百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮) 作:ちお
六月二十日。
俺の夏は、蝉が土の中で身じろぎを始めるよりもずっと早く、ひどくあっけなく終わりを告げた。
全国大会出場の切符は、指の隙間からこぼれ落ちた。
要するに、予選落ちだ。
準決勝を勝ち抜き、次が決勝。そこを勝ち進められれば、
全国の舞台に立ち、さらに勝ち進めば、プロへの道が拓けるはずだった。
◆◇◆
空前の格闘技ブームに沸く日本。
白帆島にある立華家のリビングでも、その熱気は頂点に達しようとしていた。
「いけっ! あともう少し! いけるわよ迅くん!」
ソファから身を乗り出し、テレビ画面にミラーリングされたアマバの配信枠に向かって、綾音の母が声を張り上げている。
洗濯物を畳んでいた立華綾音もまた、エプロン姿のまま手を止め、食い入るように画面を見つめていた。
画面越しの実況席も、興奮の坩堝にあった。
『さあ、準決勝! 注目は何と言っても、青コーナー! 現役高校生、大海迅! 大人たちが犇めくこの『THE CLASH』全日本オープントーナメントにおいて、唯一、十代でここまで勝ち上がってきました!』
『まさに超新星と言って良いと思います。技術、フィジカル、そして精神力。どれをとってもトッププロレベル。高校生という色眼鏡を外しても、今の日本の格闘技界を背負って立つ逸材です』
解説の元王者が舌を巻くのも無理はない。
相手は二十代の、プロ昇格目前と言われる歴戦の猛者。
アマチュア最高峰の大会とはいえ、全国進出が懸かったこのレベルではヘッドギアすら装着しない、剥き出しの真剣勝負だ。
相手選手は人生を懸けた執念で、低く構えながら泥臭く何度もタックルを仕掛けてくる。
だが、画面の中の迅の動きは、そのすべてを上回っていた。
『大海! また左ジャブが面白いように当たります! 彼のバックボーンは、伝統派空手。地元・白帆島にある伝統派空手の名門道場で多くを学んだと』
『ええ。あの異常に遠い距離感から一気に飛び込む打撃をMMAにアジャストさせている。おまけに彼は、レスリング、グラップリングの処理も恐ろしく強い。相手からすれば、離れれば撃ち抜かれ、組んでも勝てない。かなり厳しいかもしれません』
相手選手は人生を懸けた執念で、低く構えながら泥臭く何度も打撃とタックルを混ぜ、果敢に仕掛けてくる。
だが、迅の腰は絶望的なまでに重い。
組み付こうとする突進を闘牛士のように軽ごといなし、万が一ケージに押し込まれても、卓越したレスリング力で難なく体を入れ替えて突き放してしまう。
そして離れ際に、容赦のないカーフキックを的確に蹴り込んでいく。
打撃で削られ、頼みの綱である『組み』の展開でもことごとく心を折られる。
焦りと足へのダメージでついに相手が完全に足を止めた、まさにその刹那。
『さあ、大海がギアを上げた! 右のストレートから左フック! 完全にコーナーへ釘付けにした! ここでフィニッシュに行くか!? 渾身の右アッパーッ!! ……あっ!?』
『滑った……!?』
画面越しに実況の絶叫と、解説の鋭い声が重なった。
たまらず相手がマットへ沈むのと——まったく同時に。
迅の身体もまた、糸の切れた操り人形のようにガクンと崩れ落ちたのだ。
「え……?」
リビングの母の笑顔が凍りつき、歓喜の悲鳴が喉の奥で詰まる。
『両者、ダウン!? 相打ちでしょうか!? いえ、違います! 大海も……立ち上がれない! 苦悶の表情を浮かべている! 一体何が起きた!?』
『……足ですね。今のリプレイ出ますか?』
パニックに陥る実況の横で解説の元王者が低く、沈痛な声を漏らす。
画面が切り替わり、決定打となったアッパーの瞬間がスローモーションで映し出された。
まずは、迅の拳が完璧に顎を打ち抜く鮮やかな映像。
それを見た会場の観客から、「おおぉっ!」という地鳴りのような歓声が沸き上がる。
だが、別アングルから足元を映した次の映像によって、その歓喜は一瞬にして凍りつくことになった。
『……やっぱり。踏み込んだ瞬間、マットに落ちていた何らかの液体――汗か、あるいは血か――で軸足が完全に滑ってます。相手のタックルを嫌って、そこに無理な体勢のままアッパーを打ってしまった。下から突き上げる力と、全体重の捻りが、すべて左足首に……ああっ、これは……』
『足首が、ありえない方向に……! レフェリーが試合を止めました! ドクターを呼んでいる!』
テレビのスピーカー越しにも、会場全体が息を呑み、あちこちから悲痛な悲鳴が上がるのがはっきりと聞こえた。
素人の綾音たちにも、その解説とリプレイ映像で何が起きたのかがはっきりと理解できてしまった。
圧倒的に勝っていたはずの彼が、ほんの一瞬の不運と、フィニッシュを急いだ過信によって、自らの足を破壊してしまった、とのことだった。
