呪術でワイは生き残るで!   作:ワイくん見守り隊

3 / 4
倭国大乱と、列島を踏みにじる怪物

人の暮らしを、遠くから眺める日々は、思っていたより長く続いた。

 

 春が来て、夏が来て、葉が落ちて、雪が積もる。

 それを何度も、何度も、何度も繰り返した。

 

 家は増えた。

 人も増えた。

 

 小さな集まりだったものが、やがて村になり、村がまた別の村と繋がり始める。

 人が道を作り、火を繋ぎ、土を耕し、ものを運び、言葉を交わし、争い、また生き延びる。

 

 ワイはその全部を、ずっと遠くから見ていた。

 

 相変わらず近づく勇気はなかった。

 

 槍がトラウマになっとるとかいう、何百万年生きてるやつにあるまじき理由である。

 せやけど、怖いもんは怖いんやからしゃーない。

 

「いや、だって普通に嫌やろ。助けたのに槍飛んでくるの」

 

 誰もいない山の中でそう呟いて、ワイは木の実をかじる。

 

 最近では、人の集落の近くに獣が寄れば追い払い、壊れた柵を夜中に直し、薪が足りなさそうなら近くに積んでおく、という謎の妖怪ムーブが完全に板についていた。

 

 人と話したことはない。

 でも、ワイの中ではもうそれでよかった。

 

 人がいる。

 同じような“力”を持ったやつも、たまにいる。

 

 それだけで、昔よりずっとマシやった。

 

 

 最初に気づいた異変は、村同士の距離感やった。

 

 昔はもっと、ぼんやりしていた。

 

 隣の村と物を交換して、たまに揉めて、でも基本的には「遠くに別の人がいる」くらいの感覚やったはずや。

 

 せやのに、ある頃から空気が変わった。

 

 人の行き来が増えた。

 見張りが増えた。

 槍を持つ男の数が増えた。

 村の周りに柵が増え、土を盛り、火を絶やさなくなった。

 

「……なんか、嫌な感じやな」

 

 山の上から集落を見下ろしながら、ワイはそう呟いた。

 

 風に乗って、人の怒鳴り声が聞こえる日が増えた。

 夜に火が上がる村もあった。

 血の匂いが、以前よりずっと遠くまで届くようになった。

 

 争いが始まっていた。

 

 いや、もともと小競り合いはあったんやろう。

 せやけどこれは、そういうのとは違う。

 

 もっと大きい。

 もっと広い。

 もっと、時代そのものがざわついている感じやった。

 

 後にそれが、国が乱れ、各地が争い、王が生まれては潰え、生き残ったものが名を持ち始める時代のうねりやったのだと、ワイは知ることになる。

 

 けど、その時のワイにはそんなことわからん。

 

 ただひたすらに、嫌な予感だけがしていた。

 

 

 そんな中で、ワイは少しずつ確信し始めていた。

 

 **“ワイと似たような力を持つ人間”**は、思っていたよりいる。

 

 もちろん数は少ない。

 村に一人いるかいないかくらいや。

 

 でも確かにいる。

 

 火の勢いを妙に操るやつ。

 石を異様な速度で飛ばすやつ。

 獣の気配を遠くから察知するやつ。

 怪我の治りが異常に早いやつ。

 

 みんな、使い方はバラバラやった。

 そもそも本人らも、それを特別なものとして認識しとるのか怪しい。

 

 ただ「できる」から使ってる、くらいの感じや。

 

 でもワイにはわかった。

 

 あれはワイの蒼い光と、根っこのところで繋がってる。

 

「……おるんやな、こういうの」

 

 嬉しかった。

 

 そして同時に、少しだけ安心した。

 

 ワイだけが異常やない。

 ワイだけが、何かおかしいわけやない。

 

 せやからこそ、余計に思ってしまった。

 

 ――なら、いつか混ざれるんやろか。

 

 人の中に。

 普通に。

 笑って、飯食って、話して。

 

 そういうことを、ワイにもできる日が来るんやろか。

 

 まあ、そのたびに脳裏に槍が飛んでくるので、結局は遠巻きに眺めるだけで終わるんやけど。

 

「……まず“見た目が怪しくない”をクリアしてからやな」

 

 何百万年も山野を徘徊しとるやつの見た目が怪しくないわけない。

 

