ハリエット・ポッターの不思議な冒険   作:新参なめ子

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お前も純血主義にならないか?


楽しいホグワーツ生活 1

 

 

 

 

 

 宴が終わるとグリフィンドールの一年生はパーシーとレイチェルの先導でグリフィンドール塔へと向かった。大広間を出てすぐ左には階上と階下へ行く大階段が二手に分かれており、ハッフルパフとスリザリンの一団は階下へと降りて行ったがグリフィンドールとレイヴンクローはどうやら上階に寮の棟があるようで大理石の階段をぞろぞろと登った。すると今度は巨大な石の柱をぐるりと取り囲む石の螺旋階段が姿を現した。階段は上下四方に繋がっており、パーシーとレイチェルは迷いのない足取りで上へと向かった。

 この階段は眠気と疲労で鉛のように重たくなったハティの足に大きなダメージを与えた。ただでさえ、ホグワーツ城は広いことに加えてハティは慣れない環境と丸一日かけて行われたハイランドへの旅で疲労困憊であった。ヒイヒイと息を切らしながら階段を登っていると、視界の隅で重々しい音をたてて階段が動いていた。

 

「階段が動くの!?」

 ハティは絶叫した。

 グリフィンドールの一年生は圧倒的に魔法族が多いことや、疲れ果てていたのでそのようなことは些事とばかりのロニーの「階段だって動くよ、肖像画が喋るくらいだもの」という一言に夢心地に頷いていた。ハティの反応に同意してくれたのは、ハーミスとディーンを筆頭にマグル出身の子どもたちだけだった。パーシーとレイチェルは途中タペストリーの裏の隠し扉を二度ほどくぐって、入り組んだ城内を進んでいった。グリフィンドール塔への行き方はとにかく階段を登ることが多かったので、ハティは途中「やっぱり、ハッフルパフかスリザリンがよかった」と弱音を吐いた。ロニーは「くされスリザリンに入りたかったなんて正気!?」と動転して大音声をあげていた。左右上下に動く階段に飛び乗り、一行は大きな扉をくぐって広い回廊へと出た。

 すると、突然パーシーとレイチェルが足を止めた。怪訝に思ってハティが前方に目を凝らすと、杖が一束空中に浮遊していた。パーシーが一歩踏み出すと、杖は次々と飛び掛かってきた。

「ピーブスだ! ポルタ―ガイストのピーブスだよ!」

 パーシーは誰もいないがらんとした回廊を見渡し、声を張り上げた。

「ピーブス、姿を見せろ」

 風船の空気が抜けるような、大きな音が小ばかにするように響いた。しかし、ポルターガイストは一向に姿を現さない。痺れを切らしたレイチェルが苛立ちをあらわに「私、血みどろ男爵を呼んでくるわ」とパーシーに言い放つと、ポンと音がして、小男が現れた。意地の悪そうな昏い目、大きな口をしており、無作法にあぐらをかいた状態で空中を浮遊し、むんずと杖の束を回収した。そしてにんまりと嘲笑した。

 

「おーおー、なんて可愛い一年生だろうか! なんて愉快なんだ!」

 小男は甲高い笑い声をあげて、一年生めがけて急降下してきた。一年生は一斉に身をかがめて逃れた。

「ピーブス、消えろ。さもなければ、本当に男爵に言いつけるぞ。僕は本気だ」

 パーシーが怒鳴りつけると、ピーブスはべーっと舌を出して杖をネヴィルの頭上に落として姿を消した。ネヴィルは「なんで僕の頭の上に杖を落とすんだよぉ」と泣きそうな顔になった。

 パーシーとレイチェルは再び歩き出したが、レイチェルが振り向いて「ピーヴスには気を付けて」と忠告した。

 

「あいつをどうにかできるのは血みどろ男爵だけなの。監督生でさえピーヴスを追い払うことはできないのよ」

 そう言ってレイチェルが回廊の突き当りで二枚扉を開くと温かみのある暖色カラーで装飾された内装へと変化した。上下に続く木の階段があって、踊り場に続いている。踊り場から再び階段を上がると廊下がありその突き当りには巨大な肖像画がかかっていた。パーシーとレイチェルは一年生を連れて肖像画へと向かい、その前で立ち止まった。

