時間は少し巻き戻る。シノンは、崩れたビルの上階へと駆け上がりながら、先程のやり取りを思い返していた。
『寂しいのか?』
「あの馬鹿……!」
小さく毒づくが、息は乱れていない。AGI補正のおかげで身体は軽い。だが思考だけが、妙にまとまらなかった。あの男は時々こういう余計な一言を平然と投げてくる。こちらの反応を面白がっているだけなのか、それとも無意識なのか、シノンには分からない。
ただ確かなのは、あの言葉を真正面から認めるわけにはいかないということだった。もし認めれば、自分がナガンに対して戦友以上の感情を抱いていることになる。
それは駄目だ。
GGOは戦場、迷いは死に繋がり、情は照準を鈍らせる。だからこそ、自分はここまで生き残ってきた。
ナガンは確かに最高のバディだ。狙撃技術は勿論、状況判断、射線管理、呼吸の合わせ方、言葉にしなくても成立する連携——その全てが異常なレベルで噛み合う。
だからこそ危険だった。これ以上踏み込めば、必ず迷いになる。
(《デスガン》候補は、早めに処理しておく)
シノンは感情を振り払うように、ヘカートⅡを構えた。スコープ越しに見えるのは《銃士X》の潜伏地点。風向き、距離、着弾予測——計算は一瞬で終わる。
ドォン——!!
対物ライフル特有の重低音が空気を震わせた。コンクリートが爆ぜ、《銃士X》が飛び退く。
「よし……」
燻り出しには成功した。シノンはすぐに合流地点へ移動し、あと少しで着く直前。ぞわり、と背骨を氷で撫でられたような悪寒が走った。
「——っ」
振り向こうとするが身体が動かなかった。視界の端で何かが光る。反射的に左腕を持ち上げた瞬間、激しい衝撃が走った。
「ぁっ……!」
撃たれたと理解した。咄嗟に目の前のビルへ飛び込もうとする。だが脚が動かない。力が入らない。そのままシノンの身体は、糸を切られた人形のように路面へ倒れ込んだ。
(なに……どうして!?)
視線を落とすと左腕に刺さっていた弾丸の根元が、甲高い振動音を立てながら青白く発光していた。そこから細いスパークが無数に走り、電流となって全身へ流れ込んでくる。痺れ、筋肉の硬直、感覚の麻痺。
(これは……電磁スタン弾!?)
理解した瞬間背筋が冷えた。だがおかしい。デスガンは北側にいたはずだ。なのに撃たれた方向は——南。
あり得ない。混乱するシノンの視界の先に何もなかった空間が、不意に歪んだ。じじっ、と。空気そのものにノイズが走る。光の粒子が流れ、景色が裂ける。まるで世界が剥がれ落ちるように——そこに、何かが現れた。
シノンは言葉を失った。
(光歪曲迷彩……!?)
オプチカル・カモフラージュ。装甲表面で光を滑らせ、自身を不可視化する究極の迷彩技術。だがそれは高難易度ボス限定で持つ技だ。運営が実装したという話も聞いていない。
なのに、目の前には確かにそれがいた。
ゆっくりと姿を現す。ぼろぼろに毛羽立ったダークグレーのマント。全身を覆う長衣。深く被られたフード。人間というより、死そのものを形にしたような異様な存在感。
(デスガン……!!)
シノンの喉が震える。デスガンはゆっくりと歩き、倒れたシノンの前、二メートルほどの位置で停止した。
そして。
「……キリト……ナガン」
低く歪んだ声だった。
「お前達が、本物か、偽物か……これではっきりする」
シノンではない。その言葉は明らかに、キリトとナガンへ向けられていた。まるで二人の存在そのものを確かめるかのように。シノンは痺れる指を必死に動かし、サイドアーム——グロック18Cへ手を伸ばした。冷たい感触が指に触れる。
弾丸は既に薬室に入ってる。すぐに撃てる様にする為だ。
(この距離なら……撃てる!!)
