BIOHAZARD: Re-Genesis 作:ヨシフ書記長
通信塔をあとにしたクレア、モイラ、エリザベスの三人は、険しい岩肌にへばりつくようにして建てられた、荒涼とした漁村へと辿り着いていた。潮風に削られたバラック群は、まるで巨大な墓標のように沈黙している。
手がかりを求めて潜り込んだ一軒の廃屋。埃の積もった机の上で、クレアは一枚の古びた地図と、キリル文字で書かれた不気味な報告書を見つけ出した。
「ザイン島…。これが、この島の名前よ。ソビエト時代に炭鉱として栄え、ある時期を境に完全に地図から抹消された孤島……」
「地図にない島……? なんで地図から消されたの?」
「ソ連は秘密主義の国でしたから、閉鎖都市があったくらいですわ。島の一つや二つ、地図から消すなんてことは多かったでしょう」
エリザベスが淀みなく答えると、クレアも険しい顔で頷いた。
「そんな事が……」
「事実、ソ連は国営の研究所でスヴェルドロフスク炭疽菌漏出事故を引き起こしましたし、それも長いこと隠蔽されておりましたわ」
「最悪……」
モイラが忌々しげに吐き捨てる中、室内の奥からカチャリ、と金属質の乾いた音が響いた。
クレアが視線を向けると、壁の隠し引き出しをモイラに頼んで開けてもらったエリザベスが、保存用のグリスに塗れた油紙に包まれた、一挺の無骨な拳銃を引っ張り出しているところだった。
大型の木製ホルスターストックが装着できる、異様なほどに大きなレシーバー。
「……スチェッキン。少々年代物ですが、この状況下では最高のお守りになりますわ」
エリザベスは眉一つ動かさず、手慣れた動作で装弾数20発のダブルカラムマガジンをフレームに叩き込んだ。スライドを引く金属音が、薄暗い部屋に鋭く響く。
「あなた、そんな軍用ピストルまで扱えるの?」
クレアの驚きの声に、エリザベスは純白のドレスの腰へと銃を滑り込ませながら、しとやかに微笑んだ。
「ええ。ブルー・アンブレラの代表たるもの、『じゃじゃ馬』の調教くらい、嗜みの一つですわ」
その美しい顔の裏側で、エリザベス――その肉体に宿る老帝王スペンサーの精神は、懐かしい鉄の感触に愉悦を覚えていた。
(アレックスめ。ワシをこのような寂れた旧ソ連の遺棄島に閉じ込めるとは。よほど独自の実験場が欲しかったと見える)
漁村の最奥に位置する、古びた酒場。そこだけにかろうじて灯る明かりを目がけ、三人は突入した。
重い扉を押し開けた先には、同じくテラセイブの制服を着た男たちが身を潜めていた。
「クレア! 無事だったのか!」
「ゲーブ! それにペドロも!」
互いの無事を喜び合う一同。ゲーブは村の外れにある機能不全の古いヘリコプターを見つけており、それを動かすために「バッテリー」と「燃料」が必要だとクレアたちに告げた。
しかし、もう一人の同僚、ペドロの様子はおかしかった。彼は完全に精神を病んでおり、死んだ仲間であるエドワードから剥ぎ取ったという『腕輪』を、血走った目で凝視しながらブツブツと呟いている。
「なぁ、これ……何なんだよ。なんで色が変わるんだ? クレア、俺たち、もう終わりなんだ……」
エリザベスは「お気の毒に……」と痛ましげな表情を作ってペドロの肩に手を置いたが、その黄金色の瞳は冷酷そのものだった。
(ふむ…t-Phobosウィルスか。精神の脆弱な者から順に発症限界点へと向かう。実に見事なカウントダウンだ)
その時、全員の腕輪から耳障りなノイズと共に、あの冷酷な女の声が響き渡った。
『ようこそ、絶望の恐怖へ……これから行うのは劣等なものを振り落とす実験……。実験に使うウィルスは、被験者である一人一人に既に投与させてもらったわ……死は我々の目の前にある。また会いましょう。グレーゴル』
