響華 ~孤高の天才外科医の受難と継承~   作:多紀田朗

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エピローグ 陽だまりの寝顔とただの父親

 季節は巡り、あの凍てつくような絶望の冬から、半年という月日が流れた。

 窓の外には柔らかな秋の陽光が降り注いでいる。庭の金木犀(きんもくせい)が、空気そのものを琥珀色に染めるような甘やかな香りを漂わせていた。

 俺は今、自宅のリビングのソファに深く身を預け、まどろみの淵にいる。

 かつて、ここでの睡眠は泥のように重かった。意識を手放すことすら怖かった。目を閉じれば手術室の残像が瞼の裏に焼きつき、開けば次の患者のカルテが視界を埋め尽くした。眠りとは休息ではなく、戦場と戦場の間に横たわる短い停戦に過ぎなかった。

 だが今、俺を包んでいるのは、羽毛のように軽く、陽だまりのように暖かい午睡(ごすい)である。

 

 ふと、半年前の記憶が脳裏をよぎる。

 恵が事故の後、初めて集中治療室で目を覚ました時のことだ。

 あの日、ICUの空気は冷たく澄んでいた。生命維持装置の律動的な電子音だけが、沈黙を区切るメトロノームのように鳴り続けていた。消毒液の鋭い匂いが鼻腔の奥を刺し、蛍光灯の白い光が、ベッドに横たわる小さな身体の輪郭を残酷なほど鮮明に浮かび上がらせていた。

 麻酔から覚めたばかりの娘の瞳は、まだ焦点が定まらず、深い霧の中を彷徨(さまよ)っているようだった。乾いた唇が、かすかに動く。

 

「……お母さん、おばあちゃん。……あれ? 私……」

「恵、大丈夫よ。みんなが助けてくれたのよ」

 

 真紀子が涙声で答えた。その声は震えていたが、崩れなかった。母親という生き物の、底知れない強さだった。

 恵は微かに状況を悟ったのか、長い睫毛(まつげ)を伏せた。その瞼の上を、涙が一筋、こめかみへ向かって静かに流れ落ちた。

 

「……あ。……ごめんなさい。……ごめんなさい」

「謝らなくていいの。本当に助かってよかった」

 

 多栄子が、点滴の管を避けるようにして、孫の髪をそっと撫でた。皺だらけの指先が、額にかかった前髪を丁寧に払う。その手つきは、恵が幼かった頃と寸分も変わらなかった。

 俺はベッドの傍らに立ち尽くしていた。

 ただ、震えていた。

 何千という手術を執刀してきたこの両手が、娘の前では何の役にも立たなかった。声を出そうとしても、喉の奥で言葉が砕けた。外科医として幾度となく患者の家族に「成功です」と告げてきたこの口が、自分の娘にかける言葉ひとつ見つけられなかった。

 

「……恵」

 

 絞り出した声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。

 

「……お父さん」

 

 恵の視線が、ゆっくりと俺を捉えた。麻酔の残滓(ざんし)で潤んだ瞳が、蛍光灯の光を受けて淡く揺れている。

 俺が恐る恐る頬へ手を差し出すと――恵の小さな手が、俺の手にそっと触れた。

 そして、包み込んだ。

 その(てのひら)は驚くほど温かかった。点滴の針が刺さった甲は痛々しいほど白かったが、指先には確かな体温があった。生きている、という事実が、皮膚を通じて俺の神経の隅々にまで伝わってきた。

 

「こんなにボロボロになって……。バカね。お父さんは……」

 

 直後、恵は安心したように微笑み、再び深い眠りへと落ちていった。握られていた指先の力が、潮が引くように静かに(ゆる)んでいく。

 俺の手は、長年の手術でゴツゴツと節くれだっているだけだ。決して怪我をしているわけではない。だが、麻酔で意識が混濁している恵には、それが俺の「無理を重ねてきた証」として映ったのだろう。

