勝利の歓喜に湧き、全員が晴れやかな表情で歓声を上げる。しかし、余韻に浸る間もなく、足元の地面に刻まれた紋章が妖しく光り出し、消滅したはずのボスの光の粒子が再び集結して何かを形作り始めた。
それが静かにキリトの足元へと降り立った瞬間、一際重厚な巨大な剣が姿を現す。それは銀色を主体とした、気高い輝きを放つ大剣だった。
『これで、完全クリアだな……キリト君』
「その声は……茅場!?」
悠也は思わず息を呑み、記憶の奥底からその名を引っ張り出す。かつて《ソードアート・オンライン》というデスゲームを生み出し、一万人のプレイヤーを仮想空間の檻に閉じ込めた狂気の天才――すべての元凶である男の声だった。
『しかし、君たちにはまだやることがあるだろう?』
だが、茅場の言葉を聞くキリトの瞳に宿っていたのは、憎しみや恐怖だけではなかった。その複雑な感情の奥底にある強い意志を汲み取ったかのように、目の前の大剣が眩い光を放ち始める。現実世界へと繋がる国立競技場では、暴走したモンスターたちが悠那の掲げる巨大な盾によって必死に食い止められていた。その限界を迎える寸前の場へと、キリトをはじめとするメンバーたちが颯爽と舞い戻る。
キリトが力を込めて大剣を振るうと、それまでの苦戦が嘘のようにボスたちはあっけなく光の粒子となって砕け散っていった。その瞬間、キリトのオーディナル・スケールにおけるランキングが頂点へと跳ね上がり、堂々の「1位」をマークする。
同時刻、手元のタブレットでその数値を確認していた重村教授は、自分の計画が崩れ去っていく異変に気付いて顔色を失った。戦場に穏やかなライトアップが広がる中、悠那が透き通るような歌声を響かせ始める。どこまでも伸びゆくその音色は、殺伐としていた戦場の空気を一瞬にして塗り替えていった。悠那の歌声に背中を押されるように、プレイヤーたちは一丸となって最後の反撃へと転じていく。
やがて悠那の歌が静かな結びを迎え、それに呼応するかのようにキリトの剣閃が最後のボスを完全に消滅させた。すべて脅威が去ったことを確認したキリトは、深く息を吐きながら大剣を背中にしまい、その場から静かに姿を消すのだった。
そして、すべての戦いを終えたキリトたちの意識は、現実世界へと帰還する。 VRのシステムから現実へと戻ってきた悠也たちは、安堵の息をつく暇もなく、悠那の元へと駆け感謝の言葉を述べる。
キリトのまっすぐな称賛の言葉に、悠那はどこまでも穏やかな笑みを浮かべてお礼を告げる。しかしその直後、彼女の半透明の身体が淡く光り始めた。その予兆に、周囲の仲間たちが不安に満ちた声を漏らす。
「ユ、ユナ……?」
「私の本体データはあのボスのリソースデータで作られていたの。その言語化エンジンを使って、私はここまで動くことができた。でも……ボスが倒され、その保存データは初期化されることになっているの。だから、みんなとは……これでお別れ」
「そんな……!」
悠那の告白に、キリトたちは彼女が自分自身の消滅さえも覚悟の上で、ここにいる全員を救おうとしてくれた真実に触れ、言葉を失う。そして、その胸に宿る強い覚悟と優しい思いをしっかりと受け止めるのだった。
「とっても楽しかった! 大勢の前で、こうして歌を歌うっていう夢が叶ったから、これ以上の幸せはないわ」
満足そうに微笑んだあと、悠那はまっすぐにアスナの方へと向き直った。
「あなたから預かったものを、ちゃんと返すね」
そう言って、悠那がそっと手を差し出すと、その手のひらの上に美しい光の玉が浮かび上がった。
「記憶障害の原因になっていたのは、あのデスゲームでの……死の恐怖。でも、あなたはそれを自分の力で乗り越えて、ここまで戦い抜いた。だから、きっと思い出せるよ――本当の思い出を」
アスナのオーグマーに悠那の手が重ねられ、温かな光が彼女の胸へと還っていく。その直後、悠那の身体は一段と眩い光に包まれ、夜空へと昇華するように光の粒子となって溶けていった。静けさが戻った現実世界。悠也は自分の手元をふと見下ろし、隣に立つ少女へと視線を向ける。
