これまで大人しく地面に伏せていた獣が、ゆっくりと起き上がった。縮こまっていた四肢が伸び、その巨躯がそびえる。全長二十五メートルとしていた目算は、どうやら誤りであったらしい。
そこに佇むのは、ただの生物ではない。空気を震わせる静謐な威圧感。他の
周囲を取り囲んでいたブラックドッグとは次元の異なる、個として完成された絶対的な力の気配が、俺の戦士としての本能に警鐘を鳴らし続けていた。
超大型級。
本来ならば大隊規模の戦力を注ぎ込んでも、まともにダメージを与えるのが困難な規模である。戦艦や要塞などの主砲、あるいは高性能の
そんな怪物を相手に、俺たちは量産機四機で挑もうとしていたのか。圧倒的な力の差。この獣の前に立てば、自分たちの存在など無に等しいのだ。
そう確信させられてしまうほどの敗北感が、そして理解が追いつかないほどの絶望が、この身をすくませる。呼吸さえも忘れ、ただ本能が逃げろと叫び続けていた。
だが、リュオン機は迷いなく飛び出す。宙を駆けるその背中を見つめながら、俺の意識はどこか遠くへ飛んでいた。
かつて、俺の手からこぼれ落ちていった小さな命。二度とそんな思いはさせまいと、重厚なリアクティブタワーシールドを掲げることを誓ったはずだったのに。
リュオン機がストライクパイルを構える動作が、異常なほど鮮明に、スローモーションのように視界に焼き付く。
行くな――そう叫ぼうとしたが、喉が引きつるだけで声にならなかった。敵との間に割り込む隙など、最初から存在しなかったのだ。
速い。操作も、判断も、全てが理想的だ。だが、その理想の先には破滅しか待っていない。
予測するまでもない未来を知りながら、それを止める術を持たない無力。ただ見届けることしかできない俺の視線の先で、リュオン機はフェンリルへと肉薄する。
彼を待ち受けていたのは、無防備な首筋などではなく、大きく開かれた神使フェンリルの口であった。咆哮と呼ぶに相応しい遠吠えが、空間を歪ませるほどの凄まじい衝撃波となって襲い来る。
パイルを突き出した姿勢のまま、まるで不可視の壁へ激突したかのように、リュオン機がひしゃげたのが見えた。音速で繰り出されるはずだった杭は打ち出されることなく、機体はなす術なく後方へ弾き飛ばされていく。
いや、それだけに留まるはずもない。
余波が嵐となって、俺たちも巻き込んでいく。装甲板はひび割れ、関節フレームが限界を超えた負荷で軋む。制御系統の警告灯が乱反射する視界の中で、自機の機能が次々と停止していく様を見届けるしかなかった。
さっきまでの俺たちを苛んでいたのは、大巫女レンの聖歌によって目覚めた過去の亡霊だ。あの歌声は装甲を透過し、脳に直接ノイズを叩き込み、過去の悪夢を再生させる正体不明の精神攻撃である。
だが、俺たちはそれを跳ね除けた。これは捏造だ、事実ではない、そう己に言い聞かせることで、幻影を振り払ったのだ。あの時、俺たちは確信していた。心さえ揺らがなければ、科学を逸脱した怪異にだって抗う術はあるのだと。
それが、どれほど思い上がった傲慢だったのか。今の俺には痛いほど理解できる。
レンが放ったのは、あくまで心の深淵を抉るだけの幻だった。だがジンがもたらしたこの一撃は、現実の物質そのものを等しく破壊し、俺たちの生存圏を根底から上書きしてみせた。
幻影なら意志の力で拒絶できる。だが、この圧倒的な暴力は、意志など紙屑に等しく、根性論で覆すことなどできはしないのだ。
機体の損壊という物理的な事実が、俺たちの心を容赦なくすり潰していく。心を強く持てば抗えるなどという理屈は、神使の力の前に何の意味も為さなかった。
いや、力などと言うのもおこがましい。たった一声で俺たちの身も心も打ち砕いたそれは、フェンリルにとって、そして奴を使役するジンにとって、去り際の挨拶に過ぎなかったのだ。
俺たちはただ、悠々と去っていく敵の背中を見送ることしかできない。
