響華 ~孤高の天才外科医の受難と継承~   作:多紀田朗

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第十六章 震える手と誇り高き引導

 救急車の中での記憶は、壮馬からすっぽりと抜け落ちていた。

 三船が何かを叫び、必死に処置を行っていた。壮馬自身も、無意識のうちに手を動かしていたはずだ。だが、彼の意識はずっと、ストレッチャーの上で目を閉じたままの娘の顔だけを映していた。白い毛布に沈んだその横顔は、幼い頃に寝かしつけた夜の面影をそのまま残していて、それが壮馬の胸を容赦なく抉った。

 やがて激しいサイレンの音が途絶え、見慣れた病院の搬入口が視界に飛び込んできた時、壮馬は初めて我に返った。

 ここから先は、彼自身の戦場である。

 

 救命救急センターの自動ドアが開いた瞬間、鼻孔を突いたのは、鉄錆のような血の匂いと、無機質な消毒液の冷気であった。二つの匂いが肺の奥で混じり合い、ひとつの鋭い警鐘となって脳幹を叩く。

 ストレッチャーの上で蒼白になっているのは、数時間前まで満面の笑みでプレゼントのリボンを撫でていた少女――他ならぬ、愛娘の恵だ。

 モニターが不協和音を奏でている。血圧は低下し、頻脈が続いている。心拍数を示す電子音が、焦燥を煽るように間隔を詰めていく。剣崎壮馬は、CT画像が表示されたスクリーンを凝視した。

脾臓破裂、および肝左葉損傷による腹腔内出血。

 外科医としての脳髄は、即座に「緊急開腹による止血」という唯一の解を弾き出した。だが、父親としての脳髄は、愛娘の死という最悪の未来予想図に支配され、思考回路を焼き切ろうとしていた。外科医と父親――その二つの人格が、頭蓋の中で互いの喉元を掴み合っていた。

休日のため、外科の当直医は手薄であった。そこにいたのは、かつてポンコツと呼ばれた男、山下勇樹ただ一人。

 

「俺が切る! 俺以外に誰がいるんだ!」

 

 壮馬は獣のように咆哮した。

 彼は血だらけのシャツを脱ぎ捨て、強引に滅菌ガウンを羽織ろうとした。だが、その巨体は小刻みに震え、手袋に指を通すことすらままならない。目の焦点は虚空を彷徨い、過呼吸のように浅く荒い息を繰り返していた。手袋のラテックスが汗で滑り、何度も何度も指先が空を掻いた。

 

「先生! やめてください! そんな状態では……!」

 

 三船が悲痛な声で制止するが、壮馬の耳には届かない。彼は亡霊のようにフラフラと手術台の前に立ち、震える手を差し出した。

 

「……メス」

 

 看護師が戸惑いながらも、その手にメスを乗せる。冷たい金属の重みが掌に触れた。何千回と握ってきたはずの感触が、今日に限って他人の手に触れているように遠い。

 だが、刃先を恵の腹部へ向けようとした瞬間――壮馬の視界が歪んだ。メスを持つ手が、痙攣したように激しく震え、ピタリと止まる。

 

(……もし、間に合わなかったら?)

 

 脳裏にフラッシュバックするのは、かつて救えなかった命の冷たい感触と、心電図がフラットに堕ちていくあの電子音。長く、平坦で、何の抑揚もない、ただ「終わり」だけを告げる音。そして、その『死』が、最愛の娘の顔と重なり合う。

 

(俺のこの手が、恵を殺してしまうかもしれない……ッ!)

 

 外科医としての絶対的な自信が、父親としての巨大な恐怖に食い破られようとしていた。だが、長年彼を縛り付けてきた「俺が切らねば」という呪縛が、壮馬を強引に突き動かした。彼は恐怖をねじ伏せるように奥歯を噛み締め、痙攣する腕のまま、刃先を娘の肌へと下ろそうとした。

 

 その時である。

 壮馬の右腕を、万力のような力がガシッと掴み、術野から引き剥がすように強引に上へと引き戻した。

 

「な……ッ!?」

 

 驚愕する壮馬の指先から、鋭く光るメスがスッと抜き取られる。ハッとして視線を上げると、そこには山下勇樹が立っていた。

 かつて壮馬の視線一つで萎縮していた青年の目は、今は冷徹な機械技師のように静まり返っていた。恐れも迷いも、そこにはない。ただ、為すべきことだけを見据えた、研ぎ澄まされた眼であった。

