百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮)   作:ちお

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4話『夏と海と夕暮れと君の体温』

 誰もいない早朝の教室。  

 窓から差し込む朝陽が、埃の舞う静寂を白く照らし出している。  

 広々とした空間に自分一人だけが取り残されているような、妙な所在のなさを感じていた。

 

「……にしても、綾音ちゃんも苦労するよな」

 

 『一学期最後の日だから一緒に行こう』と妹の立華にせっつかれて、こんな早朝から付き合わされているらしい。  

 立華は莉緒と同じ水泳部のマネージャーなわけで、必然的に登校が早くなる。立華も綾音ちゃんには甘えっぱなしだ。あんな我儘な妹の面倒を見るなんて、ずいぶん人がいい。

 

 ……なんて、他人事のように呆れてみたものの、俺も人のことは言えない。

 

 莉緒の朝練に付き合うとなると、必然的に教室へは一番乗りになってしまうのだ。

 付き合うと言っても、俺は校門まで一緒に登校するだけでプールまでは行かない。

 莉緒はやたらと『迅も何か手伝え』とせっついてくるが、顧問の先生もマネージャーの立華もいる。    

 

 そもそも水泳部ですらない俺の出る幕はないんだよな……。

 

 自分の席につき、鞄を置いてスマートフォンを取り出しイヤホンをつける。

 開くのは動画アプリ。  

 検索履歴は格闘技の試合映像やスポーツ整形の最先端治療、そしてリハビリに関する動画で埋まりきっていた。

 左足を怪我して、今年のプロ入りは遠のいた。

 もちろん夢が絶たれたわけじゃない。

 来年こそは必ずアマチュアの頂点を獲ってプロへ行く。  

 主治医からは『装具をつけての歩行は問題ないが、足への強い負荷は厳禁だ。下半身は水中で歩く程度の地道なリハビリから始めるしかない。絶対に焦るな』と釘を刺されている。

 急がば回れ。頭では分かっている。  

 分かってはいるが、それでも「他に少しでも早く治るいい治療法はないのか」と、藁にもすがる思いで検索窓に文字を打ち込み続けてしまう。

 検索に疲れると、今度は海外の総合格闘技の試合動画を再生する。  

 画面の中で激しく交錯する拳。飛び散る汗。  

 まともに動けない今の自分が酷く空っぽで、その空白を埋めるために、何かを無理やり入れていないと落ち着かない。その結果こうして小さな画面に齧り付いている。

 

(……莉緒は凄いな)

 

 不意に、隣の席にいない幼馴染の背中を思う。

 

 七瀬莉緒は、例えるなら『風に乗る鳥』だ。

 

 周囲の期待も、プレッシャーも、吹き付ける重圧のすべてを軽やかな揚力に変えて、彼女は涼しい顔のままトップという高みを飛び続ける。

 俺は違う。

 莉緒が大空を舞う鳥ならば、強いて言えば『絶壁にへばりつく泥臭いクライマー』だろうか。  

 上を目指すためには、余計なものを抱え込む余裕なんてない。

 だから普通の学生が経験する青春や遊びなど、少しでも重りになる荷物は、選別する間もなくその大半を谷底へ切り捨ててきた。

 その代わり、絶対に誰にも負けないという狂気じみた執念だけで、血の滲む手で岩肌を掴み、ひたすらに上へ上へと這い上がってきたのだ。    

 自分には才能なんてない。誰よりも劣っているからこそ、誰よりも努力し、泥だらけ傷だらけになって登り続けるしかないのだと定義する。

 

 格闘技という険しい岩壁に爪を立てることでしか、俺は自分を保てなかった。

 

 だが、怪我によって上を目指すことを禁じられた今、その歪さが如実に牙を剥いている。  

 宙ぶらりんの状態で手足を止められた俺には焦燥感と、どこへも行けない空っぽの虚無感だけが残された。

 

 身動きの取れないこの壁で、今、何を生きがいにすればいいのか分からない。    

 リハビリをこなし、怪我を治すために来年に向けて地道にやっていく。    

 今やるべきことなど、頭では痛いほど分かっている。    

 それなのに、どうしてこんなにも心が晴れないのか。

   

