百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮)   作:ちお

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読まなくても問題ないものなので興味ある方だけ。


風畑さゆり(1)

姿見に映る自分を、彼女は冷めた目で見つめる。

 

すれ違う誰もが息を呑み、思わず道を譲る。

 

手入れの行き届いた艶やかな長い黒髪に、白磁のように透き通る肌。

感情を透かさない涼やかな瞳と、常に凛と伸びた背筋。

 

隙のない『完璧な令嬢』の皮を被った、風畑さゆりは、白帆島という小さな世界において、良くも悪くも特別な存在だ。

風畑家は、明治期から続く海運業を束ね、この島のインフラと不動産の多くを牛耳る旧家である。

 

グループの会長を務める祖父は政財界にも顔が利き、良く言えば島の経済を支える重鎮、悪く言えば島を支配する一族だった。

 

だからこそ、風畑の人間に向けられる感情はいつも決まっている。

 

 

「畏敬」「羨望」「媚び」「嫉妬」「悪意」。

 

 

小学生、中学生と年齢が上がるにつれて、周囲の態度はより露骨で陰湿なものになった。

腫れ物のように遠巻きにされるか、打算で擦り寄られるかのどちらか。

そして高校に入学してからも、その呪いのような空気は当然のように私を縛り付けた。

 

女子からも男子からも、あることないこと陰口を叩かれ続けた。

 

最初は『名家の娘としての試練』だと気にしないつもりでいたけれど、私の無抵抗が甘く見られたのか、嫌がらせは次第にエスカレートしていった。

 

そんな中で、誰とでも屈託なく接する太陽のような莉緒と出会い、意気投合して親友になれたことは奇跡のようだった。

 

けれど、それは同時に、周囲の嫉妬をさらに買う理由にもなった。

 

莉緒は必死に私を庇い、彼女の持ち前の明るさと影響力で、表立った嫌がらせはだいぶマシになった。莉緒には心から感謝している。本当に、優しくて良い子だ。

 

……けれど、莉緒の優しさに守られているだけで、何もできなかった自分が情けなかった。

 

表立った嫌がらせは減ったとはいえ、まだ水面下で特定のグループからの陰湿な陰口は続いていたから。

そんな時、息の詰まるような私の日常を不意にひっくり返してくれたのが、莉緒の幼馴染である大海迅くんだった。

 

当時の彼は――今でこそ少しばかり柔らかな顔も見せるようになったけれど――自分の世界が『格闘技』と『親しい友人』の二つだけで完結しているような人だった。

 

0か100か。莉緒には身内のように甘い顔を見せるのに、他の人間とは全く話さない。

 

無表情で威圧感があり、白帆島発、格闘技界の若き『超新星』としての圧倒的な知名度も相まって、正面切って彼につっかかろうとする人間なんて誰もいない。

 

私と同じ。息の詰まるような「特別視」という名の孤独を、一身に集める存在。

 

白帆学園の『太陽』として君臨する莉緒は、誰もが憧れ、愛してやまない特別な存在だ。

彼女の光はすべてを暖かく包み込むからこそ、誰もがその引力に惹きつけられていく。

 

『家柄』という豪奢な鳥籠の中で息を殺している私と、『圧倒的な強さ』を持ち、己のテリトリーの外にいる有象無象などどうでもいいと切り捨てている彼。

 

規模も理由も全く違うけれど、仄暗いその場所で、私は勝手に彼と似たような孤独の匂いを共有してる気がしていた。

 

そんな彼が、私の陰口を叩いていたグループを、容赦ない言葉で完全に黙らせてしまったことは、私にとってひどく鮮烈だった。

 

どうして他人に無関心な彼が、そこまでしてくれたのか。

 

『莉緒の親友なら、俺の身内同然だからだよ』

 

事もなげにそう言い放った彼独特の極端な感性に触れて、私は彼がどんな人間なのか、もっと深く知りたくなった。

 

 

当時、誰もいない放課後の教室で、勇気を出して私は彼に聞いてみたことがある。

 

「大海くんは……」

「ん?」

 

私は少し視線を落とし、言葉を探すように言い淀みながら問いかけた。

 

「その……周りからの心ない言葉や、理不尽な悪意には……どういうふうに対処しているの?」

「なるほど……それは学校で? それともネット?」

 

「……すべて含めて、かな」

 

面と向かって彼に喧嘩を売る人間はいない。

けれど、自身の身が安全だとわかっている場所――匿名のネットの海や、絶対に本人の耳には届かない遠巻きのひそひそ話の中でなら、人間はどこまでも残酷になれる。

 

大海くんは、私なんかよりよほど酷い言葉を投げつけられている。

 

背負っている知名度の規模が違うのだから、当然かもしれない。

もちろん、若き「超新星」への華々しい称賛も多い。

けれどその一方で、一部からは嫉妬や悪意にまみれた、かなり酷い言葉が向けられている。

わざわざ調べなくても、同じ学園で彼に向けられる遠巻きの空気を感じていればわかったし、莉緒が時折こぼす心配そうな言葉からも、その過酷さは明らかだった。

 

私よりもずっと巨大な重圧と、卑怯で理不尽な悪意に晒されている彼が、どうしてあんなに堂々と立っていられるのかを知りたかったのだ。

 

 

