百合の間に挟まりたくないけれどなぜか向こうから挟みにくる(仮) 作:ちお
昨夜の狂気じみたトレーニングの代償は、翌朝の肉体に容赦なくのしかかっていた。
宙吊りでロープを登り続けた腕は鉛のように重く、背中の筋肉は少し動かすだけでもちぎれそうな悲鳴を上げる。
怪我前はこんなのいつものことだ。
俺は陽炎が揺れるアスファルトを踏みしめ学校へと向かっていた。
夏休み初日の校庭は、部活動に励む生徒たちの遠い声と、けたたましい蝉時雨だけが響いている。
「……おー、やってるな」
プールへの扉を開けると、むせ返るような塩素の匂いが、夏の熱気とともに鼻腔を突く。
高く青い空の下、水面が太陽の光を乱反射してギラギラと輝いていた。
飛び散る水飛沫、反響するホイッスルの音。
扉の音に気づいたのか、手前のコースで休憩していた男子部員たちがこちらを振り返る。
「……え? 嘘、大海じゃん!」
「マジかよ、大海! 久しぶりだな、おい!」
かつて莉緒の朝練に顔を出していた頃の顔馴染みたちが驚き、声を上げる。
さらに、その声を聞きつけた女子部員たちも、プールサイドに集まってきた。
「大海くん! 久しぶり! 怪我、大丈夫なの?」
「先輩、歩くのしんどそう。今日は車で来たんですか?
「みんな、あの試合見て心配してたんだよ〜」
あっという間に、俺は水泳部員たちにぐるりと囲まれてしまった。
「リハビリは順調なのか?」「痛まないのか?」「また格闘技はやれるのか?」と、悪気のない、純粋な心配からくる怒涛の質問攻めに遭う。
ありがたい反面、俺は少し居心地が悪かった。
怪我のことは適当に大丈夫だと苦笑いで手を振る。
「今日は莉緒にお願いされたから、なんとなく付き添い。怪我も松葉杖なしでもう歩けるようになったから、たまにお邪魔してリハビリにプール使わせてもらうよ」
そう答えたものの、まだ続きそうな質問攻めにどうしたものかと困っていると。
「ちっす」
人垣を縫うようにして、莉緒がしゅたっと俺の隣に並んだ。
「もー、みんな迅を囲まないの! 迅は今日、特別なお客様なんだから。あんまりジロジロ見ると、私の機嫌が悪くなっちゃうよー?」
「なんだよ七瀬、独り占めかよ~」
「そうだよ、独り占め。ほら、みんな練習に戻った戻った!」
莉緒はえっへんと胸を張り、眩しい笑顔で部員たちを追い散らす。
「ちゃんと来たね。えらいえらい」
「約束したからな」
「おおぅ、見上げた心がけだね、迅くん。よしよし、合格」
莉緒と言葉を交わし始めた途端、周りを囲んでいた部員たちは「仕方ない」と言わんばかりに苦笑交じりに肩をすくめ、自然と解散していった。
「今は来るだけでせいいっぱい……ってな。もう泳ぐのか?」
「うん、外での筋トレは終わったから、本番はこれから。やってくるー」
「うぃー。頑張れよ、いってら」
ひらひらと手を振り、莉緒は定位置である一番端の第6コースへと向かっていった。
さて。俺はどうしたものか。
パイプ椅子に座って、ただぼーっと見学しているのもなんだかな……と考えていると。
「お。久しぶりだな、大海。……怪我してから、ここに顔を出すのは初めてか?」
吉岡先生に声をかけられた。水泳部のコーチだ。
「あ、先生。ども、お久しぶりです。ゴタゴタしてて顔出すの遅れてすみません」
