砂漠の王が"現代兵器"を手に入れるまで   作:Nattsu_ひよこ豆

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5.包まれる瑕疵

 

 

 十数時間ぶりのクロコダイルの邸宅は、何一つ変わってはいなかった。ジルダの肩にザカリーがグッタリと担がれていなければ。

 洗練された調度品に、汚れのない床と計算され尽くした照明。クロコダイルの邸宅は煌びやかで、品が良くて、どこか寂しい────ザカリーからする血の匂いが、不思議と似つかわしい程に。

 

「それが木っ端(・・・)か?」

「はい、標的です。気絶していますが、問題はありません」

 

 クロコダイルは積荷を見るような目でザカリーに視線を向け、それからすぐ興味を無くしたようだった。人として捉えているかも怪しい。

 

「昨日与えた部屋があるだろう。そこに寝かせておけ。血で汚したら弁償しろ」

「ありがとうございます。損害があれば海軍の方に請求してください」

 

 かのサー・クロコダイルから"弁償"だのという言葉を聞けば震え上がるのが大半だが、ジルダは躊躇いも無く言い切った。そのような情緒は無い上、どうせ回り回って木っ端の債務になるのだから。

 

「……ほう」

「言っておきますが、こちらでも精査はしますよ」

 

 ジルダがそう言うと、クロコダイルは苦手なモノを目の当たりにしたような顔をし、手を振って追い払う仕草をした。「早く行け」ということだろう。

 当たり前のように階段を登り、当たり前のようにゲストルームの扉を開く。海兵であるならばこの行為に幾らかの躊躇を覚えるべきだとジルダは判断すれど、全ては今更の話である。

 ベッドにザカリーを放り投げ、荷物を下ろす。その衝撃で目が覚めたのか、ザカリーがうめき始めた。

 

「ゔ……どこだ……ここ……」

「お目覚めですか?」

 

 ジルダが話しかけると、ザカリーは目を見開き大口を開けた。その瞬間、彼女の脳にマリンフォードの軍港で聞いた中将つるの一言が蘇る。

 

『────あの子、うるさい奴は要らないと文句を言っていたから────』

 

 クロコダイルの不興を買ってはならない。それだけで任務達成の確率が著しく下がるからだ。

 ジルダに課せられた任務はザカリーの護送である。そして彼女は、過程を重視する性格ではない。ジルダは咄嗟に、ザカリーの首筋に手刀を入れた。少女の細腕だが、彼女も一端の海軍将校。ザカリーは再びベッドに沈み込む。

 

「(この人は、こうして大人しく寝ててもらうのが最善)」

 

 昼間のザカリーの取り乱しっぷりは、人柄まで推し量れて余りあるほどだった。あの調子で暴れられたら困る。

 気絶したザカリーの怪我をチェックして追加で包帯を巻いた後、足枷と手錠を確認して布団をかける。包帯の手持ちが切れてしまい、彼女は調達の手段を脳内でリストアップする。

 月明かりが無様な男を照らし、ベッドにシワを作る様を眺めてから彼女はドアを閉じた。

 階段を降りてリビングに戻ると、クロコダイルがキッチンカウンターの奥にいるのが見えた。匂いのなかった空間に、突然食べ物の匂いが漂う。ジルダは思わず鼻を擦った。

 

「風呂より先に飯だ。どうせまともに食べてないんだろう」

 

 キッチンに備え付けられたカウンターテーブルには、ディナーが準備されていた。ジルダはフラフラとカウンターテーブルに向かう。

 プレートには、ミディアムレアに焼かれたステーキと付け合わせが品よく盛り付けられていた。スープとサラダとパンまでついている。綺麗に磨かれたカトラリー。白く清潔なランチョンマット。高級料理店のものと遜色ない見た目だが、ジルダにはその価値を推し量れなかった。

 

「冷める前にどうぞ、お嬢さん」

 

 ステーキは油でテラテラとしているし、スープは湯気が立っている。ジルダは席に着くが、食事に手をつけなかった。確認しなければならないことができたからだ。

 ジルダはまっすぐクロコダイルを見た。乱れのないスーツベスト。腕まくりすらされていないシャツ。鉤爪のついた片手。調理の必要のないものしか無いはずのキッチン。だというのに、魔法のように現れた温かい食事。