少しの沈黙。じっと私を見つめ返した黒い瞳の奥に、静かな気づきの色が浮かぶ。言葉の裏にある私の意図を、彼がはっきりと察してくれたのがわかった。

 

「……風畑は、優しい子なんだな」

 

唐突な言葉に、私は目を丸くした。何をどう受け取ればそうなるのだろう。

 

 

「自分が辛い時に、俺の心配までしてくれてるんだろ?」

 

「……心配ではなくて、ただの興味本位かもしれないのに?」

 

 

気恥ずかしさから、私がわざと意地悪く返すと、彼はあっさりと頷いた。

 

 

「そうだな。そうかもしれない。俺が勝手に勘違いしているだけかも。でも、それなら勘違いさせておけばいい。その方がきっと、お互い得だしな」

 

 

私の捻くれた強がりを、彼はあっさりと受け流した。

無理に腹を探り合うでもなく、私が張った意地悪な予防線を、そのまま「逃げ道」として残してくれたのだ。

その気負いのない態度にすっかり毒気を抜かれてしまった私を見て、彼は話を元に戻すように首を傾げた。

 

 

「で、悪意にどう対処しているか、だったよな」

 

 

私が言葉に詰まっていると彼は静かに、とてもよく通る声で問いかけてきた。

 

 

「誰かがバカだと言えば、俺はバカになるのか? 愚かだと言われれば、愚か者になるのか?」

 

「ならない、わ」

 

「そうだ。風畑は、自分をどんな人間だと思っているんだ? 誰かが言ったしょうもない作り話通りの人間なのか?」

 

「私は……」

 

 

私は、どんな人間なんだろう。

 

 

「誰にだって誇りはあるだろ。どんな小さいことでも、なんでもいい。自分の真ん中に、誰に罵られても殴られても蹴られても、絶対に曲げてやらないっていう信念が」

 

「……あるわ」

 

私は膝の上で、きゅっと両手を握りしめた。

胸の奥で燻っていた思いが確かな熱を帯びていく。

 

「私は、根も葉もない悪意で他人を貶めるような、浅ましい人たちと同じにはならない。いつだって強く、気高く、誰に恥じることもない自分でいたい」

 

泥を投げられても、同じように泥を投げ返すような真似はしたくない。

それは、私がこの息の詰まる世界でずっと手放さずにいた、ちっぽけで意地っ張りな自尊心だった。

 

 

「……でも。その誇りを守るために、彼らと同じ土俵に降りず、ただ黙って耐え続けていても……結局は心がすり減っていくばかりで。強くあろうとすればするほど、どうやって自分を守ればいいのか、分からなくなるの」

 

 

ポツリと零れ落ちた本音。誰にも見せたことのない情けない弱音を吐き出してしまう自分に驚きながら、私はすがるように彼を見上げた。

 

それほどまでに、私は追い詰められていたのだろうか。

 

あるいは、私と同じように重たい孤独の中にいる彼になら、この息苦しさを壊す確かな答えを持っているのではないかと、無意識に期待していたのかもしれない。

 

 

「……大海くん」

「俺みたいな不器用な人間のやり方だ。参考になるかわからないぞ?」

「ううん。……ぜひ、聞かせて欲しいの」

 

 

彼は少しだけ困ったように首を掻いて、それから、まっすぐに私を見た。

 

 

「人の意見を変えることなんて、どだい無理な話だ。それに、誰も彼もが俺を好きだったり、称賛してきたりしたら……正直、気持ち悪いだろ」

 

「ふふっ……そうね、確かに」

 

「『みんな違ってみんないい』なんて綺麗事を言うつもりもない。嫌いなら嫌いでいい。好き勝手に言えばいいと思ってる。――俺個人のことだけならな」

 

「……もし、大海くんの大切な人達が悪意に巻き込まれたら?」

 

「容赦しない」

 

 

静かで、淀みのない声。

その短い言葉に込められた圧倒的な凄みに、空気がピリッと張り詰めるのを感じた。

 

 

彼が言う「俺の身内」の線引きに、私がしっかり入っていたという事実に、胸の奥が甘く、じんわりと熱くなる。

 

「だけど」と、彼は纏っていた凄みをふっと緩めた。

 

 

「外からのノイズにはいちいち耳を貸さない。他人の評価なんかで、自分の価値は上下しない。俺はシンプルに、俺の主人は俺だけだと思って生きている」

 

 

彼はそこで一度言葉を区切り、自らに言い聞かせるように、静かで熱を帯びた声で続けた。

 

 

「無責任な賞賛に甘えたくもないし、悪意を言い訳にして腐りたくもない。自分を評価して、律して……間違った時には誰よりも厳しく咎めるのは、他の誰でもない『俺自身』だ」

 

 

その真っ直ぐな言葉を聞いて、私は息を呑んだ。

他人の評価を気にしないということは、逃げ道を作らないということだ。

己の弱さを誰よりも厳しく裁き、正しい道へと導くのは己自身だという、ひどくストイックで孤独な覚悟。

 

なんて気高いんだろう。

 

同じように孤独な場所に立っていながら、彼は私なんかよりもずっと強く、美しく、自分の足で立っていた。

 

彼へのどうしようもないほどの尊敬が胸に満ちていく中、彼はふっと息を吐き、いつもの彼に戻った。

 

