GGOにおいて近接戦闘は、あくまで数ある選択肢のひとつに過ぎない。
銃火器による遠距離戦闘が主流である以上、わざわざ自分からリスクの高い距離へ踏み込む必要は本来ほとんどなく、実際ナガン自身もこれまでその前提に従って立ち回ってきたし、それで困ったことはほとんどなかった。
だが――あの一戦だけは別だった。
AGI特化のプレイヤーに距離を詰められ、迎撃の余地すらなく、ただ削られ、押し込まれ、気づけば終わりかけていたあの感覚。逃げるという選択肢が機能しない距離。撃つという選択肢が成立しない速度。
そして、対応できなければそのまま終わるという、あまりにも単純で、あまりにも理不尽な結論。あれを“運が良かった”で済ませるのは違うと、ナガン自身が一番理解していた。
Bobに参加するならあのようなプレイスタイルの敵と戦うことになる。ならその為の特訓もまた必然だった。
(……近距離、弱すぎるな)
短く、だがはっきりとした自己評価だった。
自覚は以前からあった。だが、あそこまで露骨に突きつけられた以上、もう無視するという選択肢は残っていない。だからナガンは、GGOではなく、別のタイトルを起動していた。
旧式のゲーム機。
VRが一般化するよりも前、フルダイブが当たり前になる前の時代に作られた、コントローラー操作の剣戟アクションゲーム。
死に覚えを前提とした設計。回避も防御も、すべてが“タイミング”に依存する世界。画面が立ち上がる。ロゴが流れ、ロードが終わり、操作可能になるまでの僅かな時間。悠也はコントローラーを軽く握り直し、指の位置を確かめる。
「……久々にやるな、これ」
独り言が、小さく漏れた。実際にプレイしたのは中学の頃だ。発売自体はもっと前――小学生の高学年あたりの時期だったはずだが、その頃の彼にとっては難しすぎて、途中で投げた記憶がある。
だが、その後。時間をかけて何度もやり直して、最終的にはクリアした。
それも一度ではない。三周。少なくとも、ゲームとして“攻略する”だけの経験は積んでいる。
だが――
(普通にやっても意味ねぇな)
そう判断するのに、時間はかからなかった。目的はクリアではない。鍛えることだ。しかも、GGOで通用する形で。彼は設定画面を開く。いくつかの項目を迷いなく操作し、余計な情報を削ぎ落としていく。HPゲージ、敵の体力表示――それらをすべてオフにする。
さらに、被ダメージの視覚補助もカット。残るのは、純粋な動きと、タイミングだけ。
(ノーダメージ前提……か)
軽く息を吐く。自分で設定しておいて何だが、要求水準は明らかに高い。
やはり特訓は、最初に思い描いていたものよりもずっと泥臭く、そして救いのない繰り返しの連続だった。
ただでさえ難しいだと評される難易度のゲームに、悠也はさらに自分で枷を嵌めている。体力ゲージも敵の状態も表示されない、被弾すれば即リトライという極端な条件で、いわば“成功以外はすべて失敗”という状況を自分で作り出していた。
普通に攻略するだけでも神経を削るゲームで、わざわざ自分から難易度を引き上げるなど、冷静に見れば正気とは言い難い選択だったが、ナガンにとってはそれでよかった。逃げ道のある訓練では意味がないし、ギリギリの状況でしか掴めない感覚があることを、あの近接戦で思い知らされていたからだ。
「――あぁ!また死んだぁ!ざけんな!」
思わず声が荒れる。画面の中ではキャラクターが無機質に崩れ落ちていくが、その光景にももう慣れてしまっていた。原因は分かっている。ほんの一瞬、タイミングがズレただけだ。それだけで全てが崩れる、言い訳の余地すらない敗北。
「……クソが!」
