名前のない距離の隣で   作:レゾリューション

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遂に本編最終回!


最強のスナイパーコンビ

温かな奇跡に満ちたカフェでの集まりもお開きとなり、夜の帳が降りた都内を、黒色のエボⅩが滑るように走っていた。悠也は詩乃を自宅まで送る途中、道沿いのコンビニの駐車場に車を止め、短い休憩を挟んでいた。

 

「――あっという間だったわ」

 

助手席のシートに身を預けたまま、詩乃がぽつりと呟いた。窓の外、コンビニの白い看板の光に照らされた彼女の横顔は、数日前までの張り詰めた冷たさが嘘のように、ひどく穏やかで、どこか遠くを見つめている。

 

「そうだな……どうする?今日はどこまでも付き合うぞ?」

 

少しだけ重くなった空気をはき出すように、いつもの調子で冗談っぽく言ってみた。和人たちの前では見せない、相棒だけの気安さから出た言葉だった。

 

しかし、返ってきた詩乃の返答は、悠也の予想を遥かに超えていた。

 

「じゃあ……付き合って……」

 

かすかに震える、消え入りそうな声。悠也はそれを、「どこかへ連れていってほしい」という意味だと解釈し快く頷いた。

 

「オーケー。どこ行く?明日は大学も休みだから、夜通しどこにでも走ってやるぞ」

 

「そうじゃなくて……」

 

詩乃が小さく首を振る。その両頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。彼女は膝の上で両手をきつく握りしめ、意を決したように悠也の方へと真っ直ぐに身体を向けた。  

 

「ん?」

 

悠也が不思議そうに眉をひそめた、その瞬間だった。

 

「私と、付き合って欲しい」

 

「え……?」

 

完璧に意表を突かれ、悠也の思考が一瞬だけ停止した。今度ばかりは、ぴくりと固まる。

 

詩乃の切れ長の瞳が、潤みを帯びながらも、仮想世界で巨大なライフルを構える時と同じくらい、強く、真っ直ぐに悠也の目を射抜いていた。もう、そこには一歩も引かないというスナイパーの覚悟が宿っている。

 

「あの時も言ったけど……私、朝田詩乃は――シノンは、ナガン……真下悠也……貴方の事が好きです」

 

狭い車内に、彼女のまっすぐな告白が、はっきりと響き渡った。コンビニのガラス越しに差し込む光が、赤くなった彼女の耳たぶを優しく照らしている。ゲームの世界で出会い、互いの傷を知り、現実の命がけの修羅場を共に潜り抜けてきた。ただの「相棒」という言葉の枠を、彼女は今、自分の意志で踏み越えてみせたのだ。

 

「ちょっと、私にだけ言わせないでよ……」

 

真っ赤になった顔を隠すように、詩乃はぷいと窓の外へ視線を逸らした。しかし、シートに深く身体を沈めているせいで、その小さな肩が微かに震えているのがよく分かる。

 

「改めて言われると意外とフリーズしそうになるっていうか……」

 

彼の握る手に思わず力が入り、苦笑いを浮かべた。いつもならどんな状況でも冷静に対処できる自信があったが、現実世界の、しかもこんな至近距離で女の子から直球の好意をぶつけられるのは、やはり慣れない。

 

そんな彼の様子を横目で盗み見て、詩乃は少しだけ唇を尖らせる。

 

「貴方が最初に言ったじゃない.....付き合うって」

 

「そっちか……」

 

自分が口にした「どこまでも付き合うぞ」という冗談半分の言葉を逆手に取られたのだと気づく。しかし彼は伝えなければならない。

 

「詩乃」

 

その真剣な声の響きに、詩乃の身体がビクリと跳ねる。彼女は恐る恐る、けれど惹きつけられるように悠也の瞳を見つめ返した。

 

 

「俺は詩乃の気持ちに応えられない...」

 

 

絞り出すような声だった。それはまるで、長年自分を縛り付けてきた鎖をを、自分の手で再び締め直すかのような苦痛に満ちていた。

 