 詰みである。

 

 

 それでも、世界は勝手に進んでいく。

 

 村は群れになり、群れは勢力になり、勢力は名を持ち始めた。

 

 やがて、ある土地を中心に人が集まり、祭祀や占い、戦いを束ねる者たちが現れ始める。

 

 人の数が増えれば増えるほど、

 人の願いも、恐れも、恨みも、欲も増える。

 

 そしてそれに呼ばれるように、

 ワイが「なんか気持ち悪い」と感じる化け物の数も、少しずつ増えていった。

 

 獣でもない。

 人でもない。

 けど、人の近くに寄ってくる異形。

 

 昔よりはっきりしていた。

 

 あれは人の営みの濃いところほど現れやすい。

 

 火があり、声があり、願いがあり、怒りがあり、悲しみがある場所ほど、ああいうのは生まれる。

 

「……人間って、めんどくさいな」

 

 そのくせワイ自身も人に惹かれてるんやから、ほんまどうしようもない。

 

 

 ある日、いつものように山から平地を眺めていた時やった。

 

 妙なものが見えた。

 

 遠くの地平線の向こう。

 村の一つが、消えていた。

 

「……は?」

 

 思わず目を細める。

 

 昨日まで煙が上がっていた場所や。

 人もおった。

 火もあった。

 それが今日見たら、何もない。

 

 いや、正確には違う。

 

 あるにはある。

 

 ただ、全部が壊れていた。

 

 家が潰れ、木が倒れ、地面が抉れている。

 人の気配も、生き物の気配も、ほとんど残っていない。

 

 ワイは嫌な汗をかいた。

 

「……なんや、これ」

 

 獣に荒らされたにしては、規模がでかすぎる。

 洪水や火事とも違う。

 

 もっとこう、意図的に壊された跡やった。

 

 しかも、ただの人間がやった感じではない。

 

 ワイはそのまま、地を蹴った。

 

 木々を飛び越え、川を越え、土を蹴り上げながら一気に現場へ向かう。

 

 昔よりずっと身体が軽い。

 足も速い。

 呼吸も乱れにくい。

 

 気づけば、そういうのが当たり前になっていた。

 

 けど今はそんなことどうでもよかった。

 

 ただ、胸の奥がざわざわしていた。

 

 あの嫌な感じ。

 あの、何かが“おかしい”時の感覚が、どんどん強くなっていく。

 

 

 そこは、地獄やった。

 

 近づくにつれて、まず匂いがした。

 

 血。

 焼けた木。

 内臓。

 泥。

 死。

 

 村だったものは、跡形もなく踏み潰されていた。

 

 家はひしゃげ、地面には巨大な爪痕みたいな筋が何本も走っている。

 人の身体もあった。

 

 いや、身体と呼ぶのもおこがましいくらい、雑に壊されていた。

 

「……っ」

 

 胃がひっくり返るような感覚に、ワイは口元を押さえた。

 

 ワイはこれまでにも死体は見てきた。

 獣に食われたやつも、争いで死んだやつも、何度も見てきた。

 

 でもこれは、違う。

 

 “殺された”んやない。

 

 “潰された”んや。

 

 そこに感情も、躊躇も、意味もない。

 ただ圧倒的な力で、雑に、ついでみたいに踏みにじられた跡やった。

 

「なんや……なんやねん、これ……」

 

 足元の土を踏みしめながら、ワイは震える声を漏らす。

 

 その時や。

 

 ――ズゥン。

 

 遠くで、大地が鳴った。

 

 ワイは反射的に顔を上げる。

 

 森の向こう。

 丘の先。

 

 そこに、いた。

 

 

 最初に見えたのは、影やった。

 

 人型。

 でも、でかい。

 

 いや、でかいというより――圧が異常やった。

 

 そいつは一人で立っていた。

 周囲には何もない。

 何人もの死体が転がっているだけや。

 

 なのに、その一人がいるだけで、景色全体がそいつのもんみたいに見えた。

 

 人間、のはずや。

 

 顔も腕も足もある。

 服らしきものも着ている。

 

 でも、ワイの本能が全力で叫んでいた。

 

 近づくな。

 アレは駄目や。

 

 そいつの周囲には、何かがいた。

 

