呪術でワイは生き残るで! 作:ワイくん見守り隊
人の暮らしを、遠くから眺める日々は、思っていたより長く続いた。
春が来て、夏が来て、葉が落ちて、雪が積もる。
それを何度も、何度も、何度も繰り返した。
家は増えた。
人も増えた。
小さな集まりだったものが、やがて村になり、村がまた別の村と繋がり始める。
人が道を作り、火を繋ぎ、土を耕し、ものを運び、言葉を交わし、争い、また生き延びる。
ワイはその全部を、ずっと遠くから見ていた。
相変わらず近づく勇気はなかった。
槍がトラウマになっとるとかいう、何百万年生きてるやつにあるまじき理由である。
せやけど、怖いもんは怖いんやからしゃーない。
「いや、だって普通に嫌やろ。助けたのに槍飛んでくるの」
誰もいない山の中でそう呟いて、ワイは木の実をかじる。
最近では、人の集落の近くに獣が寄れば追い払い、壊れた柵を夜中に直し、薪が足りなさそうなら近くに積んでおく、という謎の妖怪ムーブが完全に板についていた。
人と話したことはない。
でも、ワイの中ではもうそれでよかった。
人がいる。
同じような“力”を持ったやつも、たまにいる。
それだけで、昔よりずっとマシやった。
⸻
最初に気づいた異変は、村同士の距離感やった。
昔はもっと、ぼんやりしていた。
隣の村と物を交換して、たまに揉めて、でも基本的には「遠くに別の人がいる」くらいの感覚やったはずや。
せやのに、ある頃から空気が変わった。
人の行き来が増えた。
見張りが増えた。
槍を持つ男の数が増えた。
村の周りに柵が増え、土を盛り、火を絶やさなくなった。
「……なんか、嫌な感じやな」
山の上から集落を見下ろしながら、ワイはそう呟いた。
風に乗って、人の怒鳴り声が聞こえる日が増えた。
夜に火が上がる村もあった。
血の匂いが、以前よりずっと遠くまで届くようになった。
争いが始まっていた。
いや、もともと小競り合いはあったんやろう。
せやけどこれは、そういうのとは違う。
もっと大きい。
もっと広い。
もっと、時代そのものがざわついている感じやった。
後にそれが、国が乱れ、各地が争い、王が生まれては潰え、生き残ったものが名を持ち始める時代のうねりやったのだと、ワイは知ることになる。
けど、その時のワイにはそんなことわからん。
ただひたすらに、嫌な予感だけがしていた。
⸻
そんな中で、ワイは少しずつ確信し始めていた。
**“ワイと似たような力を持つ人間”**は、思っていたよりいる。
もちろん数は少ない。
村に一人いるかいないかくらいや。
でも確かにいる。
火の勢いを妙に操るやつ。
石を異様な速度で飛ばすやつ。
獣の気配を遠くから察知するやつ。
怪我の治りが異常に早いやつ。
みんな、使い方はバラバラやった。
そもそも本人らも、それを特別なものとして認識しとるのか怪しい。
ただ「できる」から使ってる、くらいの感じや。
でもワイにはわかった。
あれはワイの蒼い光と、根っこのところで繋がってる。
「……おるんやな、こういうの」
嬉しかった。
そして同時に、少しだけ安心した。
ワイだけが異常やない。
ワイだけが、何かおかしいわけやない。
せやからこそ、余計に思ってしまった。
――なら、いつか混ざれるんやろか。
人の中に。
普通に。
笑って、飯食って、話して。
そういうことを、ワイにもできる日が来るんやろか。
まあ、そのたびに脳裏に槍が飛んでくるので、結局は遠巻きに眺めるだけで終わるんやけど。
「……まず“見た目が怪しくない”をクリアしてからやな」
何百万年も山野を徘徊しとるやつの見た目が怪しくないわけない。
詰みである。
⸻
それでも、世界は勝手に進んでいく。
村は群れになり、群れは勢力になり、勢力は名を持ち始めた。
やがて、ある土地を中心に人が集まり、祭祀や占い、戦いを束ねる者たちが現れ始める。
人の数が増えれば増えるほど、
人の願いも、恐れも、恨みも、欲も増える。
そしてそれに呼ばれるように、
ワイが「なんか気持ち悪い」と感じる化け物の数も、少しずつ増えていった。
獣でもない。
人でもない。
けど、人の近くに寄ってくる異形。
昔よりはっきりしていた。
あれは人の営みの濃いところほど現れやすい。
