12月14日、BoB本戦当日。《総督府》ホール内部は、昨日以上の熱気に包まれていた。天井近くまで伸びる巨大モニターでは本戦参加者の情報が次々と映し出され、あちこちでプレイヤーたちのざわめきが響いている。銃声こそ無いが、空気そのものが既に戦場前だった。
そんな中、ナガンは端末前へ立ちながら、妙に余裕のある顔をしていた。昨日の予選時とは違う。肩の力が抜けているわけではないが、変に気負っている様子も無かった。
端末へ軽く手をかざし、本戦エントリー手続きを淡々と進めていく。
《エントリー完了》
機械音声が流れる。
「よし」
短く呟きながら、ナガンは軽く首を鳴らした。一方、少し離れた場所ではシノンも同じように端末操作を終えている。青白いホログラム光が消えると、彼女は小さく息を吐いた。本戦前、普通なら緊張していてもおかしくない。だが、不思議と昨日ほど張り詰めてはいなかった。
理由はたぶん単純だ。デスガンという不安要素は消えていない。それでも、“一人じゃない”という感覚が昨日よりは強かった。シノンは端末から離れると、近付いてきたナガンへ視線を向ける。
「まだ時間あるわね」
「本戦開始まで結構あるな」
「地下行かない?」
「地下?」
「酒場ゾーンよ。ここで立ちっぱなしだと落ち着かないし」
「あー、あそこか」
ナガンは軽く頷いた。《総督府》地下には、待機中プレイヤー向けの広大な休憩エリアが存在する。バー、軽食スペース、情報交換エリア。簡易シューティングレンジまで揃っており、BoB期間中はかなり賑わう場所だった。
「行くか」
二人はそのままエレベーターへ向かった。地下へ降りるにつれ、周囲の空気が少し変わる。上階のピリついた雰囲気とは違い、こちらは雑多な熱気が強い。
武装したプレイヤーたちが思い思いに過ごしている。だが、BoB本戦直前ということもあり、どこか全員の目が鋭かった。遊んでいるように見えて、全員が神経を張っている。
そんな空間だった。シノンは周囲を軽く見渡した後、奥まったブース席へ滑り込むように腰を下ろした。人通りから少し離れた位置。周囲から視線を向けられにくい場所だった。ナガンも向かいへ座る。金属製テーブルの表面へ、薄いホログラムメニューが展開された。
シノンは慣れた手付きでメニューを流し見する。そして《アイスコーヒー》の横に表示された小さなボタンへ触れた。
直後にガシャリ、と機械音が鳴る。テーブル中央のパネルが左右へ開き、その奥から冷気と共にグラスがせり上がってくる。黒い液体に氷の触れ合う音。シノンはそれを自然な動作で受け取った。一方、ナガンもメニューを開く。数秒眺めた後に選択した。
ノードクヴィストのレモンティーをアイスで注文。再びテーブル中央が開き、今度は薄い琥珀色の液体が入ったグラスが現れる。氷越しにレモンの香りが微かに漂った。シノンはそのグラスを見て、少しだけ目を瞬かせる。
「……意外」
「何が?」
「アンタ、炭酸系頼むタイプかと思ってた」
「あー」
「まぁ炭酸も飲むけどな」
そう言いながらグラスを軽く揺らす。
「これはジジイの影響」
「お爺さん...確かフィンランド人の?」
「あぁ、家でよく飲んでたから、気付いたら俺も飲むようになってた」
「へぇ……」
シノンは少しだけ感心したように呟いた。二人は普段、あまり自分達のリアル事情を話さない。だからこういう話は少し珍しかった。本人は特に気にしていない様子でレモンティーを一口飲む。
「まぁ、紅茶っていうより習慣みたいなもんだな」
「似合わないわね」
「うるせぇよ」
「褒めてるのよ」
「絶対嘘だろ」
そのやり取りは妙に自然だった。本戦前の緊張感は消えていない。デスガンの件もある。それでも今この瞬間だけは、少しだけ空気が柔らかかった。
