名前のない距離の隣で   作:レゾリューション

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今回は超長いです。


完全なるフレンドリーファイア

助手席から降りた詩乃が、レトロな佇まいのビルの前で足を止め、怪訝そうに眉をひそめた。

 

「……ここ?」

 

「ナビによると、ここで間違いないな」

 

悠也はそう言って短く頷く。しかし、2人が店の入り口へと歩み寄ったとき、扉に掛けられた木製の看板は無常にも『Closed』の文字を夕暮れの光に晒していた。

 

「閉まってるな」

 

「閉まってるわね」

 

悠也は手際よくスマートフォンを取り出し、キリトへコールを掛けた。数秒のコールの後、相手が出たかと思うと、悠也は「あ、俺だ。店の前にいるんだが……あぁ、そうか」とだけ言って通話を切った。

 

「貸し切りだから入って良いらしいぞ」

 

そう言うなり、悠也は何の躊躇もなく、鍵の閉まっていない重いドアをぐいと押し開けた。

 

「ちょっと、躊躇ないのね……」

 

詩乃が呆れたように小さく呟く。かららん、という軽やかなベルの音に続いて、店内からはスローテンポなジャズが流れてきた。焙煎された香ばしいコーヒーの香りに誘われるようにして、詩乃もまた悠也の背中に続いて店内に足を踏み入れた。

 

オレンジ色のランプに照らされた、穏やかな板張りの店内。そこには何とも言えない独特の暖かみが満ちていて、知らず知らずのうちに身構えていた詩乃の肩から、すっと力が抜けていくのが分かった。

 

「いらっしゃい」

 

見事なバリトンボイスでそう出迎えたのは、カウンターの向こうに立つ、チョコレート色の肌をした男だった。歴戦の兵士を思わせる屈強な相貌と、ツルツルのスキンヘッドはなかなかの迫力だが、真っ白なシャツの襟元に結ばれた小さな蝶ネクタイが、どこかユーモラスな印象を添えている。

 

 

店内には、すでに3人の先客がいた。カウンターのスツールに腰掛けているのは、学校の制服を着た女の子たちだ。彼女たちのブレザーの柄が、キリトこと桐ヶ谷和人の制服と全く同じであることに、詩乃はすぐに気がついた。

 

「もう!待ってるあいだにアップルパイ二切れも食べちゃったじゃない。これで太ったら完全にキリトのせいだからね!」

 

「な、なんでそうなるんだよ。リズが勝手に頼んで食ったんだろ?」

 

頭を掻きながら反論しているキリトの横で、わずかに茶色がかったストレートヘアを背中の中ほどまで伸ばした女の子が、2人のやり取りをニコニコしながら眺めていた。彼女はすとんと床に降りると、慣れた様子でその喧嘩の間に割って入った。

 

「それより、早く紹介してよ、キリトくん」

 

「あ、ああ……そうだった」

 

キリトに手招きされ、悠也と詩乃は店の中央へと進み出た。初対面の相手と接するとき、どうしても胸の奥から這い出てくる緊張と怯えをぐっと押し殺し、詩乃はぺこりと頭を下げた。対照的に、悠也はいつも通りのスタンスを崩さない。

 

「こちら、ガンゲイル・オンラインの第三回BoBチャンピオン――シノンこと朝田詩乃さんと、ナガンこと真下悠也さん」

 

「いえーい」

 

悠也のあまりにもやる気のない、ぴーすと気の抜けた「いえーい」という挨拶に、詩乃は思わずその場で吹き出しそうになった。緊迫した戦場での彼を知っているからこそ、この現実世界での脱力っぷりには調子を狂わされる。

 

キリトは苦笑しながら、先ほどまで自分と口論していた、威勢の良さそうな栗色の髪の女の子を指さした。

 

「こっちが、ぼったくり鍛冶屋のリズベットこと篠崎里香」

 

「このっ……!誰がぼったくりよ!」

 

またしても気色ばむ里香という少女の反撃を、キリトは慣れた動作でさらりとかわし、もう一方の女の子に左手を向けた。

 