 間近で見る肖像画は大人の背丈は優に超える巨大さでピンク色のガウンを身に纏ったふくよかなレディが描かれていた。レディはパーシーとレイチェルの姿を認めると、優雅にワイングラスをテーブルに置いてこちらを見た。

 

「合言葉は?」

「sub rosa」

 パーシーがそう唱えると、肖像画が前へと開き、その背後の壁に丸い穴が開いていた。その高い穴は、運動神経の良い子どもはすんなりと飛び乗っていたがネヴィルは穴を登ることができずに足を上げてもらわなければならなかった。穴の奥からは眩い光が漏れており、グリフィンドールの談話室へと繋がっていた。中へと入ると、グリフィンドール生の大半を収容できそうな広々とした円形の空間が広がっていた。天井は高く、頭上にはクリスタルの豪奢なシャンデリアがつり下がっている。大理石の床には刺繍が見事な深紅の絨毯が敷かれており、壁には魔法使いや魔女を描いた幾つものの肖像画とユニコーンと貴婦人を描いたタペストリーが飾られている。大きな暖炉があり、部屋のいたるところにはロカイユ様式の曲線的でありながら絢爛豪華なソファや肘掛け椅子、テーブル、屏風などがあり生徒がくつろげるよう配慮が行き届いている。

 ビュロー(書き物机)と椅子が設置されたスペースもあり団らんだけでなく、勉強のための場所も確保されている。談話室は二階にまで続いており、頭上では上級生がお菓子をつまみながらくつろいでいるのが見えた。

 

 パーシーとレイチェルは額を突き合わせて何事か相談し合うと、レイチェルが先導して一年生の女子たちはさっそく女子の共同寝室(ドミトリー)へと案内された。女子寮と男子寮への入口は二つの大階段でわかれており、レイチェルは左の階段に女の子たちを案内した。階段の終わりには扉があり、扉を開くと上へと向かう螺旋階段が広がっていて一行は再び階段を登ることになった。途中、共同のバスルームとトイレがあって――ハティは出来るだけ上階の部屋ではありませんようにと願った――が、ハティの期待を裏切って一年生のほとんどは最上階に近い部屋だった。

 

「卒業した七年生が最上階に近い部屋を占めていたの。貴方たちは運が良いわ」

 ハティは運が良いのか悪いのか分からず、閉口した。

 ドミトリーは既に部屋割りがされているらしく、ハティはロニーとは別の部屋でフィリパたちと同室であった。

 螺旋階段の最上階から三番目の部屋を割り振られたロニーは「また明日ね、おやすみ」とパールバティやラベンダーたちとドミトリーへ入っていった。ハティたちのドミトリーはロニーたちの部屋の一つ上だ。共同寝室(ドミトリー)といってもかなり広々しており、円形の部屋には真紅の天鵞絨のカーテンがかかったベッドが四つ等間隔で壁に垂直に置かれている。ベッドサイドには杖を近づけると自動で点灯するランプがあり、ベッドの間には人数分のクローゼットとドレッサー、それに勉強机や本棚が配置されている。足元にはふかふかのペルシャ絨毯が敷かれており、全身鏡もある。

 ダーズリー家よりもはるかに豪華絢爛で、少女が生活するには十分すぎる設備にハティは大変満足すると同時に夢のような気分だと思った。こんなに幸せなことがあっていいのか、と恐怖を覚えるくらいなのに驚いたことに窓際には四人は座れそうなソファーと一人掛けの肘掛け椅子やオットマン、テーブルがあって談話室に行かなくても寛げそうだ。まるでホテルのような内装にハティは感嘆の溜息を零した。

 

「良い部屋だわ」

「そうかしら? ベッドが小さくて、私寝ぼけてベッドから落ちてしまわないか心配よ」

 そう言って、大きな欠伸をしたのはフィリパだった。

「フィルって、お家でどんなベッドで寝ているの」

「フィルは家で女王様みたいなベッドで寝ているのよ。末っ子の女の子だから、ご両親とお兄さまからたくさん甘やかされてるの。私も家のベッドの方が大きいけど、これで十分だと思ってるわ」