 

「……で。その手綱を他人に渡さないために、俺が使っている『魔法の言葉』がある。特別に教えてやろうか」

 

 

ふと、彼にしては珍しく、少しだけ得意げな――年相応の少年らしい、無邪気な表情が浮かんだ。

 

 

「魔法?」

 

 

私が聞き返すと、彼はすぐには答えなかった。

微かに吹き込んだ風が、窓際の白いカーテンをふわりと揺らす。

誰もいない静かな教室の中で、彼の真っ直ぐな黒い瞳が、私の目をじっと捉えて離さない。

一秒、二秒。わざとじらすような、それでいてひどく真剣な沈黙が落ちる。

彼はゆっくりと唇を開き、たった一言、それを口にした。

 

 

 

「『だからどうした』」

 

 

 

「……だからどうした?」

 

 

私は意味が分からず、思わずオウム返しに呟いていた。

拍子抜けするほど短く、無骨なその言葉が、ぽつりと空間に落ちて消える。

私が次の説明を待って黙り込んでも、彼は何も言わずに、ただ静かに私を見つめ返しているだけだった。

 

……それだけ?

 

あまりにもそっけないその言葉の、一体どこが魔法なのだろう。

私が小さく首を傾げ、戸惑いのままにもう一度彼の顔を見上げた、その瞬間。

 

 

「そう。これだけだ。手から火が出るわけでも、空を飛べるわけでもない。世界を変えることなんてできないけれど」

 

彼はそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑った。

 

「誰かが風畑に好き勝手な言葉を吐いてきたら、心の中で呟いてやればいいんだ。だからどうした、って」

 

雷に打たれたような衝撃だった。

 

 

『だからどうした』。

 

 

彼がくれたその短く無骨なフレーズを、私はゆっくりと舌の上で転がし、言葉の意味を噛み砕き、自分の奥深くへと飲み込んでいく。

 

風畑の子として、他者からの評価や向けられる視線こそが「自分の価値」なのだと、無意識のうちに縛られて生きてきた。

私にとって、それは世界の前提そのものを覆すような、まったく新しい視点だった。

 

他人が私をどんな悪意で象ろうと、事実と違うのなら私がそれを認めなければいい。

「だからどうした」と一蹴して、弾き返してしまえばいい。

だって、私の主人は、他の誰でもない私自身なのだから。

 

 

なんてシンプルで、強くて、傲慢な魔法だろう。

 

 

それと同時に、たまらない愛おしさが込み上げて、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

 

他人に無関心で、無表情で、いつもなにを考えているのか機嫌が良いのか悪いのかわからない。そんな彼が。私のこの泥濘のような息苦しさを解き放つために、魔法を教えてくれたのだ。

 

 

ああ、この人は。なんて、温かいんだろう。

 

 

重苦しく淀んでいた私の世界が、その真っ直ぐな言葉一つで、ふっと信じられないほど軽く、鮮やかに色づいていく。

 

息苦しさが消える。

ずっと背負っていた分厚い鎧が、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。

 

「……うまく言えなくて悪い。少しは、助けになればいいんだけど」

 

(少し、どころじゃないわ。あなたは今、私の息の詰まるような世界を、丸ごと救い出してくれたのよ)

 

本当はそう伝えたかったけれど。口にすると、声が震えてしまいそうだった。

胸の奥が、熱い。ただの感謝なんかじゃない。

もっと大きくて、熱に浮かされたように甘い感情が、じわりと血に溶けていくのがわかる。

 

「……大海くん」

「ん?」

「迅くんって呼んでも、いいかしら」

「いいよ。風畑の好きな通りに」

「じゃあ、迅くんって呼ぶわ。だから私のことも、さゆり、と」

「ん。わかったよ、さゆり」

 

彼は普段、絶対に見せないような、ひどく穏やかな顔で微笑んだ。

 

「さゆりは強いな」

 

その無防備な笑顔に、心臓が大きく跳ねる。誰もいない静かな教室で。

私の中で、どうしようもなく甘くて、狂おしいほど熱い感情が確かに産声を上げていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

十三時十五分前。太陽が中天に差し掛かり、白帆島は茹だるような暑さに包まれていた。

開け放たれた窓からは、じりじりと網膜を焦がすような陽炎の向こうから、グラウンドの蝉時雨が容赦なく降り注いでくる。

時折吹き込む風すらも生温かく、微かにプールの塩素の匂いを孕んでいた。

 

 

「……さゆり? 夏休みの教室で会うとは……どうしたんだ?」

 

 

誰もいない、埃と古いワックスの匂いがする夏休みの教室。

琴音さんの水泳指導が始まる前に一人で休んでいた迅くんは、突然現れた私を見て目を丸くした。

 

 

「ふふっ。驚いた?」

 

 

私は彼の席から少し離れた自分の席に腰を下ろし、涼しい顔で微笑んだ。

 

 

「迅くんがリハビリをサボらず上手くやっているか、監視しに来てあげたのよ」

 

「……本当は?」

 

「ダンスのレッスンの帰りにね、気まぐれで寄ってみただけ」

 

「だと思ったよ」

 

「ええ。でも、私だってたまには息抜きも必要なの」

 

「でも何で教室に?」

 

