百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮)   作:匿名さん

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5話『約束』

 

 

どれくらいの間、あのオレンジ色に染まった玄関で彼女の体温に包まれていたのだろう。

「それじゃあね。明日、待ってるから」

 

満足げに微笑んで帰っていった莉緒を見送った後も、俺の身体には彼女の甘い匂いと柔らかな感触が、熱のように張り付いたままだった。

 

逃げるように自室に戻った俺は、ベッドに深く腰掛けて、ガチガチに固定された己の左足を見下ろしていた。

 

『今は少しだけ、神様が迅をもっと強くするための助走期間をくれたってことで』

 

玄関での手触りとともに、帰り道で莉緒が言った言葉が、耳の奥でリフレインしている。

 

 

助走期間、か。  

 

目を閉じると、鼻先に残っていたはずの彼女の甘い匂いが、いつの間にか別の匂いへとすり替わっていく。

 

それは、少しひんやりとした、あの日の朝の匂い。

 

逃げ場を失った俺の意識は、永遠に果たせなくなってしまった約束の朝へと、深く、ゆっくりと沈んでいった。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

『おはようございますっ、七瀬先輩。いよいよですねっ』

『ん。そだね』

 

予選当日の朝。昇降口で顔を合わせた俺たちに、立華が弾んだ声で挨拶をしてきた。

 

『おいっす、大海センパイっ』

『お? 機嫌いいな、今日は』

『サービスよ、サービス。大事な日の朝だからね』

『いつもそうだと、俺も気が楽なんだがなー』

『えぇ? アタシはいつもこんな感じですー。大海センパイの前以外ではね』

『ほ~~~~ぉ』

『ふふん』

 

相変わらずの立華の憎まれ口に苦笑しつつ、俺はふと思い出してニヤリと口角を上げた。

 

『あ、そーいえば。お前とは賭けをしてたよなぁ』

『え!? そ、そうだったっけ?』

『んー? どうした? 今更、怖じ気づいたか? 俺は今日、体調万全だぜ』

『なっ、なに言ってんのよ。そんなわけないじゃない!」

 

ムキになる立華の横で、事態が飲み込めていない莉緒が不思議そうに首を傾げた。

 

『え。なになになに? 賭けってなぁにー?』

『俺と立華の秘密。なぁ、立華?』

『あはははは……』

『え~、ずるいー』

 

頬を膨らませ抗議する莉緒。

 

『おおっとぉ!! こんなところでのんびりしてる場合ではないですよ、先輩方っ!! さっさと行きましょう。遅刻したら大変ですっ!!』

 

焦る立華が急かしてくるが、莉緒はだだっ子のように俺の袖を引っ張った。

 

『ずるいずるい~。私にもちょうだいよ、秘密』

『え?』

『ね? ちょうだい? ちょうだいったらちょうだいちょうだい?』

 

ぶんぶんと袖を揺らす莉緒に、あの立華が『……先輩、そんなだだっ子みたいに……』と呆れた声を出す。

 

『なにせ、ほら、今日は勝負の日じゃない? なんかこう、おまじないっぽい秘密があったら、心強いかもって気がするんだよね』

『別にそんなもんなくっても、莉緒なら県大会ぐらい余裕だろ?』

『油断大敵。念には念を、ってね。あ、賭けはいいや、私、弱いから。……秘密だけ、ちょうだい?』

 

上目遣いでねだってくる莉緒。  

俺が立華の方へ視線を向けると、彼女は小さく息を吐いて『ん。今朝は特別に許可するー』と笑った。

 

『そりゃどうも。……ほらよ』

『ほらほら、はやくぅ。ばしっと決めてみてよ、一発』

 

俺は軽く息を吸って、少し考えた。  

……やっぱり定番は、おでこにキスかな……。  

そんな馬鹿な考えがふと思い浮かんだが、調子に乗るなと立華に本気で殴られそうなので、やめておく事にする。

 

