BIOHAZARD: Re-Genesis 作:ヨシフ書記長
猛毒の微笑
テラセイブ本部 レセプションホール
その夜、テラセイブ本部ビルの最上階に位置する広大なレセプションホールは、地上のあらゆる悲劇から最も遠い場所にあるかのように見えた。
天井に設えられた巨大なクリスタル・シャンデリアからは、眩いばかりの光が惜しみなく降り注ぎ、『テラセイブ』を支持、支援する上流階級の男女が身に纏う最高級のシルクやタキシードを美しくきらめかせている。グラスが触れ合う澄んだ音、行き交う給仕たちの洗練された足取り、そして幾重にも重なる上品な歓談の声。微かに漂う高級な香水の香りとアルコールの甘い匂いが、人々の警戒心を優しく麻痺させていた。
バイオテロや薬害の被害者を支援し、世界の闇に光を灯し続けてきたNGO団体『テラセイブ』。
その輝かしい人道支援の実績を称えるための復興支援パーティーは、一見すると平和と慈愛が形を成した理想郷そのものであった。
だが、その華やかな空気の中に、完全に異質な「美」を纏った一人の女性が紛れ込んでいた。
「……アンブレラが遺した負の遺産は、今なお世界を脅かしています。しかし、私たちは決して屈しません。バイオテロの恐怖に怯え、大切な人を失った方々の涙を拭い、確かな未来を築くこと。それこそが、我が叔父の遺したあまりにも重い罪に対する、私の生涯を賭けた『贖罪』です。皆さんと共に、私は人々を救うと約束いたします」
壇上に立ち、マイクを通じてホール全体にその鈴を転がすような美声を響かせたのは、新生ブルー・アンブレラの最高責任者――エリザベス・ステイラーであった。
プラチナブロンドの髪を気高く結い上げ、背中が大きく開いた純白のイブニングドレスに身を包んだその姿は、あまりにも神聖で、そして陶器のように冷徹だった。彼女がひとたび微笑めば、誰もがその完璧な美貌と慈愛に満ちたオーラに目を奪われる。演説が締めくくられると同時に、ホールは割れんばかりの拍手と、割れんばかりの称賛の声に包まれた。誰もが彼女を「アンブレラの罪を贖う聖女」と疑わずに讃えていた。
壇上から優雅に降りたエリザベスを、すぐに政財界の要人やテラセイブの幹部たちが取り囲み、次々と甘い称賛の言葉を投げかける。エリザベスは手にしたシャンパングラスを僅かに傾けながら、彼らに対して完璧な社交辞令の微笑を返していた。
その華やかな輪を静かに割って入ってきたのは、仕立ての良いスーツを着こなした精悍な男――テラセイブの幹部であり、実質的な現場トップの一人であるニール・フィッシャーだった。
「素晴らしいスピーチでした、ステイラー代表。私はテラセイブ幹部のニール・フィッシャーです。本日は遠路はるばるお越しいただき、心より感謝申し上げます」
ニールは恭しく頭を下げ、歓迎の意を示した。エリザベスは優雅に振り返り、彼に柔らかい微笑みを向ける。
「ええ、フィッシャーさん。お会いできて光栄ですわ。貴方たちテラセイブの献身的な活動には、我が社も常に敬意を払っておりますのよ」
「勿体ないお言葉です。ブルー・アンブレラからの多大なご支援があれば、我々の組織はより強固なものとなり、新たな夜明けを迎えることができるでしょう」
愛想よく語るニール。だが、エリザベスは彼を一瞥しただけで、その精神の奥底で燻っているちっぽけな野心――かつての恩師であるモルガン・ランズデールの意志を継ぎ、
「新たな夜明け、ですか……」
エリザベスはシャンパングラスの縁を細い指でなぞりながら、意味深に目を細めた。
「組織を導くというのは、大変な重責ですわね。理想とする『未来』を手にするためには、時として……ええ、ひどく痛みを伴う『犠牲』を払う大胆さが必要になることもおありでしょう?」
その瞬間、ニールの肩が微かに、だが確かに強張った。