 たった一度の挫折をいつまでも引きずるなんて。  

 

 こんな脆弱なメンタルで、厳しいプロの世界はおろか、この先の人生すらやっていけるわけがないだろうに。

 

 本当に、自分のことながら呆れ果てる。

 

 イヤフォンから流れる試合の歓声と打撃音に意識を沈めようとした、その時だった。

 

「――迅くん、おはよう」

 

 耳元に届いた柔らかい声に、俺は弾かれたように顔を上げた。    

 

 イヤホンを外して振り返ると、教室の入り口に、風畑(かざはた)さゆりが立っていた。

 

 彼女はこの白凪島の名家、風畑家の令嬢だ。  

 容姿端麗で成績もトップクラス。いくら世間で格闘技が持て囃されているとはいえ、興味のない人間――ましてや深窓のお嬢様からすれば、総合格闘技なんて血みどろで野蛮な暴力でしかないはずだ。

 本来なら俺のような粗暴な人間とは住む世界が違うのに、彼女はそんな違いなど一切気にすることなく、いつも年上のお姉さんのような深い包容力で俺たちの輪に寄り添ってくれる。

 

 俺と莉緒がくだらない口喧嘩を始めれば、いつも上品に笑って見守り、時には仲裁してくれるし、莉緒の突拍子もないワガママを上手く宥められるのも彼女だけだ。    

 天才ゆえにどこかマイペースで浮世離れしている莉緒と、格闘技以外は不器用極まりない俺。

 そんな凸凹で危なっかしい俺たちにとって、さゆりのその大人びた雰囲気はどこか居心地が良い。

 高校に入ってからずっと同じクラスという縁もあって、家柄の差なんて忘れてしまうくらい、今ではすっかり気の置けない間柄になっていた。

「熱心ね。朝からお勉強?」

「いや……格闘技の動画。あとは、足の怪我の治療法とか調べてただけだ。医者には焦るなって言われてるけど、なんか他にいい治療法がないかと思ってさ」

「そう……」

俺は苦笑いして、スマホの画面を見せた。  

 さゆりはゆっくりと歩み寄ると、俺の前の席の背もたれにそっと手を添えた。

「こちら、お借りしてもよろしいかしら?」

「ん? いいよいいよ、俺の席じゃないけど大丈夫」

(座るのにも一言断るのか。いやいや、律儀だな……)   

 背筋の伸びた品のある所作で腰を下ろす。

 開け放たれた窓から初夏のぬるい風が吹き込み、彼女の甘く上品な香水の匂いがふわりと鼻先を掠めた。

 

「そういえば……」

 

 俺はスマホの画面を伏せ、少しだけ息を吐いた。

「俺が怪我してから、こうやって二人きりで話すのは何気に久しぶりだな」

「そうね。……色々と、落ち着いた頃かなって思って」

「そうだな、とりあえずは。さゆりが気を利かせてそっとしておいてくれてたのは分かってたけど……正直、距離を置かれたかと思って少し悲しかったぞ?」

 

 照れ隠しもあって、あえて冗談めかして言ってみる。

 

「――ほんと?」

 

 すっ、と。    

 

 さゆりが俺の机に両肘をつき、身を乗り出すようにして顔を近づけてきた。  

 サラリとこぼれ落ちた艶やかな黒髪が、机の上の俺の手にふわりと触れる。

 

「えっ……」

 

 長い睫毛に縁取られた、春の陽だまりのようなやわらかな光を写す瞳。

 だが、その奥底にはぞくりとするほど甘く、艶やかな光が揺れている。   

 誰もいない朝の教室。

 ほんの少し身じろぎしただけで鼻先が触れてしまいそうな距離で、彼女は声を潜めて囁いた。

 

「悲しかったって……ほんとに?」

「それはまぁ、本当だけど……」

「……ふふっ。嬉しいわね」

 

 吐息のように囁かれた声が、耳元を甘くくすぐる。    

 ゆっくりと身体を離していくさゆり。残されたのは、濃くなった香水の残り香と、俺の早鐘のように鳴る心臓の音だけだ。

 

 ……さゆりって、こんなに大胆というかなんというか、こういうキャラだったのか……?