『……相手選手は完全に意識が飛んでいます。試合結果としては大海迅のノックアウト勝利、ということになりますが……』
『ええ。ですが、あの足の状態ではメディカルチェックを通るはずがありません。ドクターストップによる、事実上の棄権ですね』
『はい。記録上は彼の勝利ですが、この先のトーナメントには進めません』
「そんな……。嘘でしょ……」
綾音の母が力なくソファに崩れ落ちた。
『なんという残酷な結末! 猛者たちを薙ぎ倒し、
来月の全日本――『THE CLASH JAPAN GRAND PRIX』への切符をその手で掴み取れたかもしれない10代の若き天才が、ここで無念に散りました……!』
悲痛な実況の声が、リビングに虚しく響き渡る。
勝者として名乗りを受けることもなく、激痛に顔を歪め、医療スタッフに担架で運び出されていく画面の中の彼。
「勝ったのに……。勝ったのにっ」
嗚咽が漏れないよう、綾音は両手で強く口元を覆った。
あと少しで手が届くはずだった夢の舞台。
その重い扉が目の前で無情に閉ざされてしまった、彼の計り知れない絶望。
今日この日のために、彼がどれほどのものを犠牲にし、血の滲むような日々を積み上げてきたか綾音は知っている。
やり場のない悔しさと悲しさが堰を切ったように溢れ出し、綾音の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
◆◇◆
一方、県立屋内プール。 館内は、歓喜のどよめきに包まれていた。
「よっしゃあ! 莉緒、一位! 全国確定!」
「七瀬先輩、おめでとうございます!!」
プールから上がってきた七瀬莉緒に、タオルを持った部員たちが次々と駆け寄る。
「ありがとうっ! みんなのおかげだよ!」
水を滴らせながら、莉緒はいつもの眩しい笑顔を弾けさせた。
だが、彼女の興味は、自身の全国行きなどという些末なことからはすでに離れていた。
「ねぇ、迅は? 迅の試合どうなった?」
目を輝かせ、弾むような声でマネージャーたちを振り返る。
「時間的に、もう準決勝終わった頃だよね? 勝ったでしょ? 決勝の相手決まった?」
そこに焦りや不安は一切ない。 彼が負けるなどという可能性すらハナから想定していない、絶対の信頼を寄せた無邪気な声だった。
だが——その瞬間、その場にいた部員たちの空気が、サッと凍りついた。 誰も、莉緒と目を合わせようとしない。 まるでお通夜のような、重く、痛々しい沈黙がプールサイドに落ちた。
「え……?」
莉緒の無邪気な笑顔が、スッと引き攣る。
「……嘘、なんで、」
震える声で呟いた莉緒の前に、小柄な人影が進み出た。
水泳部のマネージャー、立華琴音だった。
いつも迅相手に悪態をついているはずの彼女の顔は蒼白で。
手にしたスマホを強く握りしめたまま、その大きな猫目からボロボロと大粒の涙を溢れさせている。
「……七瀬、先輩……」
琴音の唇が、震えていた。
「大海センパイ、が……」
その涙が意味するものを、莉緒は一瞬で悟った。
血の気が引くのを感じながら、琴音が差し出したスマホを受け取る。
画面に映っていたのは、一本の動画。
『【大会公式密着】バックステージ』 そんな重苦しい見出しの動画の再生ボタンを、莉緒は震える指で押した。
映像は、現代の格闘技興行で人気コンテンツとなっている「バックステージのリアル」を映し出していた。
『全然大丈夫だ、俺はいける。いけます。マジだから大袈裟すぎますって』
薄暗い通路。
担架に乗せられるのを拒み、両脇をスタッフに抱えられた迅が呟いている。 努めて冷静に、ひどく静かな声だった。
『まだ戦える。片脚でも、いける。グラウンドの展開に持っていけば……見てくれ、大丈夫ですって。ステップだって踏める』
その淡々とした口調が、かえって彼の心が限界を超えてひび割れていることを残酷に物語っていた。
迅はスタッフをそっと振り払い、無理やりその場でジャンプして見せようとした。
だが、左足が地を蹴った瞬間。
激痛に顔を歪めて崩れ落ちそうになり、慌ててスタッフに支えられる。
『冷静になれ、冷静になるんだ迅』
屈強なセコンドの男が迅の顔を両手で強く挟み込み、至近距離で言い聞かせた。
『未来があるんだ、お前には未来がある。こんなところで終わっていい選手じゃない』
『あと少し……。あとほんの少しなんです』
悲痛なほど静かな迅の訴えに、セコンドの男は泣きそうな顔で問いかけた。
『なんのために、お前は格闘技をはじめた?』
『…………俺の試合を見て、周りの人に、喜んでもらう、ため。誰かが、明日も頑張ろうって踏ん張れる活力に、なればって……』
『だったら尚更ダメだ、そうだろう?』
セコンドの男は、諭すような、けれど震える声で遮った。
