通信回線を震わせる声。俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この落ち着きのない声には、聞き覚えがあった。あれはそう、訓練場でリルとリュオンが模擬戦をしていた時だ。
二人の訓練の様子を俺の隣で眺めつつ、リルの生い立ちについて話し、彼女のメンテナンスキットを譲ってくれた、白衣の男だ。
通信は暗号化もされず、公用回線で戦場全体に垂れ流されている。通信を聞いていたリュオンが、怪訝そうな声を上げた。
『おい、今のは誰だ? リルを連れていくって、何のことだよ!』
しかし、彼の問いに答える者はいない。代わりに、神使フェンリルに騎乗するジンが、大袈裟に両腕を広げてみせ、足元に縋りついて喚き立てる白衣の男に優しく語りかけた。
『ああ、アルベルト殿。ここは危険だ、お下がりなさい。しかし、貴方の嘆きも、悲しみも、全ては彼女を想うが故のことと、私は理解している。その美しき愛を、私は肯定しよう』
アルベルト――それが彼の名のようだ。問題はそこではない。彼はれっきとした、スワスチム人である。
しかし、この様子はどうだ。ジンとアルベルトの会話は、“まるで仲間同士の会話”のようではないか。
困惑する俺たちを余所に、ジンは言葉を続ける。その目が一瞬だけこちらを見下ろし、ほくそ笑んだかのように見えた。
『なに、簡単なことだよ。彼は、使い捨てられる機械人形を哀れに思い、憎むべき軍から引き離そうとしただけのこと。彼は命が惜しくて、我らがヘアツゥ司教国に亡命を図ったわけではない。その哀れな機械人形のため、スワスチム軍の監視システムの情報を我々に売り渡し、その結果、此度の戦いが引き起こされたのだが、どうか彼を責めないでやってくれたまえ』
耳を疑う。いまこの男は、何と言った?
思い出す。そういえばあの戦闘中、荒野をまっすぐに北上していった一両の白い車両がいたはずだ。あの時、非武装の車が皇獣に襲われることもなく戦場を抜けていった光景に、俺は得体の知れない違和感を覚えていた。
あれに乗っていたのは、この男だったのか。あの非武装車両こそが、裏切り者が敵陣へと逃げ込むためのものだったのだ。
不意に、出撃前にブリーフィングで聞いた話が脳裏をよぎる。
——二十四時間前を境に、国境付近で常に一定数観測されていた野生
――消えた
——これは過去にも前例がある動きでな、ヘアツゥ軍が大攻勢をかける際の常套手段だ。
そう、この凄惨な戦場を生み出したのは、このアルベルトと呼ばれた技術者だったのである。
『事情を把握しました。一晩の内に荒野に棲む
『お、お前のせいかああああっっ!!』
リルの呟きと、リュオンが怒りの声を上げたのは、ほぼ同時であった。
フェンリルの目に突きつけていたリュオン機の銃口が、即座にその足元へと向かう。この白衣の男こそが許しがたい裏切り者であると理解した彼は、アルベルトに向けて躊躇なくトリガーを引いた。
自分が照準されていると感じたアルベルトは、小さく悲鳴を上げると、とっさにフェンリルの脚の陰へと転がり込んでいく。連射されたニードルは、あえなくフェンリルの毛皮に弾かれ、地に散らばっていく。
ジンの方はと言えば、完全にこの場からは興味を失っているかのようであった。その顔には相変わらずの笑みをたたえてはいるが、既に俺からは上っ面だけの表情にしか見えていない。
あれは、人の命を何とも思っていない、そんな目だ。手駒である
そんな男が、再び口を開いた。ろくでもないことを言うにきまっている。それが分かっていながら、俺はまだ身動きをとることができなかった。まるで、ヘビに睨まれたカエルだ。
『さあ、レン。フェンリルの足元で震えている、哀れな子羊を見つけなさい。貴女の聖なる歌で、その迷える魂を安らぎへと導いてあげるのです』