 

 

「なんで……っ!」

 

 

 

その言葉は、詩乃の心臓を物理的な衝撃のように打ち抜いた。彼女の声が掠れる。だが、悠也の脳裏には、あの暗く湿った洞窟の光景がフラッシュバックのように焼き付いていた。

 

銃口を向け言った、あの冷徹な断絶――。

 

『……お前が何をやったかなんて、俺には関係ない』

 

あの言葉の裏にあったのは、無関心ではない。自身が背負う『人殺しの家系』という呪いが、彼女をまた、巻き込むのでは無いかという、深い恐怖だった。自分が隣に立つことで、彼女まで汚名の檻に引きずり込んでしまうのではないか。そんな臆病な防御本能が、

 

彼を頑なに「バディ」という安全な境界線の向こう側(名前のない距離の隣)に押し込めていたのだ。

 

「俺は、あの時お前に向かって『関係ない』と言い放ったが……それは、嘘だ!」

 

悠也の声が震える。バディとして隣を走りながら、何かを抱えつつも必死に前を向こうとする詩乃に、悠也は強く惹かれていた。自分にも苦い過去があった。だが、自分自身「過去を克服した」などとは到底思えていなかった。ただ冷え切った心を受け入れ、その上に冷徹な技術を積み重ねていただけだ。

 

「自分の過去に怯えて、あまつさえ、その呪縛に踊らされている自分を棚に上げて……詩乃を拒絶することで自分を守ったんだ!そんな俺が詩乃の隣に立つ資格なんて、あるはずがないんだよ!」

 

喉の奥が引き攣り、かつての傲慢さと弱さが泥のように胸をかき乱す。結局自分はあの日、洞窟で冷酷な言葉を投げつけた瞬間の卑劣な男のままだったのだ。前へ進んだつもりで、実はその場に立ち止まり、傷ついた自分を盾にして他者を排除していただけ。そんな自分自身の本質が、耐えがたいほどの嫌悪感となって悠也の背中を圧迫した。

 

「俺の親父や祖父は、確かに銃を撃つ側の人間の代表みたいな家系だ。でも、二人はただ引き金を引いていたわけじゃない。彼らは自分たちの技術に、生き方に、嘘を吐かない人間だった」

 

悠也は一度、ふっと自嘲気味に息を吐く。

 

「二人とも、銃の重みに真摯に向き合っていた。祖父は俺に『引き金に込めるのは、弾丸そのものより、撃った後の自分の人生の重さだ』と教えてくれた.....結局、呪いをかけていたのは俺自身なんだ。二人が背負っていた誇りまで汚して、歪めて、勝手に『人殺しの家系』とかいう物語の中に自分を閉じ込めて、被害者面したのは、他でもない俺自身だった...」

 

その時だった。その重圧を断ち切るように、詩乃の鋭い叫びが響いた。

 

 

 

 

 

 

 

「貴方に何かあったなんて興味無い!あなたは自分の意思で私を守ってくれた!」

 

詩乃の瞳が、真っ直ぐに悠也を射抜く。それは、あの日の冷徹な評価とは違う命の熱を帯びた光だった。

 

「私の過去なんて関係ないと言ってくれた!あの時の言葉に……私は救われたの!呪縛に踊らされていたのは私の方よ!でも、あなたは私を導いてくれた。自分を呪う必要なんてない。あなたが今までどう生きてきて、どんな過ちを犯したかなんて……そんなこと、私には関係ないわ!」

 

詩乃は悠也に顔を近づける。かつて洞窟で彼が守ろうとした、絶対に触れてはならないはずの境界線。それを彼女の手が、軽々と踏み越えていく。

『氷の狙撃手』として生きていた彼女が、その殻を破り捨ててまで、目の前の男の魂を揺さぶろうとしている。

 

「私の知ってる真下悠也は、軽薄で、銃オタクで、いつもふざけた態度を崩さなかった!でも狙撃に誰よりも真剣で誰よりも上手かった!そんな貴方に私は惚れたの!自分勝手な正義感で私を一人にしないで!最期までその姿を貫いてよ!!」

