BIOHAZARD: Re-Genesis 作:ヨシフ書記長
割れるような頭痛と、鼻腔を突くひどい鉄錆と汚水の臭い。
クレア・レッドフィールドが冷たいコンクリートの床で目を覚ました時、そこは光の届かない見知らぬ牢獄の中だった。
自動的に開いた鉄格子の扉から這い出るようにして通路へ出ると、正面の牢から激しく扉を叩く音が響く。
「誰か……誰かそこにいるの!? クレア! クレアなの!?」
「モイラ!?」
声を上げ、クレアはモイラが閉じ込められている牢の制御レバーを力任せに引き下げた。ガシャリと音を立てて格子が開き、飛び出してきたモイラを強く抱きしめる。
「クレア……アタシたち、どうなっちゃうの……? ここ、一体どこだよ……」
「大丈夫、私がついているわ。何が起きているか分からないけど、絶対にここから二人で生きて帰るのよ」
手首にはめられた、持ち主の精神状態に連動して色を変える不気味な金属製の腕輪。その存在に不穏な予感を覚えながらも、怯えるモイラを鼓舞し、最低限の武装を求めて薄暗い施設内を進み始めた、その時だった。
――いやぁぁぁぁぁぁぁッ!!!
静寂を切り裂く、狂ったような悲鳴。
前方の上層通路を、見覚えのあるテラセイブの制服を着た女性が、必死の形相で走り抜けていくのが見えた。同僚のジーナだ。その後ろからは、肉体がどす黒く変異し、手斧や鉄塊を掲げた狂人―『アフリクテッド』が、骨をきしませながら執拗に追いかけていく。
「ジーナ!!」
クレアの叫びは届かない。ジーナの姿はそのまま通路の奥、曲がり角の暗闇へと消えていった。
「嘘……ジーナが追われてる! モイラ、追うわよ!」
「待って、クレア! ジーナって誰!? それにあいつら、人間じゃない……!」
「
モイラの制止を振り切るようにして、クレアはジーナが消えた方向へと走った。むせ返るような血の臭いが濃くなっていく。
角を曲がった、その瞬間だった。
「ひ、っ……、あ……」
暗闇の奥から、フラフラと足元を狂わせながら、血塗れのジーナが歩み出てきた。
全身を深く切り刻まれ、制服を真っ赤に染めた彼女は、クレアたちの姿を認めると、縋り付くように虚空へ向かって震える手を伸ばす。その手首の腕輪は、完全なパニックを示す『赤』に激しく明滅していた。
「怖い……!獣の……目ッ!」
それだけを絞り出すように伝えると、ジーナは大量の血を吐き出し、ドサリと崩れ落ちるように床へ倒れ込んだ。ピクリとも動かなくなったその身体から、生温かい血の海が急速に広がっていく。
「嘘でしょ……ジーナ……嫌だよ、こんなの……!」
モイラが激しい恐怖から頭を抱え、激しく息を乱して後ずさる。ジーナが今しがた伝えた『恐怖』という言葉の重みが、ここがただの監獄ではなく、底なしの悪意に満ちた実験場であることを告げていた。
しかし、感傷に浸る時間は与えられない。ジーナをここまで追い詰めた通路の奥から、再び不穏な足音が響いた。
クレアが即座に身構え、銃口を闇へと向ける。
だが、暗がりから現れたのは、異形の怪物ではなく――煤まみれの純白のドレスを纏った、銀髪の美女だった。
「クレア、モイラ……! ああ、あなたたちが無事でよかった……」
息を切らし、華奢な身体を微かに震わせながらも、心から安堵したような表情を浮かべる彼女。ブルー・アンブレラ代表、エリザベス・ステイラーだった。
かつての天才、アレクシア・アシュフォードを彷彿とさせる圧倒的な美貌は、血と汚水に塗れたこの狂気の牢獄にあって、あまりにも異質で浮世離れしていた。
(……こんな地獄のような状況で、護衛もいない非戦闘員の彼女が、たった一人でここまで……?)