「んで、あっちがバーサク治療師のアスナこと結城明日奈」

 

「ひ、ひどいよー、キリトくん」

 

不名誉な二つ名に抗議しつつも、明日奈と呼ばれた少女は微笑みを絶やさなかった。彼女は透明感のある綺麗な瞳で真っ直ぐに詩乃を見つめると、ふわりとした上品な動作で会釈をした。

 

「そんで、あれが……」

 

キリトは最後に、カウンターの奥でグラスを拭いている巨漢のマスターに向かって顎をしゃくった。

 

「壁のクラインとエギル」

 

「おいおい、オレは壁かよ!?だいたい、オレにはママからもらった立派な名前があるんだ!」

 

驚いたことに、この強面なマスターまでもがVRMMOのプレイヤーらしい。巨漢はニヤリと豪快な笑みを浮かべると、分厚い胸板に右手を当てて言った。

 

「はじめまして。アンドリュー・ギルバート・ミルズです。今後ともよろしく」

 

名前のところだけが見事なネイティブ英語の発音で、あとの部分が完璧すぎる日本語だったため、詩乃は思わず目をぱちくりとさせて瞬きをした。慌てて、もう一度ぺこりと頭を下げる。

 

「まあ、座って座って」

 

キリトは2つある四人掛けテーブルの片方に歩み寄ると、椅子を引いた。詩乃、明日奈、里香の3人が腰を下ろすのを見届けてから、彼はカウンターのマスターに向かってパチンと指を鳴らした。

 

「エギル、俺はジンジャーエール。ナガン達は何飲む?」

 

「俺もキリトと同じやつを頼む」

 

悠也の言葉に、詩乃もすぐに乗っかった。

 

「私も」

 

「ふっ、ここのはカライぞ?」

 

エギルはニヤリと意味深に笑う。キリトはカウンターに向かって「じゃあ、3つ!」と言い添え、テーブルの上で両手を組み合わせた。

 

かつてのデスガン事件を戦い抜いた狙撃手たちと、かつての生還者たち。奇妙な縁で結ばれた彼らの、穏やかな時間が今、静かに始まろうとしていた。

 

 

「さて、それじゃ、日曜に何があったのかを、リズとアスナに簡単に説明するよ」

 

辛口のジンジャーエールで喉を潤したキリトが、真剣な面持ちで切り出した。そこからの時間は、まさに驚天動地の連続だった。BoB本大会のバトルロイヤルで起きた死闘、暗躍するデスガンの恐怖、そして現実世界へも伸びていた凶刃の手口――キリトが語る大筋に、悠也と詩乃が狙撃手側の視点から詳細を補填していく。

 

総務省の菊岡から聞かされた概要まで含めると、いくらダイジェスト版に縮めても、語り終えるまでに十分以上を要した。

 

「と、まあ、まだマスコミ発表前なんで実名とか細部は伏せたけど、そういうことがあったわけなのでした」

 

一気に話を締めくくると、キリトは完全に力尽きたように椅子の背もたれへと沈み込み、二杯目のジンジャーエールをぐいと飲み干した。

 

「あんたって、何て言うか……よくよく巻き込まれ体質ね」

 

壮絶すぎる内容にしばらく絶句していた里香が、ようやく頭を振りながら、深い溜め息混じりの感想を漏らす。だが、キリトはグラスを見つめたまま視線を伏せ、かすかに首を振った。

 

「いや……そうとも言えないよ。この事件は、俺の過去の因縁でもあったわけだから」

 

かつての《SAO》時代の影を背負う、キリトの少し重い言葉。店内にほんのりとシリアスな空気が流れかけた、その瞬間だった。

 

「いいや、一つ重大な事が抜けてる」

 

それまで静かにジンジャーエールを啜っていた悠也が割って入った。一同の視線が彼に集まる。悠也はキリトをじろりと一瞥すると、容赦のない「重要な事実」を付け足した。

 

「和人は俺と最初に出会ったとき、ネカマで誤魔化そうとしていた、という事が抜けてる!」

 