「ん……悠也?」
「どうした、詩乃?」
「ランキングを見てみてよ」
「え……ランキング2位……?」
驚愕に目を見開く悠也の耳に、ふっとからかうような、それでいてどこか誇らしげな声が届いた。
「ま、あなたも結構活躍してたわよね、『
詩乃がクスクスと笑いながら自分のオーグマーに映し出された順位を示す。目の前のディスプレイに表示された、自分自身の名前と信じられない数字に、悠也は思わず言葉を失い、小さく息を呑む。
「……まさか、あのジジイのシステムでここまで上るなんてな。もしかしたら、高級カフェの無料クーポンとか貰えるかも」
緊張の糸が切れたように、悠也はいつもの飄々とした調子に戻る。
「私にも奢ってよね」
「分かってますよ。お姫様」
軽口を叩き合い、全員はふっと笑った。そして夜風の心地よい国立競技場の外へと歩き出す。世界は平穏を取り戻し、仮想と現実の境界で交錯した嵐は、確かな絆を残して静かに幕を閉じたのだ。
ライブで起きた観客の意識不明の原因は、演出として使用されたガスが原因であると公表され、後日、改めてユナのライブが盛大に開催された。そして、オーグマーの開発者である重村教授はカブラ社の社外取締役を辞任し、すべての表舞台から静かに姿を消したのだった。
(あんな大事件を起こしておいて、罪に問われなかったのが不思議でならないが……)
そんな割り切れない思いを抱えつつ、悠也はエイジの処遇について脳裏で反芻する。現実の身体を傷つけられたようなものなのだから、傷害罪に問われても何らおかしくないはずだった。だが、被害者であるクラインや「風林火山」のメンバーたちが、「まあ、あいつも色々あったんだし、ゲームの中での出来事だからさ」と、揃って警察に被害届を出さなかったのだ。
(俺だったら、速攻で被害届出して、精神的慰謝料まで請求してただろうな……)
器のデカすぎるクラインとその仲間達という男の背中を遠目に眺めながら、悠也は人間としての器の大きさと自分のひねくれた性格の違いを思い知らされ、小さく深い溜息をつくのだっだ。
そんななか、キリトとアスナを除くメンバーたちは、いつものようにエギルの店へと集まっていた。今回は、先の事件で負傷して入院していたクラインの退院祝いという名目だった。
しかし、骨折したとはいえ、せっかく手に入れたユナのライブチケットを無駄にされたことがよほど悔しかったのか、エギルの機嫌はすこぶる斜めである。その鬱憤晴らしという名の理不尽な理由から、今回の飲食代はエギルにだけ全額奢らせるという罰ゲームが執行されていた。
店の一角では、剣道の合宿からようやく帰ってきたリーファこと直葉が、仲間たちに旅先のお土産を配って回っている。
「でも、直葉ってどうやってログインして来たの?」
ふと、詩乃が不思議そうに小首を傾げて尋ねた。なんでも、直葉が合宿先として行っていた島根にはパソコンすらないという噂を耳にしたらしい。
もちろん実際にはそんなことはないのだが、周囲の冗談交じりの追及に、直葉はアミュスフィアをこっそり隠し持ってこっそりログインしていたことを白状する。
(そんな偏見、口にしたら、島根県民の皆さんに本気で怒られるぞ……)
心の中で密かにツッコミを入れながら、悠也はふと思い出したように、色々と不運が重なってボロボロだったクラインへと視線を向け、あるものを取り出した。
「クライン、これでも食って元気だせよ」
「うぅ……悠也、おめぇさんは本当に心優しい男だなぁ……!」
涙を流さんばかりの勢いでクラインが受け取ったのは、街でも有名な高級パティスリーの豪華なケーキの箱だった。しかも、その中には人数分の見事なショートケーキが綺麗に並んでいる。
「どうしたの!? このケーキ、すごく高そうなやつじゃん!?」
リズベットが目を丸くして尋ねると、悠也は少し自慢するかの様に答えた。