クレアの脳裏に一瞬の疑念が過る。しかし、気高い美貌を強張らせ、懸命に恐怖に耐えながら自分たちを求めて彷徨っていた彼女の姿を見て、クレアの生来の強い保護欲と責任感が勝った。
「エリザベス、あなたも無事だったのね。私の後ろから離れないで。絶対に守り抜くから」
「ええ……頼りにしていますわ、クレア」
エリザベスは怯えたように、その長い睫毛を伏せた。だがその実、彼女の内心は自らの狂気を完璧に隠しおおせた優越感で満たされていた。ジーナの死によって生み出された極限のサスペンスとクレアの正義感を巧みに利用し、彼女は「最優先で守るべきVIP」として、ごく自然に二人のパーティーへと合流を果たしたのである。
だが、安堵の時間は一瞬だった。
薄暗い通路の奥から、骨の軋むような異音とともに、肉体が変異した狂人――『アフリクテッド』が襲い掛かってきた。
「モイラ、下がって!」
クレアは施設内で見つけた粗悪なハンドガンを構え、躊躇なく引き金を引く。銃声が狭い通路に反響するが、痛みを感じない感染者は血飛沫を上げながらも突進を止めない。
パニックに陥り悲鳴を上げるモイラ。だが、その後ろで、エリザベスだけは奇妙なほど静かだった。
彼女は無造作に足元へ転がっていた建設資材の鉄パイプを拾い上げると、クレアの銃撃をすり抜けて迫ってきた一体の足を、的確に、かつ最小限の動きで薙ぎ払った。鈍い音と共に感染者が体勢を崩す。
「……ッ、エリザベス!」
「クレア、頭部です! 脳幹を破壊して!」
エリザベスの声には、焦りが一切なかった。
鉄パイプを構えるその姿勢は洗練されており、何より彼女の黄金色の瞳は、血を流して倒れる感染者の筋肉の痙攣や、怯えるモイラの心拍数、そしてクレアの銃の残弾数を、まるで『モルモットをガラス越しに観察する研究者』のように、冷徹に観察していた。
戦闘が終わり、荒い息を吐くクレアが信じられないという目で振り返る。
「あなた……怖くないの?」
返り血を一滴も浴びていないエリザベスは、手にした鉄パイプを軽く下ろすと、まるでティータイムの挨拶でもするかのように優雅に微笑んだ。
「ブルー・アンブレラという、対バイオテロ組織の長たるもの……この程度の事象に恐怖してどうなります? 私たちが恐れを抱けば、救える命も救えませんわ」
完璧な建前。クレアはその言葉に一瞬だけ圧倒されたが、同時に、完璧な美貌の奥底に横たわる「異質なまでの無関心」に、言語化できない薄ら寒さを感じていた。
「風の音が聞こえますわ、あちらが出口のようです」
「ジーナが向かおうとした場所ね」
先へと進む三人の目に飛び込んできたのは、異端審問の時代から持ち出されたような、おぞましい拷問器具の数々だった。血糊のべったりと付いたトゲ付きの椅子や、錆びついた拘束具。
「なんなの、これ……」
クレアが吐き気を堪えるように顔を顰める。隣を歩くエリザベスもまた、周囲の惨状を一瞥し、ひどく不快そうに形の良い眉を寄せた。
「……品性が欠落していますわね。恐怖を与えるにしても、あまりに悪趣味で野蛮すぎます」
その時だった。三人の手首にはめられた腕輪から、不意にノイズ混じりの冷酷な女の声が響き渡った。
『――夜の恐怖、夜ではない恐怖』
「え!? 今の何? クレア?」
モイラがパニックを起こして周囲を見回す。声の主は、まるで檻の中の鼠を観察するような底知れぬ愉悦を込めて語りかけてきた。
『怖いの……? ねぇ……どんな気持ち? 教えて』
「何を言って……」
『その腕輪は”恐怖”を感じると色が変わるの……ねぇ、あなたの色は何色?』
「あなたは一体何者なの!?」
クレアが腕輪に向かって鋭く問い詰める。しかし、女は嘲笑うように言葉を続けた。
『……全ての苦しみ……。その恐怖は、始まったばかり』
プツン、と通信が途切れる。モイラが恐怖で腕輪を握りしめる中、エリザベスだけは静かに、黄金色の瞳で冷たく腕輪を見つめていた。
さらに施設の奥へと進むと、巨大な圧殺機と回転刃が備え付けられた奇妙な仕掛け部屋に行き当たった。
「この機械、何かの間に挟まってるよ……動かないね」
「電源が入っていないわ。電源はどこ?」