『こんな姿で足を完全に壊して、誰が喜ぶ? 誰が明日への活力を貰えるんだ。みんな悲しむだけだ。指導者として、そんな無理は絶対に認められない』
『…………』
『今日のこの怪我は、お前を何倍も強くするための試練だ。……お前は賢い。理解できていないはずがない。そうだろう? 戦えないんだ。だったら、このどん底から這い上がる姿を見せて、お前を信じてる連中を励ましてやれ。それが一番の『活力』になるはずだ。……いいな?』
諭された迅は、ついに言葉を失った。
表情そのものはひどく静かで、どこか無機質にすら見える。 なのに、その見開かれた目から、大粒の涙だけがポロポロと止めどなく零れ落ちていく。
必死に取り繕った冷静な態度と、限界を迎えた心が引き起こすそのアンバランスな落差は。 声を上げて泣き叫ぶよりもずっと、見ていられないほどに痛々しかった。
莉緒は動画から目を背けたくなる。
それでも、瞬きすら惜しむように画面を見つめ続けた。
見ないとダメだ。 競技も、戦う場所も違う。 けれど、同じ夏に揃って全国の舞台へ立つ。 それが二人の、言葉にするまでもない絶対の目標だったのだ。
だからこそ、見届けなければならない。
たった一人で夢を絶たれた彼の絶望のすべてを、この目に焼き付けること。
それこそが彼女の、重く切実な『想い』だったからだ。
動画の中、セコンドがカメラに向かって手で制止のサインを送る。
『もういってくれ。……悪いが、わかるだろ?』
静かに去っていくカメラ。 選手への確かなリスペクトを感じさせるその映像は、そこで終わっていた。
プールサイドは、水を打ったように静まり返っていた。
あちこちから、女子部員たちのすすり泣く声が聞こえる。
男子たちも皆、やりきれない顔で唇を噛み締めて俯いていた。
大海迅は、この水泳部にとっても特別な「仲間」だった。
彼はトレーニングで誰よりも早くプールに現れ、誰よりも遅くまで泳ぎ続けていた。
恐ろしくストイックに、それこそ息継ぎの音すら忘れたかのような、鬼気迫るその背中。
隣のコースで、死に物狂いで水を掻く彼の姿に感化され、自分の限界を超えて努力できた部員がどれほどいただろうか。
特に男子部員たちにとって、同年代で大人の猛者たちと対等以上に渡り合う彼は、単なる友人以上の、莉緒と同じく町と学校の「誇り」そのものだった。
皮肉にも、今年この水泳部で全国の切符を掴めたのは莉緒ただ一人。
だからこそ皆、祈るような想いを、二人に託していたのだ。
自分たちの届かなかった悔しさは、全国区のスターである莉緒が。
そして何より、あの規格外の天才である大海迅が。
この夏、日本中にその名を轟かせてくれることで、自分たちの努力も報われるはずだと。
そんな部員全員の切実な希望の象徴だった彼が、今、画面の中でボロボロと涙を流している。
「迅……」
スマホを握りしめたまま、莉緒の目から大粒の涙がこぼれ落ち、冷たいタイルを濡らした。
◆◇◆
完璧だったはずの将来設計が、音を立てて崩れ去っていく。
まったく、現実は本当に甘くない。
あの時、マットの何かに足をとられたのは事実だ。
だが、そんなものは決して言い訳にはならない。
不運さえもねじ伏せられなかったのは、俺の弱さと驕りだ。
これをバネにしてまた挑むしかないのだと、頭では理解している。
前を向かなきゃいけないことも分かっている。
けれど――あぁ、酷く、やりきれない。
俺の夏が終わるのは、完全に自業自得だ。
だが、何も俺以外の全員の夏まで、一緒に終わることはなかったんじゃないか。
たとえば、うちの学園の水泳部。
俺個人のトレーニングのためにわざわざプールを貸してくれた恩があるし、皆がどれだけひ
たむきに努力していたかも知っている。
なのに、名門と呼ばれる水泳部ですら今年、全国の切符を掴んだのは莉緒ただ一人だった。
実力の世界だから仕方ないのはわかっている。
それでも思ってしまう。
どうしてあいつらの夏まであんなに無情に終わなきゃならないんだろう。
ぼんやりと窓の外を見上げる。
そこには、俺たちのやりきれない絶望なんて知る由もないと言わんばかりに
ただひたすらに眩しく、憎らしいくらいに青い、夏の空が広がっていた。
ここまで読んで頂きありがとうございます。この作品は筆者の好きな格闘技とカオスな恋愛、人間模様を書けたらいいなと。
----が好き。あの子が好き。先輩が好き。センパイが好き。----さんがすき。----と一緒に付き合えば、いいよね? ----くんが好き。 色んな好きが絡み合って何がどうなるか温かく見守っていただけると嬉しいです。
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七瀬莉緒(幼馴染)
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