愛に飢えた女の子に「無償の愛」を注いだ結果   作:鰻重特上

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あの日、白猫が私の世界をこじ開けた ー中編ー

 

 中学生になってから、私と日景の体格差は目に見えて開いていった。

 

 人間である私は、同年代の平均的な身長へと順調に成長し、着ているセーラー服も少しずつ窮屈になって、体つきも丸みを帯びて女性らしいものへと変化していった。

 

 一方で、ミヌエットという極めて小柄な猫の獣人である日景は、小学校高学年の頃から身長の伸びがピタリと止まってしまった。

 

 真っ白でふわふわの癖のある髪も、折れてしまいそうなほど華奢すぎる体躯も、絶望的なまでに平坦な胸も、私の部屋のベランダに初めて降り立ったあの日から何一つ変わっていないように見えた。

 

 外見だけではない。私に対する態度も、二人の間の距離感も、何一つ変わることは無かった。

 

「彼方〜、数学の宿題見せて〜。数字とアルファベットが混ざるとか、私の脳みそが完全に拒絶してるの〜」

 

 私の中学二年生の自室。よく晴れた休日の午後、いつものように私のベッドのど真ん中を占領してだらしなく寝転がりながら日景が情けない声を上げる。パタパタと揺れる白い尻尾が、シーツを規則正しいリズムで叩いていた。

 

 私は小さくため息をつき、手元で読んでいた文庫本に栞を挟んで閉じた。

 

「ほら、起きなさい。ノートを見せるんじゃなくて、解き方を一から教えてあげるから」

 

「ええー……彼方先生、厳しい……。お菓子食べてからじゃだめ……?」

 

 のそのそと文句を言いながら起き上がってきた日景が、私の座る椅子のすぐ隣にクッションを引きずってきて座り込む。

 

 彼女が動くたびに、私の家のお風呂で使っているのと同じ石鹸の香りと、彼女自身から発せられるほんの少しのミルクのような甘い匂いが鼻先を掠めた。翠色の大きな瞳が、すがるように私を下から見上げてくる。頭の上のふたつの白い耳が、申し訳なさそうにペタンと後ろに伏せられていた。

 

 ……本当に、ずるい生き物だ。

 

 こんなあからさまな顔をされて、冷たく突き放せる人間がどこにいるというのだろう。少なくとも、私には絶対に不可能だった。

 

「ここ、途中でマイナスの符号が逆になってる。だから最後の計算が合わなくなるのよ。ちゃんと途中式を書きなさいっていつも言ってるでしょ」

 

「あーっ! 本当だ! 彼方、すごい! 天才! もういっそ私の専属家庭教師になってよ!」

 

「もう何年も前から、実質そうなってるじゃない……」

 

 日景が嬉しそうに私の腕にすりすりと頬を擦り付けてくる。

 

 獣人の体温は人間よりも少しだけ高い。そのはっきりとした温もりと、腕に直接当たる柔らかい髪の感触に、私の心臓がトクンと大きく跳ねた。

 

 いつからだろうか。彼女のこういった無防備極まりないスキンシップに対して、単なる友人としての親愛とは違う、もっと甘くて、それでいて喉の奥がヒリヒリと焼けつくように苦しくなる感情を抱くようになったのは。

 

 同性であることや、人間と獣人という種族が違うことなど、私にとっては考える価値もない些末な問題でしかなかった。

 

 私にとっての世界の基準はいつだって「倉下日景」であり、彼女の存在そのものが私の世界の全てだったのだから。彼女が隣で笑ってさえいれば、他のことなどどうでもよかった。

 

 しかし、私の内側で静かに、けれど確実に熱を帯びていくこの感情は、当の本人には微塵も伝わっていなかった。

 

 それどころか、彼女は私に対して、どういうわけか「保護者」あるいは「庇護者」のような謎の目線を向けてくることが多々あった。体が大きくて面倒を見ているのは明らかに私の方だというのに、彼女は時折、ひどく大人びた、まるで小さな子供の成長を見守るような眼差しで私を見つめることがあったのだ。

 

 その決定的な温度差が最も残酷な形で表れたのは、中学二年生の底冷えする冬だった。

 

 放課後、私は他クラスの男子生徒から、校舎の裏に呼び出されて告白された。

 