 

 俺が知らないだけなのか。それとも、女子という生き物自体が難しすぎるのか。

 自分の経験値の足りなさを恨めしく思う。

 

「迅くんはいつも考えすぎじゃないかしら?」

「んえ?」

 

 唐突な言葉に、俺は間抜けな声を出した。

 

「人間関係とか、格闘技とか、色んなこと。……もっとシンプルでいいと思うけど」

 

 彼女は窓の外の青空へ視線を向け、細く白い指先で自身の髪を弄りながら、静かに告げた。

 

「ふふっ」

 

 まるで大切な弟を愛でるような、けれどその実、俺のすべてを手の平で転がしている余裕を滲ませて。彼女は艶やかに笑い、立ち上がった。

 

「考えすぎて無防備に立ち止まっていると、誰かに、後ろからあっさりと攫われてしまうわよ? 気をつけてね」

 

 艶やかな微笑みと、意味深な言葉の余韻。  

 呆然とする俺を残して、さゆりは静かに身を翻し、窓際にある自分の席へと歩き出していった。  

 その真意を測りかねているうちに、俺は一人、甘い香りの残る座席にぽつんと取り残されていた。

 

 

* * *

 

 

 予鈴のチャイムが、静寂を破るように鳴り響いた。

 

「というわけで、明日から夏休みに入るわけだが。分かってると思うが、この夏が勝負の分かれ目だ! ただの凡人で終わるか、世界をひっくり返すような大物になるか! 第一の関門だと思え!」

 

 ホームルーム。代理でやってきた一年担当の綾女先生が、教卓で無駄に熱弁を振るっている。

 

「あとは……時刻表トリックだけに振り回されるな! 第一発見者を目撃しているヤツから怪しいと思え! それじゃ、来学期まで、アデュー!」

 

 嵐のように去っていった先生を見送り、俺は呆れながら隣の席を見た。

 

「んぁーーーぁ、っとっとぉ」

 

 ずっと机に突っ伏していた隣の席の莉緒が、変な声を上げながら大きく伸びをしている。

 

 朝練を終えて教室に来るなりダウンしていた彼女は、どうやら綾女先生が教室に入ってから出るまで、完全に眠りの世界へと旅立っていたらしい。

 

「……よくあんな騒がしい中で寝れるな、お前」

「んー、疲れてるのかなー? やっぱり」

「ほら、通知表」

「うげ」

「乙女がなんて声を出すんだ」

「だってぇ……」

 

 俺は机の中から二つ折りの白い紙を渡し、自分のも手元で開いた。

 

「どうだった?」

「ほらほらっ、あれだよ。私、推薦狙いだから!」

 

 莉緒は胸を張るが、俺の成績はと言うと、推して知るべしだ。

 先月まで格闘技に打ち込んで勉強なんて全然していなかったのだから、努力もしない癖に結果はついてこない。

 

「結果はついてこない、か……」

 

 教室のあちこちでは、明日からの夏休みの予定を立てるクラスメイトたちの浮ついた声が響いている。カラオケ、海、合宿、あるいは夏期講習。  

 大空を舞う鳥と、絶壁にへばりつく泥臭いクライマー。

 上を目指すために、少しでも重りになる青春という荷物はすべて切り捨ててここまで来た。

 まともに学生らしい楽しみを享受してこなかった自分にとって、この放課後の喧騒はどうにも所在ない。  

 それに、今日は莉緒の朝練に付き合って早朝から学校にいる。

 重い装具をつけた左足も、少しばかり休息を欲しがっているようだった。

 

(……よし、今のうちに帰るか)

 

 みんなが予定を話し合っているどさくさに紛れて、こっそりと教室を抜け出そう。

 

 リハビリもあるし、何よりこの「一学期お疲れ様」というお祭り騒ぎの中に、今の俺の居場所は見つけられそうにない。

 

 そう思って、物音を立てないように鞄を肩にかけ、逃げるようにドアへ向かおうとした――その時だった。

 