「オーバーシア! どうするつもり!?」
クレアが腕輪に向けて鋭く叫ぶ。酒場に絶望の沈黙が広がりかけたその瞬間、エリザベスがフッと、冷たい鼻笑いを漏らした。
「またカフカの引用ですか。馬鹿の一つ覚えですね。それしか文学作品をご存知ないのでは? 『劣等なものを振り落とす』などと……神にでもなったつもりのようですが、その実、高尚な思想に憧れているだけの、実にくだらない人物ですね」
その一切の容赦がない、心底見下しきったエリザベスの言葉に、通信機の向こうのオーバーシア――アレックス・ウェスカーは屈辱に息を呑んだ。
ノイズの向こうでギリ、と歯を噛み締める気配が伝わり、通信はそのままブツリと途切れた。
「え、エリザベスさん……よくわかんねぇ相手にそこまで言うかよ……」
ペドロがガタガタと震える。エリザベスは澄ました顔でドレスの塵を払った。
「事実を申し上げたまでですわ。さあ、立ち止まっている暇はありません。資材を探しに行きましょう」
ヘリの修理資材を求め、一同は二手に分かれて漁村の捜索を開始した。
「酷く静かですわ……」
寂れているが、人の気配もしなければ、B.O.W.の気配すらない。不自然なほどに静まり返るバラック村を調査しつつ、エリザベスがそう零す。その予感は的中した。
廃屋からバッテリーと燃料を見つけ出し、ゲーブの元へ届けると、彼はパッと顔を輝かせた。
「これで必要なものはそろったわね」
「さすがクレアだ、やっぱり頼りになるな。あとは俺に任せてくれ、新品同様に修理してやるからな」
ゲーブがヘリの方へ向き直り、そう言った瞬間だった。
村中にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
「何なの? またオーバーシア?」
「まずいわね、音でアイツらが集まってくるわ!」
「やべぇよ、何とかしねぇと」
「酒場にあったサイレンの様ですわね。早く切らないと……!」
「俺はヘリの修理を急ぐ! あのうるさいサイレンを止めてくれ!」
「ええ! 私達は酒場に向かうわ、ゲーブは修理をお願い!」
『自らを振い落す事なく、自らを喰らい尽くす』
アレックスの嘲笑混じりのアナウンスと共に、周囲の建物の扉や窓が次々と破壊され、肉体がどす黒く変異した狂人――『アフリクテッド』の群れが、怒涛の勢いで雪崩れ込んできた。
「クソ、囲まれてる! もう逃げられない。もうおしまいだぁ……!」
「落ち着いてペドロ!」
「何だこの腕輪……色が変わったぞ! なんでこんなことになったんだよぉ……! やべぇ……! もうダメだァ……!」
「今助けるわ!」
『恐怖が、ウィルスを目覚めさせる……』
一同は再び酒場へと逃げ込み、扉を閉ざして籠城を試みる。しかし、敵の数は尋常ではなかった。バリケードを破り、窓ガラスを粉砕して狂人たちが突入してくる。
「クソッ、来るな! 来るなぁぁぁっ!!」
ペドロがパニックに陥り、頭を抱えて叫ぶ。彼の手首の腕輪が、黄色から不穏なオレンジへと急速に変色していくのを、エリザベスは銃を構えたまま「ジッと」見つめていた。まるで、顕微鏡で未知の細胞の変異を観察する、研究者のような冷徹な視線だった。
「ペドロ、しっかりして! 撃つのよ!」
クレアがハンドガンを連射し、モイラがバールで迫る敵を殴り倒す。しかし、正面の窓から、上半身が異常に肥大化し、巨大な鉄仮面を被った怪力男『アイアンヘッド』が突入してきた。
「おどきになって、クレア」
エリザベスが前に出る。彼女はスチェッキンのセレクターを、躊躇なく「フルオート」へと切り替えた。
ズダダダダダダダダダダダダダダッ!!!