「……ナガン」
落ち着いたカフェの空気の中、不意にシノンが口を開いた。テーブル越しに向けられた声は、普段より少しだけ静かだった。
「ん?」
ナガンはアイスレモンティーのグラスを傾けながら視線を上げる。
「どうしたら、貴方のように強くなれるの?」
「急にどうした?」
「聞きたいだけ」
短い返答だが、その声はどこか硬い。ナガンは数秒だけシノンを見つめ、それから軽く肩を竦めた。
「前にも話しただろ。数こなすのが一番って――」
「そうじゃなくて……」
ナガンの言葉を遮るように、シノンが小さく言った。その声音に、彼はわずかに目を細める。いつもの“強気なスナイパー”の声ではなかった。
シノンは視線を落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「私は……詳しく言えないけど、ある恐怖を克服するためにGGOをプレイしているの。その……恐怖に打ち勝つ何かを、私は知りたくて……」
ナガンはしばらく黙り、レモンティーの氷が小さく鳴る音だけが二人の間に落ちた。やがて、彼は静かに言葉を紡ぐ。
「……キリトにも言ったが、『人間、良くも悪くも最後まで自分を肯定できた奴が笑う』と思ってる」
シノンが顔を上げ、ナガンは視線をグラスへ落としたまま続けた。
「自分の行いを振り返って、“そんなこともあったな”って言えるくらいのスタンスで行けば、恐怖も克服できんじゃねぇの?」
シノンはその言葉に、胸の奥を掴まれたような感覚を覚える。
そんなこともあったな。
その言葉は、シノンには遠すぎる考え方だった。彼女にとって過去は、今も傷口のまま残っている。
忘れられない。
肯定なんてできない。
だからこそ、ナガンの言葉は不思議だった。どうしてそんな風に考えられるのか。
「強いのね……私には無理」
シノンはぽつりと呟き、ナガンは小さく鼻を鳴らした。
「別に強くねぇよ。俺がこの考えを見つけて、まだ一年も経ってない」
彼は軽く椅子へ背を預ける。
「以前の俺なら、“そんな理想論信じねぇよ”って思ってる」
「え?」
シノンは目を瞬かせる。
ナガンが、自分の考えを“理想論”と呼ぶことが意外だった。ナガンは視線を少しだけ窓の外へ向けた。
「ま、俺にも色々あった、ってことだ」
淡々とした言い方だった。だが、その一言には妙な重みがあった。まるで、軽く口にしているくせに、本当は簡単に触れられるものじゃないみたいに。
シノンは息を呑む。今まで、ナガンの過去について深く聞いたことはなかった。そして周囲も、どこか踏み込めない空気がある。だからこそ、その短い言葉が妙に胸へ残った。
彼にも何かがあった。今の考え方に辿り着くまでに、何かを経験している。それだけは分かる。
シノンは小さく俯いた。
「ごめんなさい……」
「ん?」
「過去を思い出させるようなことを……」
声には申し訳なさが混ざっていた。
踏み込んではいけない場所へ触れてしまった気がしたからだ。だがナガンは気にした様子もなく、再びグラスを手に取る。
「気にすんな」
それだけだった。
地下酒場エリアの喧騒は相変わらずだった。グラスのぶつかる音、プレイヤーたちの笑い声、遠くで鳴る電子音楽。その中で、奥まったブース席だけは比較的静かな空気を保っている。
ナガンは端末へ軽く視線を落とした。
「……お、来たな」
「誰?」
アイスコーヒーを飲みながらシノンが聞く。
「キリト。今ログインした」
そう言いながら短くメッセージを打つ。
《地下バーいる》
送信から数分後、人混みの向こうから黒衣の人影が姿を現した。キリトは周囲を軽く見回した後、ナガンたちを見つけてそのまま席へ向かってくる。