 用意した手段は重要ではない。ジルダは口を開いた。

 

「確認します。サー・クロコダイル」

「なんだ?」

「ウォルポール・ザカリーはレインディナーズを訪れませんでしたか?」

 

 尋問のようなジルダの問いに、クロコダイルは片眉を上げた。小馬鹿にしたように笑いながら、穏やかに答える。

 

「何を言うかと思えば……。おれのカジノは政府関係者立ち入り禁止だ。だからお前も、レインディナーズには来なかった。そうだろう?」

「はい。他にも賭場はあるのに、わざわざリスクを冒す必要はありません」

「そこそこ稼げそうな考え方だな」

 

 クロコダイルはカウンターに寄りかかる姿勢を崩すことはなかった。ジルダもまた行儀良く座りながら、視線を彼から離さない。互いに話が終わっていないと知っていたからだ。ジルダは矢継ぎ早に追及した。

 

「貴方はなんとでも言えます。『そんな客は来ていない』と言えば、それまで。けれど、ザカリーは違います」

 

 冷ややかで、探るような目のクロコダイルにも、彼女は決して臆さない。その口からは躊躇なく言葉が放たれる。質問も、追求も、脅しでさえも。

 

「彼は喋りますよ。貴方と違って臆病ですから。有る事無い事……例えば、何かしらの見返りの為に、レインディナーズに横領した金の一部を流していた……とか」

 

クロコダイルの表情は変わらない。ジルダの表情も。

 

「例えばの話です。ザカリーが、そんな嘘をつくかもしれない、という」

「……要点をかいつまんで話せ」

「全て要点です。サー」

 

 その時初めて、クロコダイルは顔を顰めた。「可愛くない」とでも言うように。

 

「私たちの居場所を、金貸しに売りましたね?」

 

 ジルダは決定的な一言を放ったが、場は硬直したままだった。何故なら、この場でクロコダイルが圧倒的な強者であるのは、何があろうと絶対に覆らないからだ。それが分かっていながら淡々と話すジルダと、何故かそれを聞き続けるクロコダイルが、この奇妙な空間を作り上げていた。

 

「……確信したような口ぶりだが、証拠でも見つけたのか?」

「いいえ。推測です。しかし正しかろうが、間違っていようが関係ありません。私が言いたいのは、妨害するのなら話は別だ、ということです」

 

ジルダはまだ、食事には手をつけない。

 

「サー、貴方が協力体制にある事は幸運です。これ以上ないバックアップでしょう。……貴方の目的がどうあれ、協力してくれているという形がある限り、私が必要以上に干渉する事はありません。ですから────ザカリーには手出し無用です。指一本触れさせません」

 

表情も声色も変えないジルダの瞳が鋭く光ったような気がして、クロコダイルは彼女のアンバーを覗き込んだ。

 

「……おれの誹謗中傷を触れ込むかもしれねェ輩を、放っておけと?」

「私に一任してください。それに彼の証言の信用性は低いです。私からも良いように報告しましょう。七武海サー・クロコダイルは、海軍のため徹頭徹尾協力してくれたと」

 

 柔軟な対応をするものだと、クロコダイルは意外に思った。サカズキの部下は皆、堅物で公明正大であろうとしている印象があったからだ。

 

「サカズキはそういうのが嫌いそうだが」

「大将"赤犬"にとっても、この任務は些末事です。だから私のような……」

 

 一瞬、言葉を詰まらせたジルダは、少し俯いて続けた。

 

「私のような、問題のある海兵に任せたのです」

「存外卑屈じゃねェか。いいだろう。この件はお前に任せる。互いに不干渉と行こう」

 

口角を上げたクロコダイルを見て、ジルダはようやく彼から目を離した。視線をディナーに移す。

 

「ご協力、感謝します。────良かった、冷める前にいただけそうですね」

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 ジルダはまずステーキを口にした。質のいい肉だが、彼女は一つも表情を変えず食べ進める。香ばしさも柔らかさも一級品だが、それは彼女に何も寄与しない。今朝方と同様に、クロコダイルは彼女が食事をする様をジッと見ていた。カトラリーと皿が触れ合う音だけが響く。

 

「へぇ……意外にマナーがなってるじゃねェか。美しくはないが、間違えてもいない」

 

