Bloody Bless   作:館長さん

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第5話:みんな笛の音についていった⑦

 それは断じて、スピーカーを通した電子音などではない。脳を直接指で弾かれたかのような、あるいは心臓を冷たい指で撫でられたかのような、逃げ場のない侵入だった。

 

 一秒。

 

 たった一秒。

 

 瞬きほどの間に、戦場のすべてが凍りつく。爆撃の轟音も、MA(マシーナリィアーマー)の駆動音も、さらには血に飢えた皇獣(おうじゅう)たちの咆哮さえもが、その“声”の前に存在を許されない、瑣末なノイズへと成り果てた。

 

 異常な光景であった。

 

 目の前には、今まさに自分を切り裂こうとする“羊飼い”の刃がある。コンマ数秒後には死が訪れるはずの極限状態。それなのに、俺の意識は、指先は、戦いではなく空中に浮かぶ異国の少女へと奪われていた。

 

 たとえば、暗闇の中で彷徨う者が、ふと見上げた夜空に一筋の流星を見つけてしまったような――

 

 そんな、死の恐怖すらもノイズとして切り捨てさせるほどの、圧倒的な美しさとカリスマが、そこには在った。

 

 逃げ惑っていた歩兵たちも、己が武器を取り落としたことさえ気づかない。ただ憑かれたような恍惚とした顔で、その唯一無二の光を仰ぎ見ていた。

 

 少女の周囲では、数体の小型個体が歌に酔いしれるように、優雅な輪を描いて舞い踊っている。黒い鳥……いや、皇獣(おうじゅう)だろうか。

 

 戦場にいるすべての生命が、生存本能を上書きされ、空中に浮かぶその小さな偶像へと心を固定した。

 

 鼓動さえ止まったような静寂の中心。盲目の少女、レンと呼ばれた者の喉から、透き通った聖歌が溢れ出した。

 

『――――……』

 

 神を称え、世界の安寧を願う、あまりに清らかな聖歌。殺し合いの地獄に、天上の光を無理やり引きずり込むような、残酷なまでの“平和”が戦場を蹂躙し始めた。

 

 変調は、網膜ディスプレイの端に現れる。

 

 仲間の機体反応――リュオンのギガントが、まるで目に見えない高電圧の奔流に叩きつけられたかのように、痙攣のような不自然な振動を繰り返していた。

 

「“ハンマーヘッド”? おい、どうした! 応答しろ!」

 

 返信はない。代わりに公用回線から漏れ出してきたのは、喉の奥を自ら掻きむしるような、おぞましい呻きだった。

 

『……やめろ、映すな! 剥がすな! 僕は……っ、僕は違う! 違うんだ!』

 

 レシーバーの音量を絞りたくなるほどの絶叫。あの不遜なまでの自信に満ちていた男の声が、今はただ、暗闇を恐れる幼子のそれへと変質していた。

 

 ギガントは、自身の武器であるストライクバイルを、誰もいない虚空に向けて空打ちを繰り返し始める。

 

『……見ろ! これが僕だ! 僕は……親父みたいな……っ、そんな張りぼてなんかじゃ……っ! うわあああああ!!』

 

「リュオン!? 何を言っている、落ち着け!」

 

 焦燥のあまりコールサインの使用を忘れ、名前で呼びかけてしまう。しかしそんな俺の声など、もはや彼には届いてはいなかった。

 

 まともに動けなくなったリュオン機の傍らで、もう一機のギカントが不気味なほどの静寂を纏って砲身を水平に戻した。

 

 クローディアの機体だ。だが、そのメインカメラの奥に灯る光もまた、すでに理性の色を失っている。

 

『……嘘。嘘だ。そんなはず、ない。私は、間違ってない……』

 

 受信圏内から漏れ聞こえるのは、彼女の震えるうわ言だ。しかし、いつものパニックとも様子が少し違う気がする。

 

「“オウカ”、聞こえるか! 落ち着け、そっちは味方の陣地だ! 砲身を下げろ!」

 

 俺の叫びは、彼女の耳には届かない。クローディアのギガントが、激しく機体を震わせる。

 

 彼女のレンズは、何もない空間を凝視しているようだった。まるで、そこに自分を追い詰める何かに責め立てられているかのように。

 

『……やめろ……分かっている、あれは命令だったんだ。私のせいじゃない。司令部が、そう言ったから……!』

 

 突如、クローディア機が各所のウェポンハッチを強制開放し、内装機銃が全方位に向けて火を噴いた。

 

 敵を狙ったものではない。自分を取り囲む目に見えない包囲網を振り払おうとする、罠にかかった獣の暴走だ。狙いの定まらないまま、無数の鉛弾が友軍機の足元を耕していく。

 

「クローディア!」

 

『あは……あはは! そう、掃除だな。全部消してしまえば、声は聞こえなくなる……任務は完了だ。射線上のものは、すべて、排除……指示を、指示をください! 私は、完璧な人形に、戻るから……!』

 

 狙いも定まらないまま、クローディア機が抱える汎用ギガント砲が、榴弾を吐き出す。それは誰にも当たることなく、赤い土と爆炎を巻き上げた。

 

 彼女が何に怯え、誰の声を振り払おうとしているのか、俺にはわからない。だが、その叫びの中に混じる“私のせいじゃない”という断片的な拒絶が、彼女の奥底にある、触れてはならない傷口から溢れ出した膿のように見えた。

