愛に飢えた女の子。今回の被害者兼加害者。
【倉下日景/くらした ひかげ】
ミヌエットの猫獣人の女の子(獣人が当たり前に存在する現代日本的な世界観)。今回の加害者兼被害者。
私の記憶の中にある幼い頃の風景は、いつもひどく静かで、ひどく色褪せていた。まるで、そこだけ分厚いガラスで覆われているかのように、外の世界の温度や喧騒が一切届かない、閉ざされた空間だった。
小学校に上がる少し前のことだ。両親が離婚し、私は父親に引き取られることになった。
子供の私に明確な理由が語られることはなかった。ただ、ある日を境に、当たり前のように家にいた母親の姿が忽然と消え、私たちの住む場所が真新しい高層マンションの一室へと変わった。それだけのことだ。
父親は、決して私のことを嫌っていたわけではないと思う。暴力を振るわれたこともなければ、生活に困窮するようなこともなかった。ただ、彼は昼夜を問わず仕事に追われ、月の半分は出張で家を空けていた。彼にとっての家は、生活を営む場所ではなく、ただ数時間の仮眠を取るためのただの箱でしかなかったのだろう。
『ごめんな、彼方。今日は遅くなる。冷蔵庫のものを温めて食べてくれ』
『来週から海外に飛ぶことになった。家政婦の須藤さんに頼んであるから、何かあったら言うんだぞ』
玄関先で靴を履きながら、あるいは電話越しに。そんな言葉と共に残されるのは、生活費としてダイニングテーブルに置かれた茶封筒と、広くて綺麗だけれど、生活の匂いが全くしない冷たい部屋だけだった。
週に数回、契約している家政婦さんがやってきて、掃除や洗濯、数日分の作り置きの食事を用意してくれた。彼女はとても仕事熱心で、礼儀正しく、丁寧な人だった。
けれど、彼女が私に向ける視線や優しい言葉の端々からは、あくまで「業務」として私に接しているのだという線引きが、幼い子供心にもはっきりと読み取れた。
事務的な微笑みと、完璧にこなされた家事。それは確かに生活を維持してはくれたが、決して部屋の空気を温めてはくれなかった。
だだっ広いリビングには、いつも点けっぱなしのテレビの音だけが、まるで耳鳴りのように空虚に響いていた。
高級な革張りのソファーの端に座っても、子供には大きなダイニングテーブルで一人きりの夕食をとっても、私の隣には誰もいない。
自分が惨めだとか、不遇であるとか、そういう風に考えたことは一度もなかった。泣き喚いて父親を困らせようとも思わなかった。ただ、私の生きる世界とはこういうものなのだと、子供ながらにひっそりと飲み込み、諦観していただけだ。
冷たくて、静かで、ただ時間が過ぎていくだけの灰色の世界。
私はよく、マンションの広いベランダに出て、冷たいコンクリートの床に直に座り込み、膝を抱えながらぼんやりと空を見上げていた。灰色の手すりの向こう側、風に乗って流れていく千切れ雲を目で追っていると、無機質な部屋の中にいるよりは、少しだけ時間が経つのが早くなるような気がしたからだ。
そんな私の、ひどく静謐で平坦な世界が、文字通り物理的に「こじ開けられた」のは、小学一年生になる直前の、春の生暖かい風が吹く日のことだった。
その日も、私はベランダの隅に座り、ただ流れる雲の形が変わっていくのを数えていた。
すると突然、隣の部屋のベランダから、パタパタという不規則で軽い足音と、何か硬いものをよじ登るようなガサゴソとした耳障りな音が聞こえてきた。
「んぅっと!……ねえ! 私、ひかげ! 一緒に遊ぼう!」
声に驚いて顔を上げると、隣との境界を隔てるプラスチック製の仕切り板の隙間から、ひょっこりと顔を出している少女がいた。
真っ白で、ふわふわとした、綿毛のように少し癖のある髪。
頭の頂点には、ピクピクとせわしなく動く、ふたつの白い三角形の耳。
そして、強い好奇心と意思を感じさせる、ビー玉のように澄んだ翠色の瞳。
私より少し下くらいだろうか、私より一回り小さくて、折れてしまいそうなほど華奢な獣人の女の子だった。猫の獣人のようで、手足も短めで全体的に丸みを帯びており、見た目よりも更に幼い印象を受ける。
「え……?」
「きみ、いっつもそこに一人でいるよね! 退屈じゃない? こっちにおいでよ、いや、私がそっちに行こっか!」
初対面だというのに、彼女は、一切の遠慮や躊躇というものを知らなかった。
あっけにとられている私の返事も待たず、彼女は「よいしょっと」という気の抜けた掛け声と共に、ひらりと仕切り板の上のわずかな隙間を潜り抜け(それは彼女の小柄で柔軟な体だからこそできる芸当だった)、私の家のベランダに堂々と降り立ったのだ。
