シノンは腰のポーチから端末を取り出し、素早く画面を起動した。
「ナガン、キリト。二人は橋を監視してて。私はこれであいつの名前を確認する」
「了解」
「分かった」
短く返した二人は、それぞれ武器を構える。キリトは光剣とハンドガン。ナガンは光剣とRSh-12を構え、周囲へ鋭い視線を巡らせた。鉄橋周辺は静まり返っている。風が吹き抜け、錆びた鉄骨が軋む音だけが耳に届いた。
「えっ……な、無い!?」
シノンが思わず声を上げた。端末へ食い入るように視線を落とす。高精細マップには鉄橋周辺のプレイヤー反応が表示されている。だがそこにあるのはダインの光点だけだ。肝心のデスガンの反応が、存在しない。
「そんな……」
ぼろマントの男は、すでに移動したということか。だが川岸を走って逃げたなら、ナガンかキリトが気付かないはずがない。シノンの思考が、一瞬白く染まりかけた。どうなっている。どこへ消えた。まさか本当に——だが彼女はすぐに、強引に思考を立て直そうとした。
シノンが確認している頃、
「そういや、キリト」
不意にナガンが口を開いた。
「お前どうやってここまで移動したんだ?結構距離あったろ?」
キリトは軽く首を傾げ、それから何でもないことのように言った。
「あぁ、装備全部外して、泳いだら割とすぐ着いた。あと、水にいる時は見つからないらしいぞ」
一瞬、ナガンの思考が止まった。
(水中で……装備を全部ストレージに入れて……泳いだ?)
つまり、見た目は完全に美少女アバター。中身は男のキリトが装備を外し、ほぼ全裸状態で川を泳いできた、ということになる。
「…………」
ナガンは無言で遠い目をした。想像してしまったのだ。脳が勝手に映像化してしまう。
(やめろ、考えるな)
だが脳内ではすでに、長い黒髪を濡らしながら川を泳ぐ
(想像してしまった自分を殴りたい....)
心底嫌そうな顔で、ナガンは額を押さえた。
「どうしたんだよ?」
「いや、お前その姿で泳いだのかと思うと色々キツい」
「仕方ないだろ!!他に方法無かったんだよ!装備付けたままじゃ沈むし!」
「理屈は分かる。分かるけど絵面が終わってる」
「なんでそんな嫌そうなんだよ!?」
「いや、中身男なのに見た目だけ完璧美少女なのが悪い」
「俺のせいじゃないだろ!?」
キリトが本気で叫ぶ。その横で、シノンは端末を操作しながら呆れたように溜息を吐いた。
「こんな状況で何やってるのよ、あんた達……」
「いや、こいつが爆弾投げてきた」
「投げたのはそっちだろ!?」
キリトは反射的に言い返すが、ナガンはまだ嫌そうな顔のままだ。
「デスガンの光点は見つからなかったわ」
彼女は端末を下ろしながら、わずかに眉を寄せる。
「おそらく……キリトみたいに泳いでるのかも」
その瞬間、場の空気が変わった。ふざけた空気が、一気に冷える。もし本当に水中移動を利用しているなら、デスガンはすでに別方向へ回り込んでいる可能性がある。
「チャンスだわ」
端末を睨んでいたシノンが低く囁いた。その声音に、キリトとナガンが同時に眉を寄せる。シノンは二人へちらりと視線を向けると、早口で状況を説明した。
「あのぼろマント、端末に映ってない。たぶん川に潜ってるのよ。だとすれば、今は武装を全解除してるはず」
シノンは指先でマップを拡大しながら続ける。
「岸に上がってからウインドウを出して装備を付け直すには、最低でも十秒は掛かる。完全に無防備になる時間があるの」
その言葉に、ナガンが短く頷いた。
「十秒も止まってりゃ充分だ。上陸地点さえ読めれば、その瞬間に撃てる。そこを叩けばいけるかもな」
冷静な分析だった。だがキリトだけは、納得していない顔をしていた。わずかに険しい表情のまま、低い声で問い返す。
「……拳銃一丁なら?」
「え?」
「それくらいなら、装備したまま水中移動できるんじゃないか?」
話の途中で返された質問に、シノンは一瞬言葉を詰まらせた。確かに。長物ならともかく、小型のハンドガン一挺程度なら、水中移動に支障は少ないかもしれない。シノンは小さく眉を寄せながら答える。
「試したことはないけど……そこそこのSTRとVITがあれば、多分可能ね。けど、たとえそうでも拳銃一つくらい――」