 ぐいっ。

 

 背後から、シャツの袖を力強く掴まれた。

 

「うぉっ? 何すんだよ!」

「逃がさないよっ。勝手に一人で帰ろうとしないでよね」

「ああ、用事があるから帰るんだよ! 離せっ、シャツが千切れるーっ!」

「だーめ! 今日の迅の『用事』は、私と一緒に帰ることですー!」

「あらあら。相変わらず、微笑ましい幼なじみだこと」

 

 俺の袖をまるで雑巾のようにねじり手繰り寄せる莉緒と押し問答をしていると、クスッと上品な笑い声が降ってきた。    

 振り返ると、すでに鞄を手にしたさゆりが、俺たちの席まで歩み寄ってきている。

 どうやら莉緒を迎えに来てくれたらしい。

 

「あ、さゆり! 迎えに来てくれたんだ。ごめん、さっきまで爆睡してて、帰る準備まだで……」

「ふふ、お疲れみたいね、莉緒。……それで? 今日は迅くんも連行していくの?」

「うんっ! 逃げようとしてたから捕獲したの!」

 

 莉緒は俺の袖を掴んだまま、えへへと無邪気に笑う。    

 普段は部活漬けの莉緒が放課後すぐに帰れる日は珍しい。

 俺はプールを借りるときだけ莉緒と帰るときはあるがそれも最近はあまりなかった事を思い出す。

 だからこそ、俺も含めていつものメンバーで帰りたかったらしい。

 

「はぁ!?? 俺もかよ!!??」

「あからさまにイヤって顔しちゃって。いいじゃない、たまには」

「そうよ、迅くん。私も久しぶりに二人と帰るの楽しみにしているんだから」

 

 さゆりは親友である莉緒のワガママを全面的に肯定し、俺が振り回されるのを楽しんでいるような悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 莉緒の天才的なマイペースさと、さゆりの有無を言わさぬお嬢様の圧力。

 クラスでも一目置かれるこの二人が結託したら、俺に逃げ道なんてあるはずがない。

 

「ほらほら、行くよ迅っ。昇降口で琴音が待ってるから!」

「あーもう、わかった! わかったから引っ張るな、転ぶから!」

 

 屈託のない笑顔で袖を引く莉緒と、その後ろを優雅に歩くさゆり。    

 一人で勝手に引け目を感じてフェードアウトしようとした俺の不器用な逃走劇は、開始わずか数秒であっけなく終わりを告げた。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 そのまま莉緒に引きずられるようにして昇降口へ向かうと、暑苦しいほどに抱き合っている(というか立華が一方的に擦り寄っている)立華姉妹と合流し、俺たちは帰り道を歩き出した。

 

「七瀬先輩~~〜〜また明日~~~!」

「またね~~~気を付けて帰るんだよ~~~」

 

 分かれ道で、さゆりと立華姉妹を見送る。    

 

 残された俺と莉緒は、並んで日陰を渡りながら歩を進めた。  

 潮風で赤茶色に錆びたガードレール。

 海岸沿いに続く、うねるような坂道。

 遠くの港から響く、漁船の低いエンジン音。    

 少し歩けば、昔二人で秘密基地扱いしていた防波堤が見える。

 この白凪島には、不思議なほど、あいつと一緒に同じ景色を見た記憶が転がっていた。

 

「おっ、とと……」

 

 ふと、前を歩いていた莉緒が、道路の端の白線の上だけを綱渡りのように歩き始めた。

 両手を広げて、落ちないように器用にステップを踏んでいる。  

 その無邪気な後ろ姿を見て、俺の口から自然と言葉がこぼれた。

 

「お前、まだそれやってんのか。……白線から落ちたら、アスファルトの下を泳いでるサメに食われるってやつ」

「えっ、迅、覚えてたの!?」

 

 莉緒がくるりと振り返り、パッと花が咲いたように笑った。

 

「当たり前だろ。毎日毎日、お前が『サメが来るー!』って騒いで俺にしがみついてくるからまともに歩けた試しがないわ」

「あははっ! 懐かしいねぇ。あとさ、迅とよく『テトラポッドの奥には海の怪物の国がある』とか言って、二人で隙間を覗き込んで震えてたじゃない!」

「……言ってたな、そんなこと」

 