「ぶっ……!?」

 

不意を突かれたキリトが、危うく口の中の炭酸を吹き出しそうになって激しく咳き込んだ。隣に座る明日奈の動きが、ぴたりと止まる。彼女はゆっくりと首を巡らせると、長い髪を揺らしながら、これ以上ないほどに美しく、そして底冷えするような「満面の笑顔」をキリトへと向けた。

 

「キリトくーん?」

 

優しく響くその鈴のような声には、目に見えないほどのプレッシャーがこれでもかと乗っかっている。

 

「ち、違うんだ! アスナ! アレは不可抗力というか、システムが勝手にあのレアアバターを選んだだけで、俺にネカマの意図は微塵もなくて!」

 

椅子の脚をガタガタと鳴らしながら、キリトは両手を激しく振って必死の弁明を開始した。そんな相棒の哀れな大慌てっぷりを、悠也はジンジャーエールのグラス越しにニヤリと眺め、詩乃もまた「自業自得ね」とばかりに呆れた笑みを浮かべる。

 

先ほどまでの重苦しい空気はどこへやら、店内にはいつもの賑やかで、どこか騒がしい放課後の空気が一気に戻っていた。必死の形相で言葉をまくし立てるキリト。しかし、目の前の正妻の瞳からは完全にハイライトが消失しており、その背後には気のせいで片付けるにはあまりにリアルな阿修羅の幻影が浮かび上がりつつあった。

 

絶体絶命のキリトだが、カフェの過酷さはそれだけでは終わらない。冷徹なスナイパーの銃口は、すでに身内へと向けられていた。

 

「でもキリト、BoB本戦の待機時間で、男性プレイヤーに愛想よく手を振っていたじゃない」

 

シノンからの、寸分の狂いもない正確無比な「援護射撃」――否、完全なるフレンドリーファイアがキリトの脳天を直撃した。

 

「シ、シノン……っ!? 今ここで言う必要ある!?」

 

さらに悠也が楽しげに特大の燃料を投下する。

 

「あ、それ俺も見覚えあるわ。ロビーで黄色い歓声浴びて、まんざらでもない顔で応えてたよな」

 

「へぇ……男の人に、手を振って、ファンサービスまでしてたんだぁ……」

 

アスナの「満面の笑顔」が、物理的にじわじわとキリトの顔へと近づいていく。笑顔が近づくにつれて、店内の気温が急激に下がっていくような錯覚すら覚えるほどだ。

 

「ひっ……! ち、違うんだアスナ! あれは観客への……いや、女の子のフリをしておいた方が対戦相手を油断させられるっていうか、戦術的なカモフラージュで、俺の心がそっちに目覚めたわけじゃなくて――!」

 

キリトは椅子の脚をガタガタと派手に鳴らし、まるで壊れた扇風機のように両手を激しく振り回しながら、人生最大級の速度で必死の弁明を開始した。

 

もはや完全なパニック状態に陥っている黒の剣士を眺めながら、里香は「黒の剣士(笑)」と冷ややかにオレンジジュースを啜り、カウンターの奥ではエギルが「南無三……」と静かに胸の前で十字を切っていた。

 

「ナガン、シノン!頼む!誤解を解い……!」

 

涙目で命綱を求めてきたキリトに対し、二人の非情なスナイパーの反応は、ミリ秒単位で完全にシンクロしていた。彼らは助けを求める黒の剣士の存在を、網膜のレベルから完全にデリートしたのである。

 

「マスター、カプチーノってある?」

 

悠也がメニュー表を眺めながら、実に平然としたトーンで問いかけた。

 

「あ、私もお願い」

 

シノンもまた、流れるような動作でそれに便乗する。先ほどまで戦場で背中を預け合っていた戦友の絆は、キリトの社会的な死を前にして、驚くほどあっさりと霧散していた。

 

「はいよ」

 

カウンターの奥で、エギルがこれまた絶妙に空気の読んだマイペースさで、カプチーノのカップを温め始める。

 

「せめて、話を……!」

 

完全に孤立無援となったキリトが、絶望のあまり机に突っ伏しかけた、その時だった。

 