「駄目だ!」
不意に、キリトが押し殺した声で叫んだ。その声音には、焦燥と苛立ちが滲んでいた。
「二人も知ってるだろ!あいつの黒い拳銃が、いくつものプレイヤーを消したのを!」
デスガンが握る、あの不気味な黒いハンドガン。それを思い出しただけで、空気が冷える。BoBが始まる前から、すでに複数のプレイヤーが死亡している。そして現実世界でも、同じタイミングで人が死んでいる。偶然では済まされない。だからこそキリトは警戒していた。
「一発でも撃たれたら、それで本当に死ぬかもしれないんだぞ!」
叫ぶように言った後、キリトは険しい表情のまま二人を見た。だが、ナガンは静かだった。感情的になる様子もなく、ただ冷静な目でキリトを見る。
「キリトの言いたい事も理解出来る」
低く、落ち着いた声だった。
「だからこそ、逆に聞くが……ならどうやって倒すんだ?」
「……っ」
キリトの表情が、わずかに固まる。ナガンは続けた。
「支援無しで倒せる自信があんのか?」
その一言は鋭かった。感情論ではなく、純粋な現実を突き付けている。デスガンは異常だ。シノンのヘカートⅡを避けた。ナガンの狙撃すら致命打にならなかった。反応速度も戦闘能力も、明らかに普通ではない。そんな相手に援護もなしで近接戦を挑む。危険どころの話ではない。キリト自身、それを理解している。だからこそ——反論できなかった。
押し黙る。視線がわずかに下がる。痛い所を突かれたのだ。
キリトは確かに強い。だが無敵ではない。まして相手は本当に死ぬかもしれない敵だ。その恐怖を知っているからこそ慎重になっている。だが慎重になりすぎれば、逆に主導権を奪われる。
沈黙が落ちた。鉄橋を吹き抜ける風の音だけが、耳に残る。シノンは二人を見比べながら、小さく息を呑んだ。三人の中で、誰も次の言葉を出せずにいた。正しさと恐怖と現実が、複雑に絡み合ったまま、答えを出せずにいる。
ただ時間だけが、静かに流れていた。
「……私は認めたくない」
シノンは小さく呟く。その声には、迷いが滲んでいた。
「PKじゃなく、本当の人殺しをするVRMMOプレイヤーがいるなんて……」
GGOはゲームだ。銃を撃ち、プレイヤーを倒し合う世界ではある。だがそれはあくまで“ゲーム内”の話だった。
敗北しても現実では死なない。
だから人は引き金を引ける。
だから戦える。
しかし今、自分達が追っている“死銃”は、その前提そのものを壊している。ゲームの中の死が、現実の死へ繋がっている。そんなもの、簡単に受け入れられるはずがない。シノンの言葉を聞きながら、キリトは険しい表情のまま黙っていた。だがその瞳には、強い警戒が浮かんでいる。
彼にとって、これは単なるBoBではない。
過去との決着だ。
SAO。
人が本当に死んだVRMMO。あの地獄を知っているからこそ、キリトはデスガンを危険視していた。そして同時に。これ以上、無関係な二人を巻き込みたくなかった。初心者だった自分に装備の知識を教えてくれた。GGOの戦い方を説明してくれた。ここまで共闘してくれた。そんな二人を、“本当に死ぬかもしれない戦い”へ引き込み続ける事に、キリトは強い抵抗を感じていた。
しかし、不意にナガンが口を開いた。
「……で?」
キリトが顔を上げる。ナガンは相変わらず落ち着いた顔のまま続けた。
「結局、お前一人で行くつもりか?」
「それは……」
キリトが言葉を詰まらせる。否定できなかった。危険だと分かっているからこそ、自分だけで背負おうとしている。そんなキリトを見て、ナガンは小さく息を吐いた。
「気持ちは分かる」
その声は静かだった。
「けどな、ここで単独行動される方が困る」
「……え?」
「お前、今かなり冷静じゃないだろ」
キリトが黙る。図星だった。デスガンの件になると、キリトは明らかに感情が先走っている。普段の冷静さが崩れていた。
「そういう状態で突っ込まれると、援護する側は逆に動きづらいんだよ」
ナガンは淡々と言う。責めるような口調ではない。事実をそのまま述べているだけだ。
「それに」
そこでナガンは視線を上げた。