 子供の頃は、この島のあちこちに『色んな不思議』がたくさんあった。

 

 夕方のサイレンが鳴り終わるまでに防波堤を越えないとお化けが出るとか。

 大きな貝殻を耳に当てれば、海の底の国のラジオが聞こえるとか。

 

「あの頃は、全部が本当にあると思ってたよね」

 

 莉緒が愛おしそうに目を細め、潮風に光る海を見つめる。

 

「そうだな」

 

 俺も同じ景色を眺める。  

 けれど、少しずつ大人になるにつれて。

 不思議はたくさんあったけれど、そのいくつかの魔法は大人になるにつれて解けてしまった。

 今の俺の目には、テトラポッドはただのコンクリートの塊にしか見えないし、白線はただの塗料だ。  

 

 ……だというのに。

 

 景色からそんな不思議が消えてしまっても莉緒と笑い合った記憶は、ちっとも色褪せずに残っている。

 

「よっと。……夕方でもあっついよねー」

 

 白線からピョンと飛び降りて、莉緒が背伸びをする。  

 焼けたアスファルトと潮の匂いが混ざる夏の空気を吸い込み、俺は少しだけ俯きながら口を開いた。

「お前は毎日、水の中で練習してるから涼しくていいじゃん」

「そんなことないよー。今日みたいに練習がお休みの日は、迅と同じで普通に暑いんだから」

「……それもそっか」

 

自分で口にした『練習』という響きが、勝手に胸を突いた。  

莉緒には明日も当たり前に帰る場所がある。俺には今、それがない。  

短い沈黙のあと、俺は自嘲気味に息を吐き出した。 

「なあ、莉緒。水泳は好きじゃないか?」

「え?」

「あ、責めてるとかじゃないぞ? 純粋な疑問だよ」

「......……どうかな。まだ、わかんないかも。でも、なんで?」

「んー。そうだな......」

 

 俺は視線をコンクリートの地面に落としたまま、ぽつりぽつりと零すように言葉を繋いだ。

「まず知っての通り、俺は格闘技が好きだ。毎日練習していたいし、人生のほとんどの時間を費やしたい」

「うん......」

「でも、今はどうしていいかわからない。自分の中心にあったものが消えて、あんなにあった自信も揺らいでる。……いやぁ、情けない。莉緒にも心配をかけてるし、みんなにも気を遣わせてしまってるのが、なんとも……」

 

ふと、莉緒が立ち止まった。 振り返ると、彼女はどこか真剣な、それでいてひどく思い詰めたような、うまく笑えないでいる顔で俺を見つめていた。

 

「……迅はそうだよね。ずっと自分を限界まで追い込んでないと、不安になっちゃうんだもんね」

「……出遅れていると考えるとどうしてもな」

「でも、今は怪我してて、体を動かして不安を誤魔化すこともできないでしょ?」

 

 

 莉緒の細い指が、自身のスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。

 

「ねえ。明日から夏休みでしょ。とりあえず、来てみない? プール」

「……プールにか? 俺がいたら邪魔だろ?」

「そんなことないって。別に技術指導をしてとか言ってる訳じゃないし。……ただ、同じものを、見ててほしいの」

「同じもの?」

 

「うん」  

 

真っ直ぐな瞳が、俺を射抜く。

 

「迅が一人で抱え込んでいると、迅の世界から私たちが消えちゃうみたいで。知らないところで迅が変わっていくのが、すごく怖いよ」

「莉緒……」

「今はただ、側にいて、同じものを見られたら、それだけでいいから」

 

 それは、天才と呼ばれる彼女からは想像もつかないほど、弱々しくて切実な響きだった。

 

「今は少しだけ、神様が迅をもっと強くするための『助走期間』をくれたってことで……ダメかな……?」

「…………」

 

俺は小さく息を吐き、頭を掻いた。    

莉緒たちの光の中に混ざれば、俺の空っぽさが際立つ。それが酷く怖い。けれど……

 