「キリトくーん?どこを向いてるのかなぁ?」

 

真横から、ゾクリとするほど滑らかな低音ボイスが鼓膜を震わせた。キリトが恐る恐る視線を戻すと、そこにはもはや背景にどす黒いオーラを背負った明日奈が、小首を傾げてこちらを覗き込んでいた。

 

その綺麗な瞳は一切笑っておらず、ただ静かに、有罪判決を下された罪人を観察するような光を宿している。

 

「あ、アスナさん……あの、本当に、GGOの件はただの不可抗力――」

 

「うん、うん、詳しいお話は、後でじっっっくり、お家で聞かせてもらうね?」

 

ガシッ、とキリトの肩に明日奈の細い手が置かれた。その華奢な指先から伝わってくる、およそリアルのものとは思えない STRの数値に、キリトはただ「ひぃ……」と情けない悲鳴を漏らすことしかできなかった。

 

その様子を、里香は「若さゆえの過ちね」と呆れ顔で見守り、悠也とシノンは運ばれてきた温かいカプチーノの泡を、実に満足そうにスプーンで突ついていた。

 

 

まさに、黒の剣士に終焉の鉄槌が下されようとした――その瞬間。

 

「なぁなぁ、悠也よ?」

 

奥のボックス席からジンジャーエール片手にぬっと現れたのは、いつの間にか店に馴染んでいたクラインだった。彼は明日奈の放つ一触即発のプレッシャーなどどこ吹く風で、悠也に向かって身を乗り出す。

 

「あの、外の駐車場に停まってるエボって、もしかしてお前の?」

 

「もちろん」

 

悠也がカプチーノを待ちながら得意気に答えると、クラインは頭を抱えて大袈裟にのけ反った。

 

「マジか!?リアルでアレ買えちゃうとか金あるなぁ!羨ましいぜちくしょう!」

 

「クラインはちゃんと働いてる社会人だろ?だったら少し貯めれば安いの買えると思うぞ」

 

大学生らしい素朴な疑問を投げかける悠也に対し、クラインは遠い目をして、深く、本当に深い溜め息を吐き出した。

 

「けどよぅ……社会人はな、休みの日は本当に『休みたい』人が多いんだよ……ドライブ好きな人にとっては大した事にはなんねぇけど.....洗車したり峠行ったりする体力が残らねぇんだ。俺も大学生の、あの時間だけは腐るほどあった時に無理してでも買っとけばよかったぜ……」

 

その言葉には、現役社畜としてのリアルな悲哀と重みがこれでもかと詰まっていた。あまりの哀愁漂うトーンに、キリトを問い詰めていたアスナの動きがピタリと止まる。

 

それどころか、当のキリトも、冷ややかに見守っていた里香も、さらにはカウンターの奥でカップを磨いていたエギルまでもが、クラインの一言に引っ張られるようにして、一斉に窓の外へと目を向けた。

 

オレンジ色の街灯に照らされ、怪しく黒に輝く車体。初代から数えて10代も続く、ラリーの血統を受け継いだモンスターマシン。モータースポーツ直系のこんな物騒なメカニズムの塊が、普通に一般販売されていたという事実のほうが驚きだった。

 

「……あれが」

 

明日奈の呟きに、キリトが「お、おう……めちゃくちゃ速そうだな……」と冷や汗を拭いながら同調する。クラインの社会人トークが炸裂したおかげで、キリトへの処刑タイムは、奇跡的かつ完全に有耶無耶へと消し飛ばされるのだった。

 

「頼む!悠也!一回だけ乗せてくれねぇか!?一回でもエボに乗ってみてぇんだ!」

 

「いいぞ、只々変な事はするなよ?」

 

「おうよ!それは約束するぜ!」

 

クラインがブンブンと勢いよく首を縦に振ると、その隣から「あたしも乗りたいー!」と里香が勢いよく挙手した。

 

「いいぞ」

 

悠也が快く快諾するのを見て、便乗せざるを得ないとばかりにおずおずと手を挙げた者がもう一人。

 