 

 クローディアの悲痛な叫びが、通信回線のノイズに紛れて鼓膜を刺す。通信回線は、もはや地獄と化していた。

 

 幻の中に沈み、幼児のように泣きじゃくるクローディア。空に向けて無意味な狂笑を撒き散らすリュオン。

 

「お前ら、どうしたんだ? 何が起きてる!」

 

 俺の声は、誰にも届いてはいなかった。

 

 全身を刺すような悪寒。だが、俺が自分自身の異変を自覚するより早く、戦場の中心でそれは起きた。

 

 目の前にいた、あの漆黒の死神が――止まっていたのだ。

 

 通信機が死んでいるはずの“羊飼い”の機体から、声なき絶叫が伝わってくるようだった。

 

 作業用MA(マシーナリィアーマー)から強奪したと思しき、巨大な解体用クロー、シェパーズ・シザース。敵を握り潰し、あるいは細断するための凶器が、あろうことか自らの頭部装甲を掴み、力任せに引き千切ろうと指を食い込ませている。

 

「……!?」

 

 絶句した。

 

 MA(マシーナリィアーマー)の関節可動域を限界まで無視した、あまりにも生物的な、あまりにも人間臭い悶絶。胸部を抱え込み、肺呼吸をする人間のように大きくのけ反り、地面に膝をついては、その拳で自らの胸部装甲を何度も、何度も叩きつけ、かきむしる。

 

 中にいる何かが、頭を抱え、心臓を鷲掴みにされ、のたうち回っている。そんな生々しい痛みが、鋼鉄の巨躯を通じて網膜に焼き付いていくかのようだ。

 

『“羊飼い”、完全に正気を失っています。元よりまともな相手ではありませんでしたが、これは……』

 

 叫びとノイズで完全に飽和したチャンネルの底から、リルの合成音声だけが、平時と変わらぬクリアな波形を保って耳に届いた。

 

 漆黒の機体は、見えない何かに首を絞められているかのように虚空を掴み、やがて、よろめきながら北へと這いずり始める。かつて戦場を支配した死神は、今や無様に逃げ惑う敗残兵に成り果てていた。

 

 それは転進などではない。ただの、本能的な逃走だ。

 

「逃げた? あの、化け物が……」

 

 呆然と、その背中を見送る。だが、その安堵すら、すぐに凍りついた。

 

 耳元で、巫女の歌声が不自然なほどにその純度を増す。まるで、歌い手である少女が、俺のすぐ背後に立って囁いているかのような、異常なまでの近さ。

 

 あまりに清らかで、あまりに甘美な旋律。それが鼓膜を震わせるたび、俺の脳を優しく溶かしていくかのような錯覚に囚われていく。

 

「……く、そ……俺もなのか……?」

 

 視界が急速に色を失い、網膜ディスプレイの各パラメータが、その歌声のピッチに合わせて激しく明滅し始める。

 

 脳内クロックが致命的なレベルまで低下し、意識の輪郭が曖昧に崩れていく。代わりに、思い出そうとしたわけでもないのに、脳裏の最奥から鮮明に浮かび上がってきたのは――七年前、任官式の日のスローンの姿だった。

 

 支給されたばかりの軍服の襟を正し、彼女は、俺と同じ姓が刻まれた真新しいドッグタグを指先で弾いて笑ったんだ。

 

『見てよ、兄さん。今日から私は、イル・スローン少尉。兄さんと同じ、MA(マシーナリィアーマー)のライダーになったよ』

 

 そんな誇らしげな声が、煤けた硝煙の匂いと共に蘇る。

 

 網膜ディスプレイの向こう、幾重ものエラーログが走る視界が、あの日の光景へと完全に上書きされていく。皇獣(おうじゅう)の群れに包囲され、装甲を引き千切られていく、スローンの機体。俺がこの五年間、悪夢の中で幾度となく手を伸ばしてきた、あの日の戦場。

 

 そして、“俺が見届けることのできなかった、存在しない記憶”。

 

「……スローン? スローンなのか!?」

 

 叫びながら、スロットルレバーを圧し折りそうなほど押し込んでいた。トリオンの踵にある巨大な車輪が、限界まで高速回転を始めた。土を跳ね上げ、アスファルトを削り、誰よりも速く彼女の元へ、と脳が叫ぶ。

 

 だが、どれほどモーターを高負荷で回しても、どれほど駆動トルクを上げても、俺の機体は一ミリも前へ進まない。スローンの元に、たどり着かない。

 

 一秒でも、コンマ一秒でも早く駆けつけるために、俺は高機動が売りのトリオンを選んだはずだ。装甲を削ぎ落とした最速の足があれば、あの日、届かなかった指先も届くはずだと信じて。

 

 なのに俺は、その自慢の足を殺してまで、この重すぎる盾(リアクティブタワーシールド)を背負うことを選んだ。

 

 早くたどり着きたいと願いながら、たどり着いた先でまた守れなかったと絶望することを何より恐れて、自ら機動力()をもぎ取るような重石(呪い)を自機に課したのだ。

 

 救いたいという傲慢と、失うことへの臆病。その矛盾にがんじ絡めにされたまま、俺は今度もまた、遠ざかる背中を見送るしかないのか――!

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