 

その言葉は、悠也が自分自身に課していた「呪い」を根底から粉砕した。

 

彼は「過去を背負った重苦しい自分」こそが真実の姿であり、それを詩乃に見せてはいけないと決めていた。だが、彼女が見ていたのは、そんな暗い影ではなく、泥臭くも確かに前を向いてトリガーを引いていた、紛れもない「真下悠也」という人間だったのだ。

 

悠也の肩から、鉛のような重圧がふっと消え失せる。強張っていた表情が崩れ困ったような、それでいてどこか救われたような、力が抜けた苦笑いが浮かんだ。

 

「救われたのは俺の方だったのか....」

 

自嘲気味に呟いたその言葉には、もう苦痛の響きはない。あの日、洞窟で自分が放った言葉が、回り回って今の自分を救い出していた。自分が詩乃を救ったと思っていたのは傲慢だと思っていた。実際には、ただの不器用な自分を彼女が受け入れ、信じ続けてくれていただけだったのだと、悠也は思い知らされた。

 

彼は深く息を吐き出す。肺に満ちた空気が、これまでになく清々しい。もう、過去の呪縛に囚われた亡霊のように振る舞う必要はない。軽薄で、銃に狂っていて、けれど誰よりも真っ直ぐに狙いを定める男。それが詩乃が選んだ「真下悠也」であるのなら、それ以外の何者にもなる必要はないのだ。

 

「……参ったな。そんな風に言われたら、もう逃げ出す言い訳も思いつかないな」

 

悠也はそう言って、ようやく自分の中にあった確固たる境界線を越えた。

 

 

「俺、真下悠也は貴方の事が好きです....俺はあの時『誰かを守る為にいる訳じゃない』なんて突き放したようなことを言ったが……あれは訂正する。こんな俺にも、生涯をかけて守りたい人が出来た。だから朝田詩乃さん.......俺と.....」

 

 

 

 

 

 

 

 

「付き合ってください」

 

 

 

 

 

 

 

かつて死線を潜り抜ける中で口にした言葉を、彼は今、自らの意志で塗り替えた。一人の男として、彼女の人生の隣に立ち続けるという誓い。その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、詩乃の切れ長の瞳から、堪えきれなくなった涙がポロポロと溢れ出した。けれど、その表情は泣き崩れているのとは違った。

 

世界の何よりも美しいものを見つけたような、そんな喜びの輝きに満ちていた。

 

「私も……っ、貴方の隣に居たい」

 

詩乃は涙目になりながら、溢れる想いを言葉に変えて紡ぎ出す。

 

「今度は名前のない距離の隣じゃなくて、恋人として、貴方と一緒に生きたい……だから、喜んで!」

 

張り詰めていたすべての境界線が消え去り、二人の距離が本当の意味でゼロになった。泣き笑いのような顔で微笑む詩乃の姿を見て、悠也の顔にも、いつものぶっきらぼうな、けれど心の底から愛おしそうな笑みが浮かぶ。

 

夜の静かなコンビニの駐車場。エボの車内で、新しく始まった二人の未来が、温かな光に包まれるようにして静かに動き出そうとしていた。詩乃は涙の滲んだ目元を指先で少し照れくさそうに拭うと、すぐにいつもの、少し意地悪で聡明な詩乃の笑みをその唇に浮かべた。 

 

「じゃ、早速貴方の家に行きましょ?ご家族の方と色々話したいもの」

 

さらりと言ってのけた詩乃の言葉に、悠也はまたしても思考が完全にロックされた。今度ばかりはシフトレバーを握ろうとした左手が、空中で綺麗に静止する。

 

「え、今から?」

 

「忘れたの?どこまでも付き合うって」

 

詩乃は助手席のシートに身を任せたまま、小悪魔的な笑みを悠也に向けた。先ほど自分の告白の呼び水にされたセリフを、今度は見事なカウンターとして二度目の再利用をしてみせたのだ。スナイパーらしい、隙のない完璧な追撃だった。