「あのー……出来れば俺も……」

 

いくら仮想世界で黒の剣士と恐れられていようが、中身はまだ男子高校生だ。目の前のスポーツカーに憧れるのも無理はなかった。しかし、悠也の返答は非情だった。

 

「いいぞ、トランクが空いてる」

 

「なんで、トランク!?人身売買かよ!?」

 

「悪いなキリト。この車は三人乗りなんだ」

 

「嘘つけ!アレ、4ドアだろ!」

 

「乗せるのはいいけど、お前はまだ、お話中だろ?」

 

「....あ」

 

キリトが恐る恐る隣を振り返ると、そこにはいつの間にか背後に背負った阿修羅のオーラを再起動させた明日奈が、無言で、しかし確実なロックオンの眼差しで彼を凝視していた。

 

現実世界での回避不能なデス・マッチはまだ継続中だったのだ。

 

わっと騒いでいた空気が、キリトの必死な苦笑いと、それを冷たく見つめる明日奈の視線によって、再びピリリと凍りつく。 

 

店内の喧騒がスッと凪いだ瞬間、アスナは、それまでクラインの戯言で和んでいた空気を一気に切り裂くような、鋭くも重い声を響かせた。彼女の表情からは先ほどまでの軽口が消え、深い憂いと覚悟が入り混じった、直視するのも躊躇われるような真剣さが浮かんでいる。

 

その変化を察したのか、悠也も詩乃も、ふざけていたクラインすらも自然と口を閉ざした。アスナはゆっくりと視線を巡らせ、悠也、そして隣に座る詩乃と目を合わせる。

 

 

 

「あのね、朝田さん……詩乃さん。今日、この店に来てもらったのには、もう一つ理由があるの。もしかしたら朝田さんには不愉快に感じたり……怒ったりするかもしれないと思ったけど、私たちは、どうしても……どうしてもあなたに伝えたいことがあるんです」

 

アスナのどこか張り詰めた、けれど確かな決意を秘めた声が、おだやかなカフェの空気を震わせた。

 

「理由……?私達が怒る?」

 

詩乃は視線を泳がせ、ますます意味が解らないといった様子で眉をひそめた。と、その時、彼女の左隣に座る桐ヶ谷和人が、こちらも重く、張り詰めた声を絞り出した。

 

「シノン、まず、君に謝らなきゃならない」

 

和人は本当に深く頭を下げた。それからゆっくりと上体を起こすと、長めの前髪の奥から、仮想世界でのあの漆黒の瞳と共通した、真っ直ぐで強い眼差しで2人をじっと凝視した。

 

「……シノンの昔の事件のこと、アスナとリズに話した。どうしても、彼女たちの協力が必要だったんだ」

 

「えっ……!?」

 

衝撃の告白に、詩乃の思考が真っ白に染まる。和人の言葉の後半は、もはや彼女の意識には届いていなかった。かつて自分が起こしてしまった、あの血塗られた過去の事件。それを他人に知られたという事実が、彼女の心を防衛本能で縛り付けようとする。

 

しかし、その張り詰めた空気を遮るように、隣に座る悠也が至って冷静な声で和人に問いかけた。

 

「何か理由があったんだな?」

 

冷徹なスナイパーのそれでありながら、どこか場を落ち着かせるための気遣いが含まれた悠也の言葉に、和人は深く頷いた。

 

「ああ、シノン。君が会うべき人に会っていない……聞くべき言葉を聞いていないと思ったからだ。君を傷つけるかもしれない、きっとそうだろうと思ったけど……でも俺は、どうしてもそのままにしておけなかった。だから、新聞社のデータベースで事件のことを調べて……電話じゃ取り合ってもらえないと思ったから、直接、あの事件のあった郵便局まで行って、お願いしたんだ。ある人の連絡先を教えて欲しい、と」 

 

「会うべき……ひと……?聞くべき、ことば……?」

 

