夜の帳が降りきった頃、剣崎壮馬は重い足取りで帰宅した。
玄関の扉を開けると、暖色の照明に包まれた廊下が、日常という名の平穏をもって彼を迎えた。だが今日の壮馬にとって、その穏やかな光はあまりに眩しすぎた。昼間、病院の玄関で少女の蹴りを受け、文字通り急所を穿たれた肉体は、未だ鈍い疼痛を手放してはいなかった。加えて、医局長・堀内から浴びせられた執拗な経費削減の要求、そして若手医師たちの未だ覚束ない手技への苛立ちが、心身の奥深くまで蝕んでいた。
リビングのソファに巨体を沈めると、壮馬は腹の底から長いため息を吐いた。その顔には、幾百もの手術をくぐり抜けてきた外科医特有の、骨の髄まで染みた疲労の色が濃く滲んでいる。革張りのクッションが大きく軋み、まるで家具そのものが彼の重荷を受け止めかねているようであった。
キッチンから、娘の恵が心配そうな視線を送っていた。
(……お父さん、また老けた? 手とか傷だらけだし。お母さんやおばあちゃんは『勲章だ』って言うけど、つらそうなだけに見える。本当に大丈夫なのかな)
しかし壮馬は、その視線に気づく余裕すら持ち合わせていなかった。珍しく、誰に向けるでもなく弱音を零した。
「……堀内の奴、現場を知らんくせに数字ばかり並べ立てやがる。それに、若手の育成だ。あいつらも少しはマシになってきたが……手術中にモタついているのを見ると、つい俺が手を出してパパッと終わらせちまう。その方が患者の負担も少ないし、俺自身も精神的に楽だからな。……だが、それじゃあいつらは育たん」
それは、孤高の職人が誰にも見せぬまま抱え続けてきた、孤独な独白であった。
――その時、静寂を破るように、シュルシュルという軽やかな音が響いた。
母の多栄子が、ダイニングテーブルの椅子に腰を据え、リンゴを剥いていたのである。
赤く艶やかな果皮が、途切れることなく螺旋を描いて刃の下から流れ落ちていく。一筋の紐のように、くるくると、くるくると。蛍光灯の白い光を受けて、剥かれた果肉は仄かに透き通り、瑞々しい断面から甘酸っぱい香気が立ち昇った。それはこの家に長く根を張ってきた、古い台所の記憶そのもののような匂いだった。
多栄子は手を休めることなく、壮馬に向かって語りかけた。
「あんた、覚えてないかい? 小学生の時、初めて『リンゴを剥きたい』って包丁を持った日のこと」
壮馬は眉をひそめ、記憶の糸を手繰り寄せた。
「……覚えていないな」
「そうだろうね。あんたの手つき、危なっかしくて見てられなかったよ。いつ指を切るかと思って、お母さん、心臓が止まりそうだった。『貸してごらん!』って取り上げるのは簡単さ。でもね、それじゃああんたは一生、誰かに剥いてもらわなきゃリンゴが食べられない男になっちまう。だからお母さんは、後ろで手を握りしめて、ぐっと我慢したんだよ」
多栄子はそこでようやく手を止め、剥き終わったリンゴを皿の上に静かに置いた。螺旋の果皮が、皿の脇で小さく丸まって動かなくなる。そして彼女はゆっくりと振り返り、ソファに沈んだ巨大な息子の姿を見上げた。
「壮馬。『やる』よりも『黙って見守る』ほうが、何倍も難しいし、痛いんだよ。あんたは今、その『痛さ』から逃げて、楽をしてるだけじゃないのかい?」
その言葉は、鋭利なメスとなって壮馬の胸を真っ直ぐに貫いた。
(楽をしている……? この俺が?)