「気にするな。今日はどうした?」
「莉緒に呼ばれまして。なんかあいつ、練習見に来いって」
俺が苦笑交じりに言うと、吉岡先生は「なるほどな」と小さく笑って顎を撫でた。
「心配か?」
「莉緒がですか? むしろ俺が心配されてますよ。こんな状態ですしね」
俺が装具のついた左足を見せて自嘲気味に笑うと、吉岡先生の顔つきが少し真剣なものに変わった。
「大海」
「?」
「この前の大会、映像で見させてもらった。……結果は残念だったが、ナイスファイトだった」
そう言って、吉岡先生は無骨な右の拳を軽く突き出してきた。
吉岡先生は水泳部のコーチでありながら、別競技に打ち込む俺のことを気にかけて、今までも色々と相談に乗ってくれたり、トレーニングのために部外者の俺がプールの設備を貸りるのも快く承諾してくれた恩人だ。
「次は、獲るんだろ?」
「……うす。絶対に」
俺は突き出された先生の拳に、自分の拳をこつんと軽く合わせた。
お互いににやりと笑う。
吉岡先生とは本当に馬が合うというか、ノリが良くてとにかく熱い人だ。
俺が世話になってきた格闘技の会長、コーチたちに近いものを感じる。
競技は違えど、優れた指導者というのはみんなこういう熱を持っているのかもしれない。
「莉緒もお前ほどとは言わないが、もう少し熱量を持ってくれれば……。いや、それを引き出すのが俺の役目だな。大海、どうか全国でも七瀬を応援してやってくれ」
「もちろん。俺にできることなんてそれくらいですしね。ただ見て、少し応援するだけです」
「それでいいんだ。お前や立華に囲まれてる七瀬は、選手として恵まれてると思うぞ」
「ですかね? マネージャーとして走り回ってる立華は分かりますが……」
「精神的に、って意味だよ。見守ってくれているヤツが近くにいるっていうのは、心強いもんだろ?」
吉岡先生は軽く肩をすくめ、「今日は思う存分、見てってやってくれ」と眩しそうに目を細めて去っていった。
……さて。いよいよ本当に、やることがないぞ。
そういえば立華が見えないな。
あいつ、どこ行った?
俺はゆっくりと見覚えのあるツインテールがいないか辺りを見渡した。
「ういっこらしょ、どっこいしょっ……と、くらァ!」
背後から、豪快な掛け声と共に、重い物を下ろす音がした。
振り返ると、洗濯済みのタオルや部員たちの水着が山のように詰まった籐籠を抱えた、立華が立っていた。
「......いた」
「その髪。ポニーテール、初めて見たかも」
俺が何気なく指摘すると、立華はふふんと得意げに鼻を鳴らした。
「なんですかぁ? まさか『可愛い』とか思っちゃいました? 普段とは違う私の一面を見られてラッキー、とか思っちゃってますぅ?」
ニヤニヤとからかうように、わざとらしく下から顔を覗き込んでくる。
別に深い意味があって言ったわけではないが、似合っているのは事実だった。
「似合ってるぞ。涼しげでいいんじゃないか」
「……へ? あ、えっと……」
まさか真っ向から素直に肯定されるとは思っていなかったのだろう。
からかい半分のドヤ顔を作っていた立華の動きがピタリと止まり、みるみるうちにその頬に朱が差していく。
「あ、あざます……っ」
ポツリと蚊の鳴くような声で呟いたかと思うと、立華はバッと顔を逸らした。
なんだこいつチョロすぎる......
