬鹿みたいな自信だと呆れる時もあるけれど、私はずっと、そういう迅が好きだ。
「余計なお世話なのは知ってるけど、気合い入りすぎて体調崩すなよ。仕上げの時期に一番馬鹿らしいからな」
「うん」
私は一度、ゆっくりと息を吸い込んだ。潮の匂いがした。夏の匂いだった。
「その辺も含めて、優勝を狙って頑張る」
優勝。
自分の口からその言葉が出たのは、たぶん生まれて初めてだった。
勝てばいい、負けても次がある。ずっとその程度の温度で泳いできたのに、今はどうしてか、誰の目にも見える形の結果が欲しかった。
迅にもっとすごいと思われたい。琴音にも、いつまでも今みたいな目で見ていてほしい。
二人のあいだに私の知らない時間がどれだけ増えていっても、その真ん中には私の席がちゃんと残っているのだと、確かめておきたかった。
「七瀬先輩、かっこいい……」
琴音が夕日にも負けないくらい目を輝かせている。
その顔を見ただけで、胸の奥がすっと軽くなった。この子の目に映る私は、いつだって私より綺麗だ。
「そう?」
「ええもうっ。アタシ惚れちゃいます! いやもう完全に惚れてますけどっ!」
「ありがとう」
私は笑った。
「じゃあ、琴音に見捨てられないように頑張らなくちゃ」
ほんの軽い冗談のつもりだった。それなのに口にした途端、妙な想像が頭の隅をよぎった。
もし本当に、琴音が私を見なくなったら。
今と同じ顔で、迅だけを見上げるようになったら。
嫌だ、とすぐに思った。迅を取られたくないから?
そう考えれば話は簡単で、私はいつもそこで思考を止めてしまう。
けれど、二人が言い合わなくなって、迅が琴音の練習を見なくなって、琴音が迅を避けるようになる光景を想像すると、それも同じくらい、いや、うまく言えないけれど、それ以上に嫌だった。
「はい! 言ってくれれば、なんでも協力しますからっ!」
「ありがとう、琴音。でも迅は、ちゃんと琴音の練習に付き合ってあげてね」
「アァアァアァァァ! アタシの練習なんか、この際後回しでいいです!」
「いや」
私は首を横に振った。
「二人がそばで練習しててくれる方が、私、落ち着くから」
嘘ではなかった。プールの端で琴音が水を怖がって、迅が呆れて、二人でくだらない喧嘩を始める。
私はその横を何本も泳ぐ。息継ぎのたびに顔を上げて、二人がまだそこにいることを確かめると、不思議とあと一本だけ頑張れた。
いつからか、私はその時間を好きになっていた。
「莉緒」
「ん? どしたの?」
「俺、立華のコーチの時間を少しだけ減らそうと思う」
一瞬、迅が何を言ったのか理解できなかった。
「莉緒がそこまで本気で全国を狙うなら、俺もいい加減、リハビリの時間を増やさないとな。練習はまだ無理でも、ジムにもそろそろ顔くらい出そうと思ってる」
「まだ、無理でしょ」
考えるより先に、声が出ていた。
「いや、だから練習はしないぞ」
「病院の先生だって、今はプールでリハビリした方がいいって言ってたんだよね?」
「プールだけじゃないけどまぁ、そうだな」
「だったら、今行かなくてもいいじゃん」
自分でも思っていた以上に、声が強く尖った。迅が少し困ったように眉を寄せる。
「全部やめるって言ってないだろ。時間を少し減らすだけだ」
「なんで?」
「大会近いだろ」
迅は少しだけ考えて、それから本当に何でもないことのように続けた。
「大会までは、立華には莉緒のサポートに回ってもらった方がいい。二人とも、その方がいいだろ?」
胸の奥で、さっきよりずっと大きな音を立てて、何かが軋んだ。
ああ、迅だ。あまりにも、あまりにも迅らしい。
琴音は私が好きで、私は琴音を可愛がっている。なら二人を一緒にしておけばいい。
空いた時間で自分は復帰へ向かって、琴音の水泳は大会が終わってから私が引き継げばいい。
