過去を話した後から、ナガンは岩壁に背を預けたまま、まるで糸が切れたように動かなかった。傍らにはシャイタックM200が置かれている。普段なら絶対に手放さない相棒だ。それを置いている時点で、すでに異常だった。
シノンが横目で彼の様子を窺った、その瞬間だった。
ふらり、と。
ナガンの身体が傾いた。
「え――」
反応するより早く、ナガンの頭がシノンの肩へと預けられた。
「ちょっ!」
思わず声が上ずるもナガンは離れない。いつもの軽口もなければ、冗談めかした笑みもない。ただ、重さだけが静かに彼女へ寄りかかってくる。
「悪い……」
掠れた声が、シノンの耳元で震えた。その一言だけで、シノンの表情が変わる。驚きが消え、代わりに緊張と焦りが走った。
「少し……休ませて……くれ……」
途切れ途切れの言葉だった。普段の彼からは想像できないほど弱い声だった。シノンは一瞬だけ固まった。だが次の瞬間には、異変のすべてを理解していた。
今まで無理やり平静を装っていただけだ。
キリトは少し離れた場所で警戒を続けている。その背中は緊張を解いていない。まだ終わっていないことを、彼自身がよく分かっているのだろう。
その一方で、ナガンは岩壁へ背を預けたまま動かなかった。眠っているわけではない。意識はあるが反応がほとんどない。フロー状態の反動だった。極限まで酷使された脳と神経が、強制的に休息へ入ろうとしている。ほとんど気絶に近い状態だった。
シノンは隣に座ったまま、その横顔を見つめていた。
長い睫毛に閉じられた瞼。普段なら絶対に見せない無防備な表情。いつもは軽口ばかり叩いて、危険な状況でも平然としていて、死神みたいな相手を前にしてさえ笑っていた男が、今はまるで別人みたいだった。
「本当に馬鹿....」
小さく呟く。当然、返事はない。
デスガンとの撃ち合いを思い出す。普通なら成立しない、成立してはいけない領域だった。それをこの男は、自分が壊れる寸前まで踏み込んでやり切った。そして今、そのツケを払っている。
一体どこまで自分を削れば気が済むのか。
シノンはそっと息を吐いた。気付けば右手が伸びていた。自分でも理由は分からない。ただ何となく、本当に何となくだった。
指先が、ナガンの髪へ触れる。
柔らかかった。思ったよりずっと。いつも無造作に放っておくから気付かなかった。シノンは少しだけ目を丸くする。
今のナガンにそんな余裕はない。それを確認してから、シノンはゆっくりと頭を撫でた。優しく、本当に優しく、まるで壊れ物に触れるみたいに。
ナガンは動かない。ただ静かに呼吸を続けている。その姿を見ていると、不思議な気持ちになった。彼は強い。少なくともシノンにはそう見えていた。しかし、今は限界まで戦って、疲れ切って、こうして休んでいる。
そんな当たり前の姿が、妙に愛おしく感じられた。
強い人間にも、限界がある。当たり前のことだ。なのに彼に限っては、それをなかなか実感できなかった。いつも飄々として、どこか他人事みたいに戦場を歩いている。弱さを見せることが、この人には存在しないのかと思っていた。
でも今は違った。
今のナガンは、ただの人間だった。
「少しは頼りなさいよ……」
声が小さく零れる。
「一人で全部やろうとしないで...」
返事はない。でも、それで良かった。今は聞かれたくなかったから。起きている時なら絶対に言えない。からかわれるのが目に見えている。だから今だけ、今だけは誰にも聞かれないような声で呟く。
「貴方が助けてくれたのは嬉しいけど……心配したんだから」
指先がもう一度、髪を撫でた。さらり、と髪が流れる。
ナガンの呼吸は少しずつ落ち着いていた。さっきまでの浅い呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。それを見て、シノンも僅かに肩の力を抜く。
洞窟の外では風が吹いている。デスガンはまだいる。全部が終わったわけじゃない。次に立ち上がった時には、また戦わなければいけない。それは分かっていた。