完璧な社交辞令の中に、まるで自分の裏切りをすべて見透かしているかのような冷たい刃が潜んでいるのを感じ取ったのだ。ニールは内なる動揺を必死に隠し、ビジネススマイルを保ったまま頷いた。
「ええ……。我々も、より良い未来のために身を削る覚悟です。すべては、バイオテロのない世界のために」
「ふふ、頼もしいこと。貴方の『大仕事』、陰ながら期待しておりますわ」
「は、はい。それでは、私は他のゲストの対応がありますので、これで失礼いたします。どうか、今宵のパーティーを存分にお楽しみください」
逃げるように一礼し、足早に去っていくニールの背中。エリザベスは
だが、その澄んだ黄金色の瞳は、群がる有象無象の隙間を縫って、少し離れた壁際へと向けられていた。
そこでは、一人の女性が強い違和感を抱いたまま、エリザベスの横顔をじっと見つめていた。
クレア・レッドフィールドである。
ラクーンシティの地獄を生きて這い上がり、その後もロックフォート島、南極基地など、数々のバイオハザードの最前線に身を置いてきたクレアの野生的な直感が、脳内で激しい警戒の鐘を鳴らし続けていた。
(……どこかで、見たことがある。あの顔、あの立ち振る舞い、あの人を惹きつける奇妙な、そして悍ましいほどのカリスマ……。気のせいじゃない。私は、あの女を知っている……?)
クレアの網膜にフラッシュバックしたのは、かつて極寒の南極基地で対峙した、アシュフォード家の遺伝子工学によって生み出された最高傑作――アレクシア・アシュフォードの気高くも狂気的な残像だった。時に周囲の人間を羽虫のように見下す、あの冷え切った眼差し────
だが、アレクシアは死んだはずだ。目の前の女性は「エリザベス・ステイラー」という全くの別人であり、年齢も経歴も合わない。だが、魂に刻み込まれた恐怖の記憶が、目の前の銀髪の聖女にどうしても重なってしまうのだ。
胸騒ぎに突き動かされるように、クレアは人混みをかき分け、エリザベスの背後へと歩みを進めていた。
その張り詰めた視線に気づいたのか、エリザベスは取り巻きの役員たちをすっと下がらせると、不意に振り返った。
「何か御用?それとも…なにか顔についてるかしら?」
悪戯っぽく首を傾げるエリザベス。間近で見るその肌は血色を感じさせないほどに白く、美しかった。
可憐な少女のような仕草に、クレアは一瞬だけ気圧され、言葉を詰まらせる。
「い、いえ……。すいません。あ、あの…私たち、どこかでお会いしたことはありませんでしたか?」
ストレートなクレアの問いに、エリザベスはフッと小さく笑った。その瞳の奥で、ほんの一瞬だけ紅い光がちろちろと揺らめいたのを、クレアは見逃さなかった。
「いいえ? 貴女のような美しい方とお会いしたのは、これが初めてですわ」
エリザベスはそう言いながら、クレアの胸元にあるテラセイブのIDバッジへと視線を落とし、すぐに大発見をしたかのように目を輝かせた。神が引く数奇な運命の糸は、時として残酷なまでに、忌まわしい因縁を持つ者同士を交差させるものだ。エリザベスの中に眠る『オズウェル・E・スペンサーとしての記憶』が、その名前に仄暗い因縁を脈打たせる。
「貴女は……あぁ! あのレッドフィールドさんの妹さんね、はじめまして。クレア……レッドフィールドさん」
「……私の兄を知っているんですか?」
クレアが声のトーンを落とし、警戒を隠さずに問い返す。エリザベスは細い指先でグラスの縁を愛おしげになぞりながら、事も無げに言った。
「ええ、もちろん。BSAAの英雄ですもの。我がブルー・アンブレラも、お兄様たちの活動には多大な支援を行っているのよ。同じ反バイオハザード組織ですもの、知っていて当然ですわ。お兄様譲りの……とても強い、素晴らしい眼差しをされているのね」
