名前のない距離の隣で   作:レゾリューション

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このゲームにおいて最も困難で、何よりも望んでいる結末

 

キリトは、はっきりと言った。

 

「今この瞬間、現実世界の君の部屋にデスガンの共犯者が侵入していて——」

 

その一言ごとに、シノンの顔から血の気が消えていく。

 

「大会中継で、君があの銃に撃たれるのを待ってる可能性がある」

 

言葉が、ゆっくりとシノンの意識へ浸透していく。理解した瞬間、全身が凍りついた。

 

「あ……」

 

呼吸が浅くなり胸が締め付けられる。現実の部屋に暗い室内と自分の無防備な身体。そこへ誰かが侵入している光景が、脳裏に浮かんでしまう。

 

「あ……ああ……」

 

恐怖が一気に押し寄せた。考えるな、と思っても止まらない。ゲームの中にいる自分と、現実に横たわる自分が同時に存在している。その事実がこれほど恐ろしく感じたことは、今まで一度もなかった。

 

だが、その瞬間。

 

「落ち着け、シノン!!」

 

洞窟に響く低い声。ナガンだった。強く、はっきりとした声。その声だけで、シノンの意識が引き戻される。

 

気づけば彼女は、反射的にナガンへ抱きついていた。震える腕で、彼の身体を強く掴む。ナガンは振り払わなかった。代わりに、落ち着かせるように静かな声で続ける。

 

「奴が十字を切って、《黒星》で撃たない限り、侵入者はターゲットに何もできない」

 

シノンが涙目のまま顔を上げる。ナガンは冷静だった。戦場で状況整理をする時の目だった。

 

「それが、“確実に人を殺す”ために奴らが課した制約だ」

 

キリトも頷く。

 

「もし好き勝手に殺せるなら、こんな演出は必要ない」

 

「撃たれたプレイヤーは死ぬ——その特別感を維持するためだ。逆に誓約を破れば《死銃》の神秘性は崩れる。薄っぺらな嘘だった事をバラすようなもんだ」

 

ただの殺人犯になる。ゲーム内で撃たれたから死ぬ、という恐怖の演出が消える。それを奴らは理解しているから、勝手には動けない。

 

「だから、今すぐ殺される可能性は低い」

 

ナガンが断言した。その声に、シノンの震えが少しだけ収まった。冷静な分析だった。感情を排除して、状況の論理だけを見ている。こういう時のナガンは、誰より頼りになる。だが、キリトは険しい顔のままだった。

 

「……ただし」

 

その一言で、再び空気が張り詰める。

 

「心理異常や体温異常で自動ログアウトした場合は別だ」

 

シノンの顔が強張る。

 

「侵入者の顔を見られる可能性があるからな」

 

三人の間に、重い沈黙が落ちた。洞窟の奥で、水滴が岩肌を伝い落ちる音が響いた。小さな、ほんの些細な音だった。なのに今この瞬間、その音だけが異様に大きく聞こえた。

 

シノンはナガンの胸元を掴んだまま、動けなかった。現実とゲームが、こんな形で繋がってしまうとは思っていなかった。ゲームの中で戦い、現実の身体が危険に晒される。その二重の恐怖が、じわじわと全身に広がっていく。

 

 

しかし《BoB》の戦場は、彼らに一息つく時間すら与えてはくれない。決勝戦はすでに最終盤。生存者は片手の指で数えるほどに削り取られ、次の接敵が間違いなく、この悪夢の最後を飾る決戦になる。その張り詰めた沈黙を切り裂くように、キリトが静かに口を開いた。

 

「そろそろ、決着をつけよう」

 

短い一言だった。だが、その声の響きだけで、これが最後にして唯一の作戦会議なのだと、その場にいる全員が瞬時に理解した。ナガンは冷たい岩壁に背を預けたまま、小さく息を吐き出す。疲労は、澱のように身体の奥底へ沈殿していた。

 

先ほどのデスガンとの凄絶な狙撃戦の代償は重い。右肩には未だにシャイタックの激しい反動の痺れが残り、酷使し続けた精神はこめかみの奥を鈍く疼かせていた。

 

