かつて、傲慢の塊だったリュオンが俺を鼻で笑うために使った、文字通りの嫌味。それを、まさかこんな局面で、これ以上ないほど正当な上官としての命令として叩き返されるとは思ってもみなかった。
情けなくて、頭から火が出そうだ。感情に任せて隊長を怒鳴り散らしていた今の俺は、あの頃のこいつよりよっぽどタチが悪い。至極真っ当に今の状況と目的を見据えているのは、俺ではなく、目の前のリュオンの方だった。
そうだ、こんなことをしている場合じゃない。あの防御不能な精神攻撃――レンの聖歌への具体的な対策を見つけ出さなければ、次の出撃で待っているのは確実な死だ。
いつまた戦場へ駆り出されるかも分からないこの状況で、俺は感情に呑まれ、目の前の危機から目を背けて暴走していた。己の醜態を激しく恥じながら、俺は静かに頭を下げた。
「……すまない、少尉。俺の失言だ、言葉が過ぎた」
「分かればいいよ。あんたの言いたいことも分からないでもないしな。けど、じゃれあうなら、他所でやってくれ」
リュオンはいつもの不敵な笑みを薄く浮かべると、小さく肩をすくめてみせた。さらに、まだ視線を彷徨わせているクローディアを一瞥し、最後にドックの隅で淡々とこちらを見つめているリルへと視線を移す。
「で? 話すだけ話したのはいいけどさ、この不幸自慢大会が何の役に立つわけ? そいつが次の戦場で生き残るための装甲にでもなってくれるのかい?」
相変わらず口の悪い男だが、彼の言う通りだ。ただ過去の傷を抉り合って終わるだけなら、それこそ傷の舐め合いでしかない。必要なのは感傷ではなく、次の出撃で全滅を避けるための具体的な手段である。
全員の視線が、小柄な従尉へと集まる。軍のデータ採集用として調整された彼女は、皆の期待に応えるべく静かに口を開いた
「いいえ。皆さんの話は、不足していた重要な主観データです。私は聖歌の影響を受けないため、皆さんの脳内で起きていたエラーの中身までは解析できませんでした。ですが、今の会話で因果関係が繋がりました。あの聖歌は、対象の過去をトリガーに精神を破壊するシステムです」
「要するに?」
「“あんたたちの過去バナなんて知ったこっちゃねえ”ってことです」
「そこで僕の声真似するの、やめろよ!」
狙ってかどうかは知らないが、唐突にドックの空気が和らいだ気がした。リュオンの抗議を一切無視して、リルは淡々と話を戻す。
「だったら、何か防ぐ手立ては――」
「ありません。過去の記憶は書き換え不可能な確定事項です。トラウマを消去しない限り、精神攻撃そのものを止める手立てにはなり得ません」
俺が抱いた希望は、リルの無慈悲な宣告によって、あっさりと両断されてしまった。しかし、彼女の言葉はそこでは終わらない。
「ですが、お三方の主観データを比較した結果、明確な共通点が浮かび上がりました。皆さんが戦場で見せられた幻は、すべて『現実には存在しない嘘の記憶』です」
「嘘の記憶?」
「はい。カーン准尉は妹君の戦死の瞬間を目撃していません。リュオン少尉は未経験の未来の姿を見せられ、クローディア中尉はすでに故人である部下の声を聞いています」
自身の古傷を事実として突きつけられ、クローディアがびくりと肩を跳ね上げた。未だに現実へと戻りきれていないのか、両手に震えが残っている。
「お三方の証言は、どれも実際の公式記録や客観的事実と一致しません。すなわち、記憶を思い出しているのではなく、その場で偽の現実を新規知覚させられていたと判断するのが妥当です。大巫女の聖歌は、対象が最も拒絶したい偽の現実をリアルタイムででっち上げ、強制視認させるシステムと考えられます」
なるほど。機械の彼女に指摘されて、ようやく霧が晴れたような気がした。俺たちは過去のトラウマに怯えていたんじゃない。脳に直接叩き込まれた、精巧な嘘に翻弄されていたのだ。
「強制視認ねえ。で、その悪趣味な上映会に耐える方法はあるのかい?」
「はい。現実に存在しない嘘に翻弄されるなど、きわめて非合理的です。以前、リュオン少尉に非論理的な感情論で押し切られた戦闘データを基に、一つの最適解を導き出しました」
リュオンが値踏みするような視線をリルに向けた。組んだ腕の中で、指先が落ち着きなく脈打っている。
彼にとっても大巫女の聖歌は苦い経験だ。リルの推測を鼻から否定する気はないのだろう。