ハルピュイアの背で歌い続ける大巫女に、ジンは歌うように命じる。それに応えてレンが頷くと、彼女の周囲を旋回していた小型
そのセイレーンが発するレンの歌声は、戦場全域に広がるものとは異なり、アルベルトという特定の個人へ向けられたものだ。
戦場全域に拡散された聖歌を聞いただけで、俺たちは過去のトラウマを増幅され、悪夢に飲み込まれてしまった。そんなものが、たった一個人に向けられたら、一体どうなってしまうのか。
考えるだけでも恐ろしい“優しい”歌が、アルベルトの脳を直に揺さぶる。直後、アルベルトの挙動が劇的に変化した。フェンリルの脚に縋り付いていた手を放し、虚空にうなだれながら、何かに追い詰められるように身を捩る。
「やめなさい……やめてくれ! リルは兵器ではありません、あの子は自由になるべきだ!」
彼は狂ったように空を掴み、喉を震わせる。
「吸血鬼の連中め! リルを兵器として扱おうとするな! 私が連れてきたのは、あの子を解放するためだ。戦争の道具にするためではない!」
耳を疑うような言葉だった。彼は何を言っているのだろうか。その憤怒と悲痛に満ちた叫びは、スワスチム軍の俺たちへ向けられたものではないようだ。言葉の端々に垣間見えるのは、彼が亡命先と信じていた者たち――ヘアツゥの軍勢に対するもののように聞こえる。
「違う。そんな目で私を見ないでくれ、リル! 私が君を売ったわけじゃない……信じてくれ!」
彼は髪を掻きむしり、まるで自分の罪を自ら断罪するかのように、何度も額を地に叩きつけた。
おそらく、あの聖歌は彼の脳内で、もっとも避けたかった最悪の光を見せられているのだろう。リルを救うために犯した裏切りが、皮肉にも彼女を最も過酷な運命へと突き落とす、という悪夢を、だ。
狂気じみた叫びを繰り返していたアルベルトの喉から、やがて掠れた音が漏れるようになる。彼は血走った目で虚空を睨みつけ、最期の力を振り絞るように、震える唇を動かした。
「……リル、ごめん……私は、君を、自由にしたかった……それだけ、だった、のに……」
彼は満足な返事も聞こえないまま、それでも最期に自分自身の信じた“愛”にすがりつこうとした。その口元には、悲劇的な自己陶酔を孕んだ、うっすらとした笑みが浮かんでいる。
歪んだ安らぎの中、アルベルトは地面に倒れこむ。彼の脳神経が精神攻撃に耐えきれずに限界を迎え、彼は自らの罪の重圧と勝手な救済の幻影に塗りつぶされて、静かに機能を停止したのだ。
凄惨な戦いの原因を作った男の、あまりにもあっけない幕切れであった。
その光景を横目に、ジンは満足げに細めた瞳を大巫女へと向けた。
『素晴らしい旋律でした、レン。迷える魂を安らぎに導く慈愛の心、しかと見届けさせてもらいましたよ』
慈悲深き大神官の声に、レンはハルピュイアの背の上で、ただ微かに微笑む。戦場で何が起きているのかも、あの盲目の大巫女には理解できていないのだろう。たった今、自分がアルベルトに対してしたことさえも。
純粋にして無垢。その姿はまさに、悪意のない無知がもたらした、残酷さの化身であった。
『レン、成果は十分です。そろそろ引き揚げましょうか』
『はい、大神官様』
穏やかな口調で語りかけるジンに、レンが静かに答える。脳をえぐるような聖歌がようやく止まり、俺は思わず深く息を吐き出した。
支配していた悪夢の旋律が消えた。硬直していた俺の意識が、ようやく現実へ引き戻される。
「奴を仕留める! 逃がすな!」
俺の言葉に呼応するように、リュオン機のバーニアが火を噴いた。俺の後ろでは、リルとクローディアも、それぞれ銃を構えているはずだ。
しかし、彼のストライプパイルが神使フェンリルの首を粉砕する前に、リルの声が通信を震わせた。
『解析データ更新。目標、推定で全長三十二メートル。神使フェンリルは、超大型級に分類される個体です』
ジンの指示を受けて身を起こし、立ち上がったその威容は、こちらの想像を上回るものであった。