「外から迅くんが一人でぽつんと退屈そうにしているのが見えたから、少し話し相手になってあげようかと思って」

 

 

もちろん、ただの気まぐれなんかじゃない。

 

莉緒も琴音さんも、今はすでにプールの方にいることを確認済みだ。

つまりここは、誰の目にも触れない、私たちだけの完全な密室というわけだ。

 

彼と向かい合って、他愛のない話をする。

ただそれだけの時間が、私にとっては何よりも甘く、満たされる時間だった。

 

少し話題が途切れたところで、私はあえて何でもないことのように切り出した。

 

「そういえば、迅くん。最近、風畑の系列の医療法人が、アメリカから最新のアスリート向けリカバリー設備を試験導入したのよ」

 

「リカバリー設備?」

 

 

格闘技と己の身体のことになると、途端に彼は食いついてくる。

私は彼の興味を惹きつけるように、ゆっくりと言葉を繋いだ。

 

「ええ。超低温の液体窒素を使って、局所的な筋肉の疲労や炎症を一気に抑える『クライオセラピー』の最新型。足の怪我の回復を早めるのにも、すごく効果的らしいわ」

「ああ、それなら俺もネットのニュースで見たことある。たしかに気にはなってたんだけど……でもあれって、都内の専門的なスポーツ医療センターとかにしか置いてない設備だろ?」

 

彼は少し考え込むように、顎に手を当てた。

 

「いくら効果があっても、定期的に通うためにわざわざ東京まで行くのは現実的じゃないしな」

 

「だからこそ、風畑が動いたのよ。この島の系列病院に、その最新型を『試験導入』したわ。あなたが無理なく通えるように、週に数回から調整できるはずよ」

 

「この島に? ……いや、待てよ。俺が通えるように……?」

 

ふと、迅くんの言葉が止まった。何かを繋ぎ合わせるように少しだけ目を細め、その鋭い黒い瞳が私を射抜く。

 

 

「いくら風畑の系列とはいえ、そんな高額なアスリート向けの最新設備を、わざわざこんなスポーツ施設の少ない島でテストするのは不自然じゃないか? 普通なら都内の専門センターでやるはずだろ」

 

「……」

 

「それに『俺が通えるように』って……まさか。俺一人のために、そんなものをこの島に導入したのか?」

 

 

彼は信じられないものを見るような目で、驚いたように目を瞬かせた。

 

一介の高校生に便宜を図るには、あまりにも規模が大きすぎるからだ。

 

彼のその鋭い推察に、私は満足げにふふっと微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。

 

「もちろん、一般の患者さんへのリハビリ応用も見据えての試験導入よ。……でもね、一番の目的は迅くん、あなたへの『投資』」

 

「投資?」

 

「ええ。お父様……いえ、風畑グループの役員会がね、あなたがプロに転向した暁には、公式のメインスポンサーになりたいと息巻いているのよ。だから、これは風畑が抱える未来の『超新星』への、先行投資というわけ」

 

「スポンサー……風畑グループが、俺の?」

 

 

突然の大きな話に、彼は目を丸くして言葉を失っている。

 

彼がこの島に莫大な利益をもたらす金の卵だと気づいたお父様は、『大海家の倅とは仲良くしておけ。関係を繋ぎ止めるんだ』と私に命じた。

 

私が世界で一番尊いと思っている彼の強さを「利益」という尺度で測り、私に女としての役割を暗に求めてきたのだ。反吐が出る。

 

けれど、ただの「友人関係」なんて、卒業や環境の変化であっけなく切れてしまう脆いものだ。だから私は、父の強欲さを逆手に取って進言したのだ。

 

ただの友人として恩を売るより、今のうちから風畑の資本で彼を徹底的に支援し、公式のスポンサー契約という強固な鎖で繋ぎ止めておくべきだと。

 

お父様は利益のため。私は――彼に一番近い特等席を、誰にも譲らないため。

 

 

「でもさ」

 

 

ふと、迅くんが少しだけ居心地が悪そうに首を掻いた。

日に焼けた逞しい首筋に、一粒の汗が光を乱反射して滑り落ちる。

 

「いくら投資とはいえ、プロ入り前にここまでしてもらうのは、なんだか気が引けるな……。いずれ必ずトップに立って証明してみせるつもりだけど、まだプロのリングで何一つ結果を出していないんだぞ? 今の俺にそこまでの大金をかけるなんて、リスクが高すぎるんじゃないのか?」

 

私の心配をするように、生真面目に眉をひそめる彼を見て、私は思わずくすりと笑ってしまった。

 

 

「迅くん、あなたは格闘技の天才かもしれないけれど、ビジネスのことは私のほうが詳しいのよ?」

 

「それはまぁ、そうだけど……」

 

「企業が一番欲しがるのはね、『すでにプロとして価値が確定している高額な商品』じゃないの。迅くんは界隈ではすでに有名だけれど、ビジネスの世界ではまだ値札のついていない『未上場の株』と同じ。そんな最強の『原石』を、底値の今のうちに買い叩いて自社のブランドとして独占したいのよ。迅くんがプロのリングに上がって、他の大企業が億単位の札束を持って群がってきてからでは、遅いの」

 

「……なるほど、それは俺にもなんとなくわかる」

 

