―――ガウッ!
不意に、巨狼が短く
その意図を察し、モニカは手綱を引いて減速するよう指示を出した。
疾走から一転して、巨狼と二人の
人間の匂い。
人間の血の匂い。
食欲を刺激する
程なくして、目的の
暗い森の中を、一人の少女が歩いていた。
女性型の
彼女が手に掲げたランプの明かりが、森の闇を円形に切り取っている。
青白い光が照らし出す小柄な肢体は細く、それでいてしなやかだった。コルセットで絞られた腰は魅惑的な
彼女が身に着けているのは何の変哲もない給仕服だが、腰から下が不自然な赤い
袋には解体されてから間もない新鮮な肉が詰められている。強烈な鉄錆の臭いを辺りに巻き散らしながら、少女は黙々と森の中を前進していた。
―――明らかな
(あんなあからさまな手に引っかかると本気で思われてんのか、あたし達は!)
端整な顔を苛立ちに染め上げ、怒りを通り越して呆れ返る。
人間は亜人を差別する。
選民意識が強く、自分達と異なる種族である亜人を畜生と蔑んで
特に〈太陽〉を生み出し、天使の加護と御技を身に着けてからはその傾向が顕著になった。
無論、差別意識なら亜人側にもある。
そもそも〈太陽〉が現れる前は彼等こそが人間を家畜同然に扱っていたのだ。夜を追われ迫害される立場に堕ちた今でもそれは変わらず、自分達に比べて身体能力が大幅に劣る人間を見下す向きが強い。
しかし
陵辱するなど以っての他だ。
驕り高ぶった態度で、敵手を嘲笑うようなことはしない。
だからこそ――この罠を仕掛けた人間の
故に、モニカは
その後方――馬鹿な獣を釣ろうとほくそ笑んでいる、
(……数は二十弱。人間の騎士が二人。男と女。あとの残りは全員、
発達した嗅覚を武器に、冷静に敵情を分析する。
舌を鳴らして発する音の符号――タッピングで仲間に待機するよう命じてから、手綱を打ち、相棒に先陣を切るよう指示を出す。
山中を駆ける巨躯。迅速に、それでいて隠密に。
危険を冒す必要はない。このまま全速力で駆け抜けて、全速力で獲物を
気付かれないよう、迂回して森の中を行軍する。
モニカは樹脂製のレンズを
狼も同様に、黒い帯状の目隠しを頭部と首に巻いている。騎手が操るための装具を兼ねており、手綱はそこから伸びていた。
(―――今だ!)
手綱を打ち、獲物目掛けて騎獣を全速力で走らせる。
疾駆する巨狼。瞬く間の内に、彼我の距離が縮まる。
ゴーグル越しに映るモニカの視界に、鎧を装備した二人の人間と、簡易な軍服を着た
あと少しで牙が届く。
その瞬間―――
「―――
侮蔑と嘲笑に満ちた、悪意ある人間の声を聞いた。
「―――――ッ!?」
閃光。轟音。そして、衝撃。
視界が真っ白に塗り潰され、鼓膜が痺れて用を為さなくなる。突然の事態に、モニカの頭が酷く混乱した。分かることと言えば、全身を襲う打撲の痛みと、頬に触れる硬い感触だけ。
モニカの身体は、狼の背から地面の上へ放り出されていた。
「くそ……な、にが……」
くらくらと揺れる頭蓋。耳鳴りで頭が割れそうだ。
けれどそれも長くは続かない。視界は少しずつ色を取り戻し、焦点が合う。耳が正常に外界の音を拾うようになる。無論、鋭い嗅覚は健在だ。
獣の血の臭いはしない。相棒である狼が無事なことを悟り、モニカは安心する。
「アーズィヴァ……―――があっ!?」
隣に横たわった家族に手を伸ばそうとして。
指先が触れる前に、モニカの上半身が跳ねる。何者かによって顔面を蹴り上げられたのだ。
それが誰か――語るまでもない。
「おっと、靴が汚れてしまった。拭いてくれないか」
「お断りします。私もそのような穢れに触れたくはありません。ご自分の
お道化た男の声。それに応える女の声もまた、
鼻血が
ゴーグルの黒いレンズ越しに、目の前に立つ人間を
そこにいたのは、真紅の
手入れの行き届いた長い金髪を真ん中で分けて
端整な容貌は絵物語の騎士そのもの。
如何にも涼し気な優男だが、その印象に反して意外に筋骨隆々な性質であることが
だがその一方で、形の良い切れ長の眼に
闇を思わせる
貪欲な獣の眼。その本性が垣間見える眼だった。
その傍らには、女が控えている。
男と同様の金髪を、肩甲骨の辺りまで伸ばした女だ。
見惚れるほどの美貌とは裏腹に、その
二人は
防刃繊維で編み上げられた、先の尖ったフード付きの上等な僧衣の上に、手足や胸、胴などの要所のみに銀色の鎧を装備している。
そして上級の士官のみが着用を許される洒脱なデザインの蒼いコートを羽織っていた。
腰には剣。紛うことなき騎士だ。
ただ――黄金の男だけは、獅子を象った勲章を左胸に誇らし気に掲げていた。
二人と、彼等の供回りを務める
ゲヴランツとマジパナ。第005号砦を守護する精鋭である。
そして、彼等の頭上には―――
「―――おい。嘘だろ」
呆然とした声。
それが自分の喉から漏れたものだと、モニカは気付かなかった。
〈太陽〉が放つのと同じ青白い光が網膜を焼く。ちりちりとした不快な痛み。出力に差異はあれど、
顔に掛かる指の影。
その隙間から、そこに在るモノを見上げる。
天空を背に、悠然と浮遊するソレは……―――天使だった。