狭い酒場に、凄まじい爆音が轟く。毎分850発。ストックなしのフルオート射撃など、通常の人間であれば銃身が跳ね上がり、天井を撃ち抜くのが関の山だ。
しかし、エリザベスは違った。
華奢な純白のドレス姿からは想像もつかない強固な体幹と洗練された腕力で、凄まじい反動を完全に一点へと押さえ込んでみせた。
銃口から吐き出される弾の豪雨は、アイアンヘッドの鉄仮面の隙間、そして背後に続くアフリクテッドたちの頭部へと、正確無比に吸い込まれていく。
肉片と黒い血飛沫が飛び散り、一瞬にして数体の肉塊が床に転がった。
「なっ……嘘だろ!? あの銃を、ストックなしで完全にコントロールしてる……!?」
絶叫したのはペドロだった。クレアさえも、その圧倒的な銃撃センスと、人を紙屑のように撃ち殺しておきながら美しい眉一つ動かさない彼女の「異常性」に、背筋が凍るような感覚を覚えていた。
だが、押し寄せる絶望の物量は、ペドロの精神を完全に破壊した。
「ハァ……! ハァ……! ああああ! うわぁあわぁぁぁ!」
ペドロの腕輪が、完全なパニックを示す『赤』へと激しく明滅する。
その瞬間、再びオーバーシアの声が響いた。
『腕輪の輝きが恐怖の色へと変わる……変身の時間よ……グレーゴル……我々の救いは死であり、しかしこの死ではない』
「が、あぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
ペドロが絶叫と共にのけ反る。彼の肉体はどす黒く膨れ上がり、皮膚を突き破って全身に無数の「巨大な目玉」が発現していく。彼は護身用に持っていた大型の電動ドリルを、悲鳴を上げる自らの肉体の一部として巻き込みながら、理性を失った凄まじい殺戮マシンへと変貌を遂げた。
ギギギギギギギギッ!!! と、轟音を立てて凶悪なドリルが回転を始める。
「ペドロ……! 嘘でしょ……!」
「ムチャだよ! こんなの絶対に勝てないってば!」
「モイラ! 逃げるわよ!」
クレアは即座に判断し、モイラの手を引いて酒場の裏口へと走った。エリザベスもまた、ペドロの眉間に容赦なくスチェッキンの弾丸を叩き込み、怯んだ隙に身を翻す。
ドリルが酒場の壁を紙細工のように破壊し、変異したペドロが咆哮を上げながら追ってくる。外もすでにクリーチャーで溢れ返っており、絶体絶命かと思われたその時、頭上から鋭い声が響いた。
「クレア! 屋根に登れ!」
見上げると、テラセイブの幹部であるニールが、建物の屋根から梯子を下ろしていた。
「ニール! 無事だったのね!」
クレア、モイラ、そしてエリザベスの順で、必死に梯子を駆け上がる。
「着いてこい!」
三人は屋根伝いに走り、上から封鎖された鉄扉の前に向かう。
「裏から扉を開ける! 待ってろ! 鍵を開けた! いけ!」
クレアたちはニールの開けてくれた鉄扉を通って奥へと進む。鉄扉を閉めようとするとアフリクテッドたちが襲いかかってきたが、何とか扉を閉ざすことに成功した。
「待って! ニール、ゲーブがまだ!」
「わかっているが、ここで待つのは危険だ。心配するな、アイツは元軍人だ。こんなことでやられない」
ニールはそう切り捨てると、先を促した。
「この向こうだ! 手伝ってくれ! 持ち上げるぞ!」
瓦礫で塞がれているトンネルの岩を皆で持ち上げ、中へ進む。
「ゲーブからはぐれたって聞いたけど……」
「あぁ、何とか逃げ切ったよ……それよりもさっきの化け物は何なんだ?」
「ペドロよ……投与されたウィルスのせいで発症してしまったの。私たち全員に同じウィルスが……」