「それに。いま『何者でもない』なんて謙遜しているけれど……ジムの会長さんと前にお話しした時には、もうすでに何社かスポンサーを名乗り出ている企業があるって伺ったわよ?」

 

「まじか。まいったな……会長とも話したことがあるのか? あの人、お喋りすぎないか……」

 

「ふふっ。会長さんも私の立場を理解しているから、『風畑家もスポンサーに名乗りを上げないか』って匂わせていたのかもしれないわね。ちょっとした駆け引きよ」

 

私が口元に手を当てて笑うと、迅くんは大きなため息をついて肩を落とした。

じっとりとした空気の中、教室の掛け時計の秒針の音だけが、やけに鮮明に二人の間を刻んでいく。

 

「……そういうの、本当に苦手なんだよ。格闘技だけに集中したいけど、プロの世界に近づくにつれて、金とか大人の事情が絡んできて……。正直、そういう駆け引きには疎くてよくわからないんだ」

 

(……来たわ)

 

その不器用な言葉に、私は心の奥底でひっそりと、深い会心の笑みを浮かべた。

 

彼を無理やり縛り付けるつもりはない。

 

彼が自由に生きて、彼らしく真っ直ぐに羽ばたいていくならそれでいい。他の女の子たちにモテたって構わない。

 

――でも、彼が本当に困った時、一番に頼り、すべてを預けるのは絶対に『私』であってほしいのだ。

 

私ははやる気持ちを完璧な仮面の下に押さえ込み、まるで今思いついたかのように、あえてゆっくりと小首を傾げてみせた。

 

「そうね……、迅くんはリングの上のことだけを考えていればいいのよ。でも、現実問題としてそういう煩わしい契約や交渉は増えていくわ。……なら、あなたには専属の『マネージャー』が必要じゃないかしら?」

 

「マネージャー?」

 

「ええ。タオルを渡したりする裏方じゃなくて、企業との交渉やスケジュールの管理、法的な契約をあなたに代わって処理する、ビジネスのパートナーよ」

 

私がそう提案すると、迅くんは少し驚いたように瞬きをした。

 

「たしかに、そういう人がいてくれたら助かるけどな。でもそんな都合よく、俺の事情をわかってくれて、信頼できる人がいるかどうか……」

 

「ここにいるじゃない」

 

「え?」

 

私はゆっくりと足を組み替えた。薄手の夏用スカートが擦れる衣擦れの音が、静まり返った教室に艶やかに響く。

私は背筋を伸ばし、まっすぐに彼の黒い瞳を見つめた。

 

「風畑がメインスポンサーになるなら、その投資を管理する名目で、私が直々にあなたのエージェント……マネージャーになってあげる。格闘技以外の煩わしい大人の事情は、全部私が引き受けてあげるわ。あなたはただ、自由に真っ直ぐ前だけを見ていればいいの」

「さゆりが? いや、でもお前、これから大学の進学とか家の手伝いとかで忙しくなるのに、俺のマネージャーなんて……」

 

彼が慌てて気遣ってくれるのが、たまらなく愛おしい。

けれど、心配には及ばない。これは私にとって「義務」であり、この上ない「喜び」なのだから。

 

「気にしないで。むしろ、風畑にとってこれは必要な『防衛策』なのよ。これからあなたには、複雑な専属契約や莫大なお金の話が嫌でも舞い込んでくる。それをビジネスの素人であるジムに任せきりにするなんて、数千万円の設備を投資する側からすればリスクが高すぎるわ」

 

「リスク……」

 

「ええ。私が窓口になって風畑の法務チームを動かし、私たちの『最高傑作』をハイエナのような大人たちから完全に守り抜く。これも次期当主としての、立派な家業の勉強よ。……それに」

 

私はほんの少しだけ声のトーンを落とし、上目遣いで彼を見つめた。長い睫毛の隙間から、私の持てるすべての熱を込めて。

 

「これからもっと高く羽ばたいていくあなたの隣……その一番の特等席を、私以外の誰かにあっさり譲ってしまうのは、なんだかとても悔しいじゃない?」

「……っ」

 

私の飾らない本音に、迅くんは少しだけ頬を染め、言葉に詰まった。

あの大海迅が、私の言葉一つでこんなにも分かりやすく動揺する。

ああ、なんて心地いいんだろう。

 

「……お前、本当にそういうところ、昔よりずるくなったよな」

「褒め言葉として受け取っておくわ。……で、どうかしら? 私の提案」

「……わかったよ。さゆりがそう言ってくれるなら、心強い。……よろしく頼む」

 

照れ隠しのように目を逸らしながら頷く彼を見て、私は「ええ、任せてちょうだい」と優しく微笑んだ。

 

(これで、完璧ね)

 

私はただの友人から、彼にとって不可欠な「パートナー」になった。彼がどこへ行こうと、誰と関わろうと、彼の一番根幹の拠り所は私だ。

 

「さっそくマネージャーとしての初仕事、というわけじゃないけれど」

 

彼との甘い余韻を噛み締めながら、私はごく自然に次の話題へと話を向けた。

彼のスケジュールを管理する立場を手に入れた今なら、こんな探りも全く不自然にならない。

 

「そういえば、さっき職員室の近くで琴音さんに会ったのだけど。今日は十三時半までミーティングが入っているって言っていたわ」

「え? ああ、そうだったのか。どうりでまだ来ないわけだ。まったく……一言くらいメッセージを入れてくれてもいいだろうに」

 