でも今この瞬間だけは、シノンは自分でも気付かないほど穏やかな表情で、ナガンの頭をそっと撫で続けていた。起きていたら絶対にできない。軽口を叩かれる。それが分かっているから、今だけ許した。
今だけ、自分に許してやった。
キリトは気付いていたかもしれない。だが振り返らなかった。優しい気遣いなのか、単純に警戒で手が離せないのか。どちらでも構わなかった。
砂漠の風が洞窟の入口を抜けていく。
乾いた、静かな音だった。
ナガンが起きた時、シノンが名残惜しそうな顔をしていたのをキリトは感じ取っていた。湿った空気の中、誰もすぐには口を開けない。
そんな沈黙を最初に破ったのは、キリトだった。
「いやぁ……その……」
口元を押さえながら、肩を震わせている。明らかにニヤついていた。
「お前ら、思ったより重かったな……?」
シノンの顔が一瞬で赤くなる。
「う、うるさい!!」
「いやだってさぁ!?“好きな人に死んでほしくない”とか、“隣にいたい”とか、もう完全に――」
「キリト」
ナガンが低い声で遮る。その声音に、キリトが「ん?」と顔を向けた。
ナガンは壁に背を預けたまま、どこか面倒臭そうに頭を掻いた。
「お前、俺を茶化そうとしてるけどさ」
「いや別に茶化しては――」
「確かお前、血盟騎士団の副団長……《閃光》のアスナって人と結――」
「わーーーーーーッ!!!!!!」
洞窟が揺れるほどの大声だった。キリトが凄まじい勢いで叫び、ナガンの言葉を強引にかき消す。シノンがびくっと肩を震わせた。
「待て待て待て待て!!なんで知ってんだお前!?」
「いや、有名だろ」
ナガンは平然としていた。
「SAO帰還者関連の掲示板とか記事漁ってたら普通に出てくる。黒の剣士と閃光の関係とか、結構ネットで有名だぞ」
「やめろ!!その単語を並べるな!!」
キリトの顔がみるみる赤くなる。さっきまで余裕ぶっていた男とは思えない動揺だった。ナガンは鼻で笑う。
「俺を茶化そうなんざ、百年早ぇんだよ」
「ぐっ……!」
完全に形勢逆転だった。
シノンは思わず涙の残る顔のまま、小さく吹き出してしまう。さっきまであれだけ泣いていたのに、今のやり取りが妙におかしかった。キリトは悔しそうに顔をしかめる。
「くそっ……なんでお前そういう無駄知識だけ豊富なんだよ……」
「銃だけじゃなく、ネットも漁るタイプなんでな」
ナガンは肩を竦めたが、その軽口も長くは続かなかった。ふと、ナガンの表情から笑みが消える。洞窟の空気が少しだけ冷えた。
「……で、本題だ」
その一言で、場の空気が切り替わる。キリトも表情を引き締めた。ナガンは膝に肘を置きながら、静かに続ける。
「俺は正直な話、デスガンが握る銃にカラクリがあるとは思えない」
「え?」
シノンが思わず聞き返した。
「仮に、奴が握った銃だけ特別になるなら……それは致命的なバグだろ」
洞窟に響く低い声は論理を一つずつ積み上げるような口調だった。
「そんなもんが本当に存在するなら、運営がとっくに対処してる」
GGOは今年サービス開始されたばかりだが、既にプレイヤー人口は爆発的に増加している。大型VRMMOとして急速に知名度を広げ、多くの企業やスポンサーも関わっている。
そんなゲームに――“撃たれたら現実で死ぬ銃”。
そんなものが存在した場合、どうなるか。
「大問題どころじゃ済まない」
ナガンは静かに言った。
「企業側からしたらサービス終了レベルの致命傷だ。そんな危険なバグ、放置する理由がない」
シノンは息を呑む。もし本当にゲーム内部の武器そのものに問題があるなら、もっと前から騒ぎになっているはずだ。大量の被害が出ていてもおかしくない。
「逆に、元々《黒星》にそんな効果があるなら……もっと死んだプレイヤーがいてもおかしくない」
「……」
その言葉には強い現実味があった。
《黒星》が本当に“ゲーム内効果として人を殺せる武器”なら、使用者がデスガン一人だけで終わるはずがない。
もっと前から被害が出ている。
もっと噂になっている。
もっと運営が騒いでいる。
だが現実は違う。死んでいるのは、デスガンが狙ったプレイヤーだけだ。
つまり――。
