勝利の女神:NIKKE ~Silent/Ratio~ 作:zaq2
『昼食を用意しました』
青白いホログラムの姿を前に、一瞬だけ言葉を失っていると、M.O.T.H.E.R.は穏やかな微笑を崩さないままそう言った。
それに応じるように、近くの通路から小型の配膳端末が現れる。
運ばれてきたのは、手でつまめる軽食と飲み物だった。
薄いパンに具材を挟んだ、簡素だが見た目にも整ったもの。
果実を使った甘いものらしい小さな添え物まである。
「……なんか、こんな場所でこんな料理だと、ほんとにピクニックみたいね」
「地下施設の中で、って考えると不思議ですけど」
「でも、悪くはないわ」
アニスとネオンとラピが、それぞれ感想をこぼす。
庭園の空気は、ここまで歩いてきた通路とは明らかに違っていた。
高い天井。
手入れされた緑。
わずかな水の気配。
空そのものはない。
だが、閉ざされた地下の中で、ここだけは“外”を思い出させるように作られている。
「この場所って、何のためにあるの?」
「生活区画とも違うんですよね?」
『ここは中央区画の庭園です』
M.O.T.H.E.R.が静かに答える。
『元は、来訪者の受け入れ、閉鎖環境への順応補助、そして本棟区画へ入る前の緩衝空間として用いられていました』
[緩衝空間?]
『はい、そう……なります。また、長く地下に留まる者にとって、閉鎖感は心身に影響します。そのための調整区画でもあります』
言われてみれば、ここへ来た瞬間、呼吸が少しだけ楽になった気がした。
地下施設の中にいるはずなのに、圧迫感が薄い。
「じゃあ、昔はもっとちゃんと使われてたってこと?」
『おっしゃる通りで、今よりも、ずっと……』
その短い答えだけで、この場所が長い時間を経て今の姿になったことが伝わってくる。
軽食を口に運びながら、ふと姉妹へ目を向ける。
二人はこの空間の中でも自然にそこにいた。
まるで、この場所そのものの一部のようだった。
その姿を見て、ふと頭によぎった疑問が口に出た。
[……二人は、ここから出ようとは思わなかったのか?]
問いを向けると、ロージィが一瞬だけ動きを止めた。
スノーウィも、すぐには答えなかったが、一拍置いてから言葉を発した。
「……私たちは“センチネル”だから」
先に口を開いたのはスノーウィだった。
だが、その言い方だけでは答えになっていないことを、自分でも分かっているようだった。
「だから、ここに残るようにできてるの。離れることを、前提にしていないの」
[それはいったい、どういう――]
そこまで口にしかけた時だった。
『シャワールームの点検が完了しました。現在より使用可能です。併設ランドリーも利用できます。希望しますか』
「いくっ!!」
ほとんど反射だった。
アニスが即答する。
「いくいく、絶対いく。今すぐいく」
「早っ」
「当然でしょ。もう限界だったのよ、こっちは!」
ネオンまで少し目を輝かせる。
「ほぅ、ランドリーも使えるんですか?」
『はい。ただし、旧運用の名残で利用順には制限があります。まずは女性用区画から開放します』
『そのため、男性用区画は、その後に使用してください』
アニスが勢いよくうなずいた。
「よっしゃー! それぐらいなら問題なし!! 使えるなら十分よ!!!」
ラピは小さく息をつきつつも、どこか諦めたように肩を落とした。
「では指揮官様、先に使わせてもらっちうわね」
[ああ。俺はあとでいい]
「師匠も、あとでちゃんと使ってくださいね」
[わかってる]
M.O.T.H.E.R.は姉妹へ視線を向ける。
『スノーウィ、ロージィ。扱いを説明してあげてください』
「……わかりました」
「おう。んじゃ、案内してやるよ」
アニスが「シャワ~シャワ~♪」と口ずさみながら、カウンターズの面々と姉妹は庭園の奥の通路へ消えていった。
残ったのは、自分とM.O.T.H.E.R.だけだった。
さっきまでの柔らかい空気が、どことなく変わった感じがした。
庭園の緑は変わらずそこにあるのに、静けさの質だけが少し違うような……
M.O.T.H.E.R.はしばらく何も言わず、去っていった通路の先を見ていた。
やがて、こちらへ視線を戻す。
『先ほどの問いに、あの子たちはうまく答えられなかったでしょう』
[……ここから出ようとは思わなかったのか、という質問のことか]
『ええ』
青白いホログラムの光が、わずかに揺れる。
それは表情の変化というより、記録の奥底から何かを掬い上げる時のようにも見えた。
『この施設は、はじめから今のような姿だったわけではありません』
『ここは本来、研究と管理のための場所でした』
『ですが、戦況の悪化にともない、逃げてきた人たちを受け入れ、長く暮らすための場所へもなっていきました』
[それは……避難してきた人を受け入れていたということか]