視線を落とせば、愛銃《シャイタックM200》のレシーバー上部で、あるべきスコープが無残に引きちぎられ、傷ついたマウントレールが虚しく剥き出しになっている。

 

狙撃手として、これ以上ないほどに追い詰められた状況。だが、黒い前髪の奥から覗くナガンの瞳だけは、濁ることも、光を失うこともしていなかった。 

 

「まず、俺が闇風を片付ける」

 

そのハスキーな声に、キリトとシノンが同時に顔を上げた。ナガンは二人の視線を受け止め、淡々と先を促すように続けた。

 

「その後に、デスガンをシノンと俺で、別方向から挟んで仕留める……どうだ?」

 

洞窟の中に、再びしんとした静寂が戻ってきた。極めて単純。ゆえに、一切の無駄を削ぎ落とした現実的な作戦だ。どれほど異常な反射神経を持つデスガンであっても、異なる二つの角度から同時に一撃必殺級の大口径弾を放たれれば、いかにして躱す術もない。

 

 

だが、シノンは即座に眉の根を詰め、拒絶を孕んだ視線をナガンに向けた。

 

「待って。闇風は、極限まで俊敏性を高めたAGI特化のプレイヤーよ? 今のあなたじゃ……」 

 

シノンはそこから先の言葉を、辛うじて喉の奥に踏みとどまらせた。心配だった。隠しようのない焦燥が、彼女の華奢な肩を微かに震わせている。闇風は一筋縄でいく相手ではない。あの異常な超高速戦闘は、GGOでも最高峰の領域にある。それに対して今のナガンは、先ほどまでシノンが肩を貸さなければまともに歩くこともできなかったほどの満身創痍だ。

 

そんな身体で、目にも留まらぬ速さで駆け抜ける標的を狙うなど、正気の沙汰とは思えなかった。しかし、ナガンはただ、痛む肩を小さく竦めてみせるだけだった。

 

「ノースコープでも、十分に狙い撃てる」

 

シノンは息を呑み、言葉を失う。確かに、目の前の男ならやってのけるかもしれない。スコープを奪われ、どんなに追い詰められようと、ナガンはこれまで何度も常識の外側にある弾道を現実のものとして見せてきたのだから。

 

だからこそ、余計に腹が立った。

 

これほどの限界状況にありながら、平然と無茶を通そうとするその身勝手さが、たまらなく癪に障る。キリトは頬を掻きながら、呆れたような苦笑を浮かべていた。

 

「お前、本当に無茶苦茶だな」

 

「今更だろ」

 

「はは、確かにそれもそうか」

 

二人の緊張感に欠けるやり取りに、シノンは大きくため息をついた。自覚がないのではない。己の限界を理解した上で、その限界の境界線を超えようとしているのだから、これほど質の悪いものはない。

 

 

ひとしきり笑みを零した後、キリトの表情がふっと真剣なものへと引き締まった。その黒い両目が、まっすぐにナガンの眼差しを射抜く。

 

「分かった……でも、絶対に死ぬなよ」

 

一瞬、ナガンの目がわずかに細められた。それは冗談でも、ただのゲーム的な警告でもなかった。重く、確かな温度を持った、本気の懇願だった。それは、今まさに同じ地獄を踏み越えようとしている「仲間」への、そして「友人」としての、切実な祈りだった。

 

ナガンは小さく鼻を鳴らし、はぐらかすように言った。

 

「ゲームだぞ」

 

「そういう意味じゃないのは、分かってるだろ」

 

即座に、かつ静かに返される。その言葉の奥に潜む、現実世界の『死』という絶対の重みを感じ取り、ナガンはわずかに視線を逸らした。

 

「……善処する」

 

「それ、全然信用できない返事ね」

 

今度は、シノンの冷ややかな声が重なった。不機嫌そうに尖らせた唇。だが、そのサファイアのような青い瞳の奥には、隠しきれない揺らぎと、必死の温もりが滲んでいる。彼女はまっすぐにナガンを見据え、言い聞かせるように呟いた。

