泣き落とし。命乞い。数分前の傲慢さが嘘のように剥げ落ち、虚栄心の裏側にあるただの子供が露わになる。
こちらに向かってくる
「はて、そう言われましても。残念ながら、無理なようです。どうも足回りの調子が悪くてね。この足場じゃ踏ん張りが利かない。まあ、自力でなんとかしてくださいよ、“エース”様」
『嘘だ! さっきまで走ってたじゃないか! 敵だって倒してるだろ! 嘘だ、嘘だ嘘だ! 新参のお前が、僕の足を引っ張るなんて、許されると思っているのか!!』
「嘘じゃありませんよ。だいたい、俺の足回りが利かないことは、少尉殿なら嫌というほどご理解頂けているものとばかり」
絶叫が、止まった。ノイズの向こうで、リュオンが息を呑む気配が伝わってくる。
「お前が足を引っ張ったんだよ、クソ坊主――俺のトリオンの足をな」
『――――……っ!!』
静寂。蟻たちがパーツを噛み砕いていく音だけが、皮肉なほど明瞭に響く。
俺の姿勢制御も、移動制御も、戦闘機動も、常にふらついて全速力が出せなかった理由。それは、彼がニヤつきながら仕掛けた“毒”が原因であった。
こちらが謹慎中に機体のチェックが行えないのをいいことに、彼は整備不良を装い、トリオンの右脚部アクチュエータを、勝手に中古の不良品へ交換していたのだ。今、それが自分を救うための唯一の足場を奪っているという現実に、リュオンは直面しているのである。
無論、不調には気付いていた。こうなるだろうと見越し、あえて放置していたのである。
反論すれば自分の工作を認めることになり、認めれば自分の死の原因が自分自身にあることを肯定することになる。どちらにしても、自業自得という名の鎖が、彼の喉を締め上げていた。
『あ……あぁ……』
もはや、言葉は返ってこない。サブモニターに映るリュオンは、力なく操縦桿を握ったまま、ただ呆然と目を見開いていた。さっきまでの脂汗も、怒声も、すべてが虚無に飲み込まれたような顔だ。
ふと、通信の向こう側からガチガチと小刻みな音が聞こえてきた。絶望が臨界点を超え、震えから奥歯が鳴っている。プライドという鎧を奪われ、その中から現れたのは、己の浅知恵が招いた袋小路でただ死の恐怖に身を震わせるだけの、メッキの剥げた“自称エース”の姿であった。
彼が今、何を思い、何を考えているかなど知ったことではないが、十分に痛い目には遭っただろう。さすがにそろそろ助けてやらないと、命に関わる。
俺は再び通信を
(リル。女王の個体識別は、同期できているな。これで任務完了だ)
激しく軋む右脚の出力を強引に引き上げる。それに応じるように喚き立てる警告音を、俺はただの雑音として黙殺した。
左腕に装備している重厚なタワーシールド。そのグリップのロックを解除し、トリオンの全身のバネを使って、残骸と化しつつあるギガントへと向かって投擲の構えを見せた。
『ひっ!? な、何を……やめろ、准尉! 僕を殺す気か!』
無様な裏返った声が通信機を割る。が、既にモーションに入った鋼の巨人は止まらない。
彼の視界を塞ぐように飛来する巨大な鉄板。自分を押し潰さんと迫るそれに、リュオンは再び死を覚悟したかもしれない。
だが、慣性の法則に従って真っすぐ飛翔したかに見えた巨大な壁は、リュオンの機体の真上を飛び越えていく。それは、女王蟻が潜む位置とのちょうど中間、物理的な境界線を描くように、深く地面に突き刺さった。
地面を揺らす衝撃で、トリオンの右脚部がついに悲鳴を上げ、バランスを崩して膝をつく。だが、姿勢を崩しながらも、火器管制のロックは外さない。
「お前はそこで、指をくわえて見ているんだな。これが、“仕事”だ。“ドルフィン”、
姿勢を崩したまま、両腿のマイクロミサイルポッドを解放した。六つの噴射煙が、盾の向こう側へと回り込んでいく。
直後、タワーシールドの向こう側で、凄まじい爆発が連鎖した。突き刺さった盾が爆風を強引にはね除け、ギガントを守る唯一の壁となる。もし盾がなければ、至近距離の衝撃と女王の甲殻の破片が、彼の機体の装甲を抉っていただろう。
その代償として、無理な投擲と反動に耐えきれなかったトリオンの右脚アクチュエータが、ついに火花を散らしてロックされた。機体が大きく傾き、たたらを踏む。
爆煙が晴れるとともに、それまで一つの巨大な意志として動いていた黒い波が、一気に瓦解した。
中核を失った働き蟻たちは、もはや目の前の獲物を解体する目的すら忘れ、機体の隙間から這い出ると、本能のままに四方へと散っていく。ミルメコレオに指示を出していた神官も、引き際を悟ったのか、いつの間にか姿を消してしまっていた。
通信機から聞こえるのは、もはや言葉にならない震え声だけだ。命は助かった。だが、彼がこれまで積み上げてきた“無敵のエース”という虚像は、この荒野の砂塵の中に、修復不可能な形で埋没したことだろう。
全てが遅すぎた。そんなものは、さっさと犬の餌にでもしてしまえばよかったのに。
再度、通信を公用回線を経由し、こちらからリルに話しかける。無論、今度はリュオンに聞かせるためだ。
「こちら“ドルフィン”。“ノーチラス”、聞こえているな? 周辺の熱源反応の消失を確認。迎えに来てくれ。さすがに無理をさせすぎた」
『了解しました。“ハンマーヘッド”はどうされますか』
俺は一度も振り返ることなく、関節がロックされた右脚を強引に引きずりながら、トリオンを反転させた。
「知ってるだろ、俺の機体は足回りの調子が悪い。ギガントはトリオンの倍は重量があるんだぞ? こんなお荷物を無理に引っ張って、途中でトリオンの脚がもげたら誰が責任を取ってくれるんだ? こんなやつ、もちろん放置だ。救援部隊が来るまで、大人しくしていてもらえ」
『放置!? 待てよ、行くな、行かないでくれ! こんな状態で、僕を一人にするなよ!』
必死に縋り付く声を、あえて大げさな吐息で遮る。
「断る。“ハンマーヘッド”、お前がここで死にかけたのは、運が悪かったからじゃない。戦場を自分の全能感を満たすための遊び場だと勘違いしていたからだ」
夕闇が迫る中、俺は二度と振り返らなかった。
「ここは命を奪い合う場所だ。遊び半分の子供は邪魔なだけなんだよ。たとえそれが、エースだろうと、撃墜王だろうと、な。次は“たまたま”野暮用を思い出してやれるかどうかは分からん。生きるか死ぬかは、お前の身の振り方次第だ。せいぜい、もう少しだけ大人になってから戦場に来ることだな。今日の所は、そこで頭を冷やしてから帰ってこい」
絶句するリュオンを置き去りにして、俺は戦域を離脱した。自分の仕掛けた毒のせいで、自分を救うはずだった男の背中を、ただ無様に仰ぎ見ることしかできない。その屈辱こそが、彼にとって学びになると良いのだが。
「さて、帰ったら報告書と始末書を書かなきゃいかんな。やれやれ、これも仕事のうちか。“ドルフィン”、
不規則で不安定な足音。だが、そこには何者にも依存せず、自らの足で荒野を歩む者だけの確かな響きが、そこにはあった。