きっとこの人の頭の中では、それで全部きれいに片付いている。
単純で、合理的で、誰ひとり傷つかないと本気で思っている。
大海迅は、人の気持ちが分からない。
けれどそのせいで誰かが傷付くのを異常に気にする。
わからないくせに。冷たくあればいいのに、自分の欠点を理解して誰かが傷付かないように立ち回る。何で傷つけるかわからない癖に、私たちに優しくしようとする、
普段ならそこが好きなのに、こうして分かったつもりで答えを出す時だけ、迅の優しさは、驚くほど残酷になる。
「ダメ」
声が漏れた。
「絶対にダメだよ」
迅が目を丸くする。琴音も私を見た。
「……まだ全部決めたわけじゃないぞ」
「ダメ」
「莉緒?」
「なんで勝手に決めるの?」
「いや、勝手っていうか……立華はお前と一緒にいたいだろ。莉緒だって立華が――」
「それは迅が決めることじゃない!」
声が、夕暮れの道に大きく響いた。
三人の足が同時に止まる。
さっきまで背景でしかなかったヒグラシの声だけが、やけに近くで鳴いていた。
一度口にしてしまってから、ようやく何が嫌だったのか、ほんの少しだけ分かった。
迅は私たちのために考えてくれた。そこに悪意なんて一欠片もない。
でも、この人は私が何を望んでいるのかも、琴音が何を望んでいるのかも、一度だって聞いていない。二人でいればいい。迅の中では、それだけで終わっている。
「……立華」
迅が琴音を見た。
私もそこで初めて琴音の顔をちゃんと見て、胸が痛んだ。
琴音は、ひどく寂しそうな顔をしていた。
「立華?」
「……はい」
「いや。辞めるって意味じゃないぞ。少し時間を減らして――」
「はい」
琴音は笑おうとして、笑えていなかった。
その顔を見て、迅の表情が変わったのが分かった。
人の心の中は読めなくても、目の前で傷ついている顔をしているのは分かるから。
「……すまん」
迅の言葉に、琴音が驚いたように顔を上げた。
「俺、間違えたな。莉緒が本気になるなら、お前は莉緒のそばにいた方が嬉しいだろうって勝手に決めてしまったな。ちゃんともっと話すべきだった、すまん」
迅は困ったように自分の頭を掻いた。綺麗な慰めも、もっともらしい言い訳もない。
間違えたから謝る。そういうところも、どうしようもなく迅らしかった。
それでも、私の中に生まれてしまったものは、まだ消えてくれなかった。
「じゃあ……今まで通りにして」
自分の声が、みっともなく震えた。
「二人とも、今まで通りにしてよ」
子供みたいだと分かっていたのに、もう止められなかった。
「私は頑張るから。優勝するから。だから……変えないでよ。二人がそこでいつもみたいに馬鹿なこと言って、喧嘩しててくれたら、それでいいの。私、それを見ながらなら頑張れるから。それなのに、なんで急に変えようとするの?」
何が怖くて、何が寂しいのか、自分でもまだうまく分かっていない。
「私がちゃんと優勝すれば、今のままでいられるんでしょ?」
「……莉緒?」
「だったら勝つよ。勝てばいいんだから」
勝てば、この夏がもう少しだけ今のまま続いてくれるような気がした。
そんなこと、本当は何の関係もないのに。
「違うって」
迅の低い声を聞いた途端、胸に張り詰めていた糸が、ふつりと緩んだ。
「じゃあ……優勝なんてしなくてもいい? 二人がいなくなるなら、意味ないもん」
「七瀬先輩……?」
琴音が息を呑む。それでも、もう止まらなかった。
「私、水泳なんて好きで始めたわけじゃないし。迅がプール使うって言ったから始めただけだもん。一緒にいられる時間が十分でも二十分でも増えるって思ったから。なのに気づいたら全国とか言われて、勝って当然みたいに言われて……私、どうでもよかったのに」
海の方から風が吹き上げて、潮の匂いが鼻を掠めた。