壮馬は反論しようと口を開きかけ――そして、閉じた。喉元まで込み上げた言葉が、飲み下した唾液とともに音もなく沈んでいった。
「……死んだお父さんが最期に残した『人を助ける人間になれ』って言葉。あんたはずっと、自分一人の手で背負い込むことだと思い込んで、ボロボロになるまで戦ってきたね」
多栄子は目を細め、不器用な息子の大きな背中を、慈しむように見つめた。その眼差しには、何十年という歳月を経てなお色褪せぬ、母というものだけが持ちうる深い光が宿っていた。
「でもね、壮馬。あんたが痛みを堪えて育てた若い人たちが、これから何百、何千という命を救っていくんだとしたら……それこそが本当の意味で『人を助ける人間になった』ってことなんじゃないのかい?」
その瞬間、壮馬の脳裏を白い閃光が走った。
――自分がいなくなっても、この
確かにそうだ。彼は若手の不手際を見るに見かねて、「患者のため」という大義名分を掲げ、すぐに手を出していた。だが、それは本当に患者のためだったのか。未熟な彼らが失敗するかもしれないという恐怖、それを見続けることの耐え難い緊張から、自分自身が逃げ出したかっただけではないのか。
自らが執刀すれば、手術は完璧に終わる。精神的にも楽だ。だが、それでは部下は永遠に育たない。かつて母が、血が滲むかもしれない幼い息子の手を、拳を握り締めて見守り続けたように――自分もまた、部下が傷つくリスクを背負い、泥を被る覚悟で彼らの手元を見守らねばならなかったのだ。
衝撃が、壮馬の全身を貫いた。それは手術室で幾度となく対峙してきた、あらゆる緊急事態とは質の異なる、魂の根幹を揺さぶるような衝撃であった。
彼はソファから弾かれたように立ち上がった。大きな足が床を踏みしめ、静かにリンゴを剥き続ける母の背後へと歩み寄る。小さな肩。皺の刻まれた手。その背中は、壮馬の半分にも満たぬほど小さかったが、今この瞬間、彼が生涯で見上げたどんな存在よりも巨きく映った。
彼はその小さくも偉大な背中に向かって、深く頭を下げようとした。
「……母さん、俺は――」
その時である。
「あら、あなた。突っ立ったまま何してるの?」
リビングの扉が開き、妻の真紀子が洗濯物のカゴを抱えて入ってきた。彼女は、母に向かって神妙に頭を下げようとしている壮馬の姿を見て、クスリと笑った。
「お義母さんにリンゴ剥いてもらって、嬉しくて言葉も出ないのね。ほら、感動してないで、お風呂のお湯抜いて洗ってきてちょうだい。どうせ暇なんでしょ?」
「……あ、ああ。わかった」
壮馬は反射的に頷き、すごすごと風呂場へ向かって歩き出した。
多栄子は「フフフ」と笑いながらリンゴをかじり、恵は呆れたようにため息をつく。
剣崎家において、外科部長の威厳など、リンゴの皮よりも薄いのであった。
【剣崎壮馬の独白】
……母さんは、やはり偉大だ。
「見守るほうが痛い」。その言葉は、外科医としての俺の慢心を木っ端微塵に砕き、指導者としての新たな地平を見せてくれた。まさに金言だ。人体の構造を知り尽くしたこの俺が、母親の一言で胸を抉られるとは。メスの切れ味より鋭い。俺は明日から、手術室で部下を見守る「忍耐」という名のメスを握ろうと思う。
だがしかし。
その崇高な決意の余韻は、我が家の財務大臣(妻)の「風呂を洗え」という一言で、わずか三秒にして泡と消えた。三秒だぞ。手術室なら麻酔導入すら始まっていない時間だ。
昼間、俺は病院の玄関で少女の蹴りを受け、男としての存続に関わる生命の危機に瀕していたというのに。家に帰れば、外科部長の肩書きなど一切通用しない。俺の家庭内カーストは、今や風呂場のカビ以下の最下層に位置している。カビは少なくとも駆除される時に「存在」を認知してもらえる。俺にはそれすらない。
……まあ、いい。
痛みに耐え、部下を見守り、そして黙って風呂を洗う。それが「大人の男」の甲斐性というものだ。父さんが言った「人を助ける人間」には、きっと風呂掃除も含まれている。……含まれていてくれ。
……真紀子、風呂用洗剤の詰め替え、どこにあるんだ?