 いや、“いた”というより“浮かんでいた”。

 

 見えないはずのものが、見えるような気がする。

 空間に、無数の獣の影みたいなものが漂っている。

 

 角のあるもの。

 牙を剥いたもの。

 鳥のようなもの。

 虫のようなもの。

 

 それらがすべて、その男の背後に従っているように見えた。

 

 ワイの喉が、ごくりと鳴る。

 

「……なんや、あれ」

 

 男は、ゆっくりとこちらを向いた。

 

 その目と、合った。

 

 瞬間。

 

 全身の毛が逆立った。

 

 ただ見られただけやのに、首筋に刃を当てられたみたいな冷たさが走る。

 

 あかん。

 

 これはあかん。

 

 逃げろ。

 

 今すぐ。

 

 そう頭では思った。

 

 でも足が動かん。

 

 いや、違う。

 

 動けんほど、目を離したら死ぬと理解していた。

 

 男が、一歩踏み出す。

 

 その瞬間、周囲の見えない影がざわりと蠢いた。

 

「……人か」

 

 そいつが、そう言った。

 

 言葉やった。

 はっきりと、人の言葉。

 

 けど、声の温度が人間のそれじゃない。

 

「妙な気配だな」

 

 ワイの心臓が、嫌な音を立てる。

 

 男は数歩進みながら、まるで道端の石でも見るみたいな目でワイを眺めた。

 

「獣でもなく、呪いでもなく……。面白い」

 

 ――呪い?

 

 聞いたことのない言葉に、ワイの思考が一瞬だけ引っかかる。

 

 けど、その隙がまずかった。

 

 男の右手が、わずかに動いた。

 

 次の瞬間には、何かが飛んできていた。

 

 見えなかった。

 

 見えた時には、もう遅かった。

 

 ――ドンッ!!

 

 凄まじい衝撃。

 

 視界が、一瞬で真っ赤に染まる。

 

「……え」

 

 何が起きたのか、理解するより先に、景色が横に流れた。

 

 身体が倒れる。

 地面が近づく。

 音が遠くなる。

 

 なんか、軽い。

 

 妙に、軽い。

 

 その違和感の意味に気づくより早く、ワイの視界は完全に途切れた。

 

 

 ――頭が、吹き飛んでいた。

 

 

 普通なら、そこで終わりだった。

 

 どんな生き物でも。

 どれだけ身体が頑丈でも。

 頭を失えば、命はそこで途切れる。

 

 思考は止まり、術式は途絶え、意識は二度と戻らない。

 

 反転術式も例外ではない。

 

 術式を回し、呪力を練り上げ、損傷を修復するという行為は、脳という演算器官を前提としている。

 頭部を失った時点で、それは成立しない。

 

 だからこそ、普通なら終わりだった。

 

 だが――彼に起きた異常は、そうした常識の外側にあった。

 

 

 “縛られていたもの”は、肉体ではなかった。

 

 もっと深いところ。

 もっと、彼そのものの核に近いところ。

 

 魂。

 

 肉体が壊れてもなお、そこだけは切れていない。

 その一点だけが、まるで「まだ終わっていない」と言わんばかりに、そこに残っていた。

 

 そして、それに引かれるように。

 

 飛び散った肉片が。

 砕けた骨が。

 こぼれた血が。

 

 ひとつの位置へと戻り始める。

 

 それは治癒ではない。

 

 再生でもない。

 

 もっと根本的な、存在そのものの再構成だった。

 

 まるで壊れた器を、時間を巻き戻すのではなく、**もう一度“作り直している”**かのように。

 

 頭蓋が組み上がる。

 神経が繋がる。

 眼球が戻る。

 皮膚が閉じる。

 

 そうして彼の肉体は、魂の位置を起点として、再びこの世に定着していく。

 

 それは生き物として、あまりにも逸脱していた。

 

 

 男――後に彼が知ることになる名を、ドルゥヴ・ラクダワラという――は、その光景を静かに見下ろしていた。

 

 周囲を漂う無数の式神がざわめく。

 

 獣の影が低く唸り、

 鳥の影が空気を裂き、

 虫の群れが地を這う。

 

 そのすべてが、再構成されていく肉体に対して警戒を示していた。

 

 ドルゥヴの目が、わずかに細まる。

 