 

「一人で死ぬなんて、絶対に許さないから……」

 

掠れた、しかし静かに心臓を叩くような声だった。激しい感情を爆発させたわけではない。ただ、その静謐な言葉は、ナガンの胸の奥深くにある頑なな領域へ、不思議なほど容易く染み込んでいった。

 

ナガンは、微かに目を見開いた。そんな表情を向けられるとは、夢にも思っていなかったのだ。しばらくの間、言葉を失って彼女を見つめていたが、やがて、諦めたように眉根を緩めて苦笑した。

 

「随分と勝手な言い分だな」

 

「そうよ」

 

シノンは逸らすことなく、その視線をしっかりと受け止めた。

 

「でも、約束して」

 

「……分かったよ」

 

ナガンが短く、しかし確かな誓いを口にすると、シノンはわずかに安堵したように、小さく息を吐いた。男は溜め息混じりに、傷ついたシャイタックを愛おしげに撫で、話を元へと引き戻す。

 

「でだ。デスガン討伐はどうする? 具体的な案はあるのか」

 

その問いに、キリトは迷いのない目で答えた。

 

「こうしよう。次のサテライト・スキャンが始まったら、俺だけがわざと開けた場所に出て、マップに自分の位置を表示させる。死銃を引きずり出すんだ。あいつはまず、遠距離からライフルで俺を狙うはずだ。その銃撃をきっかけにあいつの位置を特定して、シノン達が撃つ。それでどうだ?」

 

 

「自分を囮にして観測手をやろうってのか……?」

 

あまりにも無謀で、かつ実戦的なアイデアに、ナガンは呆れを通り越して小さく口角を上げた。だが、三人のビルド――超近接の剣士と、二人の超遠距離狙撃手――という極端な構成を考えれば、これ以上に効率的な戦術はないのも事実だった。近距離型と遠距離型が固まっていては、お互いの強みを殺し合うだけだ。

 

 

決戦の時は、もうすぐそこまで迫っている。死を撒き散らす不気味な骸骨《デスガン》。超高速の機動力を持つ《闇風》。そして、この決勝の地に残る、数少ない生き残りたち。すべてを終わらせるための戦いが、始まろうとしていた。

 

だが、少なくとも、この暗い洞窟の底にいる三人は、誰一人として脱落することなく、同じ未来を見据えていた。

 

全員で生き残る。

 

それこそが、このゲームにおいて最も困難で、何よりも望んでいる結末だった。

 

 

作戦の確認は終わった。だが、洞窟の出口へ向かおうとしていたキリトが、不意にその場に立ち止まる。何かを考え込むように、黒い前髪の奥で眉をひそめていた。

 

「どうしたの? もう作戦変更してる時間はないわよ」

 

シノンが冷ややかに、しかしどこか急かすように促すと、キリトは我に返ったように視線を上げた。

 

「いや……作戦はそのままだ」

 

キリトはポリゴン光の眩しさに細めた目を向け、どこか釈然としない苦笑を浮かべる。

 

「そうじゃなくて……結局、デスガンの本名っていうか、正式なキャラネームは《スティーブン》だったんだな、って思ってさ」

 

「ああ……」

 

シノンもその言葉に、小さく頷いた。あの不気味な《死銃》のものとおぼしき名前。

 

「そういうことになるのね」

 

シノンは淡い光を放つホログラムウィンドウに視線を落とし、微かに目を伏せる。

 

「どういう意味でつけた名前なのかな……」

 

それは、張り詰めた決戦前の空気を和らげるための、たわいもない疑問のはずだった。だが、その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、ナガンの胸の奥に、ざらりとした違和感が引っかかった。

 

「……」

 

ナガンは黙って空間をスワイプし、自身のメニューウィンドウを展開した。視線を滑らせBoBの参加者一覧を表示する。そこに並ぶ味気ない文字列。その中から、問題のアルファベットを探し出した。

 

――《Sterben》。

 