「悪い、待たせたか?」
「別に」
「いや全然」
キリトは空いている席へ腰を下ろすと、メニューを呼び出した。数秒迷った後、《ジンジャーエール》を選択する。
ガシャコン、と機械音がしてテーブル中央が開き、冷えたグラスがせり上がってきた。キリトはそれを掴むと、一気に半分近くまで飲み下す。炭酸の刺激。仮想空間特有のしゅわしゅわ感が喉を抜けていく。
「っはぁ……」
ようやく落ち着いたらしく、キリトはグラスを置いた。そして数秒だけ考え込むような顔をした後、口を開く。
「ナガン……」
「ん?」
「確認したいんだが....本戦のバトルロイヤルってのは、同じマップに三十人がランダム配置されて、出くわすそばから撃ち合って、最後まで生き残った奴が優勝……ってことだよな?」
数秒、沈黙が落ちた。
ナガンはゆっくり瞬きをする。それから真顔のまま言った。
「お前……運営から送られてきたメール読んでないのか?」
「うっ」
キリトの肩がぴくりと揺れた。図星だった。シノンがじっとキリトを見る。
「まさか本当に読んでないの?」
「いや、読んでないっていうか……」
「読んでないのね」
「……はい」
素直だった。キリト的には、熟練者へ直接聞いた方が早いという考えだったらしい。ナガンは呆れたように額を押さえた。
「お前なぁ……」
「その、俺の理解が正確かどうか確認しておきたいかなーって……」
「なるほど」
ナガンはゆっくり頷く。
「物は言いようって奴か」
キリトは黙った。完全に言い訳を見抜かれていた。シノンが小さく吹き出す。
「アンタ、本当にそこだけ初心者っぽいわよね。BoB本戦前にルール未確認とか、普通に怖いんだけど」
「いや、基本ルールくらいは分かってるぞ!?」
「今聞いてた時点で説得力ゼロなんだが?」
ナガンのツッコミが即座に飛ぶ。キリトはぐっと詰まった。そんな彼を見ながら、シノンは肩を震わせている。昨日までの重苦しい空気と比べれば、かなり自然なやり取りだった。ナガンはレモンティーを一口飲みながら続ける。
「まぁ、大体の認識は合ってる。けど正確には、15分ごとにスキャンが入るから完全なイモリは無理だ」
「あぁ、位置表示されるやつか」
ナガンは頷いた。
「だから本戦は、単純なエイムだけじゃなくて立ち回りも重要になる」
その一言だけで、席の空気が少し引き締まった。さっきまでの軽口が嘘みたいに、三人の目が同じ温度を帯びていく。本戦まで、もう時間はなかった。
「そろそろ、待機ドームに移動しましょう。装備の点検やウォーミング・アップの時間がなくなっちゃうわ」
シノンがそう言いながら立ち上がる。ブース席の薄暗い照明が、青い髪を淡く照らした。総督府タワー地下の酒場ゾーンは、相変わらず大勢のプレイヤーで賑わっているが、その喧騒とは別に、三人の空気は少しだけ静かだった。ふざけ合っている余裕はまだある。だが、その奥では全員が確実に戦闘モードへ入り始めていた。
「そうだな」
ナガンが軽く頷きながら立ち上がる。そのまま自然な動作で出口へ向かいかけ――ふと思い出したように振り返った。
「じゃ、俺たちは先出るから。キリト、会計頼んだ」
「え……?」
キリトが素で困惑した声を漏らす。一瞬、本気で押し付けられたのかと思ったのだろう。だが次の瞬間、ナガンが肩を揺らして笑った。
「冗談だよ」
「紛らわしい!」
「いや、お前ならギリ払ってくれそうだったし」
「払わないからな!?」
即座に否定するキリト。そのやり取りを見て、シノンが小さく吹き出す。さっきまでの重苦しい空気が、また少しだけ薄れた。三人はそのまま酒場を後にする。エレベーター通路へ向かう途中、ナガンは左手首のデジタルウォッチへ視線を落とした。
時刻は午後七時直前。