 顔もよく覚えていない、ただ図書委員の仕事で何度か事務的な言葉を交わしただけの相手だ。顔を赤くして何か必死に語っていたようだが、私の耳にはほとんど入ってこなかった。

 

 私は彼に対して何の感情も湧かなかったので、当然のように「お付き合いする気はありません」とだけ短く告げて冷たく断り、さっさと帰路についた。私の時間は、日景のために使うものだ。よく知らない他人に割いている暇などない。

 

 その夜。

 

 私の部屋で、私が作った晩ご飯のオムライスを一緒に食べていた日景に、何かの拍子でうっかりその話をしてしまったのだ。隠すようなことでもないと思ったし、何より、彼女が少しでも違う反応を見せてくれるのではないかという、愚かな期待もあった。

 

「ええっ!? 彼方、告白されたの!?」

 

 日景はスプーンを口に咥えたまま、目を丸くしてテーブルから身を乗り出してきた。背中の後ろで、尻尾が興奮したようにパタパタと激しく揺れている。

 

「そうよ。でも、すぐに断ったけど」

 

「な、なんで!? もったいない! 中学生の恋愛なんて青春の1ページだよ!? 相手の子、どんな子だった? かっこいいの? 優しいの? 背は高い?」

 

「興味ないわ。顔もよく覚えてないし」

 

「もー! 彼方はガードが固すぎるんだよ! せっかくの超絶美少女なんだから、もっと恋愛とか、そういうキラキラしたこと楽しめばいいのに!」

 

 スプーンを置いて、どんっ、と自分の薄い胸を力強く叩き、満面の笑みで彼女は言い放った。

 

「私、彼方の恋なら全力で応援するし、ばっちりサポートするからね!」

 

 その瞬間、私の中にどす黒い、泥のような感情が渦巻いた。

 

 手元のオムライスを見るふりをして俯き、私は必死に表情筋を制御した。

 

「……サポートって、何よ」

 

「え? だから、初デートの服を一緒に選んであげたり、悩み事の相談に乗ってあげたり! ほら、私ってこういう性格だからさぁ。彼方の幸せな顔が見たいんだ!」

 

 純粋な善意。混じり気のない親愛。

 

 彼女は本当に、心から私の幸せを願ってくれているのだ。疑いようもないほど真っ直ぐに。

 

 

 彼女の中の『久慈彼方の幸せ』の形に、自分自身がパートナーとして隣に立つという選択肢が、最初から完全に欠落していることにも気づかずに。

 

 

「……余計なお世話よ。私、別に誰かと恋愛なんてしたくないし」

 

「えー? 強がっちゃってー。今はそう思ってても、彼方にも、いつか絶対素敵な男の子が現れるよ。私が保証する!」

 

「現れないわよ」

 

 私はスプーンを強く握りしめ、自分でも驚くほど低い声を出した。

 

「……私には、別に、好きな人がいるし」

 

 私は半分意地になって、そんなことを口走ってしまった。

 

 日景にだけは、この行き場のない感情の片鱗に気づいてほしかったのかもしれない。ほんの少しでいいから、焦ったり、嫉妬したり、いつも通りの笑顔を崩してほしかった。

 

 しかし、日景の反応は私の細い期待を根こそぎ刈り取り、残酷なほどに裏切った。

 

「えっ! 嘘!? 誰誰!? どこのクラスの子!? もしかして部活の先輩!? ねえ、ちょっとだけでいいから教えてよ!」

 

 目をキラキラと輝かせ、身を乗り出してくる完全に面白がっている野次馬の顔。

 

 私に向けられているのは、親友の隠し持っていた恋バナに興奮する、ただの好奇心だけだった。

 

 そこには、私を独占したいという思いや、他人のものになってしまうかもしれないという焦燥感は、一ミリたりとも存在していなかった。

 

「……教えない。ご飯、冷めるわよ」

 

「えー! ケチー! 親友なんだからいいじゃん! ねえねえ、イニシャルだけでも! ヒント!」

 

 私は無言で、すっかり味のしなくなってしまったオムライスを口に運びながら、心の中で深い、本当に深いため息をついた。

 

 この圧倒的な鈍感さ。私をあくまで『親友』であり『守るべき妹分』のように扱う、強固な認識。

 