「腕輪の女が言っていた、恐怖に負けると発症するとかいうやつだな。クソッ! ウィルスから人々を守る立場の俺たちが狙われるなんて」
「全く最悪だね……」
「モイラ、彼はニール。私たちのリーダーよ」
「よろしく。君は確か、バリー・バートンの娘だったな」
「あの人の話はやめて貰えますか? 関係ありませんから」
モイラが冷たく言い放つ。息を荒くするクレアたちの視線の先、不気味なトンネルを抜けた向こう側に、天を突くほどに高い『塔』がそびえ立っているのが見えた。
「ペドロの言ってた高い場所ってあれじゃない?」
「あの塔か?」
「オーバーシアがいるかもしれない。行ってみましょう」
「いや……今は危険だ……。夜明けまで待とう」
「ペドロを見たでしょう? 急がなきゃ、私たちには時間が無いのよ……!」
「それにあの塔であれば、陸地に向けて無線を飛ばせば、もしかすると繋がるかもしれませんわ」
エリザベスの言葉に黙り込むニール。背後では、鉄扉を叩くアフリクテッドの音が響いていた。
「またアイツらだわ」
「この島の住人か……? オーバーシアが島中の人間を化け物に変えてしまったのか?」
「有り得ますわね。言うなれば監視者からすれば、ここは実験器具の中なのでしょうね」
市街地へと続く古いトンネルに足を踏み入れた瞬間、闇の奥から激しい吠え声が響いた。
皮膚が腐り落ち、二つの頭部が歪に癒合した猟犬『オルトロス』の群れが、凄まじい速度で牙を剥いて突進してくる。
「来させないわ!」
クレアが応戦し、エリザベスが側頭部を正確に撃ち抜いていく。どうにか犬の群れを退けた先には、梯子の下部が完全に崩落した古い建物が行く手を阻んでいた。
「モイラ、肩を貸して! エリザベス、先に行って!」
三人は互いに協力し合い、崩れかけの足場をよじ登った。しかし、続いて建物の2階部分に登ろうとしたニールだったが、鉄の門を越えた無数のアフリクテッドの群れが、すでに彼へと群がってきていた。このままでは全員が引きずり落とされる。
「あとから追いかける! あの塔で落ち合おう! こい! バケモノ! こっちだ!」
ニールは梯子から手を離すと、自らを囮にするようにして、狂人たちの群れを引率するかのように走っていった。
「ニール!!」
クレアが悲痛な叫びを上げる。
だが、その犠牲精神に溢れた英雄的行動の裏側を、屋根の上のエリザベスだけは、すべてを見透かしたような冷ややかな目で見下ろしていた。
(ククク……白々しい芝居を。手際の良い間引きだ。アレックスの手先め、上手く立ち回ったつもりだろうが、ワシの目は誤魔化せまいて)
館内は不気味なほど真っ暗で、どこからかノイズ混じりのロシア語のラジオ放送が、呪詛のように小さく響き渡っている。
探索を進める中、クレアは棚の陰から一挺の頑丈なショットガンを見つけ出した。重厚な金属の重みが、彼女の手に確かな安心感を与える。
建物を抜けた先には、かつての炭鉱労働者たちの居住区であっただろう、巨大な団地が並んでいた。崩れた瓦礫の影を、複数のアフリクテッドがうろうろと徘徊している。
「無駄な戦闘は避けるわよ」
クレアの囁きに、エリザベスは無言で頷いた。
二人は影から影へと音もなく移動し、背後から接近。クレアがアフリクテッドの首をへし折るのと同時に、エリザベスは純白のドレスを一切汚すことなく、スチェッキンの銃把で敵の延髄を的確に叩き割り、声を上げさせる間もなく沈黙させていく。
その動きは、およそ一企業の代表のそれではなく、洗練された暗殺者のそれだった。
団地の奥、崩落したエントランスに差し掛かった時、モイラが息を呑んだ。
「ね! あの子……!」