「俺、オーディナル・スケールのランキングで2位になっただろ? その特典で、いろんな高級店とかの無料クーポンが大量に送りつけられてきてさ」
「で、ちゃっかりその恩恵にあやかってるわけよ。ね、悠也?」
詩乃がふふんと得意げに付け加える。
「まあ、とりあえず全員分あるから一個ずつ食ってくれ。キリトとアスナの分もちゃんと用意してあったんだが……」
「まあまあ、あのバカップルは今頃二人だけの世界に浸ってるんだから放っておけばいいって! 私たちはせっかくの高級ケーキを存分に味わいましょ!」
リズベットの明るい一言に乗せられるように、メンバーたちは笑顔でケーキの箱を囲み、贅沢な甘さを堪能し始めた。なお、肝心のキリトとアスナの分のケーキは、残しておいても仕方がないということで、買ってきていた詩乃と悠也の二人がありがたく山分けして美味しくいただくことになったのだった。
――そうして仲間たちとの賑やかなひとときを終え、数日が過ぎた週末。
今日は、前回詩乃と交わしたショッピングの約束に付き合う日となっていた。だが、その華やかな予定をこなす前に、悠也にはどうしても片付けておかなければならない用事があった。
悠也はキリトに断られるのを承知の上で頼み込み、総務省の官僚である菊岡を通じて、ある人物と会う約束を取り付けていた。最近あまり走らせていなかった愛車のエボXのエンジンを唸らせ、悠也は指定された静かな待ち合わせ場所へと到着した。
「来たか」
「僕に何か用ですか……真下悠也さん」
そこに立っていたのは、他でもない。オーディナル・スケールにおける元ランキング2位のプレイヤー、エイジその人だった。
「用が無かったらわざわざ呼び出したりしねぇよ」
エイジはあの事件の後、警察に自首し身柄を拘束されたものの、クラインや風林火山といった被害者たちが「ゲームの中の出来事だから」と被害届を出さなかったこともあり、幸か不幸かすぐに釈放されていた。
「あの後、菊岡って胡散臭い男から、お前の過去やら経緯やらを聞く機会があってな」
「……そうですか」
彼の歩んできた過去は、「壮絶」という言葉では到底生ぬるく感じられるほどに過酷なものだった。《ソードアート・オンライン》から奇跡の生還を果たしてすぐ、デスゲーム開始直後に両親が離婚。
育った実家は売り払われ、しかも自分は母親の連れ子であって、戸籍上の父親とは血の繋がりがなく、顔すら知らない兄がいるという残酷な真実を知らされた彼は、完全に生きる気力を失いかけていた。
“元”両親からのわずかな仕送りを頼りに安アパートでの一人暮らしを始めたものの、「悠那を見殺しにした奴らがいるかもしれない帰還者学校には行きたくない」と登校を拒絶。
国のSAO事件被害者救済プログラムを利用して高卒資格こそ得たものの、すでに「生きる目的」のすべてを失っていた彼は大学を受験する気にもなれず、日々をただ無為に腐らせていた。
しかし、そんな絶望の淵にあった彼に、重村教授が〈悠那再生計画〉を持ちかけたのだ。重村の語る計画の果てに生まれるデジタルゴーストが、本物の悠那ではないことなど、エイジ自身が一番痛いほどわかっていた。それでも、そこに一縷の望みを懸ける以外に生きるすべを知らず、彼は必死に受験勉強を再開し、計画の忠実な手駒として加担したのである。
「あの時は悪かった。あんなこと言って」
それは、かつて悠也がエイジに向けて吐き捨てた痛烈な挑発の言葉だった。
『家に帰って、親にでも慰めてもらったらどうだ?』
「……同情ですか?」
エイジは自嘲するかのように、乾いた笑いを漏らす。
「ただの自己満だ。別にお前に同情する気なんて1ミリもねぇし、そんな綺麗事をするつもりもねぇよ。なんなら、お前に腹殴られた恨みくらい残ってる」
「……」
「ただ、お前の過去を知って、そのまま何も言わずに終わりにするのは、どうにも夢見が悪い……そんだけのことだ」
「そうですか……あなたらしいですね」