不意にクロコダイルが口を開いた。彼女は口の中にあったパンを飲み下してから、会釈をする。

 

「ありがとうございます。知識だけは海軍養成校で叩き込まれましたから」

「はっ、最近の海兵はマナーも問われてんのか」

「いいえ。私が特別幼かったので、見かねた方がご指導くださいました」

 

 記憶にあるスパルタな指導を彼女はなぞっていく。間違えれば怒られ、出来れば褒められる。訓練後の疲れた体で、ナイフとフォークの使い方を教え込まれることが苦痛で、ポロポロと泣いた日もあった。その当時のジルダは泣けていた。業務の隙間を縫って、熱心にマナーを教えてくれたことに感謝できるようになったのはいつのことだったか。

 ただの記憶として、ジルダは当時の自分の感情を眺めていた。全てが遠く、自分の記憶だと実感はできない。

 

「……テーブルマナーも知らねェガキが養成校に入れんのか」

「従軍志願者への対応は柔軟ですよ。事実、私は十の頃に養成学校に入学しました」

 

 クロコダイルは肘をついた。視線は虚空を彷徨ってから、ジルダの瞳を捉える。悲しみも懐かしさも湛えず、食事だけを見つめる彼女の瞳はどうにも扱いづらい。

 

「その年で海兵を志すほど、ご立派な正義がテメェにあるようには見えないが」

「はい。私に正義はありません」

 

言い切った彼女に、クロコダイルは思わず笑った。上がった口角を指で覆う。豪奢な指輪が眩く光る。

 そんなことをあっけらかんと言える海兵は、彼女以外にいないだろう。彼の喉からくつくつと、呆れの混ざった笑い声が漏れた。

 

「正義を掲げもせず、そのデケェ刀で人を斬ってんのか。ご苦労なこった」

「……ありがとうございます」

 

どの返答が良いか判断できなかったジルダは「ご苦労」という言葉に反応し、お礼を言った。クロコダイルはますます笑う。トンチンカンで滑稽極まりない。

 

「海賊ですら、欲のためや宝のために人を殺す。テメェはそれ以上の大悪党だな。理由もなく人を殺めるってのはどんな気分だ?」

「……? 理由は必要のないものです。必要なものは命令です。ですから、そのような気分を私は覚えません」

 

 クロコダイルは笑みを陰らせた。感傷的な答えを求めていたわけではないが、気に入らない答えにも程がある。

 

「命令がありゃあなんでもすんのか」

「はい」

 

10歳にして従軍の道を歩み、命令さえあればなんでも熟す若き女海兵。正義は無いと即答し得る、空っぽな頭。歪なジルダにクロコダイルは顔を顰めた。人間味がないだけならまだしも、このような海兵をかの"赤犬"が重用しているという事実が気味悪い。

 

「はぁ……早く食え。食べ終わったら風呂に案内する」

「分かりました。ありがとうございます」

 

 クロコダイルはジルダから目を離せなかった。忠誠心だけで生きている人間かと思いきや、それ以上に空っぽの、人間の真似をしている何か。何かが食事をしているという奇妙な光景。

 

「(……コイツは一体、何なんだ?)」

 

 探っても穿ってもジルダが何も表さないことを、クロコダイルはとうに知っている。しかし、皿が空になっていく様を彼は見届けようとしていた。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 シャワールームから出たジルダは、寝る前にやるべきことを数えながらリビングへと戻った。昨日のように家主はいないと思いきや、意外にも、クロコダイルがソファーに座り酒を飲んでいる。

 丸い瓶の中には透明な液体が揺れ、クロコダイルはそれを無造作にグラスに入れては、スルスルと飲んでいった。酔った様子はないが、チェイサーも割り材もテーブルの上には見当たらない。クロコダイルは見るからに度数が高い蒸留酒を嗜んでいるようだが、特に異変はないことからジルダは気にも留めなかった。飲んでいる酒にも興味はない。

 

「シャワーを貸していただき、ありがとうございました。ザカリーの様子を見てきます」

「待て、その前にお前の部屋に案内しておこう。何も捕虜と寝ることはねェだろう」

 