燃えるような夕焼けの下で、沖の方だけがもう青黒く沈みはじめている。
ひどく綺麗で、こんな時にまで綺麗なことが、少しだけ悔しかった。
「迅のそばにいたかっただけなのに。なんで水泳のために、迅から離れなくちゃいけないの?」
やっと口に出せて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
それでも、まだ喉のあたりに引っかかったまま残っているものがあった。
「……なのに、琴音が私のそばにいてくれるならそれでいいはずなのに、それも……なんか嫌なの」
言ってしまってから、自分でも意味が分からなくなる。
「二人が仲良くしてると、たまに私だけ知らないことが増えていくみたいで、寂しいなって思うの。なのに、二人が離れるのはもっと嫌みたい」
私は小さく笑った。なんて面倒くさい生き物なんだろう、私は。
「……なんなんだろ、私」
「莉緒――」
迅が優しく名前を呼ぶ。きっと何か言ってくれる。昔から私を何度でも救ってきた、あの優しい嘘を。
それに縋って安心してしまうのが、今はたまらなく怖かった。
「――なぁんてね!」
迅の言葉を遮るように、私は反射的に笑い声を上げていた。
「ごめんね。私、何言ってるんだろ。大会前でちょっとプレッシャーに負けてるのかなぁ。時間が減るだけだもんね。早とちりしすぎた」
いつもの声で、いつもの笑顔を作る。
もう何年もやってきたことだ。
呼吸をするのと変わらないくらい、私はこれが得意だった。
迅は驚いたように私を見つめていた。何かを言い淀むように口を開きかけて、けれど結局は言葉が見つからなかったのだろう、ひどく悔やむような顔で自分の頭を掻いた。
「……ごめん。俺が浅はかだった。二人のためみたいな顔して考えてたけど、俺が勝手に決めることじゃなかった」
「ううん、いいの。私のワガママだもん」
口角を上げて、いつも通り笑う。笑えているはず。
完璧な、いつも通りの七瀬莉緒だった。
「立華」
迅が琴音を見る。
「さっきの話はなしだ。今まで通り、コーチの時間は減らさないで続ける、急に混乱させてすまなかった」
「……うん」
琴音の目から、ぽろりと一粒だけ涙が落ちた。
本人が一番驚いたような顔をして、慌てて手の甲で目元を擦る。
「なんか二人が喧嘩しちゃったのかなって思ってたら、急に安心しちゃって……」
「琴音、ごめん」
私は反射的に腕を伸ばした。
その時だった。
ほんの一瞬、琴音の肩が強張った。
伸ばした手が、行き場を失って途中で止まる。
瞬きのあいだに終わってしまうような、気のせいだと思えばいくらでも気のせいにできる、それくらい小さな動きだった。
それでも私は、見間違えていない。
琴音が私に触られることを、今、ほんの一瞬だけ怖がった気がした。
「……琴音?」
「いやっ、なんでもないです! 二人が急に怖いこと言うからですよぉ」
琴音は慌てて笑うと、今度は自分の方から私の胸へ飛び込んできた。
私はその頭を撫でる。柔らかくて、温かくて、さっきまでと何ひとつ変わっていないはずなのに、指先が触れている場所だけが、うまく馴染まなかった。
迅に嫌われるのが怖いのは、昔からずっと知っている。
どうして、琴音に怖がられることまで、こんなに悲しいんだろう。
「俺も悪かった。二人とも、すまん」
迅の言葉に、琴音が鼻をすすりながら笑った。
「大海先輩が素直に謝ってる……」
「おい」
琴音が笑い、迅も笑う。つられて、私も少し遅れて笑った。
三人ぶんの笑い声が暮れかけた夏の空へ溶けて消えていくのを聞いていると、まだ大丈夫なような気がした。
◇
いつもの分かれ道で琴音と別れ、迅と二人きりで歩く帰り道。
昔はこの時間が何よりも好きだったのに、今日はどうしてか、二人になった途端に道が広くなったような気がした。
