『准尉。東方の漆黒機、加速。こちらに来ます』
リルの警告と同時に、奴が動いた。
重力を、そして慣性を嘲笑うような、爆発的な初動。目の前にいたはずの影が、次の瞬間にはジグザグの軌跡を描いて砂原を駆けている。デザートホーク小隊が放つ機関砲の弾幕が、奴の残像さえ捉えられずに、虚しく背後の大地を耕す。
障害となる
「よお、久しぶりだな。楽しそうじゃねえか。美味そうな獲物でも見つけたかい? 悪いが、こっちは取り込み中だ。後にしてくれ!」
トリガーを引き絞り、俺は迷わず脚部の三連装マイクロミサイルポッドを全弾開放した。
放たれた噴進弾が尾を引いて漆黒の影へ殺到する。回避不能の至近距離。砂塵と火炎が奴を飲み込み、視界は瞬時に白濁した熱波に塗り潰された。
『准尉、右から来ます』
リルの声が、鼓膜の奥で爆発音を追い越した。
爆煙が晴れるよりも速く、熱波を突き破って巨大な鉄の爪――“シェパーズ・シザース”が、獲物を狙う大蛇のように躍り出た。
「――っ!」
反射的に操縦桿を蹴り、シールドを右側面へ叩きつける。
大気を震わせる硬質な衝突。盾の表面を掠めるはずのクローが、逃がすまいと装甲の縁に食らいつく。コクピットが激しく揺れ、トリオンの全質量が強引に引き寄せられる衝撃が背骨を突き抜けた。
引き裂かれた煙の向こう側、奴の赤い発光ラインが、愉しげに、そして不気味に細められる。
直撃したはずのミサイルの痕跡すら見当たらない。それどころか、滑らかな漆黒の“肌”が、うごめいたように見えた。
「相変わらずの化け物っぷりだな、畜生!」
悪態を吐きながら、左腕の油圧を最大値まで引き上げる。
だが、大鋏の握力は、盾の衝撃吸収機構を紙細工のように押し潰していく。強化合金が内側からひしゃげ、高圧で噴き出した冷却剤が、断末魔のような白い蒸気を上げて視界を遮った。
力比べでは勝負にならない。俺はあえてシールドの固定クランプを強制解除した。
食いついたクローごと盾を放り出す反動を利用し、機体を鋭く反転させる。右腕に懸架したカットラスを、装甲の継ぎ目を狙って全トルクを乗せて叩きつけた。黒い装甲の破片が割れ、弾け飛ぶ。
手応えは、やはり重く、ねっとりと湿っていた。だが、俺はその感触に構うことなく、即座にギアをリバースへ叩き込む。こいつを相手に深追いすることは、死に直結するからだ。
高速回転を始めた踵部の大型車輪が岩盤を削り、トリオンの巨躯を力ずくで後方へ引き戻す。一瞬遅れて、俺がいた空間を“シェパーズ・シザース”の巨大な爪が、大気が唸る程の速度で薙ぎ払った。
一瞬の隙、それを彼の戦闘センスは見逃さない。視界の端、背部の大型バーニアが砂塵を焼き、一筋の閃光となったギガントが、“羊飼い”の側面に肉薄するのが見えた。
『おい准尉、独り占めはナシだぜ! こいつを落とせば、俺が正真正銘のエースだ!』
リュオンが右腕のストライクパイルを撃ち放つ。だが、奴は正面の俺を見据えたまま、視線すら動かさない。
衝突の直前、漆黒の機体が、重力を無視したような緩急で右脚を跳ね上げた。鋭い爪先がパイルの先端を正確に叩き、その軌道をわずかに逸らす。衝撃波が砂塵を巻き上げ、リュオンの渾身の一撃は虚しく俺の横を通り抜けていった。
『っ、この……ちょこまかと!』
突き抜ける勢いを殺しきれず、リュオンの機体が大きく揺らぐ。
その隙を突こうと、周囲の闇からブラックドッグの群れが一斉に牙を剥いて跳躍した。
「“ハンマーヘッド”、下がれ! デザートホーク各機、支援を頼む! こっちに
こちらの意図を即座に汲み取り、後方に陣取ったデザートホーク小隊の四機が、一斉に機関砲の火を噴いた。網目のように夜空を覆う曳光弾が、リュオンに迫った獣の肉を容赦なく削ぎ落としていく。
リルはクローディアの傍らで、無数の情報を処理し続けているのだろう。その声には、静かな危機感が混じっていた。