 私がどんなに熱っぽい視線を送っても、どんなに特別な態度で接しても、彼女はそれを「心を許しているから甘えられている」としか受け取らないのだ。

 

 それからの日々は、ある意味で拷問のようなものだった。

 

 日景は相変わらず私の家に入り浸り、当たり前のように一緒にお風呂に入り、同じベッドで眠った。

 

「ふにぁ……彼方〜背中流して〜」

 

 冬の冷気を遮断した、湯気で真っ白に曇った浴室。真っ白な肌を惜しげもなく晒し、バスチェアに座る日景。

 

 幼い頃から一緒にいるのだから当然の光景なのだが、彼女を見る私の視線が変質してしまった今となっては、彼女のその無防備すぎる態度は猛毒でしかない。

 

 細い肩、華奢な背中、少し浮き出た肩甲骨。スポンジで泡を立ててそこに触れるたびに、彼女は「ふにゃぁ」と気持ちよさそうに耳を倒して目を細める。

 

「……ひかげ、もう中学生なんだから、少しは恥じらいというものを持ちなさい」

 

「えー? 彼方相手に恥じらいなんていらないよ? 私たち、家族みたいなもんじゃん」

 

 家族。

 

 その何の悪気もない言葉が、私の胸を鋭い針でチクチクと刺す。

 

 私は彼女を、ただの家族だなんて、もうずっと前から思っていない。もっと、どうしようもなく独占したくて、他の誰の目にも触れさせたくないくらい、狂おしいほどに手に入れたいと求めているのに。

 

 

 お風呂から上がり、ベッドに入れば、彼女は自然な動作で私に抱き着いてくる。私の腕を抱き枕のようにしっかりとホールドし、私の胸元に顔を埋めて、スースーと規則正しい寝息を立てるのだ。

 

 密着した体から伝わってくる高い体温。暗闇の中で響く、自分自身の心臓の音がうるさくて眠れない夜が、何度あったことか。

 

 彼女のこの近すぎる距離感に、私は色々な意味で辟易していた。

 

 私に対して少しも恋愛感情を持っていないクセに、恋人以上にベタベタと肌を重ねてくる苦しさ。

 

 いっそ突き放してしまえば楽になるかもしれないのに、彼女のその甘い温もりから一秒たりとも離れられない、自分自身の情けなさ。

 

 私は、自分が思っている以上に、この白い猫の獣人に深く、深く依存しきっていたのだ。

 

 

─────

 

 

 中学三年生の冬、いよいよ高校受験の時期がやってきた。

 

 私は、家から通える範囲で一番偏差値の高い公立高校を志望した。理由は単純だ。そこが一番設備が整っていて、不良生徒などもいない静かな環境だったから。

 

 だが、問題は日景の学力だった。

 

 机に向かうことが嫌いな怠け者の彼女は、当然のように成績が芳しくなかった。

 

「彼方と同じ高校に行きたいのに……このままじゃ絶対落ちちゃうよぅ……」

 

 進路希望調査の紙を握りしめ、私の部屋で半泣きになる日景。

 

「当たり前でしょ。授業中ずっと寝てるんだから。……仕方ないわね。今日から毎日、みっちり私の部屋で勉強合宿よ」

 

「うう……鬼教官……」

 

 私は半ば強引に彼女の首根っこを掴み、私の家での猛勉強を強制した。

 

 彼女が私と別の高校に行くことなど、私の世界では絶対に許容できるはずがなかったからだ。

 

 彼女が私の目の届かない場所で、私の知らない人間と出会い、私の知らない話題で笑い合う。そんな光景を想像しただけで、胃の奥がせり上がるような強烈な不快感に襲われる。

 

 彼女の隣は、私の指定席でなければならない。彼女の世界の大部分は、私で埋め尽くされていなければならないのだ。

 

 それからの数ヶ月間は凄まじかった。

 

 つきっきりで勉強を教え、深夜には夜食のうどんや温かいミルクを作り、うとうとと居眠りしようとする彼女の白い耳を軽く引っ張って起こす。

 

 文句を言い、時には涙目になりながらも、彼女は決して逃げ出さずに私の容赦ないスパルタ教育についてきてくれた。

 

 そして迎えた春。

 

 桜の蕾がほころび始めた頃、私たちは無事に、同じ高校の真新しい制服に袖を通すことになった。

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