 

悠也は完全に一本取られたというように、深い溜め息を吐き出した。

 

「策士だな……」

 

「ふふ、なんとでも言って。さ、お母様が待ってるわよ。一刻を争うピンチを救ってくれたヒーローの帰還なんだから、盛大にお礼を言わなくちゃ」

 

「絶対それが目的じゃないだろ。俺の黒歴史を掘り返す気満々じゃないか」

 

「どうかしらね?」

 

楽しそうに微笑む詩乃の横顔を見て、悠也はもう一度だけ小さく息を吐いた。けれど、その口元はどこか嬉しそうに緩んでいる。

 

高校時代、家族にさえ殻を閉ざしていた自分が、こうして自分の好きな車に、生涯をかけて守りたいと誓った最愛の恋人を乗せて実家へ向かおうとしている。理不尽な過去に縛られていた二人のロードムービーは、ここから新しく、そして少しだけ騒がしい方向へと舵を切ったようだった。

 

「……まぁ、母さんもきっと喜ぶよ。行くか」

 

悠也はアクセルを静かに踏み込む。

 

ドロルルッ、と力強い排気音を夜の駐車場に響かせながら、黒色のエボⅩは周囲の街灯の光を浴びて、二人の新しい目的地へと滑らかに走り出した。

 

夜の住宅街にエボⅩの重低音が静かに消え、真下家の玄関の鍵がガチャリと開いた。悠也がドアを押し開けると、リビングの奥から母がやって来たり

 

「おかえりなさい。あら、そちらの女の子は?」

 

「彼女が前言ったゲームの友人……で、俺の彼女になった朝田詩乃」

 

「……え?か、彼女?」

 

母親は一瞬だけ完璧にフリーズした。無理もない、数日前に「友人がピンチだから警察を呼んでくれ」と息巻いて飛び出していった息子が、夜中に美少女の手を引いて、おまけに「彼女だ」と宣言して戻ってきたのだ。脳の処理が追いつくはずもない。

 

詩乃は小さく息を吸い込み、一歩前へ出て深々と頭を下げた。

 

「初めまして、朝田詩乃です。あの時は悠也さんのおかげで本当に助かりました。夜遅くに、突然押しかけてしまって申し訳ありません」

 

「あら……あらあらまあ……!」

 

詩乃の凛とした、けれど丁寧な挨拶を聞いた瞬間、母親の顔がパッと文字通りひまわりのように華やいだ。慌てて詩乃の手を両手で包み込む。

 

「よく来てくれたわね、詩乃さん!寒かったでしょう、さあ、早く中に入って!」

 

母親に連れられるようにしてリビングへと足を踏み入れた詩乃は、その部屋の奥にどっしりと鎮座する「圧倒的な存在」に、思わず背筋を正した。

 

ソファに深く腰掛けていたのは、白髪交じりの大柄な老人だった。悠也の祖父――彼が『ジジイ』と呼ぶ、フィンランド人の元スナイパー。現役を退いて久しいはずだが、その背筋は定規を当てたように伸び、深く刻まれた皴の奥にある青い瞳は、恐ろしいほどの鋭さと知性を湛えている。

 

祖父の視線が、部屋に入ってきた詩乃へと向けられた。かつて本物の戦場を這い回り、幾多の命をスコープ越しに見つめてきた狙撃手の眼光。常人であれば気圧されて目を背けるような重圧だった。

 

しかし、詩乃は逃げなかった。『GGO』で死の恐怖と戦い、先ほど自らの過去とも決着をつけた彼女の瞳は、祖父の視線を真っ向から受け止め、静かに微笑んでみせたのだ。

 

「初めまして。朝田詩乃です。悠也さんには、本当に命を救われました……それと、悠也さんに譲られた『ニンジャ400』、とても素敵で格好いいバイクですね」

 

ジジイはしばらく無言で詩乃を凝視していた。張り詰めた静寂がリビングを支配する。やがて、老兵はフッと口元を和らげると、低く地響きのような声で快活に笑った。

 