さっきまで琴音がいた場所を、夜になりかけた夏の風だけが通り抜けていく。
ふと、自分が迅の右隣を歩いていることに気づいた。
いつもなら、考えるより先に左側へ入っている。装具をつけた足がもし崩れたとき、地面より先に受け止められる方へ。
今から回り込むのも変な気がして、私はそのまま歩いた。
「莉緒」
家が見えてきた頃、迅が足を止めてこちらを見た。
その目には、隠しきれない戸惑いと心配が滲んでいる。
「本当に、大丈夫か?」
「え?」
「さっきの……いや、なんでもない。ただ、何かあったら言えよ」
不器用で、どこまでも迅らしい優しさだった。
今ここで泣きついてしまえば、この人はきっと困り果てた顔をして、それでも私の背中を撫でてくれる。分かっている。分かっているから、なおさら言えるはずがなかった。水泳なんてどうでもよくて、ただ迅を繋ぎ止めておきたいだけなんだ、なんて。そんな醜い本音を。
「大丈夫だよ。大会前で、ちょっとナイーブになってただけ」
「……そうか」
「うん。じゃあね、迅」
「あとね」
「うん?」
「答えはいつも通り保留でいいから」
それ以上踏み込ませないように、私は逃げるように自分の家の玄関へ向かった。
背中に、迅がまだこちらを見ている気配がある。
いつもなら夜になればメッセージのひとつでも送ってくるのに、今日はどう送ればいいのか分からなくて、暗い部屋でスマホを握ったまま黙り込んでいるのかな。
想像するだけで、その姿がありありと浮かんだ。
それでも私は、連絡しなかった。
スマホの電源を切って、ベッドに倒れ込む。
カーテンは、開けなかった。
道路一本を挟んだ向かいで、あの人の部屋に明かりが灯る時間だ。
灯ったかどうかを確かめたら、今夜の私は絶対に、また醜いことをする。
だから見なかった。今日だけは、それが自分への罰みたいな気がした。
真っ暗な天井を見上げながら、少しずつ冷えていく頭で考える。
言ってしまった、と思った。
水泳なんて好きで始めたわけじゃない。絶対に迅の前では口にしないと決めていたことを、私は自分から、あんな明るい夕暮れの真ん中で吐き出してしまった。
色んなことがありすぎて、色んなことを考えるのに行き着く答えはなぜかいつも同じ。
やっぱり、結果を出さないとダメ、無意味なんだ。
高校から水泳を始めた天才スイマー。格闘技ブームで大注目されていた天才格闘家。
『小さな島が生んだ二人の天才』
『夢を絶たれた幼馴染の無念を背負って全国へ』
最近はスマホを開けば、誰かが勝手に作り上げたそんな無責任な美談ばかりが目に入る。世間というのは、分かりやすくて綺麗な物語がよほど好きらしい。
でも、白帆島の有名人なんてものに、私は一度だって興味を持ったことがない。
本当なら、あんなふうに期待を背負って人前に立つのは、私なんかじゃなくて迅だったはずなのに。 迅から格闘技の夢が理不尽に奪われて、どうして、ただ迅のそばにいたかっただけの私が、たった一人でそんな場所に立たなきゃいけないんだろう。
『私、速さなんてどうでもよかったのに』
夕暮れの道で吐き出した自分の声が、耳の奥でまだ鳴っている。
水泳なんて好きじゃない。
だけど、私が迅や琴音の特別でいるためには、この才能に縋るしかない。
誰にも文句を言わせない結果を出して、迅にも、琴音にも、「すごい」と思わせ続けなければならない。
そうすれば、迅は私のために時間を使ってくれる。
琴音もずっと私に憧れて、そばにいてくれる。
二人にずっと私を見ていてもらうためには、もうそれしか方法がない。
今はもう水泳だけが、二人を私のそばに繋ぎ止めておくための、たった一本の細い鎖なのだから。
「……勝てばいいんだ」
誰にも聞こえない暗闇の中で、私は呪文のように呟いた。
全国大会で優勝する。誰にも文句を言わせない結果を出す。