エリザベスは親しげにクレアの手をそっと握った。その手のひらは、人間のものとは思えないほど滑らかで、そして――ぞっとするほど冷たかった。まるで氷の塊に直接触れているかのような錯覚に、クレアの背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。
「失礼だけど、ステイラー代表」
クレアは周囲に聞こえないほどの低い声で告げた。
「私たちは、まだその『アンブレラ』の名を冠する組織を完全に信用したわけじゃないわ。どれほど綺麗な言葉で贖罪を唱えようと、あの傘の下でどれだけの命が奪われ、どれだけの人生が狂わされたか……私はこの目で見てきたから」
その眼差しは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた戦士のそれだった。並の人間なら気圧されるほどの敵意。しかし、エリザベスは怯むどころか、心底感心したように深く頷いてみせた。
「当然の警戒よ、クレア。むしろ、貴女のように厳しい疑いの目を向け続けてくれる存在こそが、私たちが再び過ちを犯さないための『道標』になるわ。……叔父の犯した罪は、それほどまでに重いのですから」
どこまでも殊勝で、完璧な聖女の返答。その言葉の裏にある「底知れなさに」なおもクレアが眉をひそめた、その時だった。
「ねぇ、クレア! ここの生ハム、マジで美味いよ! 皿ごと持ってこようか――って、ウソ、ステイラー代表!?」
賑やかな声と共に二人の間に割り込んできたのは、テラセイブのロゴが入ったジャケットを少し着崩した、ショートカットの若い女性だった。両手には数段に重ねられたオードブルの皿を持っている。口いっぱいに生ハムを頬張った彼女こそ、テラセイブに入局したばかりの新人、モイラ・バートンだった。
「モイラ、静かに。代表に対して失礼よ」
クレアが苦笑交じりに嗜める。
「あ、いや、すいません。テレビで見るより、ずっと綺麗だったから、つい……」
普段は口の悪いモイラも、目の前に立つエリザベスの、この世のモノとは思えない神聖な美しさに圧倒され、珍しく頬を赤らめて縮こまった。
「ふふ、構わないわ。元気な新人さんね。貴女のお名前は?」
「モイラ……モイラ・バートンです。これでも一応、クレアを慕って入った期待の新人ってことで……」
「バートン……」
その姓を耳にした瞬間、エリザベスの黄金色の瞳の奥で、傲慢な老帝王の記憶が不気味に燃え上がった。
(バートン……。ほう、あの
アークレイの洋館事件において、かつて自らの
「まあ……。もしかして、あのバイオテロの黎明期から戦ってこられた英雄、バリー・バートン氏のご令嬢かしら?」
「え? クソ親父のこと知ってるんですか?」
「ええ、もちろん。とてもタフで、何より家族を愛する素晴らしい方だと、我が社のデータベースにも記録されているわ。……そう、貴女が、あのバリー氏の……」
エリザベスは一歩近づくと、モイラの顔を覗き込むようにして、その瞳をじっと見つめた。
それは表向きは歓迎の眼差しだったが、その裏では、エリザベートの超人的な頭脳がモイラの「生体情報」を冷酷にスキャンしていた。心拍数、呼吸の深さ、視線の揺らぎ、皮膚の微小な震え。
モイラ・バートンという人物の情報を…その実験体としての価値を、エリザベートの知性が冷徹に品定めしていたのだ。
モイラは本能的な嫌悪感と、理由のない強烈な恐怖から、一歩後ろへ身を引いた。
「あ、いや……アタシはただ、クレアの背中を追いかけてきただけなんで。親父の七光りとか、そういうの、マジで勘弁してほしいっていうか……」
「ふふ、失礼いたしましたわ。若者は自立を好むものですものね」
エリザベスはそっと手を引くと、何事もなかったかのようにグラスを口に運んだ。
「テラセイブでの仕事は、想像以上に過酷な現実に直面することになるわ。……時には、正気を保てないほどの『恐怖』に襲われることもあるかもしれない」