吐き捨てながらも、指は止まらない。リトライを選ぶ動きはもはや反射で、考えるより先に次の挑戦へ移行している。自分で難易度を引き上げておいて文句を言うのも筋違いだと分かってはいるが、それとこれとは別問題だった。苛立ちは普通にあるし、むしろその苛立ちごと叩き込むようにしてプレイを続けている。
朝は無駄に早い。親が起きるより先に目を覚まし、まだ思考が回りきっていない状態でゲーム機を起動する。静まり返った部屋の中に、操作音だけが小さく響くその時間は短いが、ナガンにとっては貴重な積み重ねだった。短時間でも繰り返せば確実に差になる――そういう実感だけは、すでに得ている。
大学の講義が終われば寄り道はしない。真っ直ぐ帰宅し、最低限の食事を済ませてすぐにコントローラーを握る。バイトがある日でも同じで、終わり次第すぐ帰宅し、課題を手早く片付けてから再びゲームに戻る。手を抜くわけではないが、優先順位は明確だった。時間は有限で、その大半を“あの一瞬”に辿り着くために使っている。
夜になってもやることは変わらない。日付が変わる直前まで画面に張り付き、何度も何度も同じ場面を繰り返す。
「……あと一回!」
そう呟くたびに、本当にあと一回で終わることはほとんどない。それでも口に出すことで区切りをつけているつもりで、気づけばその“あと一回”が何十回と積み重なっている。時間の感覚は曖昧になり、集中だけが妙に研ぎ澄まされていく。
それでもやめないし、やめる理由もない。むしろやめた瞬間に、あの一瞬の感覚が鈍ることの方が怖かった。何度も失敗する中で、たった一度だけ完璧に噛み合う瞬間がある。攻撃を弾いたあの感触、完全に一致したタイミング。その一瞬だけが鮮明に脳裏に残っていて、それを再現するために何度でも繰り返している。
(……あれを、安定させる)
それだけを考えていた。余計なことは一切考えない。ただ、同じ状況で同じ精度を出せるようにする。そのために必要なのが、この無駄にも見える反復だと、ナガンは半ば本能的に理解していた。
日付が変わる頃、ようやくコントローラーを置く。指先には微かな震えが残り、肩には鈍い疲労が蓄積している。それでも、そのまま終わる気にはならなかった。
ナガンはアミュスフィアを手に取り、迷いなくGGOへとログインする。現実で叩き込んだ感覚が、仮想の戦場でどこまで通用するのか、それを確かめるのがこの時間の目的だった。フィールドに降り立ち、ナイフを構える。銃ではなく、あえて距離を詰める選択をするのは、もう迷いではなく意思だった。
そして、戦闘が始まる。
数秒後、ナガンの目がわずかに細まる。完全ではないが、確実に“見えるもの”が増えていた。相手の踏み込み、肩の動き、振りかぶりの前兆――それらが断片ではなく、流れとして繋がり始めている。
「……悪くねぇな」
小さく漏れた声には、ほんの僅かだが確かな手応えが含まれていた。
効率は悪いし、遠回りなのは間違いない。それでも、あの無数の失敗の積み重ねが、確実に形になり始めている。その事実だけで、この過酷な特訓には十分すぎる価値があった。
旧式ゲームでの地獄みたいな特訓を終え、ナガン――悠也は、ようやく一つの結論に辿り着いていた。ステータスも今までのバランスが崩れないギリギリまでAGIに振った。近接戦用に新しく購入したのは光剣のカゲミツG4。刀身は滑らかに光を反射し、いかにも“扱える者が持てば強い”という、分かりやすい性能の塊だ。
タイミングは見えるようになった。間合いも分かるようになった。それでも――“振る”という行為そのものが、どうにもぎこちない。そう悠也は結局の所
(剣の振るの下手だわ……)
不思議と焦りはなかった。むしろ、妙に納得していた。そもそも経験がない。剣道もやっていなければ、ソードスキル前提のゲームにも触れてこなかった。今さらそれを一から仕込むのは、時間効率的にも現実的じゃない。
(……じゃあどうするか)