その7文字を目に収めた瞬間、記憶の底に沈んでいた、とある退屈な光景が不意に浮かび上がった。大学の講義室の、冷房の効きすぎた部屋で、気怠そうに教壇に立っていた第二外国語の老教師が授業の本筋とは関係のない、生気のない雑談のような説明。だが、その冷徹な響きだけが、なぜか奇妙に脳裏に焼き付いていたのだ。

 

――Sterben。

 

ナガンは無意識に眉間を険しく歪めていた。

 

(悪趣味にも程があるな……)

 

腹の底から、嫌悪が這い上がってくるのを感じた。

 

「……物騒極まりない名前だな」 

 

吐き捨てるような、低い呟きに、シノンが怪訝そうに首を傾げた。

 

「え?」

 

キリトもまた、暗闇の中でナガンの方へと視線を向ける。

 

「ナガン、何かわかったのか?」

 

「あぁ」

 

ナガンは目の前のウィンドウを乱暴に払いのけ、二人を見据えた。

 

「お前らが言ってる《スティーブン》ってのは、英語表記じゃない」

 

キリトとシノンが、暗い洞窟の中で互いに顔を見合わせる。ナガンは凍りつくような冷気を孕んだ声で、淡々とその事実を突きつけた。

 

「ドイツ語だ」

 

その一言で、洞窟を満たしていた空気の密度が、目に見えて変わった。シノンの肩が、びくりと小さく強張る。

 

「ドイツ語……?」

 

「そして、その意味は――」

 

ナガンは、あえてわずかな空白を置いた。その狂った文字列を、自らの口でなぞること自体が、吐き気を催すほど不快だったからだ。

 

「『死』、あるいは『死ぬ』だ。医学の世界じゃ、患者が亡くなることを指す隠語にも使われてる」

 

洞窟のなかの時間が、完全に停止した。

 

「……ッ!?」

 

シノンが小さく息を呑み、喉を鳴らす。キリトは、まるで存在しない亡霊の姿をそこに見たかのように、驚愕に目を見開いていた。

 

「死……?」

 

「正確には『死に至る』という動詞だった筈だ。つまり、奴は最初から、その意味を理解してその名前を選んでることになる」

 

ナガンの説明は、ただの推測を超えた生々しさを持って響いた。偶然の類似ではない。こじつけでもない。デスガン。そして、《Sterben(ステルベン)》。自身を『死』そのものと定義し、他者に死を撒き散らす死神。その歪んだ自己顕示欲のすべてが、その綴りに込められていた。

 

バラバラだったパズルのピースが、ひとつの最悪な絵を形作っていく。

 

「そんな名前を、最初から……」

 

シノンの声は、怯えを押し殺すように掠れていた。キリトもまた、拳を硬く握りしめ、苦渋に満ちた表情で地面を睨みつけている。

 

「最初から……人を殺すために、あの男はここに現れたのか……」

 

「そうだろうな」

 

ナガンは短く、吐き捨てるように応じた。彼の相好に浮かんでいるのは、純然たる嫌悪感だった。祖父から叩き込まれた、銃に対する敬意。銃に振り回されるなという教え。命を奪う道具だからこそ、扱う者にはそれ相応の覚悟と理性が求められる。人を殺すことに酔い、死そのものを誇示して悦に入るような手合いは、射手として、何より人間として、絶対に相容れない。

 

ナガンは闇の向こうの出口を見据え、冷静に、しかし確かな怒りを込めて言った。

 

「少なくとも、まともな奴が名乗る名前じゃない。一刻も早く、あのふざけたマントを叩き割る」

 

「あぁ」

 

「もちろん」

 

その言葉に、誰も反論しなかった。重苦しい沈黙が洞窟を支配する。サテライト・スキャンまで、残り30秒。本当の悪夢を終わらせるための、決戦の時が、すぐそこに迫っていた。

 

 




遂に最終決戦!

番外編という形で劇場版の『オーディナル・スケール』を読みたいですか?※もし書くとなった場合更新が遅くなるかも知れません。

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