「……死後の縛りか。いや……」

 

 そこで一度、言葉が止まる。

 

 再生した身体が、ゆっくりと立ち上がる。

 

 首が据わる。

 肩が回る。

 腕がぶらりと下がる。

 

 だが、その姿にはもう、先ほどまでの戸惑いも、恐怖もなかった。

 

 目の焦点が違う。

 呼吸が違う。

 立ち方が違う。

 

 何より――空気が違った。

 

 静かだった。

 

 静かすぎるほどに。

 

 怒りもない。

 混乱もない。

 恐怖もない。

 

 ただ、そこに立っているだけで、周囲の空気だけが張り詰めていく。

 

 ドルゥヴはそこで、ようやく結論を口にした。

 

「……そういう類か」

 

 再生したそれは、答えない。

 

 答える必要がないとでも言うように、ただ一歩前へ出た。

 

 その一歩には、躊躇がなかった。

 

 生き延びようとする動きですらない。

 

 ただ、排除のためだけに最適化された何かが、そこに立っていた。

 

 

 ドルゥヴの指先がわずかに動く。

 

 次の瞬間、式神たちが一斉に襲いかかった。

 

 狼のようなものが地を抉りながら迫り、

 鳥のようなものが頭上から急降下し、

 羽虫の群れが視界そのものを覆い尽くす。

 

 だが『ワイ』は、それらを迎え撃たなかった。

 

 最初から、真正面の一点だけを見ていた。

 

 ――ドルゥヴ。

 

 次の瞬間、『ワイ』の身体が弾けた。

 

 地面を踏み砕くほどの勢いで前へ出る。

 

 一直線。

 

 何もかもを無視して、ただ最短距離で。

 

 上から鳥が来る。

 

 『ワイ』は走りながら右腕を振るった。

 

 指先に集まった蒼い光が、一瞬だけ刃の形を取る。

 

 鳥型の式神が、首から先を断たれて霧散する。

 

 だが速度は落ちない。

 

 むしろ、そのまま加速する。

 

 次の瞬間、足元から飛びかかってきた狼の影を、『ワイ』は踏み潰した。

 

 頭蓋を砕くような鈍い音とともに、影が地面に押し潰される。

 

 その反動すら利用して、さらに前へ。

 

 羽虫の群れが顔面を覆おうとした瞬間には、身体が地面すれすれまで沈んでいた。

 

 頬が土を掠めるほど低く。

 

 それでも速度は死なない。

 

 方向も、ぶれない。

 

 最初から最後まで、『ワイ』の進行方向はただ一つだった。

 

 ――ドルゥヴの首元。

 

 その異常な突進を見て、ドルゥヴの目が初めて鋭くなる。

 

「……そう来るか」

 

 近接の心得が浅い者ほど、理解が早いこともある。

 

 この距離で、この速度で、この質量を持った“何か”を正面から受けるのは悪手だと、彼は一瞬で判断した。

 

 だからこそ、そこで迎撃ではなく、術式の本懐を切る。

 

 式神が、散った。

 

 空へ。

 地へ。

 森へ。

 土の下へ。

 

 あらゆる方向へ放たれた無数の影が、ひとつの意図を持って走る。

 

 その軌跡が、円を描いた。

 

 否。

 

 ただ囲んだのではない。

 

 通った場所そのものに、術式が“刻まれた”。

 

 獣が走った線。

 鳥が飛んだ線。

 虫が這った線。

 

 それらすべてが、空間に見えない傷のように残り、『ワイ』を包囲する。

 

 次の瞬間。

 

 狼の顎が、『ワイ』の肩に現れた。

 

 前方にいたわけではない。

 飛びかかってきたわけでもない。

 

 ただ、肩に噛みついたという結果だけがそこに発生した。

 

 肉が裂ける。

 骨が軋む。

 血が散る。

 

 だが『ワイ』は止まらない。

 

 続けて、鳥の爪痕が脇腹に走る。

 羽虫の群れが首筋の肉を削る。

 蛇の牙がふくらはぎを穿つ。

 

 どれも予兆がない。

 

 攻撃が来たのではない。

 領域に触れた瞬間、攻撃が“成立した”。

 

 それがドルゥヴの術式だった。

 