「……いい眼をしているな、お嬢さん。肝が据わっている」

 

少し訛りはあるものの、流暢な日本語だった。祖父は満足そうに顎を引くと、傍らで頭を掻いている悠也を大きな手でバシバシと小突いた。

 

「あのバイクの価値がわかるかい?悠也、お前にゃあ、勿体ないほどの上品な女性だな!」

 

「へいへい、分かってますよ……痛ぇな、ジジイ!」

 

「本当にねぇ……」

 

キッチンから温かいお茶とお菓子を運んできた母親が、しみじみとした様子で目元を潤ませた。

 

「高校の時は、迷惑をかけたくないからって私にも何も話してくれなくて、本当に心配したのよ。あの不器用な悠也が、こんなに綺麗でしっかりした恋人を自分で見つけて連れてくるなんて……お母さん、もう明日死んでもいいわ」

 

「母さん、大袈裟だし、昔の黒歴史を掘り返すなって……!」

 

悠也は耳まで真っ赤にしながら、居心地悪そうにそっぽを向いた。ゲームの中では冷静沈着なナガンも、実の母親と祖父の前では形無しである。詩乃はその様子を、胸の奥が温かくなるのを感じながら愛おしそうに眺めていた。かつて傷つき、互いに殻に閉じこもっていた二人が、銃の世界で出会い、今こうして現実の温かな光の中にいる。

 

「後で悠也の高校時代の話、もっと詳しく聞かせてくださいね」

 

詩乃が悪戯っぽくウインクしてみせると、母親は「ええ、喜んで!アルバムも持ってくるわね」と身を乗り出した。

 

「おい待て、アルバムは処分したはずだろ!ジジイ、助けろ!」

 

「男なら過去くらい堂々と開示しろ」

 

慌てる悠也をよそに、真下家のリビングには、これまでになかった賑やかで優しい笑い声が響き渡る。過去の傷跡を抱えたスナイパーたちの夜は明け、彼らの前には、眩しいほどの新しい日常が確かに広がっていた。

 

 

 

賑やかだった真下家のリビングを後にし、夜風が吹き抜ける玄関先へと出ると、ようやく辺りは静寂を取り戻した。大澤祥恵さん親子との再会、そして和人たちのサプライズから始まった長い一日が、今度こそ本当に終わろうとしていた。

 

悠也がポケットからエボⅩのキーを取り出し、キーレスのボタンを押そうとした、その時だった。

 

「ねぇ、悠也」

 

詩乃がそっと悠也の服の袖を引いた。

 

「車じゃなくて、歩いて帰らない?今日は……あなたと並んで、ゆっくり歩きたい気分なの」

 

「歩き?アパートまでそこそこ距離あるぞ。寒くないか?」

 

「平気よ。ほら、行きましょ」

 

詩乃は悪戯っぽく微笑むと、悠也の手から車のキーをすんなりと奪い取り、自分のポシェットへと仕舞い込んでしまった。呆れながらも、悠也の口元からは自然と笑みが漏れる。

 

「……了解。じゃあ、のんびり行くか」

 

どちらからともなく、二人の手が自然と重なり合った。夜の住宅街はひっそりとしていて、街灯が二人の影をアスファルトの上に長く伸ばしている。冷たい夜風が頬を撫でていくが、繋いだ手のひらからは、驚くほど温かい体温が伝わってきた。  

 

ゲームの世界ではいつも何百メートルも離れた場所から互いを見据えていた二人が、今は肩が触れ合うほどの距離で、同じ歩幅で歩いている。言葉は多くなかったが、その沈黙こそが、今の二人には何よりも心地よかった。

 

 

やがて、見覚えのある詩乃のアパートの前へとたどり着いた。ここで凄惨な修羅場が繰り広げられていたとは信じられないほど、建物は静まり返っている。階段の手前で二人は足を止め、繋いでいた手をゆっくりと離し、詩乃は車のキーを渡した。

 