そうすれば、昨日までの平和な時間が、明日からもずっと続いてくれる。
『莉緒は強い。俺も強い』
あの朝、昇降口で絡めた左手の小指の感触を思い出す。
あの人が果たせなくなった約束の、片方だけが、まだ私の指に残っている。
大丈夫。私は強い。迅が、そう言ってくれたんだから。
全部、私次第で元通りにできる。
◇
翌日。
スタート台に上がる前に、私はまず浅いコースの方を見た。
迅と琴音がちゃんとそこにいる。
それを確かめてから、指先を伸ばして水へ飛び込んだ。
耳が塞がって、世界から音が半分なくなる。
この瞬間だけは、昨日のことも、今日のことも、何ひとつ考えなくて済む。
「七瀬、ペース速いぞ! もう少し落とさないと後半持たないぞ!」
ターンして顔を上げたところへ、ストップウォッチを握った吉岡先生の声が飛んでくる。
「大丈夫です! いけるところまで、このペースで押してみます!」
明るく笑って返し、息を整えてゴーグルをつけ直す。
ほら、見ていて。
私はちゃんと切り替えて、前を向いて頑張っているよ。
世間が喜ぶ『強い七瀬莉緒』のままだよ。
水を掻く。
二回に一度、右側で息を継ぐ。
息継ぎのたびに視界の端を白い光が走って、その向こうに二人の輪郭がぶれながら流れていく。
それを確かめるだけで、腕がもう一掻きぶん動いてくれる。
苦しくなればなるほど、頭の中は不思議なくらい澄んでいった。
これでいい。私は私のやるべきことをやる。
結果さえ出せば、迅も琴音も、これまでと同じように私を見ていてくれる。
二人にとっての私の価値を、私自身の手で証明するんだ。
「――っ、はぁっ!」
最後の一本。
限界まで追い込んだ身体で壁にタッチして、私は大きく息を吐き出した。
完璧だった。指先が壁を叩いた瞬間の感触で分かる。自己ベストに近いタイムが出た手応えがあった。
胸を焦がすような肺の痛みも、鉛のように重い腕も、今の私には心地よい達成感にしか感じられない。
「おしっ! 七瀬、自己ベストだぞ! 完璧な仕上がりだ!」
プールサイドで、吉岡先生が興奮したように声を張り上げた。
「ありがとうございますっ」
息を切らしながらも、私は笑顔で頭を下げる。
それなのに、心の中は驚くほど冷え切っていた。
先生の真っ当な褒め言葉なんて、今の私には本当にどうでもよかった。
褒めてほしかったのは、先生じゃない。
頑張ったねって、いつものように――。
「迅、琴音! 今の私――」
弾むような声で呼びかけて。
自分の声が、どこにも届いていないことに気がついた。
浅いコースで、迅と琴音が二人きりで向かい合っている。
迅がビート板を持って、身振り手振りで何かのフォームを教えている。
何を言っているのかは、ここまでは聞こえない。ただ琴音が真剣な顔で頷き、ふたりで顔を見合わせて、声を上げて笑うのが見えた。
迅の視線は、琴音にしか向いていない。
琴音の視線も、迅だけを真っ直ぐに見つめている。
「…………」
私が一本泳ぎ切ったことも。
私が自己ベストを出したことも。
私が今どんな顔をしてそこを見ているのかも、二人はまだ、一度もこちらを見ていない。
ただ、二人だけの世界で。
私を間に挟まなくても、あんなに楽しそうに笑い合っている。
うるさいくらいに鳴っていた自分の心臓の音が、みるみる冷えて遠のいていく。
プールに反響する二人の笑い声だけが、水を隔てた向こう側から聞こえてくるみたいだった。
濡れた肩から、冷たい水がゆっくりと滑り落ちていく。
「…………あれ?」
塩素の匂いが、急に鼻の奥をツンと刺した。
自分がどうして水の中にいるのか、一瞬、分からなくなった。
参考までに。どのキャラクターとの絡みが見たいですか?
-
七瀬莉緒(幼馴染)
-
立華琴音(アホの子)
-
立華綾音(良い子)
-
風畑さゆり(お嬢様)