 

「どいてください。邪魔です」

 

 その言葉は、あまりに無慈悲で、かつ正鵠(せいこく)を射ていた。

 

「何だと……!?」

 

 壮馬が怒りに任せて睨みつける。だが、山下は一歩も引かなかった。彼は壮馬の震える手を指差し、静かに、しかし断固として告げた。

 

「今の部長の手は、外科医の手じゃありません。ただの震える父親の手です。……そんな手で、僕らの大事な患者に触らないでください」

 

 それは、弟子から師への、悲しくも誇り高き引導であった。

 手術室の無影灯が、二人の間に落ちる沈黙を白く照らしている。壮馬の拳が震えた。怒りではない。認めたくない正しさが、骨の髄まで沁みたのだ。

 傍らにいた三船聡子が、一歩前へ進み出た。彼女は壮馬の目を真っ直ぐに見つめ、深く頷いた。

 

「先生。私たちが引き継ぎます。……先生が教えてくれた技術です。先生が育てたチームです。ご自分の『作品』を信じてください」

 

 作品。その一語が、壮馬の崩壊しかけた理性を辛うじて繋ぎ止めた。

 壮馬の全身から力が抜けた。彼は、震える手をゆっくりと下ろした。

 

「……頼む」

 

 絞り出すような声であった。喉の奥で砕けた石のような響きが、手術室の静寂に沈んだ。彼は手術室の扉の前で立ち尽くした。

 プシュッ、という気密の抜ける音と共に、扉が閉ざされる。

 分厚い扉の向こう側で、三船の凛とした声が響いた。

 

「……タイムアウトを行います。患者、剣崎恵さん。十七歳。女性。診断名、『腹部鈍的外傷による腹腔内出血』。予定術式、『緊急開腹止血術』。予想出血量、大量。……すぐに開けます」

 

 その声には、微塵の迷いもなかった。

 

 手術中の赤いランプが点灯する。

 壮馬は、冷たい手術室の扉に額を押し付け、祈るように目を閉じた。額に触れるステンレスの冷たさが、こめかみの奥まで染み込んでくる。中の様子は一切分からない。聞こえるのは、自分の心臓の音と、廊下の蛍光灯が放つ微かな唸りだけだ。それが余計に、彼の心を苛んだ。

 見守る拷問。

 かつて母が言った言葉が、脳内で繰り返される。

 

――『やる』よりも『黙って見守る』ほうが、何倍も難しいし、痛いんだよ。

 

 今、彼はその痛みの極地にいた。自分の手で触れられないもどかしさ。代わってやれない無力感。それが内臓を雑巾絞りにしていく。扉一枚の向こうに娘がいるのに、その一枚が大洋ほどに遠い。

 

 

 どれほどの時間が経っただろうか。遠くで、自分の名前を呼ぶ切羽詰まった声が聞こえた気がした。

 壮馬が重い足を引きずり、清潔エリアを抜けて家族待合室の廊下へ出ると、そこに妻の真紀子と母の多栄子が駆けつけてきたところだった。

 

「母さん……真紀子……」

「恵の様子は!?」

 

 真紀子が青ざめた顔で詰め寄る。壮馬は崩れるように壁に寄りかかった。白い壁の冷たさが、背中越しに彼の体温を奪っていく。

 

「今、若手に任せている。……俺は……何もできなかった……。いや、やはり俺が……」

 

 再び手術室へ向かおうとする壮馬の胸を、真紀子の両手が強く押し留めた。

 

「……ダメよ、全部あなたが一人で背負う必要なんてないのよ。……若い人たちが立派に育ってること、誰よりも知ってるのはあなたじゃないの」

 

 その言葉に、壮馬の足が止まる。

 バシッ。

 背中に鋭い痛みが走った。多栄子が、壮馬の広い背中を力一杯叩いたのだ。

 

「……いいんだよ、壮馬。あんたは『黙って見守る』っていう、一番痛い仕事から逃げなかったんだ。それで十分だよ」

 

 多栄子は、崩れ落ちそうな息子の肩を力強く抱き寄せた。小柄な母の腕は、壮馬の巨躯にはあまりに細い。だが、その細さの中に、何十年も家族を支え続けてきた芯の硬さがあった。

 

「……天国のお父さんが言ってた『人を助ける人間』に、あんたは立派になれたんだよ。胸を張りな」

 