「ここまで首突っ込んどいて、“後は一人でやります”は流石に遅い。もう俺達も当事者だ。今さら無関係には戻れん」
キリトが目を見開く。シノンもまた、わずかに驚いたような顔をした。その言葉には、不思議と重みがあった。恐怖がないわけではない。だがそれでも引かない。危険を理解した上で、それでも前へ出る覚悟がある。
シノンは小さく息を吐くと、端末を閉じた。
「……私も協力する」
キリトが振り向く。シノンは真っ直ぐ彼を見返した。
「確かに怖いわよ。正直まだ信じ切れてない。でも、このままあいつを放置する方が嫌」
低い声だった。
「それに、狙撃なら私にも出来る」
ヘカートⅡを軽く叩く。その仕草には、狙撃手としての矜持が滲んでいた。
「キリト一人じゃ、接近する前に終わるかもしれない。でも、私とナガンで援護すれば話は別よ」
ナガンも小さく頷く。
「デスガンがどれだけ異常でも、撃たれ続ければ自由には動けない」
その目はすでに戦場のものだった。
「俺とシノンが遠距離から射線を潰して、お前は接近する。それだけだろ」
簡潔な役割分担だが合理的だった。キリトはしばらく黙っていた。二人を見る。シノンは恐怖を押し殺しながらも、目を逸らしていない。ナガンは静かなまま、すでに戦う覚悟を決めている。
「……なんでそこまでするんだ」
思わずキリトは呟くと、ナガンは少しだけ笑った。
「気に入らねぇからな」
「え?」
「ああいう手合い」
ナガンの目が細くなる。
「“自分だけ特別”みたいな顔して、人を撃つ奴は」
その声音だけ、わずかに冷たかった。シノンも静かに続ける。
「私も……仲間を見捨てる趣味はないわ」
少し間を置いてから、ヘカートⅡへ視線を落とした。
「それに——あんな奴に邪魔されるのはごめんよ」
その言葉の奥に、キリトには分からない何かが滲んでいた。シノンがナガンと初めて出会ったあの日、頭を撃たれて、そこから興味を持ってここまで来た。その積み重ねに、デスガンなどという存在に水を差されたくない。それだけの話だった。
キリトは言葉を失った。そして数秒後、小さく息を吐く。
「……分かった」
ようやく、その声から力が抜けた。
「頼む」
その瞬間。三人の間で、静かに覚悟が共有された。デスガンを止める。そのために、それぞれの役割を果たす。風が吹き抜ける鉄橋の上で、三人は再び戦場へ視線を向けた。
話がまとまり、三人は慎重にその場を離れ始めた。鉄橋周辺から少し離れた荒れ地。風が乾いた砂を巻き上げ、視界の端で小さく舞っている。廃墟の残骸が点在する殺風景な地形だった。
その時だった。不意に、キリトが腰の後ろへ手を回した。迷いのない動作だった。光剣を引き抜くと、薄赤いフォトン光が瞬時に展開され、周囲を淡く照らす。
「――!」
その動きを見た瞬間、シノンとナガンも察した。キリトが無駄に剣を抜く男ではない。つまりすでに、気配を捉えている。三人は同時に視線を前方へ向けた。約100メートル先に、瓦礫と岩陰に隠れるようにして、数人のプレイヤーがこちらを窺っていた。待ち伏せだ。しかもタイミングが良すぎる。向こうも理解しているのだろう。今の三人がどれほど危険かを。
銃弾を斬り裂き、近接戦では圧倒的な制圧力を持つキリト。
GGOでも名の知れた氷のスナイパーシノン。
そして超遠距離狙撃だけでなく、近接戦闘すらこなす異端の狙撃手——AGI殺しのナガン。
この三人が連携した状態を放置するのは、どう考えても危険すぎる。だからこそ、先に潰しに来た。
「数は?」
低く、キリトへ問う。
「見えてる限り四人。隠れてる奴がいるとすれば、もう少し多いかもしれない」
「厄介ね」
シノンがヘカートⅡを構えながら呟く。
「キリト……」
ナガンが小さく呟いた。
同時に、腰の光剣を引き抜く。薄青いフォトン刃が瞬時に展開され、乾いた地面を赤く照らした。その光景に、キリトがわずかに目を見開く。ナガンも剣による近接戦が出来る。それはここまでの戦いで十分理解していた。狙撃手でありながら、接近されても即座に対応できる反応速度と技量を持っている。少なくともそこらの中距離プレイヤーより遥かに強い。だからキリトは自然と、二人で前へ出る流れだと思っていた。
だが......