背中の後ろでパタパタと揺れる真っ白な尻尾が、彼女の理由のわからない機嫌の良さを表しているようだった。
「お邪魔しまーす! わあ、きみの家も広いねぇ。お母さんとお父さんは? お仕事?」
「……お父さんは、出張。誰もいない」
「そっか! じゃあ、私が一緒にいてあげる!」
変な人だ、と心底思った。
図々しくて、距離感がおかしくて、他人のテリトリーに土足で、それも満面の笑みで踏み込んでくる人。
普通なら、警戒してすぐに追い出すべきなのだろう。実際、私は「帰って」と冷たく言い放とうとして、小さく息を吸い込んだ。けれど、日景の翠色の瞳が私を真っ直ぐに捉え、その口元に浮かんだ一切の裏表がない無垢な笑顔を見た瞬間、なぜかその拒絶の言葉は喉の奥に引っかかり、音にならずに消えてしまった。
それが、私と日景の出会いだった。
その春の日を境に、日景は当たり前のように私の家に入り浸るようになった。
小学校に入学し、同じクラスになっても、彼女のペースは変わらなかった。学校が終われば、自分の家にランドセルを放り投げるや否や、すぐに私の家のインターホンを連続で鳴らす。休みの日に至っては、朝から晩まで、まるでお気に入りの日向か、クッションでも見つけた猫のように、私の家のリビングに我が物顔で居座った。
「彼方〜、このゲームのこの面、どうしてもクリアできない〜。やって〜」
「ちょっと、ひかげ。ポテトチップスの袋を開けっぱなしにしないで。カーペットにこぼれてるよ」
「えへへ、ごめんごめん。彼方、お掃除上手だねぇ」
ソファーの上でクッションを抱き込み、ゴロゴロと寝転がりながらお菓子をかじる日景。彼女は基本的に動くことが嫌いで、怠け者で、面倒くさがりだった。自分のことさえ極力自分でやろうとせず、すぐに私に泣きついてくる。
最初は、なんて手のかかる子なんだろうと呆れていた。
私の静かで整頓された空間が、彼女が持ち込むゲーム機やお菓子によって物理的に荒らされていくことに、強い戸惑いもあった。
けれど。
気がつけば、私の家の中から、あの耳鳴りがするような「静寂」が完全に消え去っていた。
広く冷たかったリビングには、日景の無遠慮な笑い声や、ゲームの敵にやられて出す間抜けな悲鳴が絶えず響いていた。
点けっぱなしだったテレビの音は空虚なノイズではなくなり、隣に座る小さな子猫と一緒に楽しむための「娯楽の音」に変わった。
家政婦さんが作ってくれた冷たい作り置きの食事も、一人で時計の針の音を聞きながら黙々と食べるのと、日景と向かい合って「これ美味しいね!」「こっちはピーマンが入ってるから彼方にあげる!」などと言い合いながら食べるのとでは、全く味が違って感じられた。
「……ひかげ、また口の周り汚してる。ほら、拭いてあげるからじっとして」
「ん〜。彼方、お母さんみたい」
「変なこと言わないで。同い年でしょ」
私がティッシュを手に取り、彼女の口元を丁寧に拭ってやると、日景は嬉しそうに目を細め、すりすりと私の手に自分の頬を擦り付けてきた。
獣人特有の高い体温が、私の手のひらを伝って、体の奥深くまでじんわりと染み込んでくる。
温かい。
その物理的な熱に触れるたび、私の胸の奥で、ずっと分厚い氷に閉ざされていた何かが、少しずつ溶け出していくような感覚があった。
私の中での決定的な転機となったのは、小学三年生の冬、私がひどい風邪を引いて寝込んだ時のことだった。
父親は相変わらず長期間の海外出張中で、家政婦さんは熱を出してぐったりしている私を見て病院に連れて行ってはくれたものの、「他のお家のお仕事があって、ごめんなさいね」と、処方された薬とスポーツドリンクを枕元に置き、いつも通りに帰ってしまった。
仕方のないことだ。彼女を責める理由はない。それが大人たちの都合であり、世界の回る仕組みなのだから。
高熱でぐらぐらと揺れる視界の中、私は一人ぼっちの薄暗い寝室で、ひたすら体の中の熱という嵐が過ぎ去るのを待とうと、重い瞼を閉じた。
静かだった。
ひどく静かで、自分が吐き出す荒い息の音だけが部屋に響く。自分がこのまま溶けて消えてしまっても、誰も気付かないのではないかという錯覚に陥りそうになった時。
ガチャリ、と私の寝室のドアが開く音がした。
熱い息を吐きながら薄く目を開けると、そこには自分の家から持ってきたであろう、キャラクターものの不格好な毛布の塊をずるずると引きずりながら、パジャマ姿の日景が立っていた。