 そう言って、ベッドの足元に投げ出されたトランクの点検を始めたのは宴の席で最後の時間をフィリパと一緒に過ごしていた少女だ。

 彼女もまたフィリパとは正反対の魅力を持った美しい少女で、繻子のように艶やかな褐色の髪は栗の様な光沢があり、それを肩より少し上でばっさりと切り下ろしている。長い睫毛に縁どられたブルーグレーの瞳は釣り目がちで、鼻は小さくしゅっとしており格好良い線を描いている。薄い唇は薄紅色で、全体的に猫を思わせる愛らしい少女であった。

 

 フィリパともう一人の少女が窓際のソファに腰を下ろしてうとうとし始めたのに対して、彼女はせっせと荷物の選別を始めていた。

「これは、カーラ・グラント……あなたね。ここが貴方のベッドでいい?」

「え、ああ……ありがとう」

 カーラ・グラントは慌ててソファから腰を上げた。ベッドはそれぞれ四つでその足元にトランクが置かれているが、どのベッドを自分の物とするかは交渉次第のようだ。エスターは入口にほど近いベッドになったがさほど不満はない様子で、ちらりとハティやフィリパを見た。

「みんなが良ければ私がこのベッドを使おうと思うんだけど、構わない? ああ、自己紹介がまだだった。私はカーラだよ。みんなとたくさんお喋りしたいところなんだけど、すごく眠たくて……私同じお部屋の子と仲良くしたいと思ってたくさんお菓子を持ってきたの。でも、今日はこのまま起きていられそうにないなあ。先に寝てもいい?」

 三人の返事を聞く前にエスターはローブを床に脱ぎ捨て、ベッドの上に這い上がった。そのままうつ伏せでカーテンも閉めずに彼女はすぐに寝息をたててしまった。

 フィリパもソファーの上でうとうとと船をこいでおり、この部屋で動けるのは最早ハティとプリシラくらいであった。二人は手分けしてそれぞれの荷物の点検を終えた。プリシラは甲斐甲斐しくフィリパをベッドに誘導し、ハティもすぐにパジャマに着替えるとベッドへと潜り込んだ。

 

 ふかふかのベッドに身を鎮めると、視界がぐるぐるとまわってすぐに睡魔は襲ってきた。ハティは夢を見た。夕日の中でハティはブランコをこいでいる。赤い靴が地面を蹴って、二つの線ができる。ハティは線を濃くする作業に夢中になっていた――家には帰れなかったのだ。

 いつものようにブランコで高く飛んで、隣でブランコに乗っていたダリアは「すごい! すごい!」と歓声をあげて「あたしもやる!」とブランコをこぐ力に勢いを乗せた。そして、ハティと同じようにぐりんと真上まで上がって――ダリアはそのままブランコから落下してしまった。どさっと重たいものが落ちる音にブランコを止めた時には、血相を変えたペチュニアがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。

 

「ダッダーちゃん!」

 ペチュニアは青白い顔で失神しているダリアを抱き起し、恐怖に顔を引き攣らせながら娘の名前を呼んだ。唇の端から泡を吹いているのを見て、ペチュニアは「誰か、助けて! 娘が!」と金切り声をあげて助けを呼ぶ。次いで、憎悪と怒りにぎらついた青い目がハティを捕らえた。

 

「お前のせいよ! だから、イカレた力は使うなって言ったじゃない! もう家には帰ってこないで! ずっとそこにいなさい!」

 嗚咽を零しながら、ペチュニアはダリアを抱えて走っていった。夕日の中に消えていく背中を追いかける勇気は、ハティにはなかった。

 ハティは俯いて「わたしのせいなのかな」とぽつりと呟いた。その声は不安と恐怖に震えていたが、答える声はなかった。だって、ここには誰もハティを迎えに来ない。ハティのパパとママは自動車事故で亡くなって、ハティを引き取る人はダーズリー夫妻しかいないから。だから、ペチュニアが駄目だと言ったことはしてはいけなかったのに。

 すん、と鼻を啜ってハティは落ち着きなくブランコをこぎ始めた。じゃりじゃりと両脚で線を描く、深く、深く――ずっとそこにいなさいって、いつまで? ペチュニアが迎えに来るまで? それとも、ハティを抱っこしていた誰かが迎えにくるまで? 誰も迎えに来るわけがない。そう気づくと、視界がゆらゆらと揺れてハティの目からは大粒の涙がぽたぽたと零れた。