『はい。少人数の短期滞在ではなく、長く留まる者たちを』
その声は淡々としている。
だが、ただの経緯説明にしては、どこか静かすぎた。
『食事があり、眠る場所があり、洗濯をして、体を洗い、子どもが走り、年を取る者がいた』
『ここには、普通の生活がありました』
視線の先には、庭園の緑がある。
手入れされ続けたその景色が、かえってその言葉を現実味のあるものにしていた。
『ですが、すべてが穏やかだったわけではありません』
その一言で、空気の温度が少しだけ変わる。
『最初に大きく傷ついたのは、身体でした』
M.O.T.H.E.R.はそこで一度言葉を切った。
視線を伏せるようにして、言葉を続ける。
『活発なあの子は、その逃げてきた人たちを助けに向かいました。自分が行くべきだと、そう判断したのでしょう』
『結果として、救えた者はいました』
『ですが、その代償として、あの子は元には戻らない傷を負いました』
短い沈黙。
『そして、もう一人は、それを止めきれなかった』
『助かった命はありました。ですから、あの行動そのものを誤りと断じることはできません』
『ですが、あの時から、あの子たちは別々の傷を負ったのです』
庭園に吹くはずのない風の気配が、なぜかそこにあるように感じられた。
『その後も、ここでの生活は続きました』
M.O.T.H.E.R.は静かに続ける。
『長く地下に留まる生活は、人を、心を摩耗させます』
『皆が同じままでいられたわけではありません』
『ここを去った者たちもいました』
[去っていった者たちがいたのか]
『はい』
それ以上の詳細は語らなかったが、それで十分だった。
『残った者たちも、やがて老い、病み、別れが訪れました』
『普通に生きるということは、それだけ多くの別れを含むのだと、私はこの場所で繰り返し見てきました』
視線が、緑の向こうのどこか遠くへ向けられる。
『本来なら、あの子たちは背負わなくてよかったはずのものまで背負いました』
青白い光の輪郭が、ほんのわずかに揺れる。
『ここを守ること』
『去っていく者を見送ること』
『残された者の暮らしを支えること』
『そして、失われたあとの静けさに耐えること』
[……]
『私は、それをあの子たちに背負わせてしまった』
言葉は穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって重い。
『母として、悔いています』
その一言だけは、管理者の声ではなかった。
『守ったものもありました』
『救えた命もありました』
『けれど、守れなかった普通がある』
『奪わずに済んだはずの時間がある』
M.O.T.H.E.R.は、まっすぐこちらを見た。
『あの子たちは、ここを護るよう作られ、ここに残るよう生きてきました』
『それが役目であり、存在理由でもあったからです』
[……だから、ここから出るという発想そのものが薄いのか]
『ええ。ですが、それだけではありません』
わずかな間。
『ここには、残してしまったものが、あまりにも多く、重すぎるのです。それは、足枷のように……』
その言葉は、姉妹だけに向けたものではないように聞こえた。
この場所そのものに、長い時間の中で沈んでいった何かすべてを含んでいるようだった。
『あなたには、今の話を覚えておいてほしいのです』
[なぜ自分に?]
『外から来た人だからです』
即答だった。
『この場所ではない外を知り、今を知り、それでもなお、あの子たちを見てくれるかもしれない人だから』
それは依頼というより、確認にも近かった。
まだ核心には触れていない。
だが、何かを託そうとしている響きがあった。
[それは、二人を連れ出せという……?]
『今は……』
庭園は変わらず穏やかだった。
緑も、光も、静かな水の気配もある。
なのに、その中にいるほど、ここがただ安らかな場所ではないことだけがはっきりしていく。
やがて、奥の通路から、案内を終えたらしい白い人影が先に戻ってきた。
M.O.T.H.E.R.は、その気配に気づいたのか、言葉をそこで切った。
『……続きは、また』
そう言った時にはもう、彼女の声はいつもの穏やかな管理者のものへ戻っていた。
〇遺失物
・研究者ログ群03
【研究者ログ:浸食適応実験体試験報告】
対応系統:コードS / コードR
浸食適応実験体に対する干渉試験を実施。
コードS系統は侵入・同調・制御補助に応答を示すも、深部干渉強度は限定的。
コードR系統は偏向出力および書換反応において優位性を確認。
ただし、当該系統は保持安定性に課題を残す。
結論:
主軸運用はコードRを優先。
コードS系統は補助制御・同期安定化用途として併用継続。
記録終端破損。
追記:
研究凍結措置に伴い、該当系統名データは破棄対象へ指定。
当該名称領域は抹消処理済み。