詩乃が呆然とした様子でその言葉を繰り返す。

彼女の斜め前方で、和人と目配せを交わした篠崎里香が静かに立ち上がり、店の奥に見えるドアへと歩いていった。『PRIVATE』の札が下がるドアが開けられると、その奥から、一人の女性が姿を現した。

 

年齢は三十歳くらいだろうか。髪はセミロングで化粧は薄め、服装も落ち着いている。OLというよりは主婦のイメージのほうが強い女性だった。その印象を裏付けるように、トトト、と小さな足音が続けて響く。女性の後ろから、まだ小学校に上がる前だと思われる小さな女の子が元気に走り出てきたのだ。顔立ちがよく似ている、一目でわかる親子だった。

  

――会うべき人。

  

その親子の姿を見た瞬間、悠也の脳裏にある記憶がフラッシュバックした。以前、詩乃から聞いたあの事件の顛末。彼女は郵便局を襲った凶悪な強盗から、母親を守るために夢中で銃を奪い、引き金を引いた。彼女はそう語っていた。

 

(……もし、あの現場で狙われたのが、彼女の母親だけじゃなかったとしたら?)

 

悠也の鋭い観察眼と洞察力が、瞬時に一つの可能性を導き出す。あの時、あの極限の状況下で、強盗の男が銃口を向けていた人間が――詩乃の母親の他にもう一人いたとしたら。たとえば、目の前にいるこの女性のように、当時はまだお腹に小さな命を宿していたかもしれない、無抵抗な市民がそこにいたのだとしたら。

 

詩乃はこれまで、ずっと「人を殺してしまった」という罪悪感とトラウマの闇だけに囚われ続けてきた。しかし、その行為によって、もしかしたら。

 

(誰かを、救っていたんじゃないのか……?)

 

その仮説が脳裏に浮かんだ瞬間、悠也は静かに息を呑み、奥から歩いてくる親子と、未だに動揺を隠せない詩乃の横顔を、じっと見つめるのだった。

 

 

その女性は、呆然と座ったままの詩乃を見ると、なぜか泣き笑いを思わせる複雑な、けれどひどく温かい表情を浮かべて深々と一礼した。その隣に並ぶ小さな女の子も、母親の真似をしてぺこりと小さな頭を下げる。

 

ずいぶん長いことその姿勢のままでいたが、やがて里香に優しく促され、親子は店内をゆっくりと横切って、詩乃たちの座るテーブルの前までやってきた。

 

明日奈がそっと立ち上がり、正面の席に女性を、その隣に女の子を腰掛けさせる。カウンターの奥から、今まで静かに沈黙を守っていたマスターが無音の歩行でやってくると、母親の前には温かいカフェオレを、女の子の前には白いミルクのグラスを静かに置いて、また音もなく戻っていった。

 

こうして間近で見つめ合っても、やはり詩乃には相手が誰だか解らなかった。なぜキリトは、この女性が自分の「会うべき人」だなどと言うのだろう。彼は何かを勘違いしているのではないか――。

 

いや。

  

いや、違う。どこか……記憶のずっと深い底、暗闇の奥の方で、ちりっと小さな火花が弾けている。そんな奇妙な感覚が詩乃の胸を支配し始めていた。絶対に赤の他人のはずなのに、彼女はどうしてこれほど胸がざわつくのだろうか。 

 

女性が再び、深々と一礼した。続けて、かすかに震えを帯びた声で静かに名乗る。

 

「はじめまして。朝田……詩乃さん、ですね? 私は、大澤祥恵と申します。この子は瑞恵四歳です」

 

その名前にも、やはり詩乃には覚えがなかった。  

 

「私が東京に引っ越してきたのは、この子が産まれてからです。それまでは……市で」

 

続く一言を聞いた瞬間、詩乃の思考は完全に停止し、同時に全てを理解した。

 

「……町三丁目郵便局に、勤めていました」

 

「あ……」

 

詩乃の口から、掠れた吐息が漏れる。その場所は、朝田詩乃という少女の人生を狂わせ、凍りつかせた、生涯忘れるはずもない呪われた場所だった。

 

そしてその言葉は、傍らで静かに耳を傾けていた悠也の推測が、完全に的中したことを意味していた。 

 