「現実側に、何かあるって事か……」
キリトが低く呟いた。
その瞬間、場の空気がさらに重くなる。
ゲーム内だけでは完結しない。
現実と繋がっている。
そう考えた瞬間、“死銃”という存在が急激に生々しさを帯び始めた。シノンは無意識のうちに、隣のナガンの腕を抱いていた。びくりと小さく肩を揺らし、自分でも気づいていなかったことに遅れて気づく。
だが、離せなかった。
もし本当に現実側に何かあるのなら。
もしこの事件が、ゲームの枠を超えているのなら。
ナガンもまた、命を狙われる側に立っている。
その事実が、シノンの胸を強く締め付けていた。ナガンは抱きつくシノンを一瞥したが、振り払わなかった。代わりに視線を洞窟の暗闇へ向ける。その目は、既に次の戦いを見据えていた。洞窟の中に落ちた沈黙は重かった。湿った岩肌を伝う水滴の音だけが、やけに大きく聞こえる。キリトは腕を組んだまま俯き、険しい表情で思考を巡らせていた。そして――ゆっくりと顔を上げる。その黒い瞳には、確信に近い光が宿っていた。
「……デスガンは、二人いるんだ」
シノンが息を呑んだ。
「一人目……つまり、あのぼろマントのアバターがゲーム内でターゲットを撃つ」
デスガンの姿が脳裏に蘇る。黒いローブ、骸骨のような不気味な顔、そして、あの異様な存在感。
「あいつが《死銃》を撃つのと同時に――」
キリトの表情がさらに険しくなる。
「現実世界のターゲットの部屋に侵入した二人目が、ログイン中で無抵抗のプレイヤーを殺す」
シノンの顔から血の気が引く。
「そんな……どうやって……」
現実世界で人を殺す。その言葉が、ゲーム内の恐怖とはまるで違う生々しさを持って胸に突き刺さる。ナガンはゆっくり息を吐いた。
「....住所入力か」
その瞬間、キリトが小さく「ああ」と呟く。シノンが二人を見比べた。ナガンは壁に背を預けたまま、どこか納得したような顔をしている。キリトも同じ考えに辿り着いていたらしい。
「おそらく、BoBのエントリーだ」
ナガンが淡々と口を開く。
「上位入賞者にはリアル景品が出る。だから配送先の住所入力が必要になる」
シノンは目を見開いた。BoBの優勝賞品。それは単なるゲーム内アイテムではない。現実で受け取れるモデルガンや周辺機器など実物の景品だ。
「つまり、運営側は住所データを持ってる。問題は、それをどうやって盗み見るかだ」
そこでシノンは眉を寄せた。
「でも……無理じゃない?GGOの運営ってアメリカ企業でしょ?個人情報関連はかなり厳しいはずよ」
彼女の疑問は当然だった。 VRMMO業界において、個人情報流出は企業にとって致命傷だ。ましてGGOほどの規模になれば、セキュリティ対策も徹底されている。大量のプレイヤー情報を、誰にも気づかれず覗き見る。そんなことが本当に可能なのか。だが、キリトは静かに首を横に振った。
「……完全なハッキングじゃない」
「え?」
「盗む必要すらないのかもしれない」
そう言って、キリトはある単語を口にした。
「《メタマテリアル光歪曲迷彩》」
シノンの表情が変わる。GGOでも極めて希少な高性能迷彩装備。背景光を歪めることで、一定距離からほぼ透明化する特殊装備だ。
ナガンも目を細めた。
「透明化して運営施設に入り込むって事か」
「ああ」
キリトが頷く。
「内部の端末を直接覗く」
シノンが息を呑む。
「そんな……」
だが理屈は通っていた。システムを突破する必要はない。権限を奪う必要もない。透明化した状態で、社員の背後からモニターを覗き込めばいい。
そこに表示された本名。
住所。
配送先。
全て読み取れる。
「双眼鏡とか望遠機材があれば……距離があっても確認できる」
キリトの声が低くなる。
「それならログにも残らない。ハッキング痕跡もない」
シノンの背筋に冷たいものが走った。
それはもうゲームではない。現実の犯罪者だ。しかも、計画的で、慎重で、異常な執念を持った相手。洞窟の暗闇が急に不気味さを増したように感じる。シノンは無意識にナガンの腕を抱き寄せていた。もしこの仮説が正しいなら。デスガン達は、現実世界でプレイヤーを狙っている。