クレアが周囲を見渡す。すると、廃車などをスクラップにするような超大型プレス機の向こう側に、配電盤のある小部屋が見えた。しかし、プレス機の周囲には、死肉に群がる大型の虫がウヨウヨと蠢いている。
「モイラ、お願い。あの上に登って電源を入れてきてくれない?」
「うげ……虫、超キモいんですけど。……分かった、行くよ!」
モイラは身震いしながらも決意を固め、プレス機の上を這うようにして奥の電源室へと向かった。
残されたクレアとエリザベスの背後から、再び不気味な唸り声が響く。暗がりから複数のアフリクテッドが這い出してきたのだ。
「エリザベス、下がって!」
「いえ、私もやりますわ」
クレアの制止も聞かず、エリザベスは拾い上げた鉄パイプを構え、純白のドレスを翻して優雅にステップを踏んだ。クレアの銃撃をすり抜けた一体の膝関節を的確に打ち砕き、体勢を崩したところを容赦なく脳天へと振り下ろす。返り血を一滴も浴びないその洗練された戦闘術に、クレアは舌を巻いた。
その直後、施設内に重低音が響き渡った。モイラが電源を入れたのだ。
しかし、それと同時に部屋の拷問器具にも電力が供給され、巨大な回転刃がけたたましい音を立てて回り始めた。さらに、クレアとエリザベスが立っていた場所のプレス機が突如として作動し、両サイドの分厚い鉄壁が、けたたましい駆動音と共に迫り始めた。
「なっ……!?」
間一髪。クレアが体勢を崩したところへ、安全圏へ飛び退いていたエリザベスが素早く手を差し伸べた。
「クレア、こちらへ!」
「くっ……!」
エリザベスの華奢な腕からは想像もつかないほどの力強い引き寄せにより、クレアは間一髪でプレス機の領域から逃れた。直後、凄まじい轟音と共に、左右の鉄板が中央で激突し、火花を散らす。
奥から戻ってきたモイラが、顔面を蒼白にして駆け寄ってきた。
「クレア! 大丈夫!?」
「ええ……危うくサンドイッチになる所だったわ」
ジルが洋館で体験したという話を引用し、クレアは強がって笑ってみせた。
「でも、これで機械が動かせそうですわね」
エリザベスの言う通り、電源の入った圧殺機を動かすと、肉塊と化した『何か』と共に、血塗れの金色の歯車が床に転がり落ちた。
「これは……収容施設の入り口にあった、欠けた歯車の一部ではありませんこと?」
「確かに、形がぴったり合いそうね。行きましょう!」
三人は入り口のホールへと戻り、壁面の機械に歯車をはめ込んだ。
――直後。施設全体にけたたましいサイレンが鳴り響き、赤色灯が激しく明滅し始めた。
『システム解除。全隔離房のロックを解放します』
無機質なアナウンスと共に、無数にある牢獄の扉が一斉に開き、中から飢えた獣のような咆哮が幾重にも重なって響き渡った。群れを成した化け物たちが、入り口を目指して雪崩れ込んでくる。
「嘘でしょ……モイラ、エリザベス! 入り口のバリケードを壊して! 私が奴らを食い止める!」
クレアは銃を構え、迫り来るアフリクテッドの群れへ向けて次々と引き金を引いた。その間に、モイラがバールで木箱を打ち砕き、エリザベスが鉄パイプで障害物を軽々と薙ぎ払う。
「クレア、開きますわ!」
エリザベスとモイラが重いシャッターを力の限り持ち上げる。クレアが最後の一体を撃ち倒してその下をくぐり抜け、シャッターが背後で重々しく閉ざされた。
「ハァッ……ハァッ……っ!」
ようやく収容施設の外へ脱出した三人の目に飛び込んできたのは、灰色の空と、そびえ立つ巨大な通信塔だった。
生き延びた安堵も束の間、再び腕輪からノイズ混じりの声が響いた。
『――あぁ、何を嘆く。打ち捨てられた魂』
「何……? また腕輪が喋ってる……!」
「貴方は誰? 答えなさい!」
クレアが鋭く言い放つと、通信の向こう側にいる『
『私はオーバーシア。恐怖を導き出し、そして、監視するもの』
「監視するもの……?」
『ヴォセクへ向かえ。そこで世界が始まる』
「私達をどうする気なの!」
監視カメラの向こう側にいるアレックスは、その問いには答えず、沈黙によって絶望と恐怖を詩的に煽ろうとする。見えない敵の悪意に、モイラが腕を抱いて震え、クレアがギリッと奥歯を噛み締めたその時だった。
エリザベスが、ふと入り口の壁面に設置された監視カメラを見上げ、凛とした声で響かせた。