『……ふーーーーーっ……』

 

『ん?』

 

『そんじゃ、莉緒。小指、出して』

 

『え、なに?』

 

『指切り』

 

『え。あ…うん……!』

 

『すまん。それぐらいしか思いつかん……』

 

『……どっちの指がいい?』

 

『どっちでもいいよ、別に』

 

『んー。じゃ、左』

 

莉緒が左手を俺の方へ差し出す。  

差し出された細い小指に、俺は自分の左手の小指をしっかりと絡めた。

 

『莉緒の場合、勝ち負けよりも今日、ベストを尽くすことだけを考えていればいい』

 

『うん……』

 

 

絡めた小指のままで、莉緒がはにかむように笑う。

 

 

『莉緒は強い。俺も強い』

 

『うん』

 

『一緒に全国、だ』

 

『うん。約束。一緒に全国行こう』

 

『ああ。必ず』

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

――約束。  

 

 

今も、この先も、永遠に果たせなくなった約束。  

 

俺からは、もう何もできなくなってしまった約束。

 

莉緒はもう、忘れてくれただろうか。  

 

期待してはいけないコトをふと思ってしまって、すぐに自分を情けなく思った。

 

確かに、忘れてくれていた方が気が楽ではあるのだけれど……。  

 

けど、本当に忘れていたりしたら。

 

莉緒の真剣さがまた疑わしくなって、それはそれでイラついてしまうことになるのだろうか。

 

覚えててもダメ。  

忘れててもダメ。  

 

だったらどーしろって言うんだって話になって……。

 

「……気持ちわる」

 

そんな不毛過ぎる思考に囚われてしまう自分が情けない。本当にしょうもない。

 

全国へ行けなかったのは、俺だけじゃない。

 

辛いのはみんな同じだ。

 

俺だけが悲劇の主人公ぶって、いつまでも引きずっている場合じゃない。

 

俺は机の上のノートパソコンの画面に意識を戻した。

 

画面には、格闘技関連の動画や、怪我の最先端治療についての翻訳論文が並んでいる。  

 

この果てしない文字の羅列をいつか全部読み終える頃には、俺も莉緒との指切りのことなんて、綺麗さっぱり忘れてしまうんだろうか。

 

まぶたを閉じ、深く息を吸う。  

 

 

「……ダメだダメだ」

 

 

ベッドから立ち上がる。

じっと動かずにいると、しょうもないことばかり考えてしまう。

俺は自分の中のドロドロとした思考から逃げるように自室を出て、一階の空き部屋へと向かった。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

波打つような深い余韻をやり過ごし、ようやく頭の芯の痺れが引いてきた頃。

私は乱れた衣服を整え、かすかに震える足でゆっくりと立ち上がった。

 

夕方の、彼の匂いと体温。

それを思い出すだけで、今日はもう何度自分を慰めたか分からない。

火照りきった肌に張り付く汗を手の甲で拭い去り、窓辺のカーテンを少しだけ開ける。

すぐ正面に見える迅の家。 その一階、の部屋にぽつりと明かりが灯った。

 

「……ふふっ。やっぱり」

 

だらしなく熱を帯びた身体を持て余し、私は冷たい窓枠にすがりつくように寄りかかると、甘く掠れた息を吐き出した。 吐息に混じるねっとりとした熱が、彼との境界線であるガラスを白く曇らせていく。

『強くするための助走期間』なんて言ったけれど。

あの不器用な彼が、大人しく立ち止まれるわけがないことくらい、私が一番よく分かっている。

 

それでも、今日は少しだけ、私の熱が彼の中に残っていてほしい。

 

夕方、あの薄暗い玄関で押し付けた私にドキドキしてくれたかな。

首筋に絡みつかせた甘い匂いや、耳元で掠れた吐息が、今も彼の皮膚の下でじりじりと熱を帯びて、痛いほどに彼を乱してくれているといいな。

 