火があり、声があり、願いがあり、怒りがあり、悲しみがある場所ほど、ああいうのは生まれる。
「……人間って、めんどくさいな」
そのくせワイ自身も人に惹かれてるんやから、ほんまどうしようもない。
⸻
ある日、いつものように山から平地を眺めていた時やった。
妙なものが見えた。
遠くの地平線の向こう。
村の一つが、消えていた。
「……は?」
思わず目を細める。
昨日まで煙が上がっていた場所や。
人もおった。
火もあった。
それが今日見たら、何もない。
いや、正確には違う。
あるにはある。
ただ、全部が壊れていた。
家が潰れ、木が倒れ、地面が抉れている。
人の気配も、生き物の気配も、ほとんど残っていない。
ワイは嫌な汗をかいた。
「……なんや、これ」
獣に荒らされたにしては、規模がでかすぎる。
洪水や火事とも違う。
もっとこう、意図的に壊された跡やった。
しかも、ただの人間がやった感じではない。
ワイはそのまま、地を蹴った。
木々を飛び越え、川を越え、土を蹴り上げながら一気に現場へ向かう。
昔よりずっと身体が軽い。
足も速い。
呼吸も乱れにくい。
気づけば、そういうのが当たり前になっていた。
けど今はそんなことどうでもよかった。
ただ、胸の奥がざわざわしていた。
あの嫌な感じ。
あの、何かが“おかしい”時の感覚が、どんどん強くなっていく。
⸻
そこは、地獄やった。
近づくにつれて、まず匂いがした。
血。
焼けた木。
内臓。
泥。
死。
村だったものは、跡形もなく踏み潰されていた。
家はひしゃげ、地面には巨大な爪痕みたいな筋が何本も走っている。
人の身体もあった。
いや、身体と呼ぶのもおこがましいくらい、雑に壊されていた。
「……っ」
胃がひっくり返るような感覚に、ワイは口元を押さえた。
ワイはこれまでにも死体は見てきた。
獣に食われたやつも、争いで死んだやつも、何度も見てきた。
でもこれは、違う。
“殺された”んやない。
“潰された”んや。
そこに感情も、躊躇も、意味もない。
ただ圧倒的な力で、雑に、ついでみたいに踏みにじられた跡やった。
「なんや……なんやねん、これ……」
足元の土を踏みしめながら、ワイは震える声を漏らす。
その時や。
――ズゥン。
遠くで、大地が鳴った。
ワイは反射的に顔を上げる。
森の向こう。
丘の先。
そこに、いた。
⸻
最初に見えたのは、影やった。
人型。
でも、でかい。
いや、でかいというより――圧が異常やった。
そいつは一人で立っていた。
周囲には何もない。
何人もの死体が転がっているだけや。
なのに、その一人がいるだけで、景色全体がそいつのもんみたいに見えた。
人間、のはずや。
顔も腕も足もある。
服らしきものも着ている。
でも、ワイの本能が全力で叫んでいた。
近づくな。
アレは駄目や。
そいつの周囲には、何かがいた。
いや、“いた”というより“浮かんでいた”。
見えないはずのものが、見えるような気がする。
空間に、無数の獣の影みたいなものが漂っている。
角のあるもの。
牙を剥いたもの。
鳥のようなもの。
虫のようなもの。
それらがすべて、その男の背後に従っているように見えた。
ワイの喉が、ごくりと鳴る。
「……なんや、あれ」
男は、ゆっくりとこちらを向いた。
その目と、合った。
瞬間。
全身の毛が逆立った。
ただ見られただけやのに、首筋に刃を当てられたみたいな冷たさが走る。
あかん。
これはあかん。
逃げろ。
今すぐ。
そう頭では思った。
でも足が動かん。
いや、違う。
動けんほど、目を離したら死ぬと理解していた。
男が、一歩踏み出す。
その瞬間、周囲の見えない影がざわりと蠢いた。
「……人か」
そいつが、そう言った。
言葉やった。
はっきりと、人の言葉。
けど、声の温度が人間のそれじゃない。
「妙な気配だな」
ワイの心臓が、嫌な音を立てる。
男は数歩進みながら、まるで道端の石でも見るみたいな目でワイを眺めた。
「獣でもなく、呪いでもなく……。面白い」
――呪い?
聞いたことのない言葉に、ワイの思考が一瞬だけ引っかかる。
けど、その隙がまずかった。
男の右手が、わずかに動いた。
次の瞬間には、何かが飛んできていた。
見えなかった。
見えた時には、もう遅かった。
――ドンッ!!