そして、赤くなった耳まで隠すようにそっぽを向き、必死に誤魔化すように早口でまくしたてた。
「け、見学は別に構いませんけど、邪魔はしないで下さいよね〜っ!」
「ほう。敏腕マネージャーさんは言う事が偉そうでいらっしゃる」
「いえいえ。ロクすっぽ役になんか立ちゃしないのに、わざわざ視察にいらっしゃる水泳部と無関係の先輩様程には、ふてぶてしくは御座いませんですわ」
わかりやすい照れ隠しから放たれた減らず口に、俺は思わず苦笑をこぼした。
「おぉ、よく言った。いわゆる一つのカナヅチ」
「なっ、なっ、なによぉう! アンタもぅこの際、有閑倶楽部でも作って初代部長にでもなったら? どーせこの先、リハビリ以外に他に何もやることないんだからッ!!」
「リハビリが終われば練習復帰するわ!」
顔を突き合わせて火花を散らす。
相変わらず口を開けば減らず口ばかりだ。
「「はぁ〜」」
が、お互いに傷をえぐり合うのはやめにしようと、すぐにため息をついて矛を収めた。
……有閑俱楽部が何なのか気になったが、聞けば絶対に面倒なことになると直感が告げているのでスルーしよう。
「……すまん、今のは俺が悪かった」
「いや、アタシも……」
お互いをよく知っているだけに危険だ。
「さって。アタシャあ、洗濯、行ってきますかねぇ」
「ああ、いってらっしゃい」
立華は洗濯物の籠を持ち上げる。
「よっと」
「......手伝おうか?」
「あーいいっす。夏休み前より、ぜんぜん少ないし」
「これでもか?」
「プールの状況を見れば一目瞭然でしょうけどね〜。てかセンパイ、怪我してること忘れてません?」
「怪我してんのは脚だけだ。それくらい片手でも持っていけるから問題ないぞ」
「うわ、本当にできそうなのが嫌だぁ」
本当にできるんだが。
てか嫌だぁってなんだよ悲しいだろ。
「じゃあ七瀬先輩の迷惑にならないようにねー」
「あいよ、またな」
「まったね〜」
立華の後ろ姿を見送る。
重い籠のせいで、足取りがふらふらと危うい。やっぱり手伝ったほうがいいかもしれない。
「ドスコイ狸がよォ〜うッ、腹鼓をポンポコじゃ〜い♪」
顔は本当に美少女なんだけどな......。
「はぁ〜、えいさーえいさー……って、うぎゃあっ!?」
変な歌に気を取られたのか、見事に自分の足にもう片方の足をつっかけ、前のめりに派手に転倒する立華。
バサァッ! と、綺麗に畳まれていた籠の中身が、無情にも濡れたプールサイドにぶちまけられる。
「あああ、あうぅぅああああ……っ!」
膝から崩れ落ちた立華の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
自分のドジっぷりと、水の泡になった労力への絶望感からくる、完全に心が折れたような子供っぽい泣きべそだった。
「………ああ、もう……」
ぐすんぐすんと鼻を鳴らし、頭を抱えながら濡れたタオルを拾い集めようとする立華の元へ、俺はため息をつきながら歩み寄った。
「う、うう……すみません、大海先輩……」
「はい、これで全部。持とうか?」
「……いい。仕事だもん。頑張るんだもん……」
「ふむ。それじゃまぁ、気をつけてな?」
「はい……。うっ、よっこらせ、どっこいせ……」
涙目で籠を抱え直し、よろよろと去っていく立華。
あんな風に文句ばかり言うくせに、自分の役割に一生懸命なところは、なんだか放っておけないというか、見ているこっちがハラハラしてしまう。
俺は小さく息を吐き、その危なっかしい背中がプールの奥へと消えるまで、ぼんやりと見送っていた。
「……ねぇ、迅?」
不意に、すぐ横から声がした。
いつの間にかプールから上がってきていた莉緒が、俺の袖をちょいちょいと引っ張っている。
「ん? おう、練習お疲れ。どうした?」
「琴音に泳ぎ、教えてみない?」
「はい?」
突拍子もない提案に、俺は素っ頓狂な声を上げた。
「だからぁ、琴音に泳ぎ、教えてやって、って言ってんの」
「いいけどなんで俺に?」