彼女の冷たい指先が、二人の肌に微かな戦慄を刻み込む。
「けれど、クレア。そしてモイラ。貴女たちのような美しい花が、どんな絶望にも屈しない『強い心』を持っていることを、私は心から願っているわ。私のプロジェクトが始まったその時は……ぜひその真価を見せてちょうだいね」
「特別なプロジェクト……?」
クレアが問いかける。エリザベスは意味深な微笑みを残すと、別の要人に呼ばれたように、優雅な足取りで人混みの奥へと戻っていった。
「な、何だったんだろ、あの人。綺麗だけど、なんか、ぞっとしたっていうか……氷の塊に触られたみたいだった。蛇に見つめられたカエルっていうかさ」
モイラが自分の腕を擦りながら、小さく毒づく。
「……ええ。ただの元製薬会社の社長令嬢じゃないわ」
クレアは、エリザベスが去っていった方向を鋭い目で見つめたまま、確信を深めていた。
「あの女の目は……世界を実験場としか思っていない、あの『狂人』たちと同じ目よ。モイラ、これから先、ブルー・アンブレラが絡む任務には、細心の注意を払いましょう」
「了解、クレア。……あのご立派な聖女様が、クソ親父以上の大嘘つきじゃないことを祈るよ」
二人がそう言葉を交わした時には、すでに仕掛けられた罠の歯車は回り始めていた。まさにその直後だった。
バツンッ!!! と弾けるような異音が響き、最上階の広大なレセプションホールを満たしていた眩い光が一斉に掻き消えた。
「え……? 停電?」
モイラが声をあげる暇もなく、直後、ホールの外から鼓膜を震わせる重低音が急速に接近してきた。複数の大型ヘリが放つ、不穏なローター音。同時に、破壊された夜の闇の向こうから、凄まじい光量のサーチライトがガラス越しに一斉に照射された。遮るもののない純白の光線が、暗黒に包まれた室内を白々しく射貫き、天井の巨大なクリスタル・シャンデリアを狂ったようにギラギラと乱反射させる。
──ガシャァァァンッ!!!
耳を聾するような爆音とともに、ホールの分厚い窓ガラスが、外側からの衝撃によって内側へと一斉に吹き飛んだ。鋭利なガラスの破片がサーチライトの光を浴びてきらめきながら、スコールのように人々の上に降り注ぐ。
華やかな歓声は一瞬にして絶叫へと変わり、阿鼻叫喚の地獄絵図が幕を開けた。
直後、破壊された窓から屋上より垂らされた無数のロープを伝い、最上階から滑り落ちるようにして影が降りてくる。それは、漆黒の戦闘服と特殊なガスマスクで顔を覆い、軍用アサルトライフルで武装した謎の私設軍隊だった。
「テロよッ! 伏せて!!」
クレアが叫び、モイラの頭を強引に床へと押し付ける。
だが、次の瞬間、ホール内に複数の催涙ガス弾と閃光弾が投げ込まれた。
凄まじい爆音と目も眩むような閃光が炸裂し、ホールの視界は一瞬で真っ白な煙に支配される。容赦のない催涙ガスが鼻腔と肺を焼き、テラセイブの職員や招待客たちが激しく咳き込みながら次々と床に倒れ込んでいく。
「モイラ! 私の手を離さないで!」
「何!何も見えない……ッ!」
混迷を極める煙の渦中、武装兵たちは統率された動きでテラセイブの職員たちを次々と拘束していった。混乱と悲鳴がホールを支配する。
床に這いつくばるモイラの背中に、容赦なく冷たい軍靴が踏みつけられる。
「何!?放して!ちょっと…!やめてったら!」
モイラが必死に抵抗し、叫ぶ。その声を追おうとしたクレアの前に、ガスマスクの不気味な集団が立ちはだかった。銃口が容赦なく突きつけられる。
「クレア・レッドフィールド!同行してもらおう」
「どうして…?これは何かの間違い──」
首筋に容赦なく麻酔薬が打ち込まれ、クレアも、モイラも、抗う術を奪われたまま意識の泥へと沈んでいく。
一方、その混沌の最中にあっても、銀髪の聖女――エリザベスの周囲だけは、奇妙なほど静寂が保たれていた。
彼女の前に、三人の武装兵が銃口を向けながら突入してくる。
