医務室の自動扉が静かに左右へ開く。消毒液の匂いが鼻をかすめ、先ほどまでの食堂とはまるで別世界のような静けさが広がっていた。
窓際には、見慣れた二つのベッドが並んでいる。
一つではリュオンが上半身を起こしたまま端末を眺めていた。包帯こそ外れているものの、右腕の人工筋肉にはまだ調整用のケーブルが何本も接続されている。暇を持て余しているのか、指先だけを動かして何度も握っては開き、その感覚を確かめているようだった。
もう一つのベッドでは、クローディアが壁にもたれ掛かりながら資料端末へ視線を落としている。こちらも義肢の換装は終えているらしいが、顔色は優れない。ページをめくる手は止まって久しく、文字を読んでいるというより、ただ画面を眺めているだけに見えた。
あの戦いから五日。身体は治せても、心まではそう簡単に修理できるものではない。
「よう」
軽く手を挙げると、最初に反応したのはリュオンだった。
「散歩は満足したかい?」
苦笑とも呆れともつかない声だった。それでも食堂で見た兵士たちよりは、ずっと生気がある。
俺は苦笑して肩を竦めてみせた。
リュオンは小さく笑い返した後、部屋の隅へ視線を流す。ベッドの上では、クローディアがロケットペンダントを握ったまま俯いていた。
リュオンと一瞬だけ目が合う。それだけで十分だ。
――まだ、そっとしておこう。
互いに何も言わず、俺はそのまま彼のベッドへ歩み寄った。
「収穫は?」
短い問いに、俺は首を横に振る。
「ああ、この基地は心霊スポットだった、ってことくらいならな。皆が“羊飼い”に注目してるっていうのに、誰も“羊飼い”を見ちゃいねえ」
「……そんなことだろうと思ったけどね」
病室に再び静けさが戻る。
誰もが同じ戦場を生き延びたはずなのに、持ち帰ったものは少しずつ違っていた。その食い違いこそが、"羊飼い"という存在をますます理解し難いものへ変えている。
だからこそ、噂ではなく実際に奴と刃を交えた二人の話を聞いておきたかったのだ。
俺は空いている椅子を引き寄せ、二人のベッドの間へ腰を下ろす。
「ベテラン兵士の皆様方が使い物にならないんじゃ、仕方がないな。いいよ、特別に僕が見解を述べてやる」
リュオンは肩を竦めると、そのまま話を続けた。
「まず言っておくけど、食堂で飛び交ってた話は、半分くらいは忘れていい。幽霊だの、人を喰うだの……そんなものを僕は見ていない」
そこで一度言葉を切り、小さく眉を寄せる。
「速い、なんて言葉じゃ足りないね。何度も照準は合わせたし、距離も詰めた。あと一歩で届く、そう思った瞬間だって何度もあった。でも届かないんだ」
「追いつけなかった、というわけでもなかったな」
先の戦いを思い出す。
迷惑なことに、“羊飼い”は真っ直ぐ俺を狙って突っ込んできた。その際、俺たちは小隊単位で奴を引き受けている。
俺もリュオンも、それなりに善戦はしていたという実感があった。
けど、結果は知っての通り。奴はほとんどノーダメージのまま、聖歌が聞こえると同時にのたうち回り、逃げ出してしまった。俺たちは無駄にダメージを負い、燃料と弾薬を無駄にしただけだった、とも言える。
「避けられたという感覚とも違う。気付けば、もう別の場所にいる。どこをどう動いたのか、その途中が見えないんだ。訳が分かんねえ」
「俺は当てているぞ。お前の言ってることが、余計に分からん」
「そうかい? なら、准尉が最初にあいつとやり合った時のことを、よく思い出してみなよ」
言われてみて、思い出す。
武器を支点に跳ぶ。空中で姿勢を変える。人間のようなフェイント。格闘技のような体重移動。さらには、人間臭い身振り。
「確かに
「それなんだよ」
鎮痛作用のある医療用皮膚を引っ掻くのを止め、リュオンは人差し指を振って見せた。
なんとなくだが、彼の言いたいことが少し理解できたような気がする。
俺は最近まで、南方の戦場で獣人を相手に戦ってきた経験がある。サイズの違いはあれ、人間的な動きをする敵とは、戦い慣れているのだ。
「異常だと知りつつも、俺は経験によって対処できたわけか。けど、
「そういうこと。准尉は強いよ、僕よりはね。悔しいけど認めてやる。けど、トップエースにかなうほど抜きん出てる、ってほどでもないよね」
「自覚はあるさ。けど、これで合点がいった。あいつは強いだけじゃなく、
なるほど、と胸の内で一人頷く。食堂で聞いた噂話は、決して全部が嘘だったわけではないのだ。
人を喰らうだの、幽霊だのという話は論外だ。だが、あの異様な機動を前にすれば、兵士たちの頭が混乱するのも無理はない。理解できないものを、人は知っている言葉でしか表現できないのだから。
「……違う……」
小さな呟きが、俺の思考を遮る。
声がした方を見やると、さっきまでロケットペンダントを握ったまま俯いていたクローディアが、こちらではなく窓の外へ視線を投げていた。
「リュオン少尉の話は間違っていない。でも、それだけじゃない」
彼女の意識は、遠い赤い土の荒野――自らを命令が縛ってくれる戦場に向けられているかのようだ。
だからこそ、その言葉には無視できない意味があるように感じられた。俺とリュオンは、黙ってクローディアの言葉の続きを待つことにする。
クローディアは窓の外から視線を戻さないまま、小さく息を吐いた。
「あいつは、撃たれることを気にしていなかった」
短い一言だった。その言葉に、俺とリュオンは顔を見合わせる。
「気にしていない?」
「ああ。避けることはあっても、弾そのものは脅威だと思っていないように見えた」
狙撃手であるクローディアがそう言うなら、見間違いではないのだろう。
「奴は撃たれることを恐れていない。いや、奴の再生能力を鑑みるに、そもそも恐れる必要がないのか」
しかし、クローディアは俺の解釈に対し、ゆっくりと首を振る。そこでようやく、彼女はこちらへ視線を向けた。
「違う、そういう動きじゃなかった。あれは多分、勝つための動きじゃない」
静まり返った病室で、ロケットペンダントのチェーンがかすかに音を立てる。
「戦う理由が、私たちとは違う……そんなふうに見えたな」
病室に静寂が戻る。誰もそれ以上は、何も言わなかった。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
速さも異常。再生能力も異常。戦い方も異常。そのどれもが事実だった。だが、それらを一つに繋げる答えだけが、どこにも見当たらない。
結局、“羊飼い”とは何者なのか。何のために戦い、何を目的として戦場を彷徨っているのか、誰一人として説明できないのだ。
分かったことがあるとすれば、ただ一つ。この基地で一年以上奴と戦い続けてきた兵士たちですら、その正体には誰一人として辿り着いていないという事実だけである。
ならば、今ここで答えを求めても仕方がない。
俺は小さく息を吐き、自分のベッドへ腰を下ろした。義肢から伝わる微かな違和感は、まだ消えていない。疑問もまた、同じだった。
答えは、俺たちがまだ見ていない別の場所にあるのかもしれない。
例えば、そう。まだ戦場には、“お宝”が転がっていたりしないだろうか――