銃口を持ち上げようとした時、デスガンが左手を動かした。ゆっくりと、拳銃のスライドへ添える。そしてその左側面がシノンの視界へ晒された。
金属製グリップに縦のセレーション。中央の刻印。円の中の、黒い星。
——黒星五四式。
瞬間、世界が止まった。呼吸が消え音が消える。視界から色が抜け落ちていく。その銃を、シノンは知っていた。いや——朝田詩乃が、忘れられるはずがなかった。五年前、北の街の小さな郵便局で母を撃とうとした男。恐怖に震えながら飛び掛かり、銃を奪い、無我夢中で引き金を引いた。
あの時の感触、男の眼、血の匂い、全てが、フラッシュバックのように脳裏へ蘇る。
(いたんだ)
シノンの思考が崩れていく。
(ここにいたんだ)
この世界に。潜み、隠れ、自分へ復讐する瞬間を待っていた。そう思った瞬間、手からグロック18Cが滑り落ちた。乾いた音を立て、路面を転がる。もうシノンの視界に色は残っていなかった。世界は灰色に染まり、目の前にいるのは死そのものだけだった。
これは運命なのだと、私は思ってしまっていた。
逃げられない。
どれだけ足掻いても、どれだけ遠くへ行こうとしても。私は結局ここへ戻ってくる。血の臭いが充満していた、あの郵便局へ。たとえGGOを始めていなかったとしても、きっと同じだったんだと思う。どこかでまた、この男に追いつかれていた。
なら——今までの全部は何だったんだろう。
銃への恐怖を克服しようとした日々。
眠るたびに悪夢に引き戻される夜。
勇気を振り絞り初めてVRへ潜ったあの時間。
本当は、全部無駄だったんじゃないか。そんな諦めが、冷たい泥みたいに胸の中へ流れ込んでくる。身体は痺れて動かない。呼吸も浅い。視界は灰色に染まっていく。
そんな暗闇の底で、まだ何かが消えていなかった。砂粒みたいに小さな感情。ほんの少しだけ残った熱。
(諦めたくない……)
その瞬間、何故か頭に浮かんだのはナガンだった。
軽薄で、いつも余計な軽口ばっかり叩いて、銃の趣味は癖の塊で、キリトを見ればネカマ弄りを始めて。空気を読んでるのか読んでないのか、本当に分からない男だ。
なのに狙撃は誰よりも凄かった。誰よりも冷静で、誰よりも正確で、引き金を引く瞬間だけ別人みたいになる。
あの強さは、生まれつきの才能だけじゃない。祖父に鍛えられたって、本人は軽く笑って言っていた。でも違う。そんな単純なものじゃない。もっと根っこの部分に何かがある。
彼もきっと何かを抱えていた。もしかしたら私なんかよりずっと凄惨な過去を。それでもナガンは前を向いていた。銃を握って、戦って、笑っていた。
最後まで自分を肯定していた。
その背中が私には眩しかった。だから私は、隣に立ちたいと思ったんだ。
最初は、本当にただの利害関係だった。私が彼に興味を持った理由は単純だ。狙撃の腕が高かったのと、レアな銃を持っていたから、それだけ。GGOには強力な武器を持つプレイヤーはたくさんいる。でも彼が持っていた銃は違った。性能だけじゃない。
その銃を手に入れるために必要だった手間や知識、その裏にある執着が見えた。だから利用価値があると思った。私はもっと狙撃が上手くなりたかった。もっと遠くを撃ち抜きたかった。もっと強くなりたかった。そのためには、普通のプレイヤーと組むより彼と組んだ方が効率が良かった。
彼も同じだったはずだ。私の狙撃技術を高く評価していた。長距離支援が欲しい、スコードロン経由の情報が欲しい。レア武器を手に入れたい。そういう思惑があったはずだ。
だから私達はバディを組んだ。そこに特別な感情なんてなかった。信頼もなかった。友情と呼べるほどのものもなかった。ただお互いに利用価値があっただけ。
実際、その関係は上手くいった。彼は以前より多くのレア武器を手に入れた。私は以前より狙撃が上達した。遠距離射撃の考え方、位置取り、索敵、風の読み方。私が知らなかった技術を彼は平然と使っていた。腹が立つくらい自然に、何事もないような顔で。
だから認めざるを得なかった。実力だけなら本物だった。
だけど、その頃の私は彼をただのバディとしか思っていなかった。クエストが終われば解散する。ログアウトすれば終わり。その程度の関係。そう思っていた。
本当にそう思っていたんだ。
なのに——気付けば、その前提が少しずつ崩れていた。最初は些細なことだった。
ログインした時、フレンドリストに彼の名前を見つけると、なぜか少し安心している自分がいた。新しいイベントが始まると「あいつも参加してるんでしょうね」と考えていた。珍しい武器の話を聞けば「どうせもう持ってるんじゃない?」と思った。
本当にそれだけだったはずなのに。いつの間にか、その存在が当たり前になっていた。
ログインするたびに、なぜかフレンドリストを確認していた。ログイン時間が重なる頻度、クエスト中の無言の連携、積み重なっていく、何でもない時間。一緒に戦う時間が増えるたびに、胸の奥で何かが育っていった。
それが何を意味するのか、その時の私はまだ、認めようとしていなかった。認めたら弱くなると思っていたから。情は迷いになり依存は照準を狂わせる。だからずっと蓋をして、見ないふりをしていた。けど死を目の前にしたこの瞬間、もう誤魔化せなかった。
本当は———彼の傍で———彼のもっと近くで———
あの....
