百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮) 作:ちお
——夢を見た。
どこまでも青い海が広がっている。
絶え間なく鼓膜を揺らしていた波の音が不意に途切れ、俺は冷たい水の中へと沈んでいく。
水面に揺らめく太陽の光が急速に遠ざかり、全身を締め付ける水圧がじわじわと増していく。
苦しい。息ができない。溺れる。 見えない巨大な力が、上から体をがっちりと押さえ込んでいる。
「くはっ……!」
大きく息を吐き出し、弾かれたように目を見開いた。
強ばった肺に流れ込んできたのは水ではなく、ほんの少し湿気を帯びた、夏の朝の空気だった。
「おはよっ。目、覚めた?」
水面の上から——いや、ベッドのすぐ上から降ってきたのは、ひどく聞き慣れた声だった。
「じぃんくぅん。まだ夢の中、なのかな? ねっえ〜ん、迅ったら〜ん」
「……なんだその気持ち悪い喋り方は」
「あぁもうっ、ぜんっぜん張り合いないんだからっ」
視界の端で、莉緒が不満げに唇を尖らせているのが見えた。 窓の隙間から差し込む朝の光が、彼女の細い髪を透かし、淡い金の輪郭を作っている。
どうやって入り込んだのか、俺が丸まってかぶっていた掛け布団の上から体重をかけるようにして、間近に顔を覗き込んでいる。
どうやら、俺を押さえつけていた悪夢の正体はこいつだったらしい。
「……なんで毎朝起こしに来るんだ。近いし重い」
「朝練があるじゃない。だから」
「なんで水泳部の朝練に俺が付いていくんだよ」
「だって、前までは一緒に行ってたでしょ」
あっけらかんと答える声には、微塵の悪びれもない。
あの日のことなど最初から存在しなかったかのように、莉緒は『いつも通り』の幼馴染として接してくれている。
「俺の世話より、莉緒は自分のことに集中したほうがいいだろ。何度も言うけど、気を使わなくていいんだぞ」
突き放すように言った、直後だった。
不意に、布団の上から押し付けられていた重みがふっと軽くなった。
無邪気な笑顔がスッと消え、俺を見下ろしてくる瞳が、痛いほど真剣な色を帯びる。
「迅、あれからずっと一人で抱え込んでるでしょ。……誰かにちゃんと、弱音吐けた?」
ぽつりと落ちた、静かな声だった。
「もし大丈夫じゃないなら、抱きしめていっぱい慰めてあげるから。かっこつけないで、たまには甘えなよ」
冗談やからかいの色は一切ない。
普段なら「馬鹿なこと言ってないで早く退け」と呆れて追い払うところだ。
だが、今の彼女の声には、俺の心を真っ直ぐに案じる切実な響きがあった。
俺は視線を逸らし、喉の奥で詰まりそうになる声を必死に押し殺した。
「あー、ぶっちゃけると。正直、お前のその言葉だけで泣きそうだし、その提案はすごく魅力的だけど……制服、汚すからやめておく」
なんとか薄い笑みを作ってそう返した。我ながら、酷い強がりだった。
「そんなの、別に気にしな……」
言いかけた莉緒の言葉が、ふっと途切れた。 見れば、彼女の大きな瞳にも、じわりと涙が滲んでいた。莉緒はギュッと唇を噛み締め、慌てて両手で自分の顔をパタパタと仰ぐ。
「……もー。私が今日は絶対に泣かないって、決めてたのに」
鼻声になりかけた声で、莉緒がぽつりとこぼす。
「迅がそんな顔したら、つられちゃうじゃない……っ。これじゃあ、私が慰めに来た意味、全然ないじゃん……」
ぽろっと本音をこぼし、必死に涙を堪えようとする幼馴染の姿に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
俺はたまらなくなって、泣き笑いの表情のまま小さく息を吐いた。
「朝からベッドの上で、二人して何やってんだよこれ。どういう状況だよ」
「……っ、ほんとだよね。迅のばか」
俺の言葉に、莉緒も堪えきれずに吹き出した。 涙目のまま、ふにゃりと破綻した笑顔を見せる。
このままでは、本当に二人して泣き出してしまいそうだ。
俺は照れ隠しと、この距離感のバグった甘ったるい空気を断ち切るために、あえて意地悪な声を出した。
「じゃあ、一つ質問」
「ん? なにかね?」
「……お前、体重増えた? さっき布団の上に乗られた時、前よりちょっと重かったぞ」
一瞬の沈黙。 次の瞬間、莉緒の顔が耳の裏まで真っ赤に染まった。
◆◇◆
一学期最後の日。
外に出た瞬間、まとわりつくような熱気が全身を包み込んだ。 ジリジリと照りつける太陽が容赦なくアスファルトを焼き、遠くで鳴き始めた蝉の声が鼓膜を打つ。
「それにしても、今日も暑くなりそーだねー」
「こういう日は部屋で涼みながら、落ち着いて勉強するのがいいんだよなぁ」
「うっわー。迅が暑さのせいでおかしなこと言い始めた」
「うるせ。こっちは碌にトレーニングも出来なくて頭おかしくなりそうなんだよ。ていうか、まだ腫れも引いてないんだぞ。怪我人を毎朝引っ張り出すとか鬼かよ」
「はいはい。文句ばっかり一丁前だね。カビの生えそうな部屋で塞ぎ込んでるなんて、迅らしくないでしょ」