彼はやれやれと呆れたように息を吐いた。

 

「ええ。おかげで、まだ三十分も時間があるわよ。……それにしても、時間にだいぶ余裕があるのに、こんなに早く教室まで来ているなんていかにも迅くんらしいけれど」

 

 

私は彼の怪我をしている左足に視線を落とした。

 

 

「一人で歩いてきたんでしょう? まだ足、痛むんじゃないの?」

 

「意外といけるよ。このくらい歩かないと、かえって体が鈍るからな」

 

「……もし、痛みを我慢して無理に歩いているならダメよ。怪我を早く治すのも、プロとしての仕事でしょう?」

 

「もちろん、わかってるって」

 

「……その手の擦り傷も、足を怪我しているからといって無茶したんでしょうけど」

 

私の鋭い指摘に、彼は図星を突かれたのか、「うっ」と小さく呻いて、両手を上げて降参のポーズを作った。

 

 

「……どうしても無理するようだったら、次からはマネージャーの権限で、風畑の黒塗りの車で送迎させてもらうわよ」

 

「待て待て! スポンサーやマネージャーの話はありがたいけど、高校に黒塗りの車で乗り付けるのは流石に目立つし、悪いからやめてくれ! 無茶しないって約束するから!」

 

彼が本気で焦ったようにぶんぶんと首を振るのを見て、私はくすりと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

「もう少しで時間だ。そろそろプールに向かうかな」

「あらもうそんな時間? 迅くんと久しぶりにお喋り出来たのが楽しくて、時間のことを忘れてしまっていたわ」

 

少しだけそわそわとし始めた彼から、お開きの気配を感じ取る。

 

(もう行っちゃうのね……)

 

 

内心でほんの少しだけ残念に思いながらも、私は立ち上がろうとする彼を見つめた。

――ふと、涼しい風と共に、甘い囁きが耳元を掠める。

 

『もう少しくらい、欲張っても良いんじゃない?』

『こんな誰にも邪魔されない機会、なかなかないんだから』

 

理性が警鐘を鳴らすよりも早く、私の身体は動いていた。

ただ彼を見送るだけなんて、もったいない。

 

 

「じゃあ、私もそろそろ帰るわね。……あっ」

 

 

立ち上がって彼の方へ歩み寄ろうとした瞬間、私はあえて不自然にならないよう、自分の足をもつれさせた。バランスを崩し、真っ直ぐに彼の方へと倒れ込む。

 

 

「おっと!」

「きゃっ!」

 

 

もちろん、怪我をしている彼の足に少しでも負担をかけるわけにはいかない。

私は倒れ込みながらも、すぐ横にあった机にさりげなく手をついて勢いを殺した。けれど、彼が怪我をしている左足を庇おうと咄嗟に身体を捻ったのが、私にとっての『嬉しい誤算』を生んだ。

 

バランスを完全に崩した私を庇うように、彼が慌てて私の腰を強く抱き寄せる。

ドンッ、と軽い衝撃。

 

 

「大丈夫か、さゆり?」

 

 

驚いた彼の声とともに、力強い腕がしっかりと私の身体を受け止める。

本来なら彼の胸元に寄りかかる程度で済むはずだった私の身体は――。

想像とは違い、すっぽりと、彼の両腿の上。つまり、彼の『膝の上』に座るような形に収まってしまっていたのだ。

 

至近距離にある、彼の顔。私の背中を支える腕と、そして――倒れ込む私の腰を咄嗟に引き寄せるように回された、大きくて熱い手。

その分厚い手のひらが、偶然にも私の柔らかな下腹部をすっぽりと覆い、ぐっ、と力強く圧迫する形で私を受け止めたのだ。

 

「あっ……んっ♡」

 

ドクン、ドクン、と。心臓が大きく跳ねた。

思いがけない彼の感触と、ピンポイントで急所を刺激されたことに、自分でも信じられないほど甘く、いやらしい吐息が漏れてしまう。

 

(……ああ。そこ、は……)

 

ドクン、と。下腹部の奥底で、これまで密かに積み上げてきた背徳の記憶が弾けた。

 

斜め前の席に座る彼の広い背中。

かつて授業中、それを見つめているだけで湧き上がる甘い疼きを抑えきれなくなった私は、どうすれば誰にもバレずに熱を散らせるか、その方法を調べ上げた。

 

衣服の上から子宮に圧をかける『体外圧迫』という手法。

誰にもバレない完璧な姿勢のまま、確実な快感を得るための角度と力加減を見つけ出すのに一ヶ月。

 

教壇で教師が授業をする中、膝の上に上品に重ねた両手、その手のひらの付け根にじわりと体重を乗せ、密かに下腹部を苛み続けるうちに……そこは完全に「大海迅」という劇薬でしか満たされない、彼専用の急所として開発し尽くされてしまった。

 

そんな一番敏感な場所に――今、夏の熱気よりも遥かに熱い、彼自身の本物の体温と質量が、無防備に擦り付けられたのだ。

 

 

(あ゛あ゛あっ……♡)

 

 

彼が戸惑いの息を漏らすよりも一瞬早く。

私は自分の足がもつれたのは不慮の事故だったと装うために、完璧な仮面の下にか弱き少女の貌をブレンドして嘘をついた。

 