 他人の命ばかり救って、自分のことは大事にしない不器用な父親。

 彼女は――ずっと、俺の働き方を心配してくれていたのだ。

 思春期の拒絶も、「近寄らないで」という言葉の(とげ)も、その裏側にはいつも、この子なりの不器用な愛情があった。俺はそれに気づけなかった。気づこうとしなかった。手術室という聖域に逃げ込み、メスを握ることでしか自分の価値を証明できなかった男には、娘の沈黙の意味を読み取る力が、決定的に欠けていた。

 

「……すまん。本当に……すまん」

 

 (せき)を切ったように、涙が溢れ出した。

 止められなかった。止める理由もなかった。

 娘が無事でいてくれたという、胸を押し潰すほどの安堵。今まで無理を重ね、家族にこんな心配をかけていたことへの、骨の髄まで沁みる情けなさ。そして何より――触れても嫌がらず、俺の無骨な手を握り返してくれた、娘の温もり。

 俺は子供のように声を上げて泣いた。

 ICUの無機質な壁に、嗚咽が反響した。生命維持装置の電子音も、空調の低い唸りも、何もかもが遠ざかり、世界には娘の寝息と、俺の泣き声だけが残った。

 それは、外科医としての鎧を完全に脱ぎ捨てた、ただの父親の涙だった。

 神でも、執刀医でもない。四十五年間、不器用に生きてきた一人の男が、ようやく流すことを許された、懺悔(ざんげ)の涙だった。

 

 

 さて。

 ここからは現実の話をしよう。感動の余韻に浸りたい諸兄には申し訳ないが、人生というのは映画のエンドロールのように美しく終わってはくれない。

 

 あれから、病院での俺の立ち位置は劇的に変化した。

 いや、仕事が減ったわけではない。むしろ増えた。爆発的に増えた。あの古狸(ふるだぬき)・堀内勇策が満面の笑みで課してきた「剣崎メソッド・完全マニュアル化プロジェクト」――通称『全百巻の地獄』により、俺のデスクワークは未曾有の惨状を呈している。

 

 いいか、全百巻だぞ。百だ。

 

 第一巻「基礎理論編」から第百巻「緊急時の判断フローチャート集」まで、俺の三十年の外科人生をすべて言語化しろというのだ。言語化。この二文字の暴力性を、諸君は理解しているだろうか。俺がこれまで「なんとなく手が動く」「ここは気合い」「筋肉が覚えている」で処理してきた領域を、すべて論理的な日本語に変換しろと言っている。無茶を言うな。「気合い」の言語化とは何だ。「気合いです」以外に何と書けと言うのだ。

 パソコンに向かうたび肩こりは慢性化の一途を辿り、ブルーライトが網膜を焼き尽くさんばかりである。俺の戦場は手術台からデスクに移り、メスはキーボードに変わった。なお、タイピング速度は山下の三分の一であることをここに告白しておく。外科医の指は速いが、それはメスを持った時の話だ。

 さらに深刻な問題がある。

 俺が若手に手術を積極的に任せるようになったことで、医局内での「恐怖の独裁者」としての威厳が、音を立てて崩壊しつつあるのだ。

 

 山下勇樹。かつて俺が「ポンコツアサシン」と命名したあの男は、今や「精密ドライバー」の異名を取り、若手外科医の筆頭としてメスを振るっている。道具への異常な愛情と、メカニックの構造理解から生まれた精緻な手技は、もはや誰もが認めるところだ。

 

 ――が。

 

 成長と引き換えに、あいつの態度は確実に増長している。

 

「部長、第二章の『なぜ外科医に筋肉が必要か』ですけど、これ外科と関係ないんで全カットでいいですか?」

 

 関係なくない。大いにある。筋肉は外科医の基盤だ。体幹が弱い外科医は術中にブレる。これは科学だ。断じてポエムではない。……いや、第二章の後半はちょっとポエムかもしれないが、それでも全カットとは何事だ。俺の魂の叫びを何だと思っている。

 

 三船聡子。マニュアルの世界を超え、「野生の勘」に目覚めた彼女は、俺の技術を貪欲に吸収し、時に俺を凌駕するほどの手際を見せるようになった。頼もしい限りである。

 

 ――が。

 