 昨日与えられた部屋でザカリーの様子を見ながら床で休むつもりだったジルダは、断ろうとして辞めた。クロコダイルの言う事には適当に従っておいた方がいいと判断したからだった。

 階段を登り、昨日とは反対方向へ廊下を進む。クロコダイルの邸宅は広く、ドアをいくつか通り過ぎた先で止まった。彼のスケールに合わせているからだろうか。ドアも廊下も大きく幅が広い。

 

「ここだ」

 

 クロコダイルがドアを開ける。まず目につくのは、天蓋付きの大きなダブルベッド。次にクリスタルが豪勢にあしらわれたシャンデリアと、重厚な天鵞絨色のカーテンが部屋の豪華さを知らしめる。何も生けられてはいないが、繊細な文様の白磁の花瓶がテーブルの上に置かれている。そこは質の良い調度品が詰められた、豪華絢爛なゲストルームだった。どんな人でも、うっとりとため息をつくような部屋。しかしジルダは部屋を一度見まわし、早々に足を踏み入れた。そして部屋には目もくれず、開けられたドアに寄りかかるクロコダイルに視線を向ける。

 

「好きに過ごせばいいが、お前の年収じゃ到底払えないもんばかりあることを念頭に置いておけ」

 

 クロコダイルは警告するが、ジルダは分かっているのか分かっていないのか、平坦な表情で頷いた。

 

「留意します。……1人用ではありませんね。このように広い部屋をありがとうございます。しかし、良いのですか?」

「アレを除けば一番狭い部屋だ。……この部屋に通して、まさか広さだけを気にするとはな」

「?」

 

 廊下から差し込む光が、ジルダのキョトンとした顔をまざまざと照らし出す。一方、クロコダイルの呆れた顔は、逆光のためジルダからはよく見えていなかった。クロコダイルは何も豪華さを見せつけたかったわけではないが、無反応となるとそれはそれで癪に触る。とはいえ、解説したところで彼女が価値を理解するとは到底思えなかった。

 

「お前が理解を示すとはハナから思っちゃなかったが、想像以上に芸術的素養ってやつが無ェ。絶無だ。……十の頃から海兵だったとは聞いたが、その辺の情緒も養成校に置いてきたのか?」

「何とお答えすれば良いか分かりません。芸術的価値を理解することは、私にとって非常に困難であるという事はお伝えできます」

「……」

 

 その答えにジルダの無関心さは、センスが無い、興味が無い、知識が無いなどの範疇には収まらないと、クロコダイルは感じた。いくら人間味がなくとも価値観は持ち合わせているとばかり思っていたが、この様子ではそれすら怪しい。「コイツは美醜の判断が出来るのか?」という疑問すら湧き、すぐこの若い女海兵にはそれが叶わないのだと結論付けた。

 それが分かった瞬間、クロコダイルはジルダの瞳がガラス玉同然である事に気がついた。透明で、光すら留めず、何が映ることもないのに、覗き込みたくなるような────。

 

「なるほど、区別がついてねェのか。おれの服とテメェのそのボロ切れを比べても、どちらが高値かまるで分かりやしねェだろ」

「仰るとおりです。金銭的価値に対して推論をするのは困難ですが、その服が機能を果たすかどうかという尺度では判断が可能です」

「……"お人形"とは聞いていたが、ここまでとは恐れ入る」

 

 自身の在り方にまるで違和感を抱かず、堂々と答えるジルダ。その真っ直ぐな立ち姿には芯がありながら、糸で吊られているような不安定さがある。

 クロコダイルは何故か、暴きたいという欲求を募らせていた。この海兵が抱える秘密を、その在り方の原因を掴みたいと、心の底から。

 少しの時間、彼はジルダを見つめていた。彼女もクロコダイルから目を離さずにいる。それは見つめられたから見つめ返すというだけの何の意味もない行為だったが、これほど長く人の目を見つめるのは初めての事だと、ジルダはぼんやり思った。

 

「……おれも暫くしたら眠る。騒ぐなよ」

「はい。おやすみなさい、良い夜を」

「良い夜を」

 

 クロコダイルを見送った後、ジルダは部屋に荷物を置いてからザカリーの様子を見に、再び廊下に出た。リビングにある人の気配。たまに響くグラスを机に置いた音。それらに少しだけ気を取られながら。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 午前5時。静まり返った朝の空気の中でジルダは身支度を整えていた。レインベースからエルマルまでは移動し続けても1日はかかるため、同乗させてもらえるキャラバンを探す時間も含めて早く行動しておきたいからだ。