「んー、なんか迅、おもいっきり暇そうだし、迅になら琴音のこと、安心して任せられるし」
「まぁ、確かに暇っちゃ暇だけど......」
「うん?」
「泳ぎの練習でもなんでも毎日の積み重ねなんだし、今日一日だけやっても意味ないだろ?」
「あれ? 今日一日だけしか来ないつもりだった?」
「……明日からもずっと来させるつもりだったのか?」
「あっ、しまった! あとでさり気なく切り出すつもりだったのに」
初めから何となく読めてはいたけれど……。
「まぁ、それはそれとして。ほら、迅も体動かしてたほうがいいかなって思うのよ。そのほうが、ね? きっと心身ともに健やかになれるでしょ?」
「それはまぁ、間違いない。でも吉岡先生の許可だって必要じゃないか? そういうことするなら」
「あっ……そっか」
「あと立華だって……」
「吉岡せんせーい!」
「ん? なんだ?」
俺の言葉を遮り、莉緒が大きな声を張り上げた。
「迅に、琴音の水泳のコーチを頼もうかと思うんですけど」
「お、それはナイスアイデアだな」
「えっ。いいんですか? 部外者ですけど俺」
「大海がよければぜひ頼みたい。それに水泳部じゃなくても一年の頃からの付き合いだ。部外者だなんて思ってないぞ」
「うんうん」
なぜか莉緒が得意げに頷く。
「もちろん怪我の具合もあるし無理にとは言わない」
「......いえ、リハビリもかねてプールはまた使わせて頂こうとは思っていたのでそれはいいのですが」
「何か問題があるのか?」
「立華が嫌がるかと」
だろ? と莉緒に視線を送ると、あいつは頭の上に?マークを浮かべて小首をかしげた。
立華の気持ちをわかっているだろうになんという悪女。
何を考えているんだ……。
「立華なら心配ないだろ。大海は教えるのが上手いしな」
「いやそういうことじゃ……いや、なんでもないです」
「そうか? 大海、立華のためにも、自分のためにも、やってみてくれ。人に教えることで違った視点、経験が得られるはずだ。それはきっとお前の力になる。永遠の宝になるさ」
そう言って去っていく吉岡先生。
外堀はあっという間に埋められてしまった。
そして数分後。
洗濯から戻ってきた立華は、莉緒の甘く残酷な罠にまんまとはまる。
「……あれ? どうしました?」
じっと、至近距離で自分の顔を見つめる莉緒に、立華は戸惑った。
「……え?」
莉緒の手が、立華の頭の天辺に伸びる。
「よしよし」
「七瀬、先輩?」
耳と頬とを紅に染める立華。
「……は……ぁぅ……」
「ふふふ。琴音、可愛い……」
「ぇ、いやそんな、可愛いなんて……七瀬先輩の方が、ずっとずっと、あのその……」
立華の目は熱っぽく、すでにとろけ始めている。
「……あのねぇ?」
「はい」
「琴音が、あんまりに可愛いから……私、いい事思いついちゃったの。聞いてくれる?」
「は、はっ、はいぃ」
莉緒が、立華の頭を優しく撫でてそっと抱きしめる。
立華の耳と頬は、一瞬にして茹でダコのようにさらに真っ赤に染まった。
「可愛い可愛い琴音に、今日はご褒美に、プレゼントをあげちゃおうかなぁ、なんて……」
「プっ、プレゼント!?」
「うん。琴音にとってぇ、とぉっても役に立つモ・ノ」
「え、役に立つって、どんな時に、いや、ずばり、な、な、なんで……すか?」
「ふふふ。特別コーチ」
「とくべつ!? コーチ!?」
立華の腰を軽くさする、莉緒の手。
「うん。特別なコーチ。琴音に色々と教えてあげちゃうコーチ」
「あ、あ……ああん……あん……あなん……ああああああん」
「ナニ想像してんだよお前……」
「うるさいわねっ! 関係ないでしょうがアンタにはっっ!!」
いや、たぶん大ありだと思う。
「はぅ、あぅ……コーチ……とくべつ・コーチ」
「うん。もう、マン・ツー・マンでね」
「マン・つぅ・マン!!!」
「手取り足取り」
「手捕り脚獲りぃ!?!」
「琴音もよく知っている人だから安心して?」
「…………はい?」
「ううん。いいの。琴音は何も心配しなくていいの」」
ゆっくりと優しく。胸に抱いた立華の髪を撫でる莉緒。