『
リルの予測を裏付けるように、奴の動きがさらに変質した。
重しを捨て、本来の軽快なバランスを取り戻したトリオンの駆動系が、俺の指先の操作に鋭敏に反応する。武装は右手のカットラス一本。だが、今の俺には、奴の初動を見切って滑るための身軽さがある。
“羊飼い”が、地を這うような低姿勢から、爆発的な踏み込みを見せた。狙いは、依然として俺だ。左腕の巨大なシザースが、俺の胴体を両断せんと鎌首をもたげる。
俺はペダルを繊細に踏み分け、足裏のスパイクと車輪の回転を同期させた。円を描くような最小限の滑走。鼻先を掠める距離で、巨大なハサミが虚空を噛み切り、摩擦熱を帯びた風がコクピットの装甲を叩いた。
「悪いが、そう何度も同じ手は食わんぞ」
“シェパーズ・シザース”の横薙ぎ。俺はバックダッシュではなく、あえて前進を選択した。重心を限界まで低くし、機体を右に傾けながら滑り込む。頭上を通過した巨大な刃が、トリオンの左肩装甲を紙のように切り裂き、新たな警告音が騒ぎ立てた。
「この……!」
浅いが、確実に削られている。すれ違いざま、俺は右手のカットラスを奴の関節部へ叩き込んだ。金属同士が交差し鋭い音を立て、鈍い衝撃が義肢を通じて脳を揺さぶる。
だが奴は、俺の渾身の一撃を左腕のシザースの背で、まるでハエを払うように弾き飛ばした。
強い。分かってはいたつもりだが、かなりの強さだ。機体性能ももちろんでたらめだが、それ以上に噛み付いたら決して離さない猟犬や蛇のような、執念や執着とも言える勢いが、奴の行動に度を越した思い切りの良さを与えているように感じる。
しかし、そんな“羊飼い”だけでも厄介だというのに、そこへリルの報告が追い打ちをかけた。
『警告。戦域情報に異常な熱源反応を多数検知。後方、“ホーク”および“ファルコン”、通信途絶。外周警戒網、突破されました』
「何だと!?」
回避の合間に後方を確認する。そこには、俺たちが“羊飼い”と切り結んでいる隙を突き、音もなく闇に滑り込んできた漆黒の影があった。
大型のブラックドッグを駆る神官たち。奴らはスワスチムの防衛ラインを力ずくでこじ開け、最短距離でリルのトリオンへと殺到している。
デザートホーク小隊の機体は、撃破こそされていない。だが、神官たちの精緻な一撃によって武装を破壊され、あるいは駆動系を焼かれ、砂原に膝を突いていた。生きながらにして、戦力外へと追いやられたのだ。
『目標、S-04 Little Lady 0675。確保まで、残り六十秒。准尉、敵の狙いは私です』
リルの声には、何の感情も混じっていない。だが、マップ上に表示された赤い輝点が、一斉に彼女を中心とした円を縮めていく光景は、どんな叫び声よりも正確にに危機の到来を告げていた。
“羊飼い”が愉しげにシザースを打ち鳴らす。奴にとって、ヘアツゥの神官が何を企み、
ただ、目の前の俺という玩具から伝わる、装甲を噛み砕き、骨を軋ませるその凄絶な手応えだけが、奴の飢えた神経を焼き尽くす唯一の報酬とでも言わんばかりだ。その狂気的な執着だけが、鉄の爪の震動となってダイレクトに伝わってきた。
「少尉、後方を守れ! リルが……っ!」
『了解! この、バケモノがっ!』
彼の叫びと同時に、“羊飼い”が動く。
奴が放ったシザースの横なぎ。盾を捨てた俺は、反射的にカットラスの腹を立て、最小限の動きでその一撃を受け流すことに全神経を注いだ。
金属同士が削り合う不快な震動が、トリオンの右腕を伝ってダイレクトに俺の骨まで響く。盾という緩衝材がない衝撃は、機体のバランスを無慈悲に揺さぶった。俺はサスペンションを限界まで軋ませ、紙一重の踏ん張りで致命的な切断を免れる。
打ち合うたびにノイズが走るバックモニターの端に、一瞬だけ場違いな色が横切った。