 無礼ではあるが、書き置きでも残して去ろうとジルダはリビングルームに降りる。

 

「……よォ。随分早いな」

 

 リビングテーブルにいたのは家主であるクロコダイルだった。早朝であるというのに、髪も服も整えられている。まるで物音はしてなかったというのに、今起きてきたという風貌ではない。

 

「おはようございます」

「起こしたか?」

「いいえ。予定通りです」

 

 早朝の青い光の中で、クロコダイルは葉巻を眺めていた。高級品であることは明らかで、葉巻が収められている木箱ですら値打ちがあることが一目でわかる。クロコダイルは、これまた高価であろう革製のポーチのようなものを取り出し、葉巻を何本かそこに詰めていた。こっくりとした褐色のポーチにはシガーカッターやライターも収められている。片手での作業だが、慣れた手つきで澱みがない。

 荒事を生業とする海賊で、格好も派手。体は大柄。カジノのオーナーも勤めている。それだというのに、クロコダイルには静謐が似合っていた。朝の澄んだ空気の中にいても、どうにも様になってしまう男だった。

 ジルダは時間も忘れて彼の作業を一から十まで眺めていた。

 葉巻の詰まった木箱を閉じたクロコダイルは顔を上げ、ジルダを見て途端に嫌そうな顔をする。

 

「おい、服に血が滲んでるぞ」

 

 ジルダが未だ痛む左肩を見ると、確かに服に血が滲んでいる。真っ赤なシミであるため、今し方染み出したものだろう。止血するべきだが、手持ちの包帯は使い切ってしまっていた。問題ではあるが、彼女は特に焦りもせず淡々と返答する。

 

「今、気付きました。ご指摘ありがとうございます。しかし、手持ちの包帯がもうないのでこのままにします。お見苦しいでしょうが、もう、出ていきますので」

 

 そのまま放置しようとするジルダに、ますますクロコダイルは顔を顰める。

 

「……少し待っていろ」

「……?」

 

ため息をついたかと思えば、ジルダを置いて2階へ上がってしまった。命令もないまま放置されたジルダが微動だにせず待つこと数分、クロコダイルは何かを持って再び現れた。そしてカウンターチェアを指差す。

 

「肩を出して座れ」

「はい」

 

 間髪入れず返事し、なんの躊躇いもなく服を脱いだジルダは、おとなしく指定された椅子に座った。上半身は下着だけで、海賊に背中を晒すという無防備極まりない状況だが、彼女に警戒はない。ジルダには恥もへったくれもない事をクロコダイルはとうに知っていたが、それでも苦虫を噛み潰したような気分になった。

 青い光に晒された肌は、まるで生気を宿していない。海兵であるため筋肉こそついているが、傷跡が多く、何より左肩の真っ赤な包帯が目につくジルダの体は、貧相と言って差し支えないだろう。うら若き乙女の柔肌であるというのに、そこには死の気配だけが漂っていた。

 律儀にチェアを回してクロコダイルの方を見たジルダに、彼は持ってきたスカーフをヒラヒラと振って見せる。黒を基調に、中心から複雑な紋様が花開くように描かれている。勿論これも質が良いものなのだろう。

 

「生憎、自然系なもんでな。包帯やら傷薬やらにゃァ縁がなくなって久しい。まぁ、スカーフでも無いよりはマシだろう」

 

 まさか止血をするつもりなのだろうかと、ジルダはそこで気付いた。クロコダイルにはなんの利益もない行動に、彼女は疑問符を浮かべていた。

 

「あの……」

「前を向け。腕を上げろ」

「はい」

 

 問う暇もなくジルダは命令に従う。クルンと椅子を回し前を向くと、後ろからシュル、と絹の擦れる音がした。密やかな音だが早朝であれば十分に耳につく。肩にスカーフが触れる。

 

「これ持ってろ」

「はい」

 