名前のない距離の隣で
一緒にいたかった。
あの軽口を聞いて、呆れて、時々腹を立てながら、それでも一緒に戦っていたかった。ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しかったんだろう。
彼を見ていれば、彼の隣にいれば、私の中で日に日に大きくなっていた、この感情と彼の《強さ》の正体がちゃんと理解できる気がしていた。でも《強さ》は分かった。けど感情の方は最後まで分からなかった。
(けどようやく、解りそうだったんだ)
視界がぼやけデスガンの姿すら、もう輪郭しか見えない。身体は痺れて、指一本まともに動かせない。
こんな最期なら、彼の隣に居たかったな.....
不意にあの時の言葉が蘇る。
『寂しいのか?』
あの時は否定した。認めるわけにはいかなかった。でも今なら誤魔化す必要もない。
胸の奥へ、静かに答えが落ちていく。
そこまで理解してしまった瞬間、私は自分が最後まで認めたくなかった感情へ辿り着いてしまった。いや....もう気づいていたんだ。
その気持ちを相棒という都合の良い言葉で誤魔化していただけだった。
ほんと嫌になるわ....自分の思いすら素直に伝えられないなんて....ずっと隣にいたのに。何度も言葉にする機会はあったはずなのに。自分から行動したこともあったのに、なにも言えなかった。
貴方はいつだって隣にいてくれたのに。
関係が変わるのが怖かった。関係を失うのが恐かった。今ある距離が崩れてしまうのが。隣にいられなくなるのがどうしようもなく、怖かった。
だから狙撃手としての距離感に逃げ続けた。あくまでバディだって、自分に言い聞かせ続けた。それが正しいと思っていた。そうしていれば、何も壊れないと思っていた。
でも結局、何も伝えられなかった。
馬鹿みたい...結局、言えないまま終わるくらいなら、最初から言っておけば良かった。呆れられても、断られても、距離を置かれても——それでも伝えておけば良かった。
全部——遅すぎた。
今さら気づいても、もう届かない。声にしても、もう間に合わない。
薄れていく意識の中で、最後に浮かんだのは、シャイタックM200を背に掛けながら、いつもの軽薄な笑みを浮かべる彼の姿だった。何でもないような顔で、何でもないように笑って。それでいて、いざという時だけ誰よりも鋭くなる。
あぁ———もう少しだけ
あの軽薄な笑みを、もう一度見たかったな....
デスガンの黒い銃口が、ゆっくりと持ち上がる。灰色の世界の中で、私はただその死を見つめることしかできなかった.....その時
ダァーーーン!
この状況を叩き壊すかのような、銃声が響いたが、私に向けて放たれたものではなかった。
「あ……」
力の抜けた視線を上へ向けると、シャイタックM200を構えてボルトを引くナガンの姿が見えた。排莢された薬莢が硬い床を跳ねる。その姿を見た瞬間、止まりかけていた思考が微かに動いた。
来てくれた。
それだけの事実が、灰色に染まっていた世界に、ほんのわずかだけ色を取り戻させた。
遂にタイトル回収!長かった...!