「カフカ、ですか。文学の趣味は悪くありませんが……いささか悲観的すぎますわね、顔の見えない監視者さん?」
『……何?』
通信越しに、アレックスの息を呑む気配が伝わった。
エリザベスは監視カメラのレンズ越しに、その奥にいるであろうアレックスの存在を確実に見据え、不敵に、そして残酷な笑みを浮かべて言い放った。
「『人間とは、己の恐怖を乗り越え、更なる高みへと至ることができる唯一の生物である』――恐怖とは絶望の幻影ではなく、進化のための起爆剤に過ぎない。違いますか?」
それは、極限状態にあるクレアたちを勇気づける、眩しいほどの『人間賛歌』だった。クレアとモイラは、その毅然とした態度にハッと顔を上げる。
だが、モニター越しにその言葉を聞いたアレックスだけは違った。
カフカの思想を真っ向から否定し、あろうことか『進化のための起爆剤』と言い換えたその傲岸不遜な言い回し。生物としての進化を至上とするその特異な思想に、彼女の背筋を氷のような悪寒が駆け抜けた。
(なんなの、あの女は……!? まるで、かつてのアンブレラの――)
監視室のモニターの前で、アレックス・ウェスカーは手にしたワイングラスを微かに震わせるのだった。
血と錆に塗れた収容施設を抜け出した三人の目に飛び込んできたのは、絶海に浮かぶ荒涼とした孤島の風景と、灰色の空に向かってそびえ立つ巨大な『通信塔』だった。
「あれを使えば、外部に
クレアが塔を指差して言う。モイラは険しい崖と不気味な廃墟群を見下ろし、絶望的なため息をついた。
「マジで最悪……。一体どこのイカれた連中が、私たちをこんな所に拉致したっていうのよ」
「断定はできませんが……」
クレアの背中を歩いていたエリザベスが、ふと立ち止まった。彼女の視線は、錆びついた金網に掲げられた色褪せた看板に向けられている。そこには掠れたペンキで『
「キリル文字……。看板や施設内に残されていた紙の資料から推測するに、ここはロシア語圏の辺境……おそらく、地図にも載っていないような旧ソ連の遺棄された島でしょう」
「ロシア語圏……」
「ええ。そして、あの収容施設の設備や、先程の感染者の変異の様子を見るに、ただのテロリストの仕業ではありませんわ。ここは大規模なB.O.W.の研究・開発を目的とした実験場です」
エリザベスは黄金色の瞳を細め、ブルー・アンブレラ代表としての理知的な顔を作って見せた。
「アンブレラ崩壊後、B.O.W.の市場は闇で拡大を続けています。私たちを襲った組織の正体は不明ですが……これだけの規模の施設を運用できるとなれば、かつての『トライセル』や『ウィルファーマ社』の残党、あるいはそれに匹敵する巨大な資本を持つ組織の可能性が高いですわね」
その推論は、対バイオテロの最前線を駆け抜けてきたクレアの経験則とも完全に合致していた。クレアは小さく頷く。
「……同感よ。どんな連中か知らないけど、生きた人間を使って新型ウィルスの実験をしているなら、絶対にここで叩き潰さないと」
クレアの正義感に火がついたのを確かめると、エリザベスは内心で酷薄な笑いを漏らした。
(ククク……素直で扱いやすい小娘だ。この箱庭を作ったのが、貴様らがよく知る『ウェスカー』の生き残りだとは露ほども疑っておらん)
自らの存在と正体を完全に棚に上げ、他の悪名高い製薬企業へ巧みに疑いの目を向けさせる。それこそが、彼女の描いた完璧なカバーストーリーだった。
「ねえ、エリザベス」
不安げな表情で、モイラがエリザベスの気丈な背中に声をかけた。
「……あんたの組織、ブルー・アンブレラの人たちは、助けに来てくれるのかな。私たち、スマホも通信機も全部奪われちゃったけど……」
その問いに、エリザベスは振り返り、美しく整った顔に「慈愛」と「強い信念」を浮かべて優しく微笑んだ。
「心配いりませんわ、モイラ。彼らは必ず私たちを見つけ出します」
「……本当に?」
「ええ。対バイオテロ部隊としての彼らの優秀さを、私が一番よく知っていますから。それに……仮にもブルー・アンブレラの代表である私を拉致したのです。彼らが黙って事態を見過ごすはずがありません」