「……は……はい……。そう、ですか?」
「私ね、琴音が泳げたらどんないいいだろうって、ずっとずっと思ってたのよ……」
「ぇ……泳ぎ……?」
「海に行ったり、一緒にプールで泳いだり、全国大会が終わった後、琴音と一緒にいろいろ……。ああ、考えるだけでとろけちゃいそう」
「あ……はい……それは、その、アタシだって……」
「だからね、私が全国に行くまでの間、琴音に水泳の特別コーチをつけてあげたいなぁって思ったの」
「えっでも……」
「あぁっ! 琴音が泳げるようにさえなってくれれば、琴音とのひと夏の経験、初体験が待ってるのにっ!! 」
「ひ、ひひひひと夏の、経・験!! 初・体・験!!!?? 」
「海用の水着とか、新しく買っちゃおうかなぁ」
「ア、アア、アタシも新しい下着っ買っちゃいますッ!」
莉緒の体温と甘い声という猛毒にあてられ、完全にトランス状態に陥っている立華を見て、俺は深く額を押さえた。
この子は本当に、莉緒のことになると見境がなくなる。
そして莉緒、天才は、人を自分の引力に巻き込む術を本能で知っているのだろうか。
「だから、頑張ろうね。コーチは、あの人」
「はい!! コーチはあの人! ......え?」
あの人、と言いつつ莉緒が指さしたのは俺。
選ばれたのは俺、大海迅でした。
「は?」
「ああっと!!」
「はっはい!?」
「もちろん、決めるのは琴音自身。強制はしないよ?」
大きくかかぶり振る莉緒。とてもわざとらしい。
「アタシ……」
「うん?」
「アタシは……」
立華は下を向き、口ごもってしまう。
酷な提案だと思う。強制はしないと口では言ってても殆ど強制しているも同然だし。
大体だ、全国が終わったら莉緒にコーチをしてもらえるって立華、随分と楽しみにしてたんだし。
莉緒も莉緒だ。なんで琴音がマネージャーなんかやっているのか、わかっているはずだ。
「アタシ……は……」
立華だって俺に教わるのは嫌なはずだ。
何せこいつから見れば、俺は大好きな莉緒先輩のすぐ隣を陣取っている、(つもりはないが)鬱陶しい幼なじみの男なのだから。
ここは俺が空気を読んで、適当に断ろう。
泥を被るのも先輩の役目。
「莉緒、さすがにそれはやめた方がいいと思う————」
「……そうですねー。じゃー、お願いしよっかなー」
「はぁ!? コラッ立華っ!! 人の厚意は素直に受けとけよ!?」
「何よ、受けてんじゃないのっ!」
「それでいいのかよ? お前」
「なによ嫌なの!?」
「そうじゃない! わかるだろ……」
「はいはい、そこまでー! じゃあ決定ね。明日からよろしく、二人とも!」
パンッ、と莉緒が手を叩き、強引に話をまとめる。
反論する隙すら与えないその絶対的な笑顔の圧力に、俺と立華は顔を見合わせ、お互いに盛大なため息を吐き出すしかなかった。
そして、その日の夕暮れ。
傾きかけた太陽は未だ衰えず、遠慮なしに肌を焼く。
どこか近い場所で、けたたましい蝉時雨が鳴り響いていた。
潮風で錆びたガードレール沿いの道を歩きながら、俺たちは少しだけ距離を空けて並んでいた。
「で?」
重苦しい静寂を破るように、俺はわざと短く口火を切った。
「はい」
「なんで俺と立華が、一緒に仲良く下校なんかしてんだ?」
「それはこっちが聞きたいです」
立華は視線を前方に固定したまま、むすっとした声色で素っ気なく答えた。
その横顔にはあからさまな不満が張り付いている。
「莉緒と吉岡先生が二人とも、今日の所は、もう帰りなさいと言ったからだろう」
「分かってんなら一々訊くなボケ」
「ボケ言うな! 俺は先輩兼コーチだぞ?」
「何よ、やる気??!」
お互いに顔を突き合わせ、まるで縄張りを争う野良猫と野良犬のように本気で威嚇し合う。
そこへタイミング悪く、二人の横をけたたましい排気音を鳴らして単車が走り去って行った。
途端に、己のやっていることの幼稚さに急に我に返り、潮風の中に少しだけ気まずい沈黙が落ちる。
「俺はな」
「何よ」
「校門出てから、ずっとお前が黙ってるから……」