この胸に渦巻く、焼けるような冷たさ。それが恐怖と呼ばれる感情であると気付いたとき、俺の中で戦うための理屈はすべて霧散してた。
戦意は消えた。いや、最初から俺たちなど、戦いの土俵にすら立っていなかったのだ。
警告音の嵐が止み、コクピットが静寂に包まれる。視界を埋め尽くしていた警告灯の光が徐々に消えていき、俺の手元には暗がりだけが残った。
どれくらい経っただろう。機体が規則正しく揺れ始めたのは、随分と時間が経過してからであった。
その振動で、ようやく自分が牽引されているのだと理解する。戦場から切り離され、基地という名の檻へ運び込まれていく、哀れな残骸。それが、今の俺だ。
ジンが本気で殺そうとしていれば、俺たちは塵も残らなかっただろう。そんな事実は理解できても、今の俺にはそれを咀嚼する気力もなかった。
戦って、勝てなかった。誰も守れず、俺という兵士が抱えていた全ての根拠が消失した。
心には空洞が広がり、後悔すら湧かない。ただ、終わったのだという実感だけがそこに横たわっている。
基地に帰還したのか、外部でハッチが開放される音がした。外光がコクピットに差し込み、メカニックたちの慌ただしい声が耳に届くが、身体が鉛のように重い。
立ち上がる気力も、言葉を返す意思も湧かない。隣に乗るはずのリュオンやクローディアの状況も知る由がなく、俺はただうなだれたまま、無意味な自問を繰り返していた。あんな怪物に、どう勝てと言うのか。
そんな中、視界の端で機体のデータリンクが動いていることに気が付いた。リルだ。
彼女は既に戦場での戦果報告を終え、淡々と機体のステータスを書き出している。大破した装甲を点検し、データを回収し、次なる整備に向けての手順を組み上げている。
プログラム通りの、機械的な作業。感情を介さないその手付きに、俺は奇妙な静けさを覚える。
——あいつはまだ、戦っているのか。
俺が絶望に溺れ、思考を放棄している間にも、彼女はただ前だけを見ていたのだ。
投げやりになっていた自分の醜さが、その姿と重なる。自分を殺して、ただ己の役割に殉じようとする彼女のひたむきな背中。その献身こそが、絶望に浸る自分を突き動かす責め苦として突き刺さった。
彼女はアンドロイドだ。その動きに、意志は宿っていない。だが、ヒトに対する、そして仲間に対するその献身こそが、打ちひしがれた俺を突き動かす責め苦として突き刺さった。
震える拳を膝から解く。恐怖は消えない。だが、ここで思考を止めることは、敗北を永遠に確定させることに他ならない。
俺は深く息を吐き出し、ハッチの外へ顔を向けた。リルがそこにいる。彼女の隣で、再び戦う準備をしなければならない。
己の無力を思い知らされた今、せめて前を向き続けるあいつの隣に立ち、再びあの獣の喉元へ刃を届けること。それが、諦めることを知らない仲間を横目に無気力に沈んでいた、情けない兵士にできる、唯一の償いなのだから。
「……リル。すぐに直して戻る。あとは頼むぞ」
俺の言葉に、リルが動きを止めてこちらを向いた。その無機質な瞳の中に、確かな意志を見て取る。
そう確信した俺の意識は、義肢が負荷に耐えかね限界が近かったこともあり、暗い安らぎの中へと向かい始める。
暗闇に飲まれる直前、脳裏に浮かんだのは大巫女レンの姿だ。ヘアツゥ軍が信奉する“神の化身”であり、俺たちの精神を蹂躙した恐るべき聖歌の“元凶”。
対して、俺たちが握りしめたドッグタグも、起動キーも、ロケットペンダントも、等しく同じものだったのだと気づく。俺たちを戦場に縛り付け、狂わせ、それでも今日まで現実に繋ぎ止めてきた、それぞれの“錨”。
俺たちは、自分たちの信じるものを抱えたまま、敵の“象徴”に抗おうとしていた。
どちらがより重いかなど、どうでもいい。
この巨大な脅威を討ち果たすために、次の戦場へ行く。俺が俺であるための“拠り所”を、この手で守り抜くために。
……
そんなものに縋る軟弱な戦いは、これで終わりだ。これからは俺自身が己の道を切り拓く牙となり、全ての虚飾を砕いて進んでやる。