“振る”のが下手なら、無理に振らなければいい。当てるのではなく、弾く。そして崩れたところを斬る。ナガンの思考はシンプルだった。
徹底したパリィ主体。相手の攻撃をジャストで受け流し、その一瞬の隙だけを奪う。自分からあまり攻めない。だが、隙は絶対に逃さない。これでもだいぶ成長した方で、セミオートの銃弾なら頑張って斬れるようになった。もっとも80回くらいやって1回出来るという感じであって普通に失敗するし、なんならほぼ全てのプレイヤーはフルオートで銃を撃ってくるのでそれを弾くなど論外である。
あれは速度も密度も別次元で、弾くという選択肢自体が現実的じゃないし、そもそも想定していない。この近接はあくまで“詰められたときの保険”。あるいは――タイマンになったときの切り札”。
そう結論付けて、彼はGGOへとログインする。今日は久々にシノンとプレイする約束の日。だが、ログインした時刻は予定より少し早い。広場は相変わらず人が多く、雑多な足音と電子音が混ざり合っている。ナガンは壁際に寄り、軽く周囲を見渡した。
(……時間、余ったな)
適当にフィールドに出るか、それとも装備でも見直そう。そう考えていた時だった。
「あのー、すいません、ちょっと道を……」
背後から、少し遠慮がちな声がかかった。そこに立っていたのは、黒髪ロングのプレイヤーだった。背丈はやや低め。細身。顔立ちは中性的で、ぱっと見は普通に“美少女アバター”と言われても納得できるレベルの整い方をしている。
そして実際のところ、それは“ほぼ正解”でもあり、“完全に間違い”でもあった。このプレイヤーの正体は、かつてSAOやALOで数々の修羅場を潜り抜けてきた実力者、キリトである。
……なのだが、当然そんな事情を、ナガンが知るはずもない。
そもそも顔なんて見たことがないし、名前もまだ聞いていない段階である。つまりナガンの認識は、極めてシンプルだった。
(……なんか美形いるな)
以上。ただし、見た目が整いすぎているため、別方向の警戒がほんの少しだけ上がる。
(……トラブルの匂いがするタイプだなこれ)
偏見であるが経験則でもある。ナガンは軽く目を細めつつ、相手を観察する。装備は明らかに初心者だが、立ち方に妙なブレがない。
「このゲーム初めてか?で……どこに行きたいんだ?」
軽く問い返す。相手は少し安心したように頷いた。
「はい、初めてなんです。どこか安い武器屋さんと、あと総督府?っていう所に行きたいんですが……」
「総督府?」
ナガンはわずかに眉をひそめる。GGOにおける総督府といえば、BoB――バレット・オブ・バレッツのエントリー関連施設がある場所だ。
「BoBにでも参加するのか?参加すんのは自由だと思うが初期キャラじゃ普通に厳しいぞ?」
現実的な忠告だった。このゲームで、初心者がいきなりトップ層の大会に挑むなど、無謀もいいところだ。
だが――
「あ、初期キャラってわけじゃないんです。コンバートで、他のゲームから……」
その言葉に、ナガンは少しだけ視線を細めた。
「コンバート...なら話は別だが.....」
ある程度の基礎は持っている可能性が高い。
「けど珍しいな、女子でGGOやるなんてな」
ナガンは何気なく言った。この世界はどうしても男が多い。最近でこそ女性プレイヤーも増えてはいるが、それでも比率で言えばまだ偏っている。だからこそ、目の前の“見た目ほぼ美少女”なプレイヤーは、単純に目立っていた。言われた側は、一瞬だけ言葉に詰まり――
「あ、あの……実は……」
妙に歯切れが悪い。ナガンは軽く首だけ傾ける。
「男なんです」
一拍。
「…マジか」
改めて見ると、どう見ても女にしか見えない。だが、本人がそう言うならそうなのだろう。
(……このゲーム、ほんと自由だな)
どうでもいい方向で納得する。
「そういや名前は?」