諦観を含んだ瞳で呟いた後、エイジはふと、ずっと胸につかえていた疑問を口にするように言葉を重ねた。
「一つだけ、聞かせてください」
「ん?」
「もし、あなたの最愛の人が死んでしまったら……あなたなら、どうしますか?」
その問いに、悠也の脳裏には鮮明に、あの少女の姿が浮かび上がった――詩乃の顔が。 もしも彼女がこの世界から消えてしまったら、自分は間違いなく何度も絶望し、すべてを投げ出したくなるだろう。
それでも。
「そうだな……何度も思い出して、何度も死にたくはなるだろうな。けど、ソイツと過ごしたこれまでの時間を無駄にしたくは無い。だから、その絶望を抱えたまま、せめて、ソイツに胸張って顔向けできるくらいには……生きていきたいな」
強がりでも何でもいい。いつだって前を向いて生きる彼女に恥じない自分でいたい。そう思えるだけの熱量が今の悠也にはあった。その答えを聞いたエイジの表情から、わずかにトゲが抜け落ち、どこか納得したような穏やかさが浮かぶ。
「強いですね……では、僕はこれで」
背中を向けようとしたエイジの背中に、悠也はポンと放るように声をかけた。
「あ、これやるよ」
「……これは?」
放り投げられたのは、缶の酒だった。
「ロンケロ」
「ロンケロ?」
「ジンとグレープフルーツソーダを合わせたカクテルみたいなもんだ。お前、酒飲むんだろ? 現・ランク2位から、元・ランク2位へのプレゼントってやつだ」
エイジは思わず怪訝な視線を向ける。だが、投げ渡されたボトルに印刷された銘柄を確認すると、小さく息を呑んでわずかに表情を緩ませた。
「本当に……あなたは、よく喋る人ですね」
「そうかもな」
それ以上の言葉は交わさず、2人はそれぞれ反対方向へと背中を向け、歩き出す。静かなアスファルトを踏みしめる足音のなか、エイジがふと呟いた。
「悠也さん……あなたの車、なかなかかっこいいでよ」
「....そりゃどうも」
悠也は振り返ることなく片手を軽く上げ、自慢の愛車であるエボXのドアノブへと手を伸ばす。重く引き締まったドアを開けて運転席に滑り込み、エンジンを始動させると、低く心地よいエキゾーストノートが静まり返った空間に響き渡った。
エイジとの邂逅を背後へと置き去りにし、悠也は車体を滑らせるように発進させる。目指す先は、約束の待ち合わせ場所。詩乃の待つ自宅へと、エボXは軽快に街を走り抜けていくのだった。
エボXを走らせ、約束の場所へと到着した悠也。待っていたのは、待ち合わせの時間に遅れたわけでもないのに、なぜか腕を組んでジト目を向ける詩乃の姿だった。
「遅いじゃない、悠也」
「いや、約束の時間ピッタリだろ」
「私の気分的には五分遅刻よ」
理不尽な言い草に苦笑しつつも、悠也はそのまま詩乃のショッピングに付き合うことになる。両手に大量の紙袋を抱え、すっかり「荷物持ち」としてこき使われながら歩く羽目になった。少し歩き疲れたのか、足を止めた詩乃に、悠也はふと思い出したように話題を切り出す。
「どっか休憩するか?」
「そうね、あなたのクーポンでお茶しましょ?」
詩乃は不敵に、そしてどこか楽しげな笑みを浮かべてそう言い放つ。
「分かりましたよ...」
悠也がため息をつき、近くのおしゃれなカフェの扉を開けると、2人は並んで店内へと吸い込まれていった。
デザートとコーヒーを味わいながら、他愛のない冗談を言い合って笑い合う。銃弾飛び交うバーチャルの世界から始まった二人の関係は、いつしか現実の確かな温度を帯び、事件の影などすっかり消え去った穏やかな日常の中で、心地よい笑い声となって響き渡っていた。
季節が巡り、穏やかな日常は少しずつ、しかし着実にその形を変えていく。
オーディナル・スケールの事件が過去のものとなっても、キリトをはじめとする仲間たちの周囲が平穏に満たされることはなかった。キリトがかつて《SAO》の恐怖の象徴であった殺人ギルド《ラフィンコフィン》の生き残りに再び襲撃されたと思えば、自衛隊が極秘裏に計画していた次世代型人工知能育成のための架空世界《アンダーワールド》にログインしたり、その世界を巡る大戦に巻き込まれ、現実とバーチャルが完全に交錯した異界戦争を戦い抜いた。