それは、絶望的な状況に置かれたモイラを安心させる、頼もしいリーダーの言葉に聞こえた。
しかし、その言葉の奥底に横たわっているのは、希望や絆などという生ぬるいものではない。
(ワシの『手駒』たちが、主を失ったまま機能不全に陥るなどあり得ない。必ずこの島を嗅ぎつけ、盤上を掻き乱すためにやって来る……)
それは老帝王スペンサーとしての、己の組織に対する絶対的な自信と、駒に対する傲慢なまでの信頼だった。
「まずはあの通信塔を目指しましょう。彼らが到着するまでの間、私たちが生き延びるための最善の手を打つのです」
エリザベスが優雅に歩き出す。クレアとモイラは、その背中に奇妙なほどの頼もしさを感じながら、後に続くのだった。
通信塔への道のりは、決して平坦なものではなかった。
険しい崖に沿って作られた山道を進み、ようやく塔の敷地へと続く巨大な吊り橋へと差し掛かった時のことだ。
海風に晒され、ひどく腐食した巨大な吊り橋。眼下には鋭い岩礁と荒れ狂う波が待ち受けている。
「まずは私が見てみるわ。足元に気をつけて」
クレアが慎重に橋の状態を確かめながら先導し、対岸へたどり着くと、振り返って手を差し伸べた。
「エリザベス、私の手を握って。ゆっくりでいいから」
「ええ……ありがとう、クレア。頼りにしていますわ」
怯えたような素振りを完璧に演じながら、エリザベスはクレアの手を借り、腐食した板を渡りきった。安全な対岸へ降り立つと、純白のドレスの裾を優雅に翻して安堵の微笑みを浮かべる。彼女のその気高く美しい顔の裏には、微塵の恐怖もなかった。
「無事に渡れましたわ。さあ、モイラもこちらへ」
しかし、その直後だった。
エリザベスに続いてモイラが橋の中央へ差し掛かった瞬間、突如として足元の木板が限界を迎え、大きな軋み音を立てて崩落した。
「きゃあぁっ!」
「モイラ!」
橋桁の崩壊と共に、モイラの身体が真っ逆さまに谷底へと投げ出されそうになる。クレアが間一髪で飛び込み、宙吊りになったモイラの腕を力任せに掴み取った。
足の下には、容赦なく波が打ち付ける鋭い岩礁が口を開けている。クレアは歯を食いしばりながら、悲鳴を上げるモイラをどうにか安全な足場へと引き上げた。
「ハァッ……ハァッ……っ!」
「大丈夫!? 怪我はない、モイラ!」
へたり込み、恐怖で激しく肩で息をするモイラ。クレアはその背中をさすりながら、自責の念に駆られて痛ましげに顔を歪めた。
「ごめんね、モイラ……おかしな事に巻き込んで。これじゃ、バリーに合わせる顔がないわ」
かつての戦友であり、自身を救ってくれた恩人でもあるバリー・バートン。彼の愛娘をこんな地獄に引きずり込んでしまった後悔が、クレアの言葉を重くする。しかし、モイラは顔を上げ、荒い息のまま首を横に振った。
「クレアのせいじゃない。それに、あの人のことは気にしないで……あの人は私が何をしたって文句言うんだから」
父親への複雑な反発心。それを隠そうともしないモラの言葉を、少し離れた安全圏からエリザベスは静かに聞いていた。
(ほう……S.T.A.R.S.の生き残り、バリー・バートンの娘か。アレックスめ、随分と面白い『人質』を盤上に並べたものだ。あの男なら、娘のために地の果てまで猟犬のように嗅ぎ回るだろうな……)
エリザベスは美しい顔に一切の感情を出さず、冷徹な計算だけを巡らせていた。
やがて三人は、這う々の体で通信塔の施設内へと辿り着いた。
埃まみれの通信室には、ロシア語のラベルが貼られた旧式の大がかりな無線設備が鎮座していた。しかし、モイラが祈るようにスイッチを押しても、コンソールは一切の反応を示さない。
「駄目ね……うんともすんとも言わないわ」
モイラが諦めかけたその時、横からエリザベスが静かに歩み寄ってきた。
彼女はためらうことなく埃を被ったコンソールに触れると、壁に掛けられていた無骨なヘッドフォンを片耳に当て、流れるような手つきで複数のダイヤルとトグルスイッチを操作し始めた。
「エリザベス……?」
カチ、カチカチッ、と淀みない操作音が室内に響く。そのあまりにも手慣れた所作に、クレアは目を丸くした。
「駄目ですね……コチラのコンソールには電力が来ていないわ」