医者からの「骨に負荷をかけて強くしろ」という指示のもと、昨日から松葉杖を外している。 左足には、スニーカーの代わりに履いたゴツい装具一体型のウォーカーブーツ。
本来なら激痛で足をつくことすらままならないはずだが、俺の足は自力で歩行できるまでに回復していた。
『格闘家という人種にはいつも驚かされるよ。これまで色んな規格外の人間を見てきたが、君も例に漏れずおかしな身体をしている。常人離れした骨密度に、凄まじい自己修復力……いやはや、本当にどうなっているんだか』
呆れ顔の医者の言葉を思い出す。
どうやら俺は、専門家も舌を巻くほどの異常な回復力を持っているらしい。
医学的にあり得ないことが起きている現実に戸惑いはあるものの、今は誰にも迷惑をかけずに一人で歩けるという事実が何よりの救いだった。
不格好な歩き方ではあるが、無茶をしなければ平気だ。
全国大会を控えた莉緒に、余計な気を遣わせたくなかった。
だから俺は、あえて肩がぶつからないよう、少しだけ距離を取って歩いているというのに。
俺の左側――重心が不安定になる側へ、莉緒は何も言わずにスッと入り込んでくる。
もし俺がバランスを崩せば、地面より先に彼女の小さな肩が受け止めてくれる絶妙な位置取り。
そのあまりにも男前で、けれど限りなく優しい無言のサポートに、俺は内心でそっとため息をついた。
「もう一学期も終わっちゃうんだねー。明日からは夏休みだ」
「そうだな」
「……なによ、ノリ悪いなぁ。もうちょっとこう、弾む会話って出来ないわけ?」
「相手が莉緒じゃぁなぁ。イマイチ、新鮮味っつーものが……」
「それはお互いさまでしょ? もー。……仕方ない、アレやるか」
莉緒がニヤリと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「白帆学園水泳部に伝わる気合注入法!」
「いやなんでだよマジでやめろってバカなの!?」
「問答無用〜! 一泳入魂っっっ! ……ダァシャッ!!!」
嫌な予感がした直後。
背中に強烈な破裂音が響き、燃えるような手のひらの熱が芯まで突き抜けた。
「いっっっってぇ……! お前ちょっとは加減しろっつーの」
「冷めたハートじゃ愛せやしない、ってね」
「……俺は一向にかまいませんがね。別に愛されなんかしなくても」
「へぇ? 応援してくれるファンの人たちにも同じこと言えるんだ?」
「うっ……」
痛いところを突かれ、俺は言葉に詰まった。
「みんなの活力になりたい、なんて言ってたのはどこの誰だったかなー。ちなみに、私もその熱烈なファンの一人なんですけどー」
「……っ、それは、話が別だろ」
「あーもう、ひねくれてるっていうか、夢がないなぁ」
「夢ならあるわ。目先の夢は叶わなかったけども」
言ってから、しまったと思った。
空気が一瞬、重くなる。
それでも莉緒は、俺の捻くれた態度を気にも留めないふりをして、ことさら明るい声を出した。
「はいはい。切り替えていきなさいよ。でさ、青春時代、最後の夏なわけじゃない? 今年って。ラストチャンスなんだし、夢、見なくちゃ!!」
「具体的には?」
「え?」
「どんな夢が見たいんだ?」
「そ、そんなの、自分で考えなさいよ……」
「理不尽だな……。にしても、夢かぁ。莉緒的にはなんだ? ひと夏の思い出でも『誰か』と作りたいのか?」
こいつが誰を想定してそんなことを言っているのか、だいたいの察しはついている。
だからこそ、俺はあえて意地悪なカマをかけてやった。
「え!? ぇ、ぇーっと、なっ、なんていうか。あ、ほらアバンチュール!! ひと夏の甘くて刺激的なヤツ!」
案の定、図星を突かれて真っ赤に慌てふためく姿に、意地悪な満足感が胸をすく。
朝からずっとこいつにペースを握られっぱなしだったことへの、ささやかな意趣返しだ。
「当方、絶賛リハビリ中ですのでー。そんな浮ついた煩悩に取り憑かれている暇はございません」
「頑張れば、どこかに隙間ができるよ、きっと」
「……まぁ、隙間だらけだから間違いないな」
「まっ、とにかくっ!」
気まずい沈黙を切り裂くように、莉緒がパンッと両手を打った。
「なんか思い出は欲しいよね、ってことで! 普通の人っぽい思い出が!」
「悲しいことに、その『普通』がわからないな……」
「迅くんにはこう、ホラ、なにかないのかね? 予定とか」
「む……? あー、ひょっとして誘ってんの?」
「ん? うん、まぁ〜ちょっと、ねぇ」
照れ隠しのように、彼女は指先で頬を掻いた。 耳の裏が少し赤くなっているのが見える。
上目遣いで覗き込んでくるその顔に、俺は短く息を吐いた。
「ダメ? かな?」
「全国、終わったらな」
「うんっ! 約束、したからねっ!」
カラカラと、莉緒がスニーカーの爪先で蹴飛ばした小石が、乾いた音を立てて転がっていく。
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