凄まじい衝撃。
視界が、一瞬で真っ赤に染まる。
「……え」
何が起きたのか、理解するより先に、景色が横に流れた。
身体が倒れる。
地面が近づく。
音が遠くなる。
なんか、軽い。
妙に、軽い。
その違和感の意味に気づくより早く、ワイの視界は完全に途切れた。
⸻
――頭が、吹き飛んでいた。
⸻
普通なら、そこで終わりだった。
どんな生き物でも。
どれだけ身体が頑丈でも。
頭を失えば、命はそこで途切れる。
思考は止まり、術式は途絶え、意識は二度と戻らない。
反転術式も例外ではない。
術式を回し、呪力を練り上げ、損傷を修復するという行為は、脳という演算器官を前提としている。
頭部を失った時点で、それは成立しない。
だからこそ、普通なら終わりだった。
だが――彼に起きた異常は、そうした常識の外側にあった。
⸻
“縛られていたもの”は、肉体ではなかった。
もっと深いところ。
もっと、彼そのものの核に近いところ。
魂。
肉体が壊れてもなお、そこだけは切れていない。
その一点だけが、まるで「まだ終わっていない」と言わんばかりに、そこに残っていた。
そして、それに引かれるように。
飛び散った肉片が。
砕けた骨が。
こぼれた血が。
ひとつの位置へと戻り始める。
それは治癒ではない。
再生でもない。
もっと根本的な、存在そのものの再構成だった。
まるで壊れた器を、時間を巻き戻すのではなく、**もう一度“作り直している”**かのように。
頭蓋が組み上がる。
神経が繋がる。
眼球が戻る。
皮膚が閉じる。
そうして彼の肉体は、魂の位置を起点として、再びこの世に定着していく。
それは生き物として、あまりにも逸脱していた。
⸻
男――後に彼が知ることになる名を、ドルゥヴ・ラクダワラという――は、その光景を静かに見下ろしていた。
周囲を漂う無数の式神がざわめく。
獣の影が低く唸り、
鳥の影が空気を裂き、
虫の群れが地を這う。
そのすべてが、再構成されていく肉体に対して警戒を示していた。
ドルゥヴの目が、わずかに細まる。
「……死後の縛りか。いや……」
そこで一度、言葉が止まる。
再生した身体が、ゆっくりと立ち上がる。
首が据わる。
肩が回る。
腕がぶらりと下がる。
だが、その姿にはもう、先ほどまでの戸惑いも、恐怖もなかった。
目の焦点が違う。
呼吸が違う。
立ち方が違う。
何より――空気が違った。
静かだった。
静かすぎるほどに。
怒りもない。
混乱もない。
恐怖もない。
ただ、そこに立っているだけで、周囲の空気だけが張り詰めていく。
ドルゥヴはそこで、ようやく結論を口にした。
「……そういう類か」
再生したそれは、答えない。
答える必要がないとでも言うように、ただ一歩前へ出た。
その一歩には、躊躇がなかった。
生き延びようとする動きですらない。
ただ、排除のためだけに最適化された何かが、そこに立っていた。
⸻
ドルゥヴの指先がわずかに動く。
次の瞬間、式神たちが一斉に襲いかかった。
狼のようなものが地を抉りながら迫り、
鳥のようなものが頭上から急降下し、
羽虫の群れが視界そのものを覆い尽くす。
だが『ワイ』は、それらを迎え撃たなかった。
最初から、真正面の一点だけを見ていた。
――ドルゥヴ。
次の瞬間、『ワイ』の身体が弾けた。
地面を踏み砕くほどの勢いで前へ出る。
一直線。
何もかもを無視して、ただ最短距離で。
上から鳥が来る。
『ワイ』は走りながら右腕を振るった。
指先に集まった蒼い光が、一瞬だけ刃の形を取る。
鳥型の式神が、首から先を断たれて霧散する。
だが速度は落ちない。
むしろ、そのまま加速する。
次の瞬間、足元から飛びかかってきた狼の影を、『ワイ』は踏み潰した。
頭蓋を砕くような鈍い音とともに、影が地面に押し潰される。
その反動すら利用して、さらに前へ。
羽虫の群れが顔面を覆おうとした瞬間には、身体が地面すれすれまで沈んでいた。
頬が土を掠めるほど低く。
それでも速度は死なない。
方向も、ぶれない。
最初から最後まで、『ワイ』の進行方向はただ一つだった。