あの日、あの瞬間。狂乱した強盗の男が、怯える詩乃の母親に銃口を向けた、まさにその直前。男に銃を突きつけられ、死の恐怖に身を縮めていた人間がもう一人いたのだ。

 

目の前にいるこの女性――大澤祥恵さんは、当時その郵便局の窓口で働いており、そしてその身体には、まだ産まれてもいない小さな命を宿していた。もし、あのとき詩乃が飛びかからず、男の銃弾が放たれていたら、どうなっていたか。女性の命だけでなく、そのお腹にいた瑞恵という少女の未来ごと無残に奪い去られていたに違いない。想像するのは容易かった。

 

「本当に、ごめんなさい……っ。私……もっと早く、あなたにお会いしなきゃいけなかったのに。あの事件のことが、どうしても怖くて、忘れたくて……。夫が転勤になったのをいいことに、そのまま逃げるように東京に出てきてしまって……」

 

祥恵さんの目尻から、堪えきれなくなった涙がすうっと零れ落ちる。

 

「あなたが、その後もずっと苦しんでらしてるなんて、少し想像すれば解ったことなのに……何の謝罪も……お礼すら言わずに、本当にごめんなさい……!」

 

隣に座る瑞恵という名の女の子が、泣き出してしまった母親を心配そうに、じっと見上げている。凍りついたように動けない詩乃の横で、キリトがこちらも震えを帯びた、けれど確かな強さを持った声で語りかけた。

 

「シノン。君はずっと、自分を責め続けてきた。自分を罰しようとしてきた。それが間違いだとは言わない。でも――君には、同時に、自分が救った人のことを考える権利もあるんだ。そう考えて、自分自身を赦す権利がある」

 

その言葉が、詩乃の胸の奥深く、これまで誰も触れられなかった硬い殻に、ひびを入れるように優しく響く。

 

すると、四歳だという女の子――瑞恵が椅子からトントンと飛び降り、小さな足取りでテーブルを回り込んで歩いてきた。祥恵さんが丁寧に編み込んだのだろう髪はつやつやと揺れ、ピンク色の頬はふっくらとして、大きな瞳はこの世の何よりも純粋な光を湛えている。

 

彼女は、幼稚園の制服らしいブラウスの上から斜めがけにしたポシェットに小さな手をやると、ごそこそと何かを引っ張り出した。

 

それは、綺麗に四つ折りにされた一枚の画用紙だった。それを不器用な手つきで一生懸命に広げ、詩乃の目の前へと差し出してくる。

 

クレヨンで一所懸命に描いたと思しき鮮やかな絵が、詩乃の目に飛び込んできた。中央には、髪の長い女性の顔。にこにこと笑うそれは、きっと母親の祥恵さんだ。右側には、三つ編みの女の子。自分自身だろう。左側の眼鏡をかけた男性は、父親に違いない。

 

そして、その幸せそうな家族の絵の一番上に、覚えたばかりなのだろう歪で、けれど力強い平仮名で、こう記されていた。

 

『しのおねえさんへ』

 

瑞恵ちゃんが小さな両の手で差し出すその絵を、詩乃は、自分の両手を震わせながら、壊れ物を扱うようにそっと受け取った。すると瑞恵ちゃんはにこりと無邪気に笑い、大きく息を吸い込んだ。そして、今日のために何度も、何度も一生懸命に練習してきたらしい、たどたどしい声で。この室内にいる全員の心に届くように言った。

 

「しのおねえさん、ママとみずえを、たすけてくれて、ありがとう」

 

その瞬間、詩乃の視界の全てが、堰を切ったように虹色の光に満たされ、激しくにじみ、ぼやけた。自分はただ人の命を奪っただけの、冷たくて恐ろしい怪物なのだと思い込んで生きてきた。けれど、違ったのだ。自分のあの震える両手は、確かに、この目の前にある温かくて、尊くて、純粋な未来を、この世界に繋ぎ止めていたのだ。

 