「じゃあ、ちゃんと鍵閉めて寝ろよ。何かあったらすぐ呼べ」

 

「過保護ね。もう大丈夫よ、ガムテープの繭を作るような不審者はここにはいないわ」

 

「そりゃそうだけどな」

 

悠也は少し照れくさそうに首の後ろを掻き、「じゃあな」と背を向けようとした――その瞬間だった。ト、と詩乃が軽くつま先立ちになり、悠也の胸元に飛び込むようにして距離を詰めた。

 

驚いて目を見開いた悠也の視界に、詩乃のふんわりとした髪の香りが広がる。静かな夜の空気に、かすかな、けれど決定的な音が爆ぜた。悠也の右頬に、柔らかくて温かい、小さな感触が触れて、すぐに離れていく。

 

「……っ!?」 

 

今度こそ、ナガンの精密な思考回路が完全にシャットダウンした。驚愕のあまり頬を押さえて固まる悠也の前で詩乃は顔を林檎のように真っ赤に染めながら、けれど最高の、満面の笑みを浮かべていた。その瞳は、夜空の星をすべて集めたかのように輝いている。

 

「改めて、よろしく。悠也……!」 

 

鈴を転がすような弾んだ声でそう言うと、詩乃はひらひらと手を振りながら、逃げるようにアパートの階段を駆け上がっていった。

  

パタン、と静かにドアが閉まる音が響く。一人残された悠也は、しばらくの間、静まり返った夜の空気の中で、自分の心臓がうるさいほどの鼓動を刻んでいるのをただ聴いていた。

 

「本当にスナイパーだな。完全に不意を突かれた」

 

完敗だった。悠也は熱を持った頬をもう一度指先で触り、それから、夜の街に向かって小さく、けれどこの上なく幸せそうな笑みをこぼした。

 

これから先、リアルでの恋人としての日常が、どれほど騒がしく、気恥ずかしいものになるかは想像もつかない。祖父や母親の容赦ない追撃もあるだろう。GGOの世界でも、きっと二人はこれからも銃を執り、最強のスナイパーコンビとして戦場を駆けるはずだ。

 

けれど、もう何も怖くはなかった。孤独な引き金はこれからはもう、一人きりで引くものではない。

 

アパートの窓辺から、去っていく背中をそっと見送っているであろう乙女と、夜風に吹かれながら歩む一人の青年。二人の胸に灯った確かな温もりは、過去の暗い冷たさを、もう完全に消し去っていた。銃弾の軌跡が結んだ奇妙な縁は今、かけがえのない形へと変えて、静かに、けれどどこまでも真っ直ぐに続いていく。

 

遠くから響くかすかな夜のざわめきに包まれながら、二人の戦い、そして新しく始まる物語は、この夜空の星々が瞬くように、静かに、しかし確かな鼓動を刻み始めていた。

 

 




ここまで読んでくれて、ありがとうございました!

本作は、作者の推しであるシノンへの愛と、私の銃の趣味をこれでもかと詰め込んだ一作でした。物語の核となったのは、真下悠也という男が自ら作り上げた「呪い」の檻を壊し、ようやく自分の足で明日へと歩き出すまでの軌跡です。

彼が自分を嫌悪し詩乃を遠ざけたのは、彼女を想うがあまりの「不器用な愛」ゆえでした。しかし、その歪んだ鎧を詩乃の真っ直ぐな言葉が粉砕し、共に歩む道を選びました。

二人はもう、「名前のない距離」に立ち止まることはありません。

……ですが、二人の戦いはまだ終わりではありません!

アンケートの結果通り、次回は『オーディナル・スケール』をお送りします。VRの世界ではなく、現実という名の戦場を舞台に、悠也と詩乃、そしてキリト達がいかにして運命を切り拓いていくのか。彼らが挑む次なる試練と、さらに深まる絆をぜひ楽しみにしていてください!

番外編という形で劇場版の『オーディナル・スケール』を読みたいですか?※もし書くとなった場合更新が遅くなるかも知れません。

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