 先ほどまであんなに頑なだったはずの防御壁が、莉緒のひどく脆そうな表情と、絞り出すような願いを前にして、あっけなく崩れ去っていくのを感じていた。

 

「……行くよ」

「え? ほんと!?」

「なんだよ。莉緒が誘ったんだろうが。何もできないし邪魔になりそうだけど、明日、朝からちゃんと顔出すから。……だから、そんな泣きそうな顔すんなって」

「え……!?」

 

 指摘されて、莉緒は慌てて自分の目元を両手で覆った。

 

「あ、ご、ごめん……! なんだろ、アハハ、これは違うから、あれ? うまくできないや。どうしてだろ、ごめんね……!」

 

 顔を真っ赤にして、涙を誤魔化すように笑う莉緒。

 その不器用で懸命な姿を見ていると、俺の胸の隅っこにへばりついていたドロドロとした感情が、彼女の放つ熱に追いやられるようにして、ほんの少しだけ奥へ引っ込んでくれた。

 そのまま、互いに照れ隠しのような他愛のない軽口を叩き合いながら、俺たちは並んで家路についた。

 やがて、細い路地を挟んで向かい合う、それぞれの家の前に着いた。

 

「じゃあ、また明日」

 

 俺が自分の家の扉に手をかけた、その時だった。

 

「ねえ」

 

 莉緒が、俺のシャツの裾をちょこんと摘んだ。

 

「ちょっと、本当に少しだけ、玄関まででいいからお邪魔していい?」

「ん? ああ、いいけど。どうした?」

 

 ガチャリとドアを開け、二人で俺の家の玄関に入る。  

誰もいない家の中はしんと静まり返っていた。西日がすりガラス越しに差し込み、狭い玄関をノスタルジックなオレンジ色に染め上げている。

外の刺すような暑さとは違う、閉め切られた家特有の、むせ返るような夏の熱気と沈黙が二人を包み込んだ。

 

「お邪魔します」

「あいよ。……で?」

 

 靴を脱ぐわけでもなく、莉緒はたたきに立ったまま、くるりと俺の方へ向き直った。

 

「じゃあ迅、ほら、屈んで」

「かがむ? こんなところで?」

「いいから屈む!」

「……あいよ。どうしたらいい? 膝立ちになればいいか?」

「うん、そうだね。それくらいかな?」

「ん?」

 

装具を庇いながら、ゆっくりと片膝をついて目線を落とす。  

すると、莉緒が一歩踏み込み、俺の目の前、鼻先が触れそうなほどの至近距離に立った。

 

「今朝、言ったよね。いっぱい甘えていいよって、慰めてあげるからって」

「……いや、確かに言ってたけど……」

「ん、きて」

 

 甘く、けれど有無を言わさない声。  

 次の瞬間、莉緒の細い腕が俺の首元に回り、その柔らかな身体が、俺の頭を胸元に抱き込むように密着した。

 

「……莉緒?」

「えらいえらい。毎日、苦しいのにちゃんと我慢して、頑張ってて迅は本当にえらいね」

 

 シャンプーの甘い香りと、汗ばんだ肌の匂いが混ざり合って鼻腔をくすぐる。  

 

 耳元で囁かれる、幼い子供をあやすような優しい声音。

 

 俺の情けなさもみっともなさも、すべてを丸ごと溶かしてしまうような、泣きたくなるほど甘くて柔らかい温もりだった。

 

 

「莉緒、お前……」

「んー、今は喋んないの。迅は、いっぱいいっぱい頑張ってるんだから」

 

 ぽん、ぽん、と。  

 

 俺の後頭部を撫でる彼女の手のひらは、ひどく優しくて。  

 

 オレンジ色に染まる静かな玄関で、俺はしばらくの間、その温かさに抗うことができずにいた。

 

 




これは間違いなくヒロイン

参考までに。どのキャラクターとの絡みが見たいですか?

  • 七瀬莉緒(幼馴染)
  • 立華琴音(アホの子)
  • 立華綾音(良い子)
  • 風畑さゆり(お嬢様)
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