「先生の手術、最近ちょっと丸くなりましたね。もっと攻めましょうよ」

 

 逆指導である。弟子が師匠に「攻めが足りない」とダメ出しをしている。俺はいつからレビューされる側に回ったのだ。しかも三船、お前が俺の手術ノートを「推しの生写真」みたいに大事にファイリングしているのは知っているぞ。ファンが本人にダメ出しするな。せめて裏でやれ。

 

 そして極めつけが、こいつらの財布狙撃である。

 

「あー、腹減りましたね。部長、今日は『繁盛』の特上カルビが食べたいです。あ、もちろんおごりで」

 

 もちろんおごりで。この「もちろん」に込められた圧よ。何が「もちろん」だ。俺の財布事情のどこに「もちろん」の余地がある。お前たちが俺を超えたからといって、俺の小遣いの上限まで超越しようとするな。因果関係がおかしい。外科の腕と焼肉の会計は独立事象だろうが。

 ……だが。

 不思議と、精神的な重圧はない。

 現場には山下がいる。三船がいる。そしてあいつらの背中を見て育つ、さらに若い連中がいる。

 俺が一人で支えていた「外科」という神殿の柱を、今は彼らが共に支えてくれている。柱は一本より二本、二本より三本のほうが強い。こんな当たり前のことに気づくのに、俺は二十年かかった。

 

 俺はもう、神である必要はない。

 ただの人間として、彼らの成長を見守り、時に赤ペンで添削を入れ、時に財布を開くだけの存在でいい。……いや、財布を開く頻度はもう少し下げたいが。

 もちろん、筋肉への信仰は捨てていない。ジムでのベンチプレスは相変わらず俺の精神安定剤だし、真空管アンプの(ともしび)を見つめる夜の孤独な時間は、何物にも代えがたい至福だ。あの橙色の光が真空管のガラスの中で静かに揺れるのを眺めていると、世界のノイズが全部消える。S/N比が無限大になる瞬間だ。

 

 しかし、それ以上に心地よい時間が、今ここにある。

 リビングでは、我が家を支配する三人の女性たちが、テーブルを囲んで談笑している。

 全快した恵が、学校での出来事を身振り手振りで話している。その声には張りがあり、生命力に満ちている。半年前、ICUで消え入りそうだった声が嘘のようだ。

 妻の真紀子が相槌を打ち、母の多栄子が穏やかに笑う。

 女たちの甲高い笑い声は、音響工学的に言えば完全に騒音の周波数帯である。残響も何もあったものではない。だが今の俺にとっては、バッハの無伴奏チェロ組曲よりも心地よい、極上のBGMだった。

 どんな高級オーディオも、この音は再生できない。

 この平和な喧騒こそが、俺が命を懸けて守りたかったものであり、そして逆に、ずっと俺を守ってくれていたシェルターなのだ。

 

 意識が、ゆっくりと遠のいていく。

 (まぶた)が重い。

 抵抗する必要など、どこにもない。今日の俺に、戦うべき敵はいない。

 

 夢と(うつつ)の境界線で、娘の声が聞こえた。

 

「お父さん、また寝ちゃった」

 

 呆れたような、しかし(とげ)のない声。半年前には聞けなかった、柔らかな響き。

 

「あらあら、仕方のない子だねぇ」

 

 母の、慈愛に満ちた溜息。四十五にもなって「子」呼ばわりされているが、不思議と悪くない。俺はこの家では永遠に末っ子で、大型犬で、カースト最下位だ。それでいい。

 

 衣擦れの音が近づいてくる。妻が、俺の顔を覗き込んでいるのだろうか。タオルケットがそっと肩に掛けられる感触があった。

 

 ふわりと、金木犀の香りに混じって、真紀子の匂いがした。

 

 そして――すぐ耳元で、優しく微笑んだ気配が揺れた。

 

「やっと、普通の『お父さん』になれたのね」

 

 

 

響華 ~孤高の天才外科医の受難と継承~    完




最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
※本作の「縦書き完全版PDF」についての詳細は、Xや活動報告にてお知らせします。
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