一方、リルの方は最適解とやらには自信がある様子だ。まるで極秘の軍事機密でも開示するかのような厳かさで、リルは大真面目にこう言い放った。
「気合でなんとかしてください」
背後では再出撃に向け、せわしなく機体の再調整を行う作業音が、耳を通り抜けていく。飛び散る火花。金属を叩く音。作業員たちの足音、そして報連相。今日もドックはそれなりに平和だ。
…………。
いけない。まさかアンドロイドの口から根性論が飛び出すとは夢にも思っていなかったせいで、どうやら現実逃避してしまったらしい。
合理性を重視するはずの彼女が、こともなげに根性論を口にする。そのチグハグさにどう反応したものか。逡巡の末、俺は頓珍漢なツッコミを入れるのが精いっぱいだった。
「リル、奇行が過ぎると、また司令部から廃棄案が出るぞ?」
「失礼ですね。当機の機能は正常です」
もしもリルが人間だったなら、きっと今ごろ膨れっ面をしていたことだろう。だが、そのような仕様を持たない彼女は、いつも通りの仏頂面である。
その表情からは、どこまで本気なのか、いまいち読み取れない。しかし、彼女はお構いなしに、とんでもない主張を続けるのだった。
「現実に存在しない幻影に翻弄されるなど、きわめて非合理的です。私の解析によれば、幻影を排除するための最適解は“錨”を設けることだと結論づけました」
彼女は一拍置くと、言葉を継ぐ。
「私の言う気合とは、精神的な高揚状態を指すものではありません。幻影が嘘であると断言するための、精神的な支柱のことです。自分自身が“これは偽物だ”と信じ抜くための拠り所。それさえあれば、幻影に干渉できる可能性があるのではないでしょうか」
「あの精神攻撃に対抗できる物……具体的に、何を“錨”にすべきなんだ?」
「先ほどの話の中で、准尉自身が口にしていたではありませんか。偽物の記憶に登場した、現実の世界に存在するものを」
リルの指摘を受け、俺は再び忌まわしい記憶の蓋を開ける。
——俺が見たのは、五年前の戦場だ。
——だが、そもそも俺はその場にいなかった。後日——
そうか。あの幻影の中で、俺が唯一“ここに在る”と確信できたもの。それは確かに悪夢の証拠でありながら、現実の証明にもなり得るだろう。
静かに頷き合い、互いに背を向ける俺たち。俺とリュオンは、何も言わずにそれぞれの場所へ向けて歩き出す。少し遅れて、クローディアもおぼつかない足取りでドックを後にした。
——三十分後。ドックの喧噪の中に戻ってきた俺たちの雰囲気は、先程までの沈んだものとは違っていた。
先に着いていたリュオンは、自分の機体の傍らで整備用コンテナを椅子代わりにしている。戻ってきた俺を一瞥すると、小さく鼻を鳴らした。
最後にクローディアが歩み寄ってくる。拳を握りしめたままの彼女の手から細い銀のチェーンがこぼれ落ちており、彼女の掌の中で重苦しく存在を主張していた。
「皆さんの生体反応と精神状態の乖離が出発前よりも縮小しています。調整が完了したようですね。そちらがあなた達を現実に繋ぎ留めるための、“錨”となる物でしょうか?」
「ああ、そうさ。僕が内緒で組んだ
リルの問いに、リュオンが応える。その手は小さな鈍色の金属片をもてあそんでいた。
それが先ほどの話とどう繋がるのかは、俺には分からない。しかし、気まずそうに顔を背ける彼に、そこまで踏み込んだことを問い質す気にはなれなかった。
俺もポケットから、スローンのドッグタグを取り出す。これを握れば、五年前の記憶が胸の奥で重く沈む。まやかしの幻影がどれほど甘く囁こうと、この金属の冷たさと刻まれた名は、俺が決して忘れてはならない現実なのだ。
最後に、クローディアが震える手で拳を緩めた。掌の上で跳ねたロケットの蓋を、ためらいがちに開く。
収められていた写真に写る、軍装の若者たち。彼らが先程クローディアが話してくれた、かつて彼女が率い、そして喪った部下たちに違いない。
どんなに命令に従順であろうとも、彼らの死だけは彼女の脳裏に焼き付いて離れない。その現実から目を背け、思考を停止させることで自分を守ってきた彼女にとって、この写真は決して忘れてはならない罪悪感であり、同時に彼女をこの非情な戦場に繋ぎ止めるための、唯一の“錨”になるだろう。