「じゃ、これ上げるから任せた」
ナガンは実にあっさりと言った。そして次の瞬間、自分の光剣をキリトへ、ポイっと放り投げる。
「え……?」
思わずキリトが間抜けな声を漏らした。完全に二人で突っ込む空気だった。なのに当の本人は躊躇なく後方へ下がり始めている。
「いや待て、お前来ないのか!?」
「行かねぇよ」
即答だった。一切迷いがない。ナガンはすでに周囲の遮蔽物へ視線を走らせ、狙撃ポジションを探し始めていた。
「俺の本業スナイパーだぞ。100メートル走ってる間に蜂の巣になるわ」
「さっき近接戦出来るみたいな空気出してただろ!?」
「出来るとは言ったけど、前衛職とは言ってないぞ」
妙に冷静な返答だった。実際、ナガンの近接戦能力は高い。だがそれは、狙撃手としては異常という意味でしかない。キリトのように最前線へ突っ込み、銃火の中を突破する純粋前衛とは根本的に戦い方が違う。そして何より——この距離では、前へ出るより援護へ回った方が合理的だった。
ナガンはすでにライフルへ手を掛けながら言う。
「なに、ぼさっとしてんだよ?」
その目は、完全に狙撃手のものへ変わっていた。空気が変わる。さっきまで軽口を叩いていた男とは思えないほど鋭い視線。敵の位置、遮蔽物、射線、風向き——一瞬で戦場を組み立てている。
「バックアップはこっちに任せて、はやく行け」
「なんか、キリトが可哀想……」
シノンがぼそりと呟いた。その声に、ナガンは微妙に傷付いた顔をする。
「いやお前もそっち側かよ……」
「だって完全に”任せた前衛”って扱いじゃない」
「事実そうだろ。お前が一番前行けるんだからな」
「否定は出来ない....!」
キリトが半ばヤケ気味に叫んだ。だが実際問題、後ろにシノンとナガンがいる安心感は大きかった。GGOでもトップクラスのスナイパーが二人。しかも片方は超長距離狙撃、もう片方は高火力狙撃。普通のプレイヤーなら、顔を出した瞬間に撃ち抜かれる。それだけの信頼感があった。
キリトもそれを理解していた。
「……分かった」
納得し切れていない声で頷く。するとナガンは小さく肩を竦めた。
「死ぬなよ前衛」
「お前もな!」
言い返した直後、キリトは二本の光剣を構え、地面を蹴った。砂を巻き上げながら、一気に敵陣へ駆け出す。
「来たぞ!!」
待ち伏せしていたプレイヤー達が一斉に叫び、銃口を向ける。無数の銃火が閃いた。だがその瞬間。後方の瓦礫へ滑り込んだナガンとシノンは、すでにスコープを覗き込んでいた。
「右抑えるわ」
「頼んだ」
短いやり取りを交わした次の瞬間——二人の狙撃銃が、同時に火を吹いた。