「迅くん……ごめんなさい、ちょっと、お腹の下のあたりをどこかで打っちゃったみたいで……痛くて……」

 

「大丈夫か!? ……どこか見えなかったけれど、俺の体にかなり強く当たったよな? 悪い、俺が咄嗟に変な支え方したから……」

 

 

彼は、自身の鋼のような身体で私を傷つけてしまったのだと純粋に恐れ、血相を変えた。

 

「……ううん、転んだ私が悪いんだもの、謝らないで。……ただ」

 

わざとらしくならないよう、私は小さく息を吐いて言葉を区切る。

 

「少しだけ……さすって、もらえるかしら。痛いとき、優しくしてもらうと……安心するから」

 

どこに触れていいかわからず、戸惑って宙を彷徨う彼の分厚い手首をそっと掴む。

びくっと彼の身体が強張るのを感じながら、私はその大きな手を、自らの下腹部へとゆっくり、ゆっくりと引き寄せた。

 

「……待て、流石にそこは。どう触ればいいんだ……?」

 

動揺で掠れた彼の声が、たまらなく私の鼓膜を甘くくすぐる。

 

「そこ……おへその、少し下あたり。……指の腹で、ゆっくり円を描くように、重く押し込んで……?」

 

恐る恐る触れようとする彼の大きな手を、私の両手で上からそっと押さえて導く。

 

「……こう、か?」

 

ぐりっ、と。

 

ぐりっ、と。

言われた通りに、彼の手が素直に動く。

厚みのある親指が、私の下腹部に沈み込み、重い圧力を伴って円を描いた。

 

 

「あ゛っ……はぁっ……ん……♡」

 

 

甘く、ひどく淫蕩な声が静かな教室に響いた。

痛みに耐える健気な顔を装いながら、実際には彼が与える無自覚な暴力のような快楽の波に溺れきっている。

ずっと見つめることしかできなかった彼の大きな手が、私が彼のためだけに創り上げた場所を、直接、蕩かすように撫でている。

迅くん自身の体温に触れられているという甘い歓喜が、私の理性を芯から溶かしていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さゆり。さすがに俺でも、これは……あー、良くないって思うというか」

 

 

 

ふと、彼が戸惑ったように手を止めようとした。

至近距離にある彼の吐息が、微かに私のうなじを掠める。

 

 

「その、教室だし……誰か来たらマズいし、これはたぶん友達に対してするにしてもよくないこと、だよな?」

 

 

できるだけ私を傷つけないよう、言葉を選んで離れようとする彼。

私は潤んだ瞳で彼を見つめ返し、震える声で遮った。

 

 

「痛い、の……。迅くんの手が離れると、また痛くなってしまうみたい……。私より、世間の目の方が大事……?」

 

わざとらしくない程度に瞳を潤ませ、彼の服の裾をきゅっと弱々しく掴む。

 

「いやそういうわけじゃ……。その聞き方は、ずるいな。さゆりらしくない……」

 

私の卑怯な言葉に、彼はあからさまに動揺して視線を彷徨わせた。

 

「お願い……もう少しだけ……」

 

痛みを堪えるようなか弱い声色に、快感からくる甘い吐息をそっと混ぜ合わせる。

生真面目で優しい彼が、こんな状態の私を突き放せるわけがない。

 

彼は小さくため息をつき、「……わかったよ」と、再びその大きな手を私の下腹部へと這わせた。

 

再び始まった甘い愛撫に身を委ねていた、その時だった。

 

 

――あっ。

 

 

私の臀部に敷かれた彼のがっしりとした太もも。

そのすぐ内側から、さっきまでは無かったはずの、確かな『熱』と『硬さ』がじんわりと伝わってきたのだ。

夏服の薄い生地越しでもはっきりとわかる、雄としての熱量。

 

 

(うそ……)

 

 

迅くんが、私で。ほんの少しでも、男として興奮してくれている。

 

格闘技にしか興味のない彼を、大海迅を、私が煽ったのだ。

 

その事実を頭が理解した瞬間だった。

 

 

「あっ、ぁあっ……♡」

 

 

ガクガクと、自分の意志とは無関係に全身が激しく痙攣した。

視界が真っ白に弾け、夏の強烈な日差しのように、頭の芯が焼き切れるような絶頂が私を襲った。

 

 

「……さゆり……?」

 

 

私の異常な反応と、汗ばんだ肌から立ち昇る隠しきれない甘い匂い。

迅くんの身体がびくっと強張り、その顔が気まずげに熱を帯びるのがわかった。

突き飛ばされてもおかしくない。軽蔑されるかもしれない。

 

けれど――。

 

彼は私を突き放すどころか、私の震えが止まるまで、ゆっくりと、ゆっくりと。

まるで壊れ物を扱うような、どこまでも優しく思いやりに満ちた手つきで、私を撫で続けてくれたのだ。

 

 

(あ、あ……だめ、そんなに優しくされたら……♡)

 

 

ただでさえ敏感になりきっている身体に、彼からの極上の『優しさ』が注ぎ込まれる。

 

 

「ひぁっ……ん、あっ……♡」

 

 

抗う間もなく、二度目の絶頂がすぐに波のように押し寄せた。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