 スカーフの端を度々ジルダに持たせては、クロコダイルが受け取り巻き進める……という事を何度か繰り返す。片手ではやはり難しい作業だ。

 シュル、スル、スル、と肌と絹が擦れる音だけが響く。時折、ジルダの視界の端にはクロコダイルの指先が映った。大きな手が傷跡を包む事もあった。キツくスカーフを引っ張る前には、クロコダイルは決まって声をかけた。

 徐々に左肩が黒いスカーフに覆われていく。

 ────不意に、強く香水が香った。ウッディで、甘くはないが重く、朝にはあまりそぐわない香り。

 

「!」

 

 ジルダは咄嗟に香りのする方を見ようとしたが、体をこわばらせるだけで終わった。

 クロコダイルが、首筋に顔を埋めている。彼の頭が自身の頭の横にあるという状況を理解するのに、ジルダは時間を要したが、やがてスカーフを結びつけるのに口を使っているのだと気がついた。

 ギチ、と一際強く左肩が締め付けられた後、クロコダイルは離れていく。何故か首のあたりがスカスカする気がして、ジルダは少し首筋を撫でた。

 

「……ん。こんなもんだろう。動かしてみろ」

 

 言われた通り、ジルダは腕を上下に振ってみる。スカーフが緩む事はなく、止血も問題なく果たされている。

 

「よし。軍艦と合流したら、ちゃんと治療を受けろ。間違っても放っておくんじゃねェぞ。これも使い終わったら捨てろ」

「……はい。ありがとうございます」

 

 ジルダはクロコダイルを見上げ礼を伝える。表情も声色も平坦だ。しかし、その頬が僅かに紅潮しているのを、彼だけが見ていた。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 ザカリーを担ぎ上げ、ジルダはドアを出た。クロコダイルもその後を追うように玄関先に立つ。歓楽街であるレインベースでも、早朝では騒々しさのかけらもなかった。朝の青い光も静けさも揺らがないため、外に出たというのに未だリビングにいる気さえするほどに。

 

「二日間、大変お世話になりました。ありがとうございました」

「ああ。いつか借りを返しに来い」

 

 ザラっとクロコダイルの輪郭が崩れる。半身が砂となり、宙に舞いながら彼は別れの挨拶をした。

 

「またな、お嬢さん」

「……はい。また」

 

その返事に満足そうに笑った後、彼は完全に砂となってその場から姿を消した。まるで蜃気楼のようだ。

 ジルダは思わず空を見上げる。雲ひとつない真っ青な晴天に、砂の粒がキラキラと光った。頬に、夜の名残の冷たい風が当たり、ジルダもまたその場を去った。

 

 2日後、ジルダは無事エルマルで軍艦と合流した。ザカリーは拘留、治療のためにナバロンの海兵に引き継がれ、ようやく彼女も重荷を下ろすことができた。

 ジルダ自身も負傷が激しかったため、船内で医官に医務室へ案内される。基地よりは簡素だが、立派な治療キットとベッドがあった。

 

「ウルバル・ジルダ中佐。この度はお疲れ様でした。肩の傷を見せてもらいますね。他に怪我はありますか? 気になる症状は?」

 

親切そうな医官により、クロコダイルが施したスカーフが解かれる。丁寧に処理をされた後、ジルダは床についた。どうやらすでに出港していたようで、横になると波の揺れを僅かに感じる。

 医務室は薄暗く、船窓から光が差し込むだけ。ジルダは疲れと失血と適度な光量に眠気を誘われる。ウトウトとしていると、先ほどの医官が小さな声で話しかけてきた。

 

「このスカーフ、中佐のものですよね。いいものなので、捨てるのも忍びなくて……お返しします。オキシドールでシミを叩き出せば、綺麗に取れますよ。大丈夫です」

 

 彼女が「違う」と言う前に医官は去ってしまった。サイドテーブルにスカーフがきちんと畳まれて置かれている。

 ジルダはモソモソと手を伸ばして、スカーフを布団の中で広げた。血が滲んで、繊細な模様が無惨になっている。不快な鉄の匂いの奥に、クロコダイルの重い香水の匂いがあった。

 

「……」

 

 ジルダの脳内には、スカーフを指差し、使い終わったら捨てろと命じるクロコダイルが居た。普段ならそれに抗うことができない筈の彼女は、何故か────本人ですら理由も分からぬまま────血塗れのスカーフを握ったまま、目を閉じた。

 

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