 式神の軌跡を領域として刻み、その範囲に侵入した対象へ、式神の攻撃結果を必中で押し付ける。

 

 結界で閉じるのではなく、軌跡そのものを領域とする原初的な必中領域。

 

 それは未成熟でありながら、術式としては極めて完成度の高い殺しの形だった。

 

 だが。

 

 『ワイ』は、その必中の只中でなお止まらない。

 

 肩を噛み砕かれながら前へ。

 脇腹を裂かれながら前へ。

 脚を穿たれながら前へ。

 

 その異常な前進を見て、ドルゥヴの頬がわずかに引き攣る。

 

「……なるほど」

 

 理解したのは術式の構造ではない。

 

 この化け物に対して、通常の削り合いが意味を持たないという事実だった。

 

 ならば。

 

 それを押し潰すための手札が要る。

 

 その時だった。

 

 

 『ワイ』の左手が、静かに持ち上がる。

 

 人差し指が、下を指す。

 

 大地を貫くように。

 悪魔を退けるように。

 ただ一点、地を刺すための形。

 

 ――触地印。

 

 あるいは、降魔印。

 

 その印が結ばれた瞬間。

 

 空気が、変わった。

 

 

 蒼い光が、『ワイ』の左手から滲み出す。

 

 それはこれまでのような武器生成とは違っていた。

 

 刃を作るのではない。

 武器を構築するのでもない。

 

 もっと深い。

 もっと、根本の発想。

 

 相手の術式が“領域”として成立しているのなら、

 こちらもまた、それに干渉し得る“場”を持つべきだと。

 

 その答えが、形を持つ。

 

 蒼い光が収束し、

 細く、

 長く、

 静かに震えながら、

 ひと振りの剣へと変わっていく。

 

 それは剣の形をしている。

 

 だが、本質は剣ではない。

 

 それは“持てる領域”だった。

 

 触れたものの構造を読み、

 分解し、

 呪いをほどき、

 術式を崩し、

 存在の成立そのものへ干渉するための、原初の結界術。

 

 『ワイ』の手の中でのみ成立する、不完全な領域。

 

 その名を――

 

 

 涅槃(ニルバーナ)。

 

 

 ドルゥヴの目が、そこで初めてはっきりと見開かれた。

 

「……ッ」

 

 『ワイ』は、何も言わない。

 

 ただ一歩、踏み込んだ。

 

 その瞬間、ドルゥヴの領域が軋んだ。

 

 肩に食い込んでいた狼の顎が、ぼろりと崩れる。

 脇腹を裂いていた爪痕が、輪郭ごとほどける。

 首筋にまとわりついていた羽虫の群れが、砂のように散る。

 

 攻撃を防いだのではない。

 

 成立していた必中そのものを、分解した。

 

 領域に対して、領域が噛みつく。

 

 『ワイ』の持つ涅槃は、ドルゥヴの軌跡領域へと干渉し、その術式構造を削り始めていた。

 

 その異常性を理解した瞬間、ドルゥヴは完全に方針を切り替えた。

 

 これ以上は付き合わない。

 

 勝敗の前に、ここで近づかれること自体が悪手だと判断する。

 

 判断は早かった。

 

 頭上から翼竜めいた巨大な式神が滑空する。

 

 同時に、地を這う獣の群れと、空を埋める鳥の群れが一斉に前へ出た。

 

 壁。

 

 ただの足止め。

 

 だが、その一手としては極めて正しい。

 

 『ワイ』が獣を踏み砕き、

 鳥を斬り裂き、

 そのまま一直線に突っ切ろうとした、その刹那にはもう遅い。

 

 ドルゥヴは翼竜の背へ飛び乗っていた。

 

 高度を取る。

 距離を取る。

 

 剣の間合いから、即座に逃れる。

 

 そのうえでなお、別の式神たちが次々と『ワイ』の進路を塞ぎにかかる。

 

 地上に留めるための足止め。

 追撃を一瞬でも遅らせるためだけの捨て駒。

 

 その徹底した切り替えを見て、『ワイ』は追う。

 

 だが一瞬遅い。

 

 ドルゥヴは上空から『ワイ』を見下ろし、頬に走った浅い裂傷を指で拭った。

 

 血がつく。

 

 その赤を見て、彼は小さく舌打ちした。

 