「ええ……収容所にいた子ね」
「腕輪してたよ?」
「あんな子がまだ島内にいたんですね」
「エリザベスと私たちが合流する前に見かけたの」
クレア達は少女の影を追いかける。
「あの子も被験者なの?」
「オーバーシアはあんな子供まで巻き込んでるわけ? 本当に意味わかんない」
「ソレだけ、我々常人の思考回路では計り知れないほどに監視者は破綻しているのでしょう」
「あの子、どこいったんだろ……?」
薄暗がりの向こうに、テディベアを抱えた小さな少女が佇んでいた。茶色混じりの黒髪の、どこか浮世離れした少女はどんどん奥へと進んでいく。
「ねぇ! 待って、危ないわ!」
クレアが声をかけるが、少女は彼女たち――正確には、クレアの背後に立つエリザベスの姿を見ると、その瞳に猛烈な恐怖を宿し、慌てて建物の奥へと逃げ出してしまった。
「待って! 大丈夫よ! 怖がらないで! 名前は? どこから来たの? 知ってる事を教えて、どうしてここに?」
「ちょっとクレア……! 私が話すよ。すごく怖かったよねぇ……私も怖かったもん。私、モイラ。ほら! お揃い。もうなんの心配も要らないからね……お友達の名前は?」
「ロッティ……」
「ロッティかぁ……すごくいい名前だね」
「へぇ……モイラすごいじゃない」
「おいで……」
「うん……」
「それじゃあ、あなたは今までずっとひとりで逃げてきたの?」
「うん……」
「よく頑張ったね。でも、もう大丈夫だよ」
「外の塔に悪い人が居るのよ、やっつけて一緒に島から出ましょう」
少女の後を追い、建物の奥へと進む三人。しかし、彼女が逃げ込んだ最下層へと近付くにつれ、建物の底から、地響きのような不気味な振動と、ドロドロとした怪物の呻き声が響いてきた。
エリザベスが、ひどく不快そうにその美しい眉を顰める。
「モイラ……聞こえた?」
「どうせ、また奴らでしょう? 心配しないで、大丈夫……私達がやっつけるから」
「……不快な騒音ですわね。育ちの悪い獣が吠えている」
上の階から階段を駆け下り、一階の開けた広場へと飛び出したその瞬間、クレアは思わず足を止めた。
「しー、この先にいるわ」
「サイアク……合図するまで動いちゃダメだよ」
「な、何よこれ……見た事ないタイプだわ! 気をつけて!」
そこにいたのは、上半身が異常に変異し、皮膚が破裂しそうなほどに肥大化した巨漢――『ヴォルケンブラバー』だった。怪物は巨大な火のついた松明を掲げ、もう片方の手に握ったおぞましい肉塊を、今まさにこちらへ投げつけようと振りかぶっていた。
「モイラ、下がって!」
クレアがショットガンを水平に構え、引き金を引いた。
凄まじい散弾の轟音が響き、ヴォルケンブラバーの肉体が大きくのけ反る。しかし、怪物は不快な咆哮を上げ、周囲の壁を溶解させる汚物肉塊を撒き散らしながら突進してきた。
「目障りですわ」
エリザベスが側方から割り込む。ヴォルケンブラバーの巨体に気を取られていた周囲のアフリクテッドたちが、一斉に彼女へ襲いかかった。
しかし、エリザベスは怯むどころか、手にしたスチェッキンを容赦なく振り抜き、迫り来るアフリクテッドの顔面を銃把で強烈に殴りつけた。
ボキッ!!! と凄まじい骨折音が響き、狂人の身体がコマのように回転しながら壁まで吹き飛ぶ。
「クレア、心臓の突出部ですわ! 狙いなさい!」
エリザベスの鋭い指示。のけ反ったヴォルケンブラバーの胸元、醜く露出した巨大な核へと、クレアはショットガンの第二射を至近距離から叩き込んだ。
肉飛沫が四散し、巨漢の怪物は内側から破裂するようにして、激しい地響きと共に床へと崩れ落ちた。
「ハァッ……ハァッ……。助かったわ、エリザベス」
銃口から立ち上る硝煙を払いながら、クレアが息を整える。
エリザベスは何事もなかったかのように、手にしたスチェッキンの汚れをハンカチで拭い、再びドレスの腰へと収めた。
「もう大丈夫。あの子呼んでこないと……もう大丈夫よ! こっちに来られる?」
クレアの声に促され、崩れた階段をゆっくりと少女が降りてくる。
一階に降りてくると、外側から閉じられた鉄の扉が目に入った。大人が開けるには重すぎる仕掛けにどうするか悩んでいると、壁に小さな穴が空いていることに気づく。少女はその穴をくぐり抜け、外側から扉を開けてくれた。
「開いたよ?」
「ありがとう、助かったよ」
扉を抜けた先で、モイラは少女のぬいぐるみを見てこう言った。
「可愛い友達だね!」
「おじさんがくれたの」
「おじさんって?」
「テラセイブのおじさん……昔助けてくれた人」
「やっぱり、テラセイブの関係者が集められてる……」
「もう大丈夫よ、怖がらないで」
クレアはショットガンを背に回すと、膝をついて、少女と同じ目線に合わせた。怯えきった子供を安心させるための、慈愛に満ちた優しい声。
だが、少女の小さな身体は、ガタガタと歯を鳴らすほどに激しく震え続けていた。
その視線は、自分に手を差し伸べようとするクレアではなく――その後ろに、血の一滴すら浴びずに佇んでいる純白のドレスの美女、エリザベスへと完全に釘付けになっていた。
(ちがう……ちがう、あの人は、おそろしい――)
ナタリアの身体の奥底、魂の最も深い領域から、経験したことのない、凄まじい原初の恐怖がせり上がっていた。
それが、アレックス・ウェスカーの精神を受け入れる『器』として選ばれた肉体ゆえの本能なのか。あるいは、自らの宿主となるべきアレックスの、絶対的な天敵がそこにいることを無意識に理解したからなのか。理由はナタリア自身にも分からない。
ただ、目の前の黄金色の瞳を持つ美女から放たれる「何か」が、この島に蠢くどの怪物よりも圧倒的で、逃れられない死そのものであることだけを、彼女の細胞が叫んでいた。
「……あら、どうしましたの? 小さなお嬢さん」
エリザベスが、しとやかに歩み寄る。
恐怖に顔を歪め、縋るようにテディベアを抱きしめるナタリアを、エリザベスは上からじっと見下ろした。
その瞬間、エリザベスの脳内に、脳髄が痺れるような強烈な歓喜が駆け巡った。
(ククク……ハハハハ! 素晴らしい。実に見事な『器』だ……!)
ナタリアが放つ、異質な精神の波長。エリザベス――その肉体に宿るオズウェル・E・スペンサーの老獪な知覚は、少女の肉体の奥で、すでに孵化を始めようとしている「別の精神」の存在を、確実に捉えていた。
自身が「変異型T-ウィルス」を用いることで完璧に証明してみせた、至高の技術『転生の儀』。
老いる前に肉体を次々と乗り換え続ければ、それを不老不死と呼べなくもないが、そんなものは真の不老不死とはほど遠い。変異型T-ウィルスによる高次元の融合を果たし、エリザベートという若く美しい極上の肉体を手に入れた自分自身こそが、この世で唯一無二の『転生の儀』の成功例であるという絶対的な確信が、スペンサーにはあった。
だからこそ、アレックスがこのザイン島で行っているアプローチ――恐怖をトリガーにするt-Phobosウィルスと、独自の精神転移システムによるアプローチは、スペンサーにとって極上の娯楽に他ならなかった。
(まるで、あり得たかもしれない『if』の……マルチバースの実験結果を見せられているようではないか!)
自分が選ばなかった、もう一つの可能性。かつて老いた自分を裏切り、すべての実験資料とともに失踪した我が娘アレックスが、血反吐を吐きながら辿り着いた研究の結晶が、今、目の前の少女という苗床の中で実を結ぼうとしている。そのプロセスを、こうして「最前列の特等席」で観察できているのだ。嬉しくないはずがなかった。
エリザベスの薄い唇が、ゆっくりと吊り上がった。
かつて南極の地で傲慢に君臨した天才、アレクシア・アシュフォード。彼女が他者を虫ケラと見下す際に見せていたあの冷酷な微笑を、さらに何倍も凶悪に、そして底知れなく歪めたような、心底からの愉悦に満ちた「狂気の笑み」が、その完璧な美貌に刻まれる。
(実の親を出し抜いたつもりで、自らの神格化に溺れる哀れな娘よ。貴様が心血を注いだその『もう一つの奇跡』、このワシが、最高のスナックとして丸ごと喰らい尽くしてくれよう)
「お腹が空いているのかしら? それとも、どこかお怪我でも?」
完璧な聖女のトーン。エリザベスはナタリアの前にそっと屈み込み、手袋に包まれた白い手を伸ばした。
ナタリアは悲鳴を上げることすらできず、ただ涙を流して硬直している。
「エリザベス……? なんだか、この子、あなたを異常に怖がっているみたいだけど……」
クレアが眉を顰め、奇妙な違和感を覚えて視線を向けた。
エリザベスはすぐさま凍りつくような笑みを消し去り、困ったように長い睫毛を伏せて、ひどく胸を痛めたような表情を作ってみせた。
「……無理もありませんわ、クレア。私のような、この場に似合わぬ衣服を纏った大人が突然現れては、混乱するのも当然です。それに……この地獄の有様ですもの。大人の誰もが、自分を害する化け物に見えているのでしょう。本当にお可哀想に……」
そう言って、エリザベスはナタリアの髪にそっと触れた。触れられた瞬間、ナタリアの小さな肩がビクッと跳ね上がる。エリザベスはその指先から伝わる少女の絶望的な鼓動を、まるで極上の楽器のビブラートのように楽しみながら、愛おしげに囁きかけた。
「安心なさい、幼き迷子よ。私たちが、あなたをしかるべき『場所』へと導いて差し上げますわ」
その黄金色の瞳の奥に燃え盛る狂気は、クレアの正義感をも、アレックスの野望をも、そしてナタリアという少女の運命をも、すべて自らの掌の上で転がし、貪り尽くそうとする絶対的な支配者の輝きだった。
夜空から強烈なサーチライトの光が降り注いだ。
けたたましいローター音が、頭上から空気を叩きつける。クレアたちが驚いて見上げると、上空には村の外れにあったはずの古いヘリコプターが、不安定に機体を揺らしながらホバリングしていた。
開け放たれた操縦席のドアから、見覚えのある大柄な男が顔を出し、力強くサムズアップを送ってくる。
ゲーブだった。彼は奇跡的にヘリコプターの修理を完了させ、仲間の窮地を救うべく空へと舞い上がってきたのだ。
「へへへ! よっしゃあ! やってやったぜ! どうだ! 参ったか! オーバーシア!」
ゲーブは操縦桿を握りながら、手首の腕輪に向かって勝ち誇ったように叫んだ。絶望の島から抜け出せるという歓喜が、彼の顔を紅潮させている。
「これでこの島ともおさらばだ! イェイ、へへへ!」
風圧に髪を揺らしながら、クレアの顔にもパッと希望の光が差した。脱出の切り札が、ついに手に入ったのだ。
――だが、その希望は、あまりにも唐突に、そして無残に打ち砕かれた。
バチバチバチッ!!
「な、何だ!?」
突如、ヘリコプターの操縦基盤から激しいスパークが弾け飛んだ。計器類が次々とブラックアウトし、警告音が機内に鳴り響く。
パニックに陥るゲーブの腕輪から、あの女の、冷酷で嘲るような声が響いた。
『あらあら、グレーゴルったら……ルール違反よ』
「クソッ! クソッ! どうなってやがる!」
機体は完全に制御を失い、黒煙を吹きながら錐揉み状態に陥っていく。ゲーブは墜落しかけているヘリを何とか立て直そうと必死に操縦桿を引き絞るが、機体は言うことを聞かない。
「ちくしょうめ……!」
下からその絶望的な光景を見上げていたクレアが、青ざめた顔で呟く。
「ゲーブ……」
墜落していくヘリの中で、ゲーブの手首にある腕輪が、不吉な『赤色』へと激しく明滅を始めた。極限の恐怖と絶望。それが彼の体内にあるウィルスの発症限界点を軽々と突破させたのだ。
「嘘だ……! やめろ! やめろぉ!」
ゲーブは驚愕し、絶叫した。血管がどす黒く浮かび上がり、肉体が内側から変異していく悍ましい感覚。彼は狂乱状態のまま、自身の腰からサバイバルナイフを引き抜くと、感染が広がる己の腕を切り落とそうと、躊躇なく刃を突き立てた。
「があああああああっ!!!アッアギィヤアア!」
機内にゲーブの凄惨な断末魔の叫びが響き渡る。
「ゲーブ……ダメよ!」
クレアが悲痛な叫びを上げる。
その裏側、墜落のパニックでクレアとモイラの注意が完全に上空へと釘付けになっている、まさにその瞬間だった。
エリザベスの背後、崩れた瓦礫の影から音もなく忍び寄る「何者か」の気配があった。
それは、恐怖に震えてうずくまっていたナタリアの口を背後から乱暴に塞ぐと、彼女を軽々と抱え上げ、闇の中へと引きずり込んでいく。
「んっ……!?」
声すら出せず、ナタリアの小さな手が必死に宙を掻く。
――その一部始終を…エリザベスは完全に気付いた上で、気付かないふりをしたのだった。
(……ほう。ネズミが餌を掠め取りに来たか)
助けるそぶりなど微塵も見せない。どころか、エリザベスはまるで舞台の書き割りでも眺めるかのように、連れ去られていく少女の姿を見ずとも感じた。
(追う必要はない。アレックスの『実験の核心』たるあの娘を連れ去ったということは、いずれ舞台の袖から引きずり出されるということ。ならば、泳がせて案内役をさせればよい。手際よくワシを中枢へと導くのだぞ、道化ども)
『我々の救いは死である。しかし、この死ではない』
オーバーシアのカフカの引用が響き渡る中、ついにゲーブの乗ったヘリコプターは、悍ましい変異の呻き声を撒き散らしながら、眼下の廃墟群へと真っ逆さまに突っ込んだ。
ドゴォォォォォォォンッ!!!
凄まじい爆発音と共に、夜空を焦がすほどの巨大な火柱が上がる。爆風が吹き荒れ、ヘリコプターは跡形もなく炎に包まれた。
クレアは信じられないものを見るような目で、燃え盛る残骸へとよろよろと歩み寄る。
「ゲーブ……!」
その悲痛な声に応えるように、再び腕輪からノイズ混じりの通信が響いた。
『情けない男……でも、あなた達は違うわよね? あんな臆病者とは……? ……そうでしょ?』
勝ち誇ったような、ねっとりとしたオーバーシアの挑発。
炎の熱風が吹きつける中、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻したモイラが、周囲を見渡してハッと息を呑んだ。
「……クレア! エリザベス! あの子がいないよ!」
モイラの悲鳴に近い声に、クレアはハッと我に返って振り返る。そこには、つい先ほどまでナタリアが抱きしめていたロッティのぬいぐるみが、ぽつんと地面に落ちているだけだった。
「嘘……いつの間に!?」
クレアが周囲を見渡す。
エリザベスは「まったく、油断も隙もありませんわね」とでも言いたげな、完璧に計算された憂いの表情を作り、ゆっくりと顔を上げた。
三人が振り返った先。
炎と黒煙の向こう側、この悪夢のような島の中心にそびえ立つ、あの不気味な巨大な『塔』が、まるで彼女たちを嘲笑うかのように、夜の闇の中で冷たくそびえ立っていた。
感想をお待ちしております