 家族の言葉が、冷え切った壮馬の心に温かな血を通わせた。凍りついた管に、ようやく一筋の温もりが戻るように。彼は涙をこらえ、再び扉を見つめた。

 

 

 一方、扉の向こうの手術室内では、まさに想定外の事態が起きていた。

 脾臓の摘出と肝臓の止血が終わりかけた時、予想外の場所――解剖学的に通常は太い血管が存在しない場所から、突然の大量出血が起こったのだ。交通事故の凄絶な衝撃で、血管の走行そのものが歪んでいたのである。術野が一瞬にして暗い赤に呑まれた。

 

「なっ……!? こんな血管の走行……!」

 

 山下の手が一瞬止まり、息を呑む。どれほど精密な技術を持っていようと、出血源が見えなければ縫合のしようがない。視界を奪う赤の奔流の前で、彼の指先が宙に浮いた。

 その瞬間、助手の三船が動いた。

 

「山下先生! もうマニュアル通りにはいかないわ!」

 

 三船の眼光が鋭く光る。かつて壮馬から叩き込まれた「教科書を捨て、身体の声を聴け」という教えが、極限状態の中で完全に覚醒していた。

 彼女はモニターの僅かな拍動音と、指先に伝わる血流の微かな脈動だけを頼りに、視界の利かない血の海へと躊躇なく指を突き入れた。温かい血が手袋の上を滑る。その温度の中に、拍動のリズムを読む。そして、隠れた出血源を的確に探し当て、指の腹で強く圧迫して出血を制御した。

 一瞬にして、血の海にひとすじの道が切り拓かれた。

 

「私が道を作る。先生は、目の前の命だけを見て縫って!!」

「……はいッ!!」

 

 三船が野生の勘で切り拓いた道に、山下が精密な縫合技術を叩き込む。一針ごとに、確実に、正確に。かつて壊れた時計の歯車を組み直す手つきで覚えた、あの繊細な指先の記憶が、今この瞬間に命を繋ぐ糸となる。

 二人の若き外科医の力が完全に融合し、今まさに、師の背中を超えようとしていた。

 

  *   *   *

 

 一時間後。

 長い、永遠にも似た時間が過ぎ去った。手術室のランプが消えた。プシュッという音と共に、扉が開く。

 先頭で出てきたのは、山下だった。マスクを外し、汗に濡れた顔で、彼は壮馬を見た。その瞳には、成し遂げた者だけが宿す静かな光があった。

 

「……止血、完了しました。脾臓は摘出しましたが、肝臓は縫合で温存できました。バイタル、安定しています」

 

 完璧だった。かつて壮馬が教えた通り、いや、それ以上に丁寧で迅速な手技だったことが、その報告の一語一語から伝わった。

 壮馬は口を開こうとした。いつものように、「遅い」とか「縫合が甘い」とか、憎まれ口を叩こうとした。

 だが、言葉にならなかった。

 彼の膝から力が抜け、その場にあるベンチへと崩れ落ちた。山下と三船が慌てて駆け寄ろうとするのを、手で制する。

 壮馬は天井を見上げた。

 

「……ああ、そうか」

 

 白い蛍光灯が滲んで見える。

 

「……俺がいなくても、この病院(せかい)は回るんだな」

 

 それは、敗北の言葉ではなかった。

 何十年もの間、彼を縛り付けてきた「俺がやらなきゃ誰がやる」という孤高の鎖が――ふわりと、解ける音であった。

 

 

 

【剣崎壮馬の独白】

 

 ……完敗だ。

 あの時、俺の震える手からメスを奪い取った山下の目は、かつての俺自身よりも鋭く、そして強かった。

 俺の教え(ジャズ)を完璧に翻訳し、ブラインドの血の海から躊躇なく道を切り拓いた三船の指先。

 あいつらは、俺の目の前で、剣崎壮馬という神話をあっさりと過去のものにしやがった。

 外科医として、これほど悔しく、そして……これほど誇らしい瞬間が他にあるだろうか。

 

 俺はもう、たった一人ですべての命を背負う、孤高の天才(バカ)じゃなくていい。

 俺がメスを置いたとしても、あいつらがいる限り、俺の技術と哲学はこれからも何百、何千という命を繋いでいく。

 

 ……ああ。

 どうやら俺は本当に、ただの男になっちまったらしい。

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