エリザベスはヘッドフォンを外し、冷静に計器の数値を読み取って振り返った。
「配線は外の電波塔に繋がっているみたいですけれど……外から見た際、電波塔の頂部には赤い航空障害灯が点灯していました。塔の上部まで電気が通っているということは、アンテナの送受信機能自体は生きているはずです。主電源さえバイパスして復旧できれば、ここからでも電波は発信できますわ」
まるで通信兵か技術者のような的確な分析。クレアとモイラは顔を見合わせ、少し度肝を抜かれたようにエリザベスを見た。
「あなた……詳しいのね。これ、旧ソ連製のかなり古い軍用無線機みたいだけど」
「ブルー・アンブレラは、対バイオテロにおける最新技術の粋を集めた組織ですから。前線で指揮を執る代表として、あらゆる規格の通信機材や火器を扱う最低限の訓練は受けておりますの。……お役に立てて光栄ですわ」
エリザベスはしとやかに微笑んで見せた。無論、それは建前だ。天才的な頭脳を持つ彼女にとって、この程度の旧式機械の構造など、一瞥しただけで完全に把握できるほど容易いものだった。
「……流石ね。よし、分かったわ。配線を辿って主電源を入れてくる。私が行くわ」
クレアは即座に決断し、通信室から外の巨大な電波塔へと飛び出していった。
「お気をつけて、クレア」
エリザベスの優雅な声に見送られ、クレアは錆びついた鉄の梯子を命綱なしでよじ登っていく。冷たい海風に煽られながらも、彼女は塔の中腹にある主電源のブレーカーを力強く押し上げた。
ガゴンッ! という重い音と共に、通信塔全体に命が吹き込まれる。
通信室のコンソールが一斉にまばゆい光を放ち、計器類が作動音を立て始めた。
「クレア、電源入った!」
『いいわ!モイラ、そこから全周波数に向けてSOSを発信して!』
塔の上からのクレアの指示を受け、モイラは震える手で無線のマイクを握りしめた。ノイズ交じりの静寂の中へ、必死の叫びを投じる。
『誰か! 聞こえませんか! 私の名前はモイラ・バートン! 仲間と一緒に捕まってここに居るの! どこだか分からないけど、変な腕輪つけられて……その腕輪から変な女の声がして、オマケに化け物がいて……仲間が殺されたの……!』
極限の恐怖と、押し殺していた感情が、言葉と共に堰を切ったように溢れ出していく。
『お願い! 助けて! お願い! ……あぁ……もう! 私はモイラ・バートン! 繰り返します……私はモイラ・バートン。ここが何処か分からないけど……お願い、誰か助けに来て! お願い、誰か答えて……!』
通信機からは、無機質なノイズの砂嵐が返ってくるだけだった。誰の耳に届いているのかも分からない絶望感に耐えきれず、モイラはマイクを手放し、コンソールに顔を伏せて声を上げて泣き崩れた。
その背後。通信室の薄暗がりの中で。
泣き咽ぶ若い娘の哀れな姿を見下ろしながら、エリザベス・ステイラーは――音もなく、底知れぬ歓喜の微笑みを浮かべていた。
恐怖に泣き叫ぶ弱者の姿が可笑しかったのか。それとも、この哀れなSOSが呼び寄せるであろう『バリー・バートン』という新たなチェス駒の参戦を予期しての愉悦か。
いずれにせよ、その美しくも残酷な笑みは、モイラの涙すらも自らの遊戯のスパイスとして楽しむ、完全なる『捕食者』のそれだった。
一方その頃。
電波塔の頂上に取り残されていたクレアは、吹き付ける風の中で、ハッと息を呑んでいた。
電源を入れる前まで周囲を覆い尽くしていた濃い霧が、強風に流されて急速に晴れていく。彼女は塔の上から、自分たちが捕らわれているこの場所の『全貌』を確かめようとした。
だが、霧が晴れたあとに姿を現したのは、さらなる絶望だった。
「嘘でしょ……」
大陸の影はない。行き交う船の光もない。
荒涼とした島を囲んでいたのは、どこまでも続く無情で冷たい水平線だけだった。ここが陸続きの辺境などではなく、絶海に隔離された脱出不可能な『孤島』であることを、その景色は残酷なまでに証明していた。
風の音だけが響く塔の上で、クレアは震える唇から絶望の言葉を零した。
「……ここは何処なの?」
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