 

「誰か……パパ、ママ……フェアリーゴットマザー……」

「どうして一人で泣いているの」

 突然、頭上から声が降ってきてハティはきょとんとしながら顔を上げた。

 涙でぐしゃぐしゃになった視界に、煌めくプラチナブロンドを背中に垂らしたほっそりとした女性が佇んでいた。肌は処女雪のように白く、形の良い唇には桃色のリップをはいている。アーモンド型の瞳はアクアマリンのようなブルーの双眸で、端整な面立ちもあいまって氷の女王様のように美しかった。

 

「家に帰ってくるなって言われたの。わたしが、伯母さんに駄目って言われてたのにブランコで高いところまで飛んだから。そうしたら、従姉妹のダリアがね、ブランコから落っこちちゃったの」

 ハティは息を詰まらせながら答えた。子どもの稚拙な説明はさぞや不明瞭に聞こえただろうが、女は隣のブランコに腰掛け「うんうん」と頷きながら熱心にハティの説明を聞いてくれた。

 彼女は聞き終わるとゆらゆらと揺れながら「それは仕方ないわよねえ」とため息交じりに言って、口の端で緩く笑った。

 

「だってね、あたしは何人も息子を育てたけどみんな小さい頃から危ないことばかりするの。二階の窓から飛び降りようとしたり、少し目を離したすきに屋根に上ったり、あたしは子育てが苦手だったからそれは大変だったのよ」

「でもダリアみたいにブランコからおっこちてないでしょ?」

「沢山おっこちたわよ。何回、ボールみたいに弾んでいたことか。そのたびに、夫がすごい剣幕で怒るのよ。だけど、子どもってそんなものなのよ。危ないことがわからないの。身をもって勉強するものなんだから、あなたの従姉妹もあなたみたいに特別じゃないって今回の件で学んだんじゃないかしら?」

「特別って?」

 鼻水を垂らしながら訊ねたハティに、女性はけらけらと笑った。そして黄色いエルメスのバーキンからレースのハンカチを取り出すと、白魚のような手とは対照的なぞんざいな手つきでハティの涙と鼻水を拭い、ぐしゃぐしゃに丸めながらバーキンの中にしまった。

 

「せっかくの可愛い顔が台無しよ」

「かわいい?」

「ええ。あなたはパパとママに似てきっと美人になるわよ。美女に囲まれて生活してるあたしが保証する。だから、笑いなさい。プランセス・ヨランド」

「ぷ……なに? あのね、かえってくるなって言われたんだよ。だから、わたしは泣いてるのに笑えないよお」

「困ったものねえ。じゃあ、魔法の呪文を教えてあげる」

「魔法の呪文?」

 ハティが小首を傾げると、彼女は「そうよ」と胸を張って自信満々に頷いた。

 

「あたしが今まで教えてもらった中で、最強の呪文なんだから。悲しい時も辛い時も怒った時も、この呪文を唱えたら最強の自分になれるの。いい? よく聞いてね。スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスよ!」

「す……す……なに?」

「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス!」

 一息で言ってのけてしまう女性に、ハティは「ふええ」とまた泣きそうになった。自分は頭がいい筈なのに、一度で覚えられることができない。それは屈辱的であり、大分悔しかった。ハティは「もういっかい」と女性に懇願した。彼女はにこにこしながらハティに教えてくれて、四度目でようやく覚えた。

 

「さいきょうになる、魔法のじゅもん」

「そうよ!」

「オズの魔法使いにはそんな呪文はなかったよ」

「当然よ! だってメリーポピンズに出てくる呪文なんだもの!」

「おねえさんが作った呪文じゃなかったの」

 ハティがジト目で見ると、彼女は気まずげに視線をそらして「仕方ないじゃない」と肩を竦めた。

 