どれくらいの時間が経っただろうか。

頭上から降ってきた彼の掠れた声に、私はビクッと肩を震わせた。

 

(どうしよう……)

 

完全に予定外だった。彼をからめ捕るつもりが、あまりの快感に自分を見失ってしまった。

焦点の合わない視線。熱に浮かされたみっともない声。

 

そして、快楽にだらしなく歪んだ顔。

 

完璧に貼り付けていたはずの令嬢の仮面は無惨に剥がれ落ち、自分でも信じられないほどあられもない姿を、彼に晒してしまったのだ。

 

冷静になると、一気に不安が押し寄せてくる。

 

引かれていないかしら。気味悪がられて、嫌われてしまったのではないか。

そうなって当たり前の行動だった。

 

 

 

「……ごめんなさい……」

 

 

 

私は彼の胸元に顔を埋めたまま、消え入りそうな声で謝った。

すると、頭の上から、ほうっと深く息を吐き出す音が聞こえた。

 

 

 

「……誰かに見られてたら、ヤバすぎたな」

 

 

 

呆れたような、けれどどこか優しい響き。

 

「とりあえず、どうだ? えっと……、痛みはとれた?」

 

 

(……優しい、人)

 

 

 

 

その彼らしい不器用な気遣いに、私は弾かれたように顔を上げた。

 

彼の黒い瞳が、私を静かに見下ろしている。そこに嫌悪や軽蔑の色はない。

私は恥ずかしさのあまり言葉が出ず、ただこくこくと小さく頷いた。

 

 

 

「……え、えぇ、ごめんなさい」

 

 

 

もう一度小さく謝って、彼に嫌われていないか恐る恐る顔色を窺うと。

 

 

 

「……いや。俺も流石に、心臓が爆発するかと思った」

 

 

 

彼は片手で顔を覆い、耳まで真っ赤に染めながら、照れたように笑ったのだ。

 

その顔が、ずるいほど可愛くて。彼が私を受け入れてくれた事実に、胸の奥から甘い安堵が広がっていく。

 

完全に主導権を取り戻した私は、彼の胸元に寄りかかったまま、先ほどの『硬い感触』を思い出して、艶やかに微笑んだ。

 

 

 

「……ねえ、迅くん。興奮した?」

 

 

 

私の意地悪な問いかけに、彼はさらに顔を赤くして、そっぽを向いた。

 

 

 

「…………ノーコメント」

 

 

 

そっぽを向いたままの彼の耳は、まだ熱を持ったように赤かった。

 

しかし、次の瞬間。彼は「すぅっ」と大きく深呼吸をすると、パンッ!と両手で自分の頬を軽く叩いた。

 

「よし、 じゃあ俺は琴音の指導頑張ってくるから。さゆりも気をつけて帰るんだぞ」

 

さっきまでの艶やかな空気はどこへやら。

彼はいつもの真っ直ぐで快活な顔にすっかり切り替わっていて、私の肩をポンと軽く撫でると、少しだけ逃げるような早足で教室を出て行ってしまった。

 

一人残された教室で、私は少しだけ唇を尖らせた。

あんなに濃厚な秘密と時間を共有した直後なのに。彼の切り替えの早さとブレない芯の強さは愛おしいけれど、一人の女子としてはほんの少しだけ悔しい。

 

それにしても、今日の私はいくらなんでも無計画すぎた。

彼をからめ捕り、翻弄して主導権を握るつもりが、まさか自分が理性を飛ばしてしまうなんて。

二人の未来のために、今後はもっと緻密に用心深く計算して立ち回らなければ。

 

私は無人の教室で、まだ熱を持っている自分の下腹部にそっと両手を当てた。

さっきまでの圧倒的な刺激と多幸感がフラッシュバックして、太ももの奥がきゅうっと切なく収縮する。

 

だめだわ。こんなの、きっと永遠に忘れられない。

 

 

(今夜は……お風呂から上がったら、ベッドでさっきの感触を思い出して......)

 

 

私は熱を帯びたため息をこぼし、乱れた衣服を整え直した。

窓の外では、入道雲が青空に向かってどこまでも高くそびえ立っている。

 

風畑の力を使ったスポンサー契約という、自由に羽ばたく彼がいつでも帰ってくる「唯一の止まり木」を創り上げるための、確かな布石。

 

一番近くで彼を支えるマネージャーという「特等席」への、完璧な足がかり。

 

そして、彼から直接与えられた極上の快感と、彼自身の可愛い反応。

 

彼を完全に私だけのものにするための第一歩として――なんて実りの多い、素晴らしい夏の一日だろうか。

 

 

私は誰もいない教室で、ひどく満ち足りた、甘く艶やかな微笑みを浮かべた。

 

 

「あ、」

 

 

ふと、窓の外のプール棟へ視線を向ける。

あの日差しの下には今、大好きな私の親友がいるはずだ。

私は微塵も悪びれることなく、ころりと喉を鳴らして小さく呟く。

 

 

 

「莉緒に申し訳ないことをしてしまったかしら……?」

 

参考までに。どのキャラクターとの絡みが見たいですか?

  • 七瀬莉緒(幼馴染)
  • 立華琴音(アホの子)
  • 立華綾音(良い子)
  • 風畑さゆり(お嬢様)
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