「……ひかげ? うつるから、こないで……」
「だーめ。彼方がしんどい時に、一人になんてしておけないよ」
日景は私の掠れた制止の声も聞かず、短い手足でベッドによじ登ってくると、そのまま私のすぐ横に自分の毛布を丸めて、そこに潜り込んだ。
「ひかげ……本当に……」
「大丈夫だよ、彼方。私がずっと横にいるから。安心して寝ていいよ」
日景の小さな手が、熱を持った私の額にぴたりと触れた。
外の空気を吸ってきたその手はひんやりとしていて心地よく、何よりも、彼女の存在そのものが発する「ここにいるよ」という絶対的な実感が、熱でひび割れそうだった私の意識をしっかりと繋ぎ止めてくれた。
彼女は、横向きに寝ていた私の背中にピタリとくっつき、等間隔に規則正しい寝息を立て始めた。背中越しに伝わってくる、トクトクという小さな心臓の音。時折、パタパタと動く尻尾がシーツを擦る微かな音。彼女の髪から香る、石鹸とミルクを混ぜたような甘い匂い。
ああ、私は。
私は本当は、ずっとずっと、この体温を求めていたんだ。
何もない灰色の部屋で、一人きりで呼吸を続けることが、本当はたまらなく恐ろしかったんだ。
高熱に浮かされる頭で、私は初めて、自分の胸の奥底にぽっかりと開いていた巨大な空洞の存在を直視した。その空洞に吹き込む冷たい風に凍えていた。
誰かにそばにいてほしかった。
誰かに私の名前を呼んでほしかった。
ただ、温もりを与えてほしかった。
その底なしの空洞を、この小さくて、怠け者で、図々しくて、けれど誰かが困っているのを見過ごせない白猫の女の子が、その小さな体一つで完全に埋め尽くしてくれた。
熱い涙が、一滴、二滴とシーツに吸い込まれていった。
私は日景を起こさないように、そっと寝返りを打ち、丸くなっている彼女の小さな体に震える腕を回した。彼女は寝ぼけ眼で「んぅ……」と小さく喉を鳴らすと、私の腕の中にすっぽりと収まり、再びスースーと無防備な寝息を立て始めた。
その絶対的な温もりを抱きしめながら、私は熱が引いていくまでの間、静かに泣き続けた。
この日から、私の見ている世界は完全に塗り替えられた。
彼女の世話を焼くことは、私にとっての「義務」や「妥協」から、唯一無二の「喜び」へと変わった。
朝、だらしない寝相で隣で眠る日景の体を揺さぶって起こし、彼女の真っ白で癖のある柔らかい髪を、獣人用の特別なブラシで丁寧に梳かしてやる時間。
子供向けの料理のレシピ本を何冊も買い込み、彼女の好きそうな少し味の濃いおかずを作り、美味しそうに頬張る顔を眺める時間。
一緒にお風呂に入り、彼女の手が届かない小さな背中や、敏感な耳の裏をスポンジで優しく洗ってあげる時間。
そのどれもが、私にとって何にも代えがたい大切なものになっていた。
彼女は私の家を「自分の居場所」にしてくれたけれど、本当は逆だった。日景という存在そのものが、私にとっての「帰るべき場所」であり、この世界でたった一つの、安心して呼吸ができる場所になっていたのだ。
小学校高学年になり、中学生へと上がる頃には、私たちの関係は周りから見ても「異常なほど距離の近い幼馴染」として定着していた。
私は真面目で優秀だと評されることが多く、クラスメイトたちと適度に話を合わせ、委員長やまとめ役のような立ち回りをすることも難なくできた。
けれど、私は日景以外の人間に対しては、どうしても薄いガラスを一枚隔てたような、感情の波立たない淡白な態度しか取れなかった。
私にとって、この世界は「日景」と「それ以外の有象無象」で明確に分断されていた。
日景の前にいる時だけ、私は心から安堵し、自然に笑うことができた。
日景の頭を撫で、その柔らかい髪の手触りを感じている時だけ、私は自分がここに存在していいのだと思えた。
しかし、当の日景は相変わらず私のことを「大切な親友」か「目の離せない妹分」くらいにしか思っていないようだった。
私が彼女に向けている視線の熱が、単なる友愛や感謝といった生易しいものではなくなってきていることに、彼女は微塵も気づいていなかった。
それでも、よかった。
今はまだ、この温かくて心地よい関係のまま、ずっと彼女の隣にいられれば、それで十分だ。彼女の生活のすべてを私が管理し、彼女が私なしでは生きられないようにしてしまえばいい。
そう思って、そう願って……私は自分の内側でどろどろと煮詰まっていく感情に、蓋をした。
全3話、毎日投稿です。