「あたしだって、教えてもらった時はメリーポピンズなんて知らなかったんだもの。だけど、あなたたちにはそっちの方が馴染み深いのかな?」

「うん。南のよい魔女のグリンダと、西のわるい魔女のエルファバ。おねえさんは、どっちが好き?」

 女性が長い脚をもてあますようにぷらぷらと空中で揺らした。夕日の中で美しいブロンドが赤く染まって、桃色の唇がゆるやかに弧を描く。「ウィキッドね。あたしはねえ……」

「多分、人に言わせればあたしという人間はグリンダが近いんだろうなって思うの。それに緑って大嫌いなのよね。だけど、西の悪い魔女のエルファバは好き。彼女はグリンダと違って自分の正義に基づいて当時の体制に反逆した。意志を貫き通したの。一方のグリンダは、社会のシステムの中で利益を貪りながら進歩を模索するそれまでのやり方を変えてない。これって、既得権益の構造をのさばらせ、本質的なな変革を阻んでいるでしょう? 結局、最後に支配から脱却して、愛する人との自由を得たのはエルファバだった。だから、新たな統治者となったグリンダではなくただ一人の魔女として物語から退場した彼女はあたしにとって西の善き魔女と言えるのよ」

「西のよき魔女……」

「ええ。覚えておいて、ヨランド。この世で愛に勝る魔法はないの。茨の森のお姫様も、毒林檎を食べたお姫様も、みんな愛の魔法で目を覚ましてハッピーエンドを迎えたのよ。これってとても素敵なことじゃないかしら?」

「……うん」

 

 頷きながらも、愛ってそんなに素晴らしいものなの? おいしいの? と釈然としない顔をしているハティを見て、女性はお腹を抱えて笑った。

 

「子どもにはまだ難しいかしら。あたしは、あなたにもエルファバのような魔女になってほしいわ」

「西のわるい魔女に? むりだよ。わたしはただの子どもだもん。特別なちからなんてない」

「いいえ、あなたにはその資格がある。いいこと? いつだって世界を変えるのは、選ばれし誰かのささやかな願いと善性と知恵なの。あなたも間違いなくその一人よ。だからあなたはいつか、アルバス・ダンブルドアのようにヴォーディガンを倒しブリテンを救う西の善き魔女になって。ハリエット・ポッター」

 夕日の中に、微笑む彼女の姿が吸い込まれていく。金色の髪が光の中に溶けて、どんどんと彼女が腰掛けていたブランコが遠ざかっていく。ハティは自分の背後に急激に闇が迫っていることに気付いた。底なしの闇だ。ブランコの片方の鎖がぶつっと千切れて、小さなハティは必死にもう一つの鎖に縋りついた。

 

「おねえさんは、誰なの」

 叫んだ声はもう幼い子どものものではなかった。十一歳のハティの大人びた声だった。

 彼女は闇の中で黄金色の髪を輝かせながら、光の中で囁いた。

 

「マーリンよ。マーリン・マッキノン」

 

 

 

 

 

 

 

 

「快眠だ」

 翌朝、ハティはすっきりと目が覚めた。

 ダーズリー家で早朝に目覚めることが習慣になっていたので、随分早く目が覚めていたらしくベッドサイドキャビネットに置いた時計は早朝の七時をさしていた。三つのベッドは未だに固くカーテンが閉ざされていて、ハティは物音を立てないよう気を付けながら部屋を出てシャワールームに向かった。シャワールームにはまばらだが上級生が数人いて、眠気眼を擦っていたが鏡越しにハティの額を見ると驚いたように瞠目して立ち尽くしていた。

 ハティは彼女たちの視線に一切構わずにせっせと洗顔用の石鹸で顔を洗い、化粧水を叩きこみ、保湿クリームと薔薇の香りのするスキンケアパウダーを叩いた。髪は就寝前に靴下に巻いていたので、寝ぐせをなおす必要はない。靴下を外すとジェットブラックの髪は自然にカールしていたので、メイソンピアソンのブラシで軽くとかしてハティは部屋へと戻った。

 

 一限目は九時十分からなので十分時間に余裕があったが、城の構造が理解できないハティにしてみれば時間はいくらあっても足りないのだ。

 部屋へと戻ると、ようやくフィリパたちはベッドのカーテンを開けて支度を始めていた。

「ふあああ、おはよう。ハティ。準備がはやいのねえ」

「早く目が醒めちゃって。今ならシャワールームすいてるよ」

 大きな欠伸をしているフィリパを横目に「おはよう」とハティに声をかけてプリシラがふらふらと部屋を出て行く。カーラはふかふかの枕に上半身を委ねて未だにうとうとと傾眠していた。

