タイヤは狂ったように回り続け、焦げたゴムの臭いだけが充満していくのに、景色は一向に進まない。むしろ、踏みしめた地面そのものが逆方向に高速で流れているかのように、妹の機体が遠ざかっていく。
『兄さん、助けて……熱いよ……暗いよ……』
ノイズ混じりの、聞き慣れた声。それでいて、聞き覚えのない声。この場に俺は、いなかった。いなかったのだ。
だから、救いを求める彼女に、俺は駆け寄ってやることすらできないのは、五年も前に過ぎ去った必然である。
なぜ俺は、そこにいなかった。速さが足りなかったのか。守る力が足りなかったのか。
盾はどこだ。そうだ、盾だ。何があっても絶対に守りきることができる、絶対の安心を約束してくれる、そんな盾を。盾が。盾で。盾に。盾盾盾盾盾盾盾――!!
――無駄だ。どんなに頑強な盾を用意しようとも、お前の妹は帰ってこない。この先どれだけの人間を守ろうと、何の意味もないぞ。
唐突に、誰もいないはずの背後から、暗闇の向こうで不確かに浮かび上がった顔のない俺が、囁きかけてきた――そんな気がした。
「ああああああああああああッ!!!」
視界の端で、スローンの機体が閃光に包まれる。爆発の音はない。ただ、耳元で響くレンの歌声が最高潮に達し、すべてを浄化するように浸透していった。
そして、映像が再び最初から巻き戻る。
『兄さん……』
エンドレスに繰り返される、絶望の再演。
俺は現実のコックピットの中で、存在しない妹の手を求めて、虚空を掴むように指を震わせていた。
叫ぶ気力さえ尽き果てた俺の耳に、ひどく場違いで無機質な雑音が通り過ぎていく。
『“ドルフィン”。応答を。バイタル、許容限界。思考の混濁を確認しています』
誰だ。うるさい。この歌の邪魔をするな。スローンの最期の声が聞こえない。
『理解不能。現在、何を観測しているのですか。何があなたの機動を妨げているのですか』
問いかけは、あまりに論理的で、あまりに無遠慮で、なにより意味不明だった。
リルの声だ。彼女の機体の集音マイクも、この歌を物理的な振動として捉えているはずだ。だが、彼女の報告には、この世の終わりを告げるような悲痛も、過去の亡霊に怯える震えも、欠片ほども混じっていない。
彼女にとって、この聖歌は解析すべきデータの羅列に過ぎないのだ。
『“ドルフィン”、回答を。汚染源を特定できません。何にそこまで怯えているのですか。目の前の敵に、集中してください』
(黙れ……っ! 目の前に、いるんだ……スローンが、今、死ぬんだ……!)
叫ぼうとしても、喉が焼けたように動かない。
こちらに向かって飛びかかってきた
リルが指示を仰ごうとアイアン・デュークの戦術管制室に回線を繋ぐ気配がしたが、そこから返ってきたのは、熟練の管制官たちが喉を掻きむしり、狂乱する地獄のようなノイズの奔流だけだった。
『“アイアン・デューク”、応答不能。戦域内の全指揮系統、崩壊を確認。司令部、応答を』
網膜ディスプレイの端で、赤い警告灯が狂ったように踊っている。リルが指揮系統の乱れによって、ただ防戦に徹することしかできないまま、俺の死を淡々と観測し続けている。
そんな中、ノイズに塗りつぶされた通信圏のさらに外側――はるか南方の、静寂に包まれた北方第6前線基地から、ようやく一本の優先回線が割り込んだ。
『こちら、基地総司令部。シュタイナー・エドムントだ』
その声は、悪夢の底まで届くほどに硬く、重い。
『全軍に告ぐ。現時刻を以て、全作戦を中止。ただちに戦域より離脱せよ。全軍、撤退だ』