つまり――ナガンも、標的になる可能性がある。その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が強く締め付けられた。ナガンはそんなシノンを横目で見た後、静かに洞窟の奥へ視線を向ける。
その目は鋭く細められていた。
「……だとしたら、厄介だな」
ゲームの敵ではなく、現実で人を殺す相手。その事実を、三人はようやく真正面から理解し始めていた。
「……でも、おかしいわ」
震える声で、シノンは言った。どうしても認めたくなかったのだ。ゲーム内の事件ではなく、現実で人が殺されているなど――だから彼女は、必死に反証を探した。
「仮に現実世界の住所が分かったとしても……侵入するのに鍵はどうするの?家の人とかは……?」
縋るような問いだったが、キリトの表情は変わらない。むしろ、その疑問を待っていたかのように静かに答えた。
「ゼクシードとたらこの例に限って言えば、二人とも一人暮らしだった」
洞窟の空気が重く沈む。
「住んでたのも古いアパートだ。多分、ドアの電子錠もセキュリティの甘い初期型だろう」
「……」
シノンの喉が小さく鳴る。
キリトは続けた。
「それに、標的がGGOにダイブしてる間は、生身の体は完全に無意識状態なのが保証されてる。多少侵入に手間取っても、気付かれる心配はない……」
その説明は、妙に現実味があった。住宅の鍵が、車のような電波式キーレスエントリーに置き換わり始めたのはここ数年のことだ。物理的なピッキングこそ困難になった。だが、その代わりに別の脆弱性が生まれている。キリトは低い声で説明を続けた。
「初期型の電子錠は、マスター電波が解析されたってニュースになってた」
「マスター……電波……?」
「簡単に言えば、万能キーみたいなもんだ。それを組み込んだ違法解錠装置が、ブラックマーケットで高額取引されてるらしい」
シノンの背筋に冷たいものが走る。
現実だ。
これは、ただの推理じゃない。
現実で起こり得る犯罪の話だ。
キリトはさらに続けた。
「あのぼろマントが、試合中に十字を切ってたろ」
「あ……」
シノンの脳裏に、デスガンの不気味な動作が蘇る。
黒衣の腕を胸元に当て、ゆっくり十字を描く異様な仕草。
「あれは観客への演出だけじゃない」
キリトの声が低くなる。
「腕時計を確認する動作のカモフラージュだったのかもしれない」
洞窟の空気がさらに冷えた。
「現実側の共犯者と、“犯行時刻”を厳密に合わせる必要があるからな」
シノンの指先が震える。
キリトはそこで視線を二人へ向けた。
「ナガン、シノン。二人は一人暮らしか?」
ナガンは即答した。
「俺は実家暮らしだ。今日も家にジジイとばあちゃん、それと母親がいる」
その言葉に、キリトが小さく頷く。少なくともナガンの現実側は、簡単に侵入できる状況ではない。
「鍵は?」
「電波ロックと、シリンダー錠」
「二重か」
「ああ。元々は電子ロックだけだったが、親父が“デジタルの時代だからこそアナログが役立つ”とか言って後付けした」
少し皮肉っぽく笑うナガンだが、その何気ない備えが今は妙に頼もしく思えた。キリトは次にシノンを見る。
「シノンは?」
シノンの肩がびくりと震える。
「……一人暮らし」
その瞬間、空気が変わった。キリトの目が僅かに鋭くなる。
「鍵は?ドアチェーンは?」
「一応……電子ロックだけじゃなくて、シリンダー錠も掛けてある……でも」
声が小さくなる。
「鍵そのものは初期型の電子錠で……チェーンは……」
そこで言葉が止まり、嫌な汗が背中を伝う。
「……してない、かもしれない」
その瞬間、洞窟の空気が凍りついた。キリトは静かに息を吐く。
「そうか。いいか、落ち着いて聞いてくれ。廃墟スタジアム近くで、死銃は麻痺した君をあの拳銃で撃とうとした」
その声色は、もう完全に現実の危機へ向けたものだった。
「あのロボットホースで俺たちを追ってる時に、実際に撃った」
あの銃声と不気味な黒い拳銃。
《黒星》。
「あれはつまり……準備が完了してるって事だ」