さらには、人工知能の少女・アリスの現実世界への進出や、『ユナイダル・リング』を巡る新たな理不尽なサバイバル――。文字通り命を削るような大事件の数々が立て続けに起き、キリトという少年はいつだってその中心に引きずり出されていた。
「……どんだけ災いが引き寄せられるんだか」
世界を揺るがすトラブルメーカー気質には、もはや呆れを通り越して感心すら覚えるレベルだった。そして、当然のようにその巨大な災いの波は、悠也や詩乃たち身近な者たちの日常にも容赦なく降りかかってきた。だが、そんな波乱万丈な非日常の裏側で、現実の時間もしっかりと、しかし確実に歩みを進めていた。
次々と降りかかる厄災や、世界の命運をかけた戦いの気配を背負いながらも、詩乃は自分の足でしっかりと未来を見据えていた。キリトたちの戦いに寄り添い、自らも一人の人間として強さを証明するように、彼女は悠也と同じ大学を受験し、見事に難関を突破して合格を掴み取ったのだ。互いに切磋琢磨しながらキャンパスライフを駆け抜け、大学を卒業した悠也が社会人として歩み出すと同時に、詩乃はその家に転がり込むようにして同棲を始めた。
同じ屋根の下で朝を迎え、夜の静けさを分かち合う日々。そうして自然な流れと確かな絆を重ねた末、詩乃と悠也は正式に結婚の誓いを交わし、詩乃の苗字は「真下」へと変わっていた。当初は悠也が「朝田」の家に入ることを提案したのだが、「あなたの苗字がいいの」という詩乃のまっすぐな言葉に押し切られ、最終的には悠也が折れる形となったのだ。
彼は父と同じように自衛隊に身を置き、狙撃手として日本の国防を担う道を選んでいた。初めのうちは、過酷な任務によって詩乃と一緒に過ごせる時間がメッキリ減ってしまうことを懸念して渋ったものの、自身の持つ能力や戦闘勘を限りなく活かせる場所は、やはりこの世界だった。
詩乃も「寂しくはなるけど、一生離れるわけじゃないから」と、穏やかに背中を押してくれたのである。祖父から父、そして悠也へと続く軍人一家ではあったが、自分の子どもにまでその道を強制するつもりは毛頭なかった。そもそも、悠也自身が親から強制されてこの道に入ったわけではなかったからだ。
2人の間には一人の女の子が誕生した。名前は「悠乃」。綺麗な灰黒色の髪に、どこかクールで大人びた印象を与える顔立ちをしているが、中身は面白いことや楽しいことを全力でやり抜くアグレッシブな性格の持ち主だった。
時折、大人をドキリとさせるような煽り文句を容赦なく口にするあたりは、間違いなく誰かさんの遺伝子を強く受け継いでいる証拠である。そしてなぜか、両親の昔のゲーム事情に強い興味を示し、任務で偶にしか家に帰ってこない父や、元GGOのトッププレイヤーである母を捕まえては、10歳にしてスナイパーとしての技術や狙撃のノウハウについてあれこれと熱心に教わっているのだった。
ある穏やかな休日、リビングのソファでくつろいでいた悠乃は、ふと母親である詩乃の方を向き、興味津々な様子で尋ねた。
「ねぇ、ママ」
「ん、どうしたの?」
「パパとは昔、ゲームで知り合ったって言ってたけどさ……最初はどんな距離感だったの?」
娘のあどけない、しかし鋭い好奇心を含んだ問いかけに、詩乃はふっと柔らかく微笑む。窓の外の空を眺めながら、懐かしい学生時代の日々をゆっくりと脳裏に思い起こした。
あの頃の、銃弾飛び交うバーチャルの世界で出会った不器用な少年との日々。殺伐とした世界で、それでもお互いの背中を預け合うようになった奇跡のような道のり。
「名前のない距離の隣……そんな感じだったかな」
遠い日の記憶を愛おしむように呟いた詩乃の表情には、かつての孤独なスナイパーの面影はなく、ただ温かな家族に囲まれた幸せだけが静かに満ちていた。
