第7話:伸びていく長っ鼻①
廊下を歩くたび、右脚から微かな違和感が伝わってくる。
動作そのものに問題はない。医療用診断では、神経接続も駆動系も正常。戦闘行動に支障なし。
兵士にとって、手足を失うことは珍しいことではない。壊れた部品を交換する、それだけの話だ。兵士ならなおさらである。
だが、長年使い続けた身体と、交換したばかりの義肢では、やはり勝手が違う。
指は握れるし、足も動く。それでも、自分の身体が自分のものではないような感覚だけは残っていた。
疑似神経が完全に馴染むまで、あと2日。医者にはそう言われている。
大人しくベッドで寝ていれば、問題なく復帰できるだろう。その忠告を守れる性格なら、そもそも
俺は医務室を抜け出し、食堂へ向かっていた。本当なら、こんな場所を歩いている場合ではない。
義肢換装からまだ五日。身体は回復途中で、シービースト小隊の他の連中も似たような状態だ。
それでも、じっとしていられなかった。あの黒い機体について、何も知らないまま次の戦場へ出ることの方が、俺には耐えられなかったからだ。
あの黒い異形には、いつしか"羊飼い"という名が付いていた。理由は単純だ。あいつは決まって
実際にあいつが
問題は、そこじゃない。あいつは俺を覚えている。
初めて戦った時、俺は偶然にも奴の武器を破壊した。結果だけを見れば、引き分けに持ち込んだと言えるのかもしれない。
だが、実際は俺の負けだった。次に遭遇した時、あいつが同じように見逃してくれる保証などどこにもない。
むしろ、あれ以降“羊飼い”は俺を優先して狙うようになった。先日の戦いでは、百を超える
よほど美味そうに見えたのだろう。迷惑な話だが。
だからこそ、俺は知らなければならない。
あいつが何なのか。どう戦えばいいのか。何故、ヘアツゥの兵士たちと共に行動を取るのか。
考えれば考えるほど、分からない。
廊下を歩く途中、何人もの兵士とすれ違う。どいつもこいつも表情からは生気が失われ、不安と恐怖に心が塗りつぶされてしまっているかのようだ。これではまるで、生きる屍である。
先日の戦闘で、俺たちは負けた。それも、完膚なきまでの惨敗だ。
ヘアツゥ司教国軍の大規模侵攻において、北方第6前線基地は防衛に成功したわけではない。ただ、生き残っただけである。
誰もがあいつを恐れている。正体が分からないというだけで、人はここまで怯えるものなのか。
俺は食堂の扉の前で、一度立ち止まって思案する。
たとえ死に体であろうと、栄えあるスワスチムの兵士たちだ。“羊飼い”との交戦経験のある者も、一人や二人ではないはずだ。
求める情報がこの場にあることを願いつつ、俺は静かに軽い扉を開く。手首から返ってくるシグナルが、妙に神経を逆なでした気がした。
昼時を過ぎた食堂のざわめきが耳に流れ込んでくる。とはいえ、その空気は以前とはまるで違っていた。
敗戦の五日後だというのに、談笑する声はほとんど聞こえない。食器の触れ合う音だけが、やけに大きく響いていた。
配膳口へ向かって歩き始めると、何人もの兵士と目が合う。すぐに逸らす者もいれば、露骨に顔をしかめる者もいる。中には、こちらを見たまま何も言わない連中もいた。
無理もない。
俺たちは持ち場を飛び出し、敵の大将を叩くしかないと無線で叫んだ。前線の連中は、その無茶に命を預けて道を開いてくれた。
皆が命懸けで繋いでくれた道を、俺たちはジンの目の前まで駆け抜け――そして、負けたのだ。
期待させるだけ期待させて、結果は全滅寸前。冷たい目を向けられて当然であろう。俺だって、あの場でジンに手も足も出なかった自分を、まだ許せていないのだから。
配膳口へ近付くと、白いエプロン姿の小柄な少女が、慣れた手つきでトレーを並べていた。
今日は非番なのだろう。軍服ではなく、すっかり見慣れたメイド服に身を包んだリルが、兵士たちの配膳を手伝っている。
俺の姿を見つけるなり、その銀色の瞳がじろりと細くなった。嫌な予感しかしない。
「カーン准尉、無断で医務室を抜け出してきましたね?」
「散歩だ。腹くらい減るだろう?」
小さく溜息をついたリルは、手にしていたトレーを配膳台へ置くと、腰に手を当てて俺を見上げた。アンドロイドって、溜息ついたりするんだな、とどうでもいい所で感心してしまう。
「病人は病人らしく寝ていてください。お医者様からも、あと二日は安静にと言われたはずです」
予想通りのお小言だった。
眉の端を吊り上げながら、それでもリルは配給用の深皿に温かいシチューをよそい、黒パンを二つ添えて俺へ差し出す。
「悪いな」
「その言葉を返す相手が違います。医務室へ戻ったら、軍医さんにもちゃんと謝ってください」
気が向いたらな、とだけ返事してトレーを受け取る。湯気の立つシチューからは、豆と乾燥野菜、それにわずかな肉の匂いがした。
味気ない配給食だが、義肢の整備だけでは身体は保たない。人工筋肉も、人工臓器も、生きた脳も、結局は栄養を食って動いているのだ。
適当な空席へ腰を下ろし、黒パンをシチューへ浸す。
温かいだけでもありがたい。味は相変わらず質素だったが、五日ぶりに医務室の外で食べる飯だ。点滴や味のしないレーションに比べれば、天上の甘露のごとし、である。
配膳を一段落させたリルが、小走りに駆け寄って来る。彼女はそのまま、静かに俺の向かいへ腰を下ろした。
「それで、基地はどうなってる」
リルは俺の顔を見つめ、小さく頷いた。
「前線は現在も膠着状態です。ヘアツゥ軍に大きな動きはありません。ですが、現在前線を維持しているのは、アンドロイド兵の部隊だけです」
含みのある言い方に、ついスプーンを持つ手が止まる。
「
「負傷者の治療と再編成を優先しています。皆さん、まだ聖歌の影響から完全には立ち直れていませんから」
自軍の惨状を思い胸を痛める人間のように、リルはわずかに視線を落とした。
無理もない。あれは勇気や根性でどうにかなる類の攻撃ではなかった。
心の奥底を無理やり抉り返され、現実と幻の区別すら曖昧になる。戦場であんなものを受ければ、身体より先に心が壊れてしまう。
俺たちシービースト小隊が辛うじて対応できたのも、リルのサポートがあってこそだ。“錨”を持っていてなお、悪夢に囚われそうになった俺自身が、その恐ろしさを誰よりも実感していた。
「現在は二十四時間体制で、アンドロイド部隊が交代制で前線を維持しています」
「敵も攻めてこない、と」
「はい。現在のところは」
現在のところ、か。つまり安心できる、という意味ではないらしい。
俺は黒パンを一口かじり、視線だけで報告の続きを促した。
「ヘアツゥ軍にも大きな動きはありません。大神官ジン、ならびに巫女レンも、あの戦闘以降は前線で確認されていません。首都方面へ帰還したものと推測されています」
「へえ。連中、あれだけ暴れた後は音沙汰なしってわけか。道理でアンドロイドだけで前線を維持できるわけだ」