司令の言葉は、そこで一度途切れてしまった。送信されてくる全兵士の精神汚染データ、その凄惨な数値を飲み込むような沈黙が横たわる。
やがて、再び聞こえてきたのは、別の男の声であった。戦術管制室室長、ガネット中佐だ。
『アンドロイド兵各個に告ぐ。現在、正常な判断能力を維持しているのは、貴官らのみである。一兵でも多くの同胞を回収し、撤退を支援せよ。手段は問わない。一人でも多くの魂を、この地獄から連れ戻せ』
それは、スワスチムの栄光をかなぐり捨てた、敗北の宣告に他ならない。だが、その言葉を待っていたかのように、リルの反応は早かった。
『“ノーチラス”、了解。行動不能な友軍機を牽引しつつ、戦場を離脱します』
俺の意識が再び五年前の炎に包まれる寸前、鈍い衝撃が走った。
重い金属音と共に、機体が強引に揺さぶられる。リルが放った複数の物理牽引ワイヤーが、蜘蛛の巣のように俺の機体を絡め取り、強引に固定したのだ。
空転し続けていた車輪が浮き上がった。狂笑するリュオンも、絶叫するクローディアも、魂を抜かれた抜け殻のようにリルに引きずられていく。
背後では、勝利を確信した神官たちの嘲笑と、逃げ遅れた友軍機が拉げ、噛み砕かれていく金属音が、遠ざかっていく。
(……負け……たのか。俺たちは……)
完敗だった。有効な反撃すら許されず、ただ歌の一撃だけで、俺たちが信じていた鉄と硝煙の戦術は完全に破綻したのだ。
大きく機体が揺れ、慣性のままに俺の義肢も機内で振り回される。全てがもはや、どうでもいい。
牽引されるトリオンのコクピットの中で、俺は流れる涙を拭うこともできず、ただ遠ざかっていく戦場の火影を、白濁した視界で見つめていた。
天を包み込むような、少女の歌声が止まる。
代わりに、戦域の全スピーカーをハッキングしたかのような、圧倒的な指向性を持つ声が、赤い土の荒野に響き渡った。
『――よくやった、レン』
それは、慈愛に満ちた、だが背筋が凍るほどに澄んだ男の声だった。
霧の向こう。はるか上空から舞い降りた影が、巨大なフェンリルの背に着地したのが、ノイズ混じりの外部カメラに一瞬だけ映る。
『素晴らしい。これこそが、私の求める真なる平和だ』
男が誰を抱きとめたのか、その顔がどんな表情を浮かべているのか、俺には見えない。
ただ、壊れやすい硝子の細工品を扱うような、おぞましいほど優しい手つきだけが、陽炎のように揺れて見えたような気がした。
勝利を確信した者の、あまりにも静かな、そして独善的な祝福。それが、この地獄を作り出した神の正体なのか。
問いかける言葉も、呪う気力も、今の俺には残されていない。リルの機体が発する無機質な駆動音と、土を撥ねる不快な音だけが、最後まで耳に残っていた。
(スローン……ごめん、な……)
救えなかった妹の幻影が、白光の中に溶けていく。大神官の満足げな囁きを最後に、重い闇が、俺のすべてを塗りつぶした。
通信回線は、もはや意味をなさない。ただ、己のトラウマに溺れていく同胞たちの異様な呻きや、悔恨に窒息しかけて漏らす震える喘鳴だけが、混濁していく聴覚へ淡々と流れ込んでいた。
強引に引き絞られた牽引ワイヤーが軋むたび、機体を大きく震わせた。リルをはじめとしたアンドロイド兵たちが、
自らの悔いに食い破られ、逃げ場のない過去の深淵へと沈んでいく仲間の意識。その救いようのない連行を、傍らに寄り添う機械の少女は、静かに、独り言のように零した。
『みんな笛の音についていってしまいました……』
硝煙に霞んだ焦土を、アンドロイド兵たちの単調な駆動音だけが重く踏みしめていく。冷たい合成音声の残響を最後に、今度こそ重い闇が、俺の意識を覆っていった。