「…気を遣ってくれたわけ?」
「まぁ、俺がしっかり断っておくべきだったとは思っている」
「うわー」
ピタリと足を止めた立華が、露骨に顔をしかめる。
「なんだよ」
「あんたってば、恋人になった途端、彼氏風吹かせてウザがられて嫌われるタイプね」
「悪かったな」
「アタシ、あんたの彼女にだけは絶ッ対なりたくないわァ」
「あ? こっちが願い下げだ」
「「ふん」」
見事にハモった幼稚な捨て台詞を夕空に響かせると、俺たちは再び微妙な距離感を保ったまま、不機嫌そうにアスファルトを蹴り始めた。
「………立華。本当にアレでよかったのかよ?」
「アレでって?」
「練習。マネージャーの仕事も続けさせて欲しいって。立華がそう言ったのは、やっぱり、少しでも部の役に立っていたいからなんだろう」
泳げないカナヅチの水泳部員である身として、お荷物でいたくないって気持ちは、同じように焦りを感じている俺にも痛いほどよく分かる。
「なんだ。大海先輩がコーチって方かと思った」
「それもある」
「謙虚ですねー、これまた随分」
「『実るほど頭を垂れる稲穂かな』と申しましてな」
「なにそれ?」
「商売繁盛の為には、礼節を忘れるなって俳句」
「川柳じゃないの?」
「あー……そうかも」
己の適当な知識が露呈した誤魔化し方が見つからず、俺は気まずさを紛らわすように視線を彷徨わせた。
「……あんな風に言われちゃ、断れないじゃないの」
「……すまんな」
「あんたの所為じゃないでしょ」
「いや、莉緒の天然混じりの無茶止めんのも俺の役目かもしれないし」
「あーーーもうっ!」
「ん?」
「そういうのがムカツクのよっ! 毎度毎度っ!!」
「なんだよ、いきなり!?」
「あんた、人を好きになった事ある?」
「…少なくとも同性はないな」
「ちなみにアタシはないわよっ! いやあるけど!」
「どっちだよ!?」
「ここまで好きになった事なんてないわよっ!」
感情のままに叫ぶ姿は無茶苦茶と言うべきか。
けれど、立華はやっぱりこうでなくっちゃ調子が狂う。
「えぐっえぐっ、本当なんだから、本当なんだから〜!」
「悪かったよ」
突然ポロポロと泣き出した立華を前に、俺は完全に毒気を抜かれてしまった。
何をそこまで怒っているのかは今ひとつ分からないが、本人は至って真面目なのだ。
つまらない事で怒ったり泣いたりするこの後輩が、なんだか無性に可笑しくて、少しだけ可愛らしくも思えた。子供っぽくて。
「今までは誰か好きになっても、お姉ちゃんが側にいたんだもん」
「……そっか」
「うう、ううううぁぅあぁう」
「まぁ、とにかくゴメン」
「うう、分かればいいけど」
「う……」
「何よ、分かってないの?」
「いや……」
多分、俺は分かっていない。
そもそもなんで俺が謝っているのか、何の話だったのかすらおぼろげになっている気がする。
「まぁ、いいわ。先輩も誰か好きになったらきっと分かるから」
「なるほどね。参考になる」
「ああっ、ひとりで誰か好きになるって、辛いわぁ」
恋愛なんて普通は一人でするものだろう、という至極真っ当なツッコミは、ぐっと喉の奥に飲み込んでおいた。
「まぁ、元気出せ」
「う、うぅ……」
「「はぁ」」
夕暮れの空に向かって、俺と立華の間の抜けたため息が重なって溶けていく。
「泳げれば海、二人でいけるかな……」
大好きな莉緒と一緒に海に行きたい。シンプルで純粋な想い、俺はそれをとても綺麗だと思った。
「やっぱり、真っ直ぐなんだなお前って」
「はっ? 悪い??! 笑いたければ笑えばい――――」
「笑わない」
「えっ……」
「立華、俺は夢を笑うことだけは絶対にしない」
俺は足を止め、「見くびるな」と小さく笑って、立華の目を真っすぐに見つめ返した。
怪我で挫折していた俺からすれば。何かに懸命に手を伸ばそうとするその姿は、どうしようもなく眩しいのだ。
だからこそ、その不器用で真っ直ぐな思いを茶化すような真似だけは絶対にしたくなかった。
「……あっ、あざます……」