――ドルゥヴの首元。
その異常な突進を見て、ドルゥヴの目が初めて鋭くなる。
「……そう来るか」
近接の心得が浅い者ほど、理解が早いこともある。
この距離で、この速度で、この質量を持った“何か”を正面から受けるのは悪手だと、彼は一瞬で判断した。
だからこそ、そこで迎撃ではなく、術式の本懐を切る。
式神が、散った。
空へ。
地へ。
森へ。
土の下へ。
あらゆる方向へ放たれた無数の影が、ひとつの意図を持って走る。
その軌跡が、円を描いた。
否。
ただ囲んだのではない。
通った場所そのものに、術式が“刻まれた”。
獣が走った線。
鳥が飛んだ線。
虫が這った線。
それらすべてが、空間に見えない傷のように残り、『ワイ』を包囲する。
次の瞬間。
狼の顎が、『ワイ』の肩に現れた。
前方にいたわけではない。
飛びかかってきたわけでもない。
ただ、肩に噛みついたという結果だけがそこに発生した。
肉が裂ける。
骨が軋む。
血が散る。
だが『ワイ』は止まらない。
続けて、鳥の爪痕が脇腹に走る。
羽虫の群れが首筋の肉を削る。
蛇の牙がふくらはぎを穿つ。
どれも予兆がない。
攻撃が来たのではない。
領域に触れた瞬間、攻撃が“成立した”。
それがドルゥヴの術式だった。
式神の軌跡を領域として刻み、その範囲に侵入した対象へ、式神の攻撃結果を必中で押し付ける。
結界で閉じるのではなく、軌跡そのものを領域とする原初的な必中領域。
それは未成熟でありながら、術式としては極めて完成度の高い殺しの形だった。
だが。
『ワイ』は、その必中の只中でなお止まらない。
肩を噛み砕かれながら前へ。
脇腹を裂かれながら前へ。
脚を穿たれながら前へ。
その異常な前進を見て、ドルゥヴの頬がわずかに引き攣る。
「……なるほど」
理解したのは術式の構造ではない。
この化け物に対して、通常の削り合いが意味を持たないという事実だった。
ならば。
それを押し潰すための手札が要る。
その時だった。
⸻
『ワイ』の左手が、静かに持ち上がる。
人差し指が、下を指す。
大地を貫くように。
悪魔を退けるように。
ただ一点、地を刺すための形。
――触地印。
あるいは、降魔印。
その印が結ばれた瞬間。
空気が、変わった。
⸻
蒼い光が、『ワイ』の左手から滲み出す。
それはこれまでのような武器生成とは違っていた。
刃を作るのではない。
武器を構築するのでもない。
もっと深い。
もっと、根本の発想。
相手の術式が“領域”として成立しているのなら、
こちらもまた、それに干渉し得る“場”を持つべきだと。
その答えが、形を持つ。
蒼い光が収束し、
細く、
長く、
静かに震えながら、
ひと振りの剣へと変わっていく。
それは剣の形をしている。
だが、本質は剣ではない。
それは“持てる領域”だった。
触れたものの構造を読み、
分解し、
呪いをほどき、
術式を崩し、
存在の成立そのものへ干渉するための、原初の結界術。
『ワイ』の手の中でのみ成立する、不完全な領域。
その名を――
⸻
涅槃(ニルバーナ)。
⸻
ドルゥヴの目が、そこで初めてはっきりと見開かれた。
「……ッ」
『ワイ』は、何も言わない。
ただ一歩、踏み込んだ。
その瞬間、ドルゥヴの領域が軋んだ。
肩に食い込んでいた狼の顎が、ぼろりと崩れる。
脇腹を裂いていた爪痕が、輪郭ごとほどける。
首筋にまとわりついていた羽虫の群れが、砂のように散る。
攻撃を防いだのではない。
成立していた必中そのものを、分解した。
領域に対して、領域が噛みつく。
『ワイ』の持つ涅槃は、ドルゥヴの軌跡領域へと干渉し、その術式構造を削り始めていた。
その異常性を理解した瞬間、ドルゥヴは完全に方針を切り替えた。
これ以上は付き合わない。
勝敗の前に、ここで近づかれること自体が悪手だと判断する。
判断は早かった。
頭上から翼竜めいた巨大な式神が滑空する。
同時に、地を這う獣の群れと、空を埋める鳥の群れが一斉に前へ出た。
壁。
ただの足止め。
だが、その一手としては極めて正しい。