「ブルー・アンブレラの代表だな。上の命令だ、一緒に来てもらおうか!」
ガスマスクの奥から響く、歪んだ機械声。
通常の人間であれば、恐怖に腰を抜かし、命乞いをする場面。しかし、ガスの煙に巻かれながらも、エリザベスの口元は、武装兵たちには見えない角度で妖艶に、そして酷薄に吊り上がっていた。
(ククク……『オーバーシア』だと? 面白い。アレックスめ、ワシの新しい身体を自分のチェス盤に引きずり込んだつもりか。よかろう、そのおままごとに、敢えて付き合ってやろうではないか)
直後、エリザベスはか弱い少女そのものの表情を作り上げ、声を上げた。
「きゃあぁっ! 触らないで……!」
わざとらしくその場に倒れ込み、武装兵が放った麻酔弾を首筋に甘んじて受け入れる。
薬品が血管を巡り、意識が急速に暗転していく。だが、その消えゆく意識の最期まで、彼女の脳内では、分不相応な野心を抱いた
ザヴォイティ島・収容所隔離室
一体…どれほどの時間が経過しただろうか。
カビと腐肉、そして強烈なフェノール系の消毒液の匂いが混ざり合った、呼吸するだけで肺が腐りそうな程の不快極まりない空気が漂う薄暗い牢屋。
エリザベスは、鋼鉄製の解剖台のような冷たいベッドの上に仰向けにされ、四肢を頑強な金属製の拘束具で強固に固定されていた。
彼女の左手首には、精神の「恐怖」を検知して緑から橙、そして赤へと発光色を変える、不気味なバイオセンサー付きの腕輪が嵌められている。
「おい、こいつが例の『ブルー・アンブレラ』の代表か?」
「ああ、間違いない。アレックス様の直命だ。まさかこんな大物の…それも極上の素体が向こうから転がり込んでくるとはな。どんな素晴らしい絶望の悲鳴をあげるか、今から楽しみだぜ」
薄汚れた防護服を着た二人の研究員が、下卑た笑みを浮かべながらエリザベスのベッドへと近づいてきた。
一人の手には、怪しく蠢くように脈動する緑色の液体が満たされた、特殊な高圧注射器が握られている。人間の精神に巣食う「恐怖の感情」を媒介にして、肉体を急激に変異・崩壊させ、
「おい、目を覚まさねぇうちに投与してしまえ。恐怖を感じ始めた瞬間の発症が一番綺麗だからな」
研究員は残酷に歪んだ笑みを浮かべ、エリザベスの白く華奢な二の腕の皮膚へ、容赦なく太い注射針を突き刺した。
無機質な金属音が響き、ピストンが押し込まれる。冷たいウィルス液が、彼女の純潔な血管へと一気に注入されていく。
――その、瞬間だった。
「……ッ!!」
エリザベスの金色の瞳が、バッと力強く、そしてあまりにも静かに見開かれた。
「なっ、起きたか!? だがもう遅い、ウィルスはすべて流し込んだぞ!」
研究員が勝ち誇ったように声を荒げる。
彼女の覚醒に伴い、手首の腕輪が「未知の監禁状態への恐怖」を検知しようと、怪しく橙色に明滅し始めた。通常であれば、ここから脳内に分泌されるノルアドレナリンをトリガーとして、t-Phobosが細胞を爆発的に侵食し、彼女の肉体はドロドロに崩壊していくはずだった。
しかし、エリザベスは、激痛に苦しむどころか、退屈そうに深くため息をついて見せた。
「……ふむ。恐怖を媒介にして発症し、遺伝子を組み替えるウィルスか。臆病者のアレックスよ、お主の考えることは、相変わらず実に回りくどくて悪趣味だな」
「な……に……!?」
研究員たちの顔が、防護マスクの奥で驚愕に凍りついた。
彼女の体内で、注入されたt-Phobosウィルスは狂暴に増殖を開始しようとしていた。しかし、その刹那、彼女の肉体の深淵に眠る究極の捕食細胞『ニュクス』、そしてすべての始まりである『始祖ウィルス原種』の絶対的な意志が、侵入者を全方向から包囲したのだ。
t-Phobosという最新の科学の結晶は、神の領域に達した彼女の生体システムの前では、ただの小賢しい「おやつ」に過ぎなかった。
パァァァンッ!!!