毒気を抜かれたように、立華がぽつりと呟く。
照れ隠しのようにそっぽを向いた彼女に歩幅を合わせ、再び歩き出した。
「……センパイって、たらしですよね」
「なんだよ急に、くそ失礼だなおい」
「いや、なんか、さっきの……笑顔っていうか。いつも何考えているかわかんないし、不機嫌そうで表情筋死んでる感じなのに」
「すごい言われるじゃん俺」
「なんかー、笑うと凄く嬉しそうなの、ずるくないですか。うまく言えないですけど。私は莉緒先輩一筋だからいいけどー、ああいうの、意外と女子は弱いと思います」
私は違いますけどね、と小さく呟きながら、立華はふいっと海の方へ視線を逃がした。
「とてつもなく不本意だけど明日から宜しくお願いしますね。先輩」
「いえいえ、こちらこそ……」
「絶対に泳げるようにするぞ」
「……してよね。ぜったい」
立華は、はにかんだように笑う。
「任せとけ」
「うん、ガンバレ」
「ガンバル」
ガンバルのは立華の方なのだが。今日の所は野暮なツッコミを入れるのはやめておいた。
「じゃーな」
分かれ道に差し掛かり、俺は肩の高さで軽く右手を振る。
「遅れないでよー?」
「ああ、へーきへーき」
時間は午後1時からということになった。まぁ、妥当な線だ。
踵を返し、重い左足を引きずって歩き出そうとした、その時だった。
「あ、そだ。お昼ご飯どーする? って先輩はいつもお弁当ですもんね」
「んー。明日は久しぶりに購買にするかな」
「え!? いつも鶏胸肉とブロッコリーにゆで卵、タンパク質マシマシな先輩が?」
「ラーメンじゃないんだから……」
「先輩ってラーメン知ってたんですか!?」
「知ってるわ!」
「あははっ、じゃあわかりました! じゃあそんな感じで」
いや、なにがわかってどんな感じだよ。
そう心の中で突っ込んだ時には、もう立華は踵を返して走り去っていた。
あいつ、本当に無駄に元気だな……と少し羨ましく背中を見送っていると。
スニーカーの底を鳴らして急ブレーキをかけ、立華が目の前まで戻ってきた。
揺れるツインテールが、夕陽を浴びてぴょこぴょこと跳ねている。
「あ! センパイ、改めて明日からよろしくお願いします」
「ん? あ、あぁ。こちらこそ」
深々と頭を下げるその後ろ姿を見て、俺は思わず目を丸くした。
さっきまでの暴言が嘘のように謙虚だ。本物かどうか疑いたくなる。
「じゃ、今度こそさようならっ。じゃーねー!」
手をぶんぶんと大きく振る立華に、俺も軽く手を挙げて応えた。
「気を付けて帰れよー」
遠ざかる小さな背中を見送った後、俺は一人、静かになった夕暮れの道を歩き出す。
莉緒は一体何を考えているのか。人に教えるというのは、想像以上に責任重大だ。
いくら俺自身が泳げるとはいえ、格闘技とは勝手が違うし、ましてや相手は水にトラウマを抱える完全な初心者。
この短い期間で少しでも基礎を教えるなら、まずは俺自身が教え方を整理しておかないとマズい。
息継ぎのタイミング、水への恐怖心の取り除き方。下手に変な癖や間違ったフォームを付けさせるわけにはいかないし、万が一また溺れさせでもしたら……。
本当に無茶を言ってくれる。
まずは帰って、水泳の基礎指導の動画でも漁るか――。
ぶつぶつと呟きながら自宅のドアを開け、ふと玄関の鏡に映った自分の顔と目が合った。
「…………」
ペタり、と無意識に自分の頬に触れる。
鏡の中の俺は、なぜか珍しく、楽しげに笑っていた。
アンケートの投票ありがとうございます。
何気にまだ出番がほとんど来ていないさゆりが頑張っていて驚きです。そしてアホの子......。
毎話の評価や、「ここすき!」など、めちゃくちゃ励みになっています。
皆様の反応が執筆の最大の原動力です。
ここからさらにヒロインたちのエンジンがかかっていきますので、引き続き楽しんでいただけたら嬉しいです。
参考までに。どのキャラクターとの絡みが見たいですか?
-
七瀬莉緒(幼馴染)
-
立華琴音(アホの子)
-
立華綾音(良い子)
-
風畑さゆり(お嬢様)