小さな、柔らかい手が、最初は恐る恐る、しかしすぐに、詩乃の震える手をしっかりと握り締めた。

 

涙が次から次へと溢れ出し、詩乃の頬を濡らしていく。キリトや明日奈、里香が、その様子を温かい涙を浮かべながら見守っている。そして、少し離れた席からその光景をじっと見届けていた悠也も、いつも通りのぶっきらぼうな表情のまま、けれどその切れ味の鋭い瞳の奥に、確かな安堵の光を灯していた。

 

ゲームの世界でも、現実の世界でも、必死に戦い抜いた一人の少女の魂が、今、長い暗闇から解き放たれ、本当の意味で救われた瞬間だった。

 

瑞恵ちゃんを愛おしそうに抱きしめ、涙を流す詩乃の姿を静かに見つめていた大澤さんは、やがてハンカチでそっと目元を拭うと、今度は少し離れた席に座る悠也の方へとまっすぐに視線を向けた。

 

突然の視線に、悠也はいつも通り表情を変えないまま、わずかに背筋を伸ばす。

 

「真下さん……とお呼びして、よろしいでしょうか」

 

「あ、はい。真下悠也です」

 

祥恵さんは椅子から少し身を乗り出すようにして、悠也に対して深く、深く頭を下げた。

 

「桐ヶ谷さんから、お話を伺いました。詩乃さんが一番辛かったとき、ずっと傍で、現実でもゲームの世界でも彼女の支えになってくださったと……本当に、ありがとうございます」

 

「いえ、俺は別に大したことは……」

 

「それから……」

 

祥恵さんは一度言葉を区切ると、痛ましそうに、そしてどこか申し訳なさそうに眉をひそめた。その瞳には、詩乃に向けたものとはまた違う、深い同情と謝罪の念が滲んでいる。

 

「真下さんご自身も、今回の件で辛い記憶を呼び起こさせてしまい、本当に申し訳ありません……!そして、そんな痛みを抱えながらも詩乃さんを救ってくださり、心から感謝いたします!」

 

彼女の言葉に、キリトや明日奈達も静かに悠也を見つめる。戦場を生き抜いたフィンランド人の祖父、そして今も日本の国防を担い引き金を託されている自衛隊の父。そのあまりにも無骨で特殊な血筋のせいで、悠也自身もまた、周囲の偏見や心無い言葉の刃に晒され、いじめの標的にすらなった苦い過去があった。

 

詩乃が抱えるものとは性質が違えど、彼もまた「銃」と「命」にまつわる暗い言葉に心を削られてきた一人だったのだ。だが、悠也は取り乱すことも、悲壮感を漂わせることもなかった。彼はふっと息を吐き、いつも通りの落ち着いた声で首を振った。

 

「最後まで立っていたのは彼女の方で俺は、ただ見ていただけです」

 

悠也はチラリと、涙の跡を残しながらもどこかすっきりとした表情をしている詩乃を見た。

 

「ゲームの大会でも、リアルで襲われたときも、恐怖に立ち向かって引き金を引いたのは彼女自身です。俺がやったのは、ちょっと横から邪魔が入らないようにガムテープを巻いただけの話で。彼女が自分自身の力で過去を乗り越えるのを、俺は眺めていただけですよ」

 

詩乃は涙を指先で拭いながら、おどけたように悠也を見つめた。大澤祥恵さんは、悠也のその真っ直ぐな言葉に救われたように、今度は心からの穏やかな笑みを浮かべて、「ありがとうございます」ともう一度深く一礼した。

 

カフェの窓から差し込む夕暮れ時の光が、テーブルを囲む全員の顔を優しく照らしていく。過去の傷跡が完全に消えることはなくても、その痛みを分かち合い、肯定してくれる仲間がここにいる。朝田詩乃にとっても、真下悠也にとっても、それは何物にも代えがたい、新しい未来への一歩だった。

 




おそらく次回で本編は最終回...もしかしたら今日中に投稿するかも...

番外編という形で劇場版の『オーディナル・スケール』を読みたいですか?※もし書くとなった場合更新が遅くなるかも知れません。

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