 ハティは時間割を入念に確認し、鞄に一日分の教科書と羊皮紙を詰め込んだ。最後にインクと硝子ペン、ポーチを入れる。幸いなことに、授業初日は評判が悪い魔法薬学はないので安心していた。

 時間になるとハティは談話室でロニーと待ち合わせをして、空腹を満たすために大広間へ向かうことにした。ハティたちと同様一限目の授業に遅れないように早めに大広間に行くことにした新入生は多かったようだ。新入生の一行を見つけたニコラス卿が「奇遇ですね、私も今から大広間に向かうのですよ」と微笑んで親切に大広間への案内を請け負ってくれた。

 

「ルームメイトはパールバティとラベンダーとエロイーズ、それにエミリアだよ。ハティのところは、四人部屋なんだ?」

「そうよ、当たりなの。部屋が広くて、ソファーもあるし。今日の夜、遊びにきて」

「いくいく!」

 玄関ホールに出ると、ローブを身に纏った生徒たちが群れになって大広間の方向へと向かっていた。生徒でごった返すホールの中で四人の寮監は新入生を大広間へと誘導しており、その中にマクゴナガル教授の姿を見つけてハティは自然と笑顔になった。早朝にも関わらず教授は普段通りおくれ毛一つなく髪をシニヨンにして、今日は深い臙脂色のローブに琥珀のブローチで首元を飾っている。

 

「やっぱり、一年生はみんな考えることが一緒だね。早めに来たことで、逆に混雑してる」

「でも遅くに来ても上級生がたくさんいて、どっちにしろ混雑してたと思う」

 とロニーに返答したところでハティは名前を呼ばれた気がして振り返った。視線の先にいた生徒が数名、慌てたようにハティから顔を背けて足早に去っていく。怪訝に思って小首を傾げて堂々と辺りを見渡すと、何人かの生徒と目が合った。寮を出た時からずっとこちらをうかがうような視線と囁き声が纏わりついて鬱陶しくてならなかったが、人が増えるとそれはあからさまなものになっていく。

 

「ほら、あそこ」

「どこよ」

「あの巻き髪の……」

「黒髪の方?」

「傷、見える?」

 朝食の席でも別の寮の上級生たちが一目でもハティを見ようとわざわざ近寄ってきたりもした。ハティは不快感に眉宇を顰めた。

 こんなに注目が集まるのは最初だけだろうと思う。きっと動物園の珍しい動物のように、何度も見ていると彼らも飽きてくるだろうと理性では理解していたが、直接話しかけてくるわけでもなく、遠巻きに囁かれるのはかなり不愉快であった。

 

「ハティー! どうして先に行ったのよ! 一緒に朝ご飯を食べようと思っていたのに」

 息を切らしたフィリパがプリシラの手をひきながら大広間に飛び込んできて、ハティは鬱々とした気分が少し晴れた気がした。

 それからの数日は、ハティとロニーは見知らぬ国に迷い込んだ異邦人という気分であった。城は千人もの魔法使いの卵を擁しているだけあって広大かつ様々なトラップがしかけられていて、礼儀を尽くさなければ開けてくれない扉や、時間によって消えてしまう階段、あるように見えて足をすり抜ける階段——とトラップの連続であった。しかし、人間は適応するものでハティとロニーはいつの間にかグリフィンドール塔と大広間の移動だけは苦労せずに行えるようになっていた。こんなに早くそうなったについてはフィリパ・ポップルウェルに負うところが多かった。フィリパは魔法族の中でも富裕な名士の出で、寮を問わずフィリパの知人は多かった。これにフィリパの美貌と魅力が相乗効果となって――彼女に会う大抵の人間は彼女が魅力的だと認めた――彼女はどこからともなく人や情報を集めてくるので、彼女を連れていると道すがら誰かが助けてくれた。

 そうして出会った上級生の一人によってグリフィンドール塔から中庭に出て外から大広間にまわった方が早い、と言う情報を