あのまま理性を手放して、乱暴に私を襲ってくれたらよかったのに。

 

制服のスカートの下、私が下着を穿いていなかったことに気づいてくれていたら、そのままあの狭い玄関で獣みたいに押し倒してくれたのかな。

 

今日をきっかけに私の体温を思い出して、どうしようもなく私を欲してくれますように。

 

「……がんばれ、迅……」

 

暗闇に浮かぶ小さな四角い光に向かって。 私は自身を抱きしめる指先にきつく力を込め、艶の消えない声でそっと呟いた。

 

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 

大海家の1階、空き部屋を改造したトレーニングルーム。

むせ返るような汗と湿った熱気が充満するその空間で、静かに、だが異様なまでの意志を帯びた呼気が響き続けていた。

 

部屋の中央。

補強された天井の梁から真っ直ぐに垂らされた極太の麻ロープを、俺は『登って』いた。 左足には重く分厚い装具が固定されている。

 

当然、足でロープを挟んで体重を支えることなどできない。

 

完全に両足を宙に浮かせたまま、己の『腕力と背筋』、それから『体幹』だけで、全体重と重いブーツの負荷を引き上げる。

 

天井まで登り切り、腕の力だけでゆっくりと降りる。

 

床スレスレでピタリと止まり、休む間もなく再び腕を引き絞って上を目指す。

 

足を使わずにロープを登り続けるという行為は、数往復で前腕の筋肉をパンパンに腫れ上がらせ、背中の筋肉をちぎれるほどに軋ませる。

 

摩擦で擦り切れた掌からは、じわじわと血が滲んでいた。

 

ぽたぽたと滝のように落ちる汗が、床のマットに黒い染みを作っていく。

 

ロープの最下段まで降りきり、宙吊りになった状態のまま、肺が焼け焦げそうに軋む。乳酸にまみれた筋肉が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅した。  

だが、その強烈な肉体の苦痛だけが、今の俺には心地よかった。

 

(そうだ。ウジウジ悩む暇があるなら。誰かの背中を見て、羨ましいと思う暇があるなら)

 

俺にとって今一番恐ろしくて苦しいのは、自分に向けられる莉緒の『無条件の優しさ』だった。

 

『一緒に全国行こう。……約束』

 

絡めた小指の感触。果たせなかった約束の罪悪感。

 

身体の痛みなど本当にどうでもよかった。

 

 

汗と血の滲む視界の中。

ふと、暗闇の中で明滅するスクリーンの光が脳裏を過った。

 

昔、莉緒と一緒に見た洋画のワンシーン。

 

暗く深い井戸の底へ落ちてしまった少年に向かって、彼を助け下ろされた父親が静かに語りかける場面だ。

 

映画の細かい筋書きは朧げだ。

 

けれど、隣で食い入るように画面を見つめていた莉緒の横顔を照らす光と、重厚な響きを持ったあのセリフだけは、俺の魂の底にずっと焼き付いていた。

 

 

 

『――人はなぜ、落ちるのか』

 

 

 

ああそうだ、その通りだ。 答えは、もう出ている。

 

 

 

 

「……這い上がる、ためだ……!」

 

 

 

 

ギュッ……!

 

血の滲んだ掌で太いロープを握り潰すように掴み、俺の身体は再び上へと引き上げられていく。

 

左足の重い装具が、俺をさらなる暗闇の底へと引きずり込もうとする。

 

なら、どこまでも深く沈んで、誰よりも高く登ってやろう。

 

 

荒い呼吸とロープの軋む音だけを響かせて、俺は再び、上へと血の滲んだ手を伸ばした。

 




今後の展開を考えると今のタイトルに「これじゃない感」があって、密かに変更を迷い中です……。
次はアホの子です

参考までに。どのキャラクターとの絡みが見たいですか?

  • 七瀬莉緒(幼馴染)
  • 立華琴音(アホの子)
  • 立華綾音(良い子)
  • 風畑さゆり(お嬢様)
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