「えー、それって具体的にどんな距離感なの?」
納得がいかないとばかりに、悠乃は灰黒色の髪を揺らして不満そうに頬を膨らませる。
「ふふ、子供にはまだちょっと早かったかしらね」
「子供扱いしないで! 私だってパパとママから狙撃仕込まれてるんだから、それくらい分かるもん!」
「本当にー?」
からかうような詩乃の笑みに、悠乃が「もうっ!」と言い返そうとしたその瞬間。
ピンポーーーーン
心地よいチャイムの音が、穏やかなリビングに響き渡った。
「あ、パパが帰って来たわよ」
詩乃がふと窓の外を眺め、楽しげにそう告げる。 その言葉を聞いた瞬間、先ほどまでのクールな美少女ぶりが嘘のように、悠乃の顔がパッと華やいだ。
「――っ!」
文字通り音速の勢いでソファから飛び降りた悠乃は、一直線に玄関へと駆け出していく。ガチャリと扉を開けた先で待っていたのは、数ヶ月ぶりに帰宅した――愛すべき「最強でめんどくさい」父親の姿だった。
「パパー!おかえりー!」
「ただいま。悠乃、いい子にしてたか?」
「うん!」
背を低く屈め、愛娘の頭を大きな手で優しく撫でる悠也。その目尻には、任務の疲れなんて微塵も感じさせない、父親としての温かな笑みが浮かんでいる。満足そうに目を細めた悠乃の頭から手を離すと、悠也は真っ直ぐに顔を上げ、リビングの入り口で微笑む妻を見据えた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
世界で一番強くて、最高にめんどくさくて、愛おしい男。そして、その遺伝子をしっかり(すぎるほど)受け継いだ自慢の娘。賑やかな声を上げて笑い合う二人の背中を眺めながら、詩乃の胸の内にふと、ある思いがよぎる。
悠也の職業は自衛官だ。国を守る誇り高い仕事ではあるものの、これから先、成長した悠乃が周囲から父の職業を聞かれ、それを理由に心ない言葉を向けられたり、陰湿なイジメに遭ったりする可能性もゼロではない。
愛する娘に、そんなつらい思いなど決してさせたくはない。だが、現実の残酷さを知っているからこそ、絶対にあり得ない話だと言い切ることもできなかった。かつて、詩乃と悠也は理不尽な出来事から深く傷つき、誰かを頼るのが遅れてしまった過去がある。暗闇の中で一人、もがき苦しんだ孤独の日々。
けれど、今はもう一人ではない。もしもこの先、悠乃が理不尽な悪意に晒され、傷つくようなことがあったなら。その時は絶対に、家族として、親として、二人で全力でこの子を支え抜こう。心の中で静かにけれど確かな決意を持ってそう誓う。
「久々に家族全員揃ったし、どこか食べに行きましょ?2人とも準備してちょうだい」
呆れたような、けれど深い愛情の滲んだ声で呼びかけると、似た者同士の父と娘はそろって振り返り、「はーい」と間延びした声で笑い合った。
ここにあるのは、温かな光に満ちた確かな
ここまでのお付き合い、本当にありがとうございました。
銃弾飛び交うバーチャルの荒野《GGO》の片隅で、偶然にも背中を預け合うことになった二人の物語は、こうして現実の時間の中で確かな絆を育み、かけがえのない「家族」の日常へとたどり着きました。
――なお、この先の「アリシゼーション」「アンダーワールド」編につきましては、あまりにも長大な物語になってしまうため、現時点では執筆の予定はありません。もしかしたら、単発でなにか投稿するかも....
とにかく、「名前のない距離の隣で」これにて完結です。
ありがとうございました!
番外編という形で劇場版の『オーディナル・スケール』を読みたいですか?※もし書くとなった場合更新が遅くなるかも知れません。
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書くんだ!
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書かなくてもいい!