『ワイ』が獣を踏み砕き、
鳥を斬り裂き、
そのまま一直線に突っ切ろうとした、その刹那にはもう遅い。
ドルゥヴは翼竜の背へ飛び乗っていた。
高度を取る。
距離を取る。
剣の間合いから、即座に逃れる。
そのうえでなお、別の式神たちが次々と『ワイ』の進路を塞ぎにかかる。
地上に留めるための足止め。
追撃を一瞬でも遅らせるためだけの捨て駒。
その徹底した切り替えを見て、『ワイ』は追う。
だが一瞬遅い。
ドルゥヴは上空から『ワイ』を見下ろし、頬に走った浅い裂傷を指で拭った。
血がつく。
その赤を見て、彼は小さく舌打ちした。
「チッ……化け物め」
その顔には、なお笑みがあった。
敗北の色ではない。
恐慌でもない。
ただ、計算を修正する時の術師の顔だった。
「一手違えば、首が飛んでいたな」
そう言って、ドルゥヴは笑う。
それは敗走の捨て台詞ではない。
次に活かすための、冷えた確認だった。
「覚えておこう」
その言葉を最後に、翼竜が大きく羽ばたく。
同時に周囲の式神たちが一斉に前へ出る。
空を塞ぎ、
視界を埋め、
地を揺らし、
追撃の一拍を奪うためだけに。
『ワイ』がそれらを薙ぎ払い、上空へ視線を向けた時には、もう彼の姿は遠ざかっていた。
蒼い空の向こうへ、小さくなっていく影。
そして――残された術式だけが、静かに崩れていく。
⸻
ドルゥヴの領域が、ほどける。
軌跡として刻まれていた見えない線が消え、
必中の圧が薄れ、
空気が元の重さへ戻っていく。
同時に、『ワイ』の手にあった涅槃もまた、静かに輪郭を失っていった。
蒼い光が、砂のように零れていく。
剣が消える。
それとともに、彼の身体からも、あの張り詰めた気配が少しずつ抜けていった。
危機が去った。
あるいは、少なくとも今この場においては、即応の必要がなくなった。
そう判断した何かが、表層から沈んでいく。
膝が、わずかに揺れる。
呼吸が戻る。
視界がぶれる。
そして――
⸻
「……うぇ?」
ワイの意識が、そこで戻った。
⸻
「……え、ちょ」
ぼんやりした頭で周囲を見回す。
地面、ボロボロ。
村、半壊どころじゃない。
なんかめちゃくちゃでかい爪痕。
血。
死体。
空気、最悪。
「……は?」
ワイはしばらく、その場で固まった。
記憶がない。
いや、うっすら嫌な感じはある。
ものすごく嫌な感じや。
でも、何があったのか全然わからん。
最後の記憶は、なんかヤバそうな男に見られて、
「妙な気配だな」みたいなこと言われて、
その次の瞬間にはもう今や。
「……え、ワイ死んだ?」
反射的に頭を触る。
ある。
ちゃんとある。
首もある。
顔もある。
なんなら怪我もない。
「……いや、あるな……」
あるのが逆に怖い。
なんでや。
絶対なんかやられたやろ今。
普通に終わった感じしたぞ。
でも、生きてる。
それどころか、身体の芯にはまだ妙な熱が残っている。
そして、右手の感覚が妙に気持ち悪い。
視線を落とす。
そこには、何もない。
何もない、はずやのに。
**“剣を握っていた名残”**だけが、手の中に残っていた。
「……なんや、これ」
ワイは空の手を開いたり閉じたりしながら、眉をひそめる。
その時、不意に脳裏に断片がよぎった。
男の声。
――覚えておこう。
「……いや待って」
「なんかめっちゃ大事なこと起きてへん?」
起きてる。
めっちゃ起きてる。
たぶん人生最大級に起きてる。
でも、何が起きたかがわからん。
しかも手元から離れへん感じの変な疲労感と、
妙にしっくり来る“見えない剣”の感覚だけが残ってる。
「……最悪や」
そう呟いて、ワイはその場にへたり込んだ。
遠くでは、まだ別の場所からも煙が上がっていた。
争いは終わっていない。
あの男も、どこかでまだ生きている。
そして何より。
この世界には、自分が思っていたよりずっと恐ろしいものが、確かに存在している。
ワイはその現実を、ようやく理解し始めていた。
――人の時代は、始まったばかりや。
そしてその裏で、怪物たちはもう、とっくに動き出していた。