次の瞬間、隔離室に激しい破裂音が響き渡った。
エリザベスの左手首に嵌められていた腕輪が、人間の許容量を遥かに超越した、測り知れない生体エネルギーの「逆流」に耐えきれず、激しい火花を散らして粉々に爆発したのだ。焼き切れた基盤とガラスの破片が床に飛び散る。
「ウィルスが……完全に取り込まれただと…!? 拒絶反応も、変異もしないだと!? 馬鹿な…そんな人間がこの世にいるはずが――」
「お主たちの言う『馬鹿な』は、ワシにとってはただの日常に過ぎんよ」
エリザベスは冷酷に言い放つと、固定されている両腕を、事も無げに軽く持ち上げた。
ギチギチギチ……バキィィィンッ!!!
鋼鉄製の重厚な拘束具が、まるで湿った薄い飴細工のように無造作に引きちぎられ、金属片となって床へ転がった。解剖台からゆっくりと起き上がる銀髪の少女。その姿は、可憐でありながら、圧倒的な死そのものの体現だった。
「ヒッ……化け物め、来るな、来るなぁァッ!!」
研究員たちは持っていた注射器を放り出し、狂ったように叫びながら、隔離室の唯一の出口である重い鉄扉へと向かって逃げ出そうとした。
だが、エリザベスはベッドの上に腰掛けたまま、白く細い指先を彼らの背中に向けて、すっと一振りした。
――ズブズブズブッ!!!
彼女の指先、そして手のひらの皮膚が裂け、そこから赤黒い粘液状の異形な触手が、爆発的な速度で伸長した。触手は正確に二人の研究員の背中を貫き、その肉体へと深く突き刺さる。
「が、あ、あぁぁぁぁ……ッ!!」
悲鳴は喉の奥で押し潰され、一瞬でかき消された。
触手を通じて、研究員たちの遺伝情報…そして彼らが持っていた知識のすべて――このザヴォイティ島の詳細な施設、トラップの配置、さらにはオーバーシアことアレックス・ウェスカーの潜伏先に関する記憶までが、凄まじい勢いでエリザベスの中へと「逆流」し、完全に同化していく。
ほんの数秒の後、触手がいとも容易く引き抜かれた時、床に崩れ落ちたのは、生命の残滓を一切合切啜り尽くされ、灰色の石のようになった二つの「人間の殻」だけであった。
「ふぅ……。実に入り組んだ島だ。だが、これでお主の庭の地図はすべて手に入ったぞ、アレックス」
エリザベスは立ち上がり、真っ白なワンピースに付いた目に見えないシワを優雅な動作で伸ばした。
彼女の体内で、たった今吸収したt-Phobosウィルスの遺伝子情報が、そして彼女自身と完全に融和し、彼女の生体スペックをさらに一段階上の次元へと引き上げていく。
「さて……クレアたちが目覚める前に、少しこの島を散策させてもらうとしようか。不肖の娘に、本物の『創造主』の恐怖というものを、骨の髄まで教えてやるためにな」
銀髪の少女は、足元の死体には一瞥もくれず、血生臭い隔離室の扉を軽々と蹴り開けた。
オーバーシアが仕掛けた、凄惨な絶望の実験場。それはこの瞬間、世界で最も危険な最高位の捕食者による、理不尽な「狩り場」へと変貌を遂げたのだった。
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