「チッ……化け物め」

 

 その顔には、なお笑みがあった。

 

 敗北の色ではない。

 恐慌でもない。

 

 ただ、計算を修正する時の術師の顔だった。

 

「一手違えば、首が飛んでいたな」

 

 そう言って、ドルゥヴは笑う。

 

 それは敗走の捨て台詞ではない。

 

 次に活かすための、冷えた確認だった。

 

「覚えておこう」

 

 その言葉を最後に、翼竜が大きく羽ばたく。

 

 同時に周囲の式神たちが一斉に前へ出る。

 

 空を塞ぎ、

 視界を埋め、

 地を揺らし、

 追撃の一拍を奪うためだけに。

 

 『ワイ』がそれらを薙ぎ払い、上空へ視線を向けた時には、もう彼の姿は遠ざかっていた。

 

 蒼い空の向こうへ、小さくなっていく影。

 

 そして――残された術式だけが、静かに崩れていく。

 

 

 ドルゥヴの領域が、ほどける。

 

 軌跡として刻まれていた見えない線が消え、

 必中の圧が薄れ、

 空気が元の重さへ戻っていく。

 

 同時に、『ワイ』の手にあった涅槃もまた、静かに輪郭を失っていった。

 

 蒼い光が、砂のように零れていく。

 

 剣が消える。

 

 それとともに、彼の身体からも、あの張り詰めた気配が少しずつ抜けていった。

 

 危機が去った。

 

 あるいは、少なくとも今この場においては、即応の必要がなくなった。

 

 そう判断した何かが、表層から沈んでいく。

 

 膝が、わずかに揺れる。

 

 呼吸が戻る。

 視界がぶれる。

 

 そして――

 

 

「……うぇ?」

 

 ワイの意識が、そこで戻った。

 

 

「……え、ちょ」

 

 ぼんやりした頭で周囲を見回す。

 

 地面、ボロボロ。

 村、半壊どころじゃない。

 なんかめちゃくちゃでかい爪痕。

 血。

 死体。

 空気、最悪。

 

「……は?」

 

 ワイはしばらく、その場で固まった。

 

 記憶がない。

 

 いや、うっすら嫌な感じはある。

 ものすごく嫌な感じや。

 でも、何があったのか全然わからん。

 

 最後の記憶は、なんかヤバそうな男に見られて、

 「妙な気配だな」みたいなこと言われて、

 その次の瞬間にはもう今や。

 

「……え、ワイ死んだ?」

 

 反射的に頭を触る。

 

 ある。

 

 ちゃんとある。

 

 首もある。

 顔もある。

 なんなら怪我もない。

 

「……いや、あるな……」

 

 あるのが逆に怖い。

 

 なんでや。

 

 絶対なんかやられたやろ今。

 普通に終わった感じしたぞ。

 

 でも、生きてる。

 

 それどころか、身体の芯にはまだ妙な熱が残っている。

 

 そして、右手の感覚が妙に気持ち悪い。

 

 視線を落とす。

 

 そこには、何もない。

 

 何もない、はずやのに。

 

 **“剣を握っていた名残”**だけが、手の中に残っていた。

 

「……なんや、これ」

 

 ワイは空の手を開いたり閉じたりしながら、眉をひそめる。

 

 その時、不意に脳裏に断片がよぎった。

 

 男の声。

 

 ――覚えておこう。

 

「……いや待って」

 

「なんかめっちゃ大事なこと起きてへん?」

 

 起きてる。

 めっちゃ起きてる。

 

 たぶん人生最大級に起きてる。

 

 でも、何が起きたかがわからん。

 

 しかも手元から離れへん感じの変な疲労感と、

 妙にしっくり来る“見えない剣”の感覚だけが残ってる。

 

「……最悪や」

 

 そう呟いて、ワイはその場にへたり込んだ。

 

 遠くでは、まだ別の場所からも煙が上がっていた。

 

 争いは終わっていない。

 あの男も、どこかでまだ生きている。

 

 そして何より。

 

 この世界には、自分が思っていたよりずっと恐ろしいものが、確かに存在している。

 

 ワイはその現実を、ようやく理解し始めていた。

 

 ――人の時代は、始まったばかりや。

 

 そしてその裏で、怪物たちはもう、とっくに動き出していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。