気を取り直して聞く。黒髪のプレイヤーは、少しだけ間を置いて答えた。
「キリト……」
「そうかキリトか……一応俺の名前はナガンだ」
「な、ナガン....」
ナガンは軽く頷いた。しかし、その次の動作はあまりにも迷いがなかった。何の躊躇もなくメニューウィンドウを展開した。指の動きは滑らかで、しかも無駄がない。まるで日課のように、当然の流れとして通報フォームを呼び出す。
「――え?」
キリトが固まった。理解が追いつかない、という顔だったがナガンは止まらない。完全に“日常の一コマ”として処理している。
「いやちょっと待て」
キリトの声が一段上がるが、ナガンは聞いていない。あるいは、聞いているが“処理する必要のないノイズ”として弾いている。そのまま入力欄へ。
プレイヤー名:キリト
違反内容:性別詐称の疑い(※見た目がどう見ても女)
「いや待て待て待て待て!!」
今度ははっきりと焦りが滲んだ声だった。キリトは慌ててナガンの腕を掴む。必死に止めてくる。
「頼む!それだけは辞めてくれ!!」
ナガンはちらっとだけ視線を落とす。掴まれた腕とその力加減。無駄な力みはないが、確実に止めようとしている意思は伝わる。
「いやだってお前、それ規約的にアウトだろ普通に」
ナガンの言葉はどこまでも正しい。正しすぎて、反論の余地がない。キリトは言葉に詰まる。
「いや、その……これは事情があってだな……!」
苦し紛れの説明だが抽象的すぎる。
「事情で許されるなら規約いらねぇだろ」
ど正論によりキリト、完全に詰む。
「いやほんと頼むって!BANされたら終わるから!」
「知らん」
冷たい、びっくりするほど冷たい。指はすでに“送信”ボタンの上にかかっている。あとほんの少し、指を動かすだけで終わる。それだけで、キリトのGGO人生はスタート地点にすら立てずに終了する。
(ここで終わるのか俺のGGO……!?)
まだ何もしていない。ログインして、道を聞いて、通報されそうになっているだけである。理不尽にも程があるがそれが現実だ。キリトは一瞬で判断した。ここはもう、なりふり構っていられない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!代わりに何かするから!」
「何かって何だよ」
ナガンは一応止まる。完全に興味本位だった。“何を言い出すか”を見るためだけに、指を止めている。キリトの脳がフル回転する。ここで出す条件は、相手にとって“メリットがあるもの”でなければならない。だが目の前の男は下手な条件では通らない。
ならば――
「案内してくれた礼に、なんでも一つ言うこと聞く!」
とっておきの一手だった。汎用性は高い。
だが――
「いらん」
一ミリも検討していない。
「いやいるだろ普通!」
思わずツッコむがナガンは眉一つ動かさない。
「いらねぇよ。レアな銃とか素材の情報持ってるなら、ともかくお前初心者だろうが」
(全く持ってその通りです!)
キリトは内心で即座に肯定しまった。しかも自覚がある分、余計にキツい。
「メリットねぇことする理由がない」
(どうすればいいんだこれ……!?)
答えは出ない。時間だけが過ぎる。そしてナガンの指は、再び“送信”へと近づいていく。このままでは本当に終わる。完全に詰んでいる。その時ナガンが、ふと手を止めた。
「いや......通報は保留だ」
その一言で、空気が一変する。張り詰めていた緊張が、一気に緩む。キリトはその場で大きく息を吐いた。
「助かった……」
本気の声だった。全身から力が抜ける。あと数秒遅れていたら、確実に終わっていた。その事実が、今さらになってじわじわと効いてくる。
だが――ナガンは続けた。
「その代わり――お前の素性を教えろ」
やっぱりピンチなのは変わりないらしい。