本大会開始まで、残り約一時間。総督府ホールの空気も、徐々に熱を帯び始めていた。通路には本戦出場者らしきプレイヤーが増えている。重武装の男。軽装のAGI型。迷彩マントを羽織ったスナイパー。中には明らかにネタ装備みたいな格好のプレイヤーまでいた。その全員が、あと一時間後には“敵”になる。そんな空気の中、不意にシノンが口を開いた。
「ナガン、一応言っておくけど」
足を止めず、前を向いたまま続ける。
「アンタとは必ず戦いたいから、私以外で死ぬなんて許さないから」
声音は静かだが、冗談ではないことは分かる。キリトが少しだけ目を丸くする。だがナガンは、特に気負った様子もなく鼻で笑った。
「別に、お前に殺されるつもりもねーよ」
「……上等」
シノンが小さく口元を吊り上げる。完全に戦闘前の顔だった。そんな二人を見比べながら、キリトがふと疑問を口にした。
「......そういえば」
キリトがふと思い出したように口を開いた。
「ん?」
「ナガンとシノンって、どうやって知り合ったんだ?」
その質問に、シノンは少しだけ視線を上へ向けた。
「知り合ったのは7月。でも、実際にちゃんと話したの今月ね。知り合い方は最悪だったけど....」
少し間を置いてから、呆れ混じりに続けた。
「フレンド申請も割とすぐ送ったのに、承認されたのが最近だったから、まぁ驚いたわ」
「そうなのか...というか最悪って.....?」
横からナガンが補足する。
「7月頃に、俺がヘッドショットでシノンを殺った」
「言い方」
「事実だろ」
悪びれもなく返すナガンへ、シノンが呆れた視線を向ける。彼の言う通り事実なのが、余計に腹立たしかった。キリトは思わず吹き出しかける。
「いや、知り合い方物騒すぎないか?」
「GGOだぞ?」
「それ言われると否定できない……」
「その後、向こうが興味持ったらしくてな。フレンド申請とか来てたんだが、7月後半からリアルで忙しくなった」
「忙しかった?」
「あぁ。車とバイクの免許でな」
「大学生のリアル事情だった……」
「あと単純に、しばらくログインする気力が無かった」
その辺りは、実にナガンらしかった。熱中したかと思えば急に姿を消す。気まぐれというより、自分のペース以外で動く気がないタイプだ。シノンは横を歩きながら、小さく息を吐く。
「だから急にログインしてきた時は、ちょっと驚いたわ」
「そんなにか?」
「ずっと最終ログイン日が7月から全く変わらなかったもの」
「怖っ」
「誰のせいよ」
即座に返された言葉だったが、その声音には棘がない。むしろ少しだけ柔らかかった。キリトは二人のやり取りを見ながら、なんとなく納得する。この二人は、距離感が妙に自然なのだ。ベタベタしているわけではない。
だがお互いへの信頼が、会話の端々に静かに滲んでいる。だからこそ軽口が成立する。そしてその信頼が戦闘中になると、異様な噛み合い方をするのだろう。キリトは小さく苦笑した。
「なんか、お前ら本当に相棒って感じだな」
一瞬だけシノンが黙った。その横でナガンが軽く笑う。
「だろ?」
シノンは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ口元を緩めていた。普段の強気な笑みとも違う、どこか自然に零れた表情だった。
だがその笑みも長くは続かない。待機ドームへ近付くにつれて、周囲の空気が変わっていく。BoB本戦を前にした独特の熱気が、空気そのものへじわじわと滲み始めていた。
あと一時間もしない内に、この場にいる大半が敵になる。そして、その中にはデスガンもいる。さっきまで少しだけ和らいでいた空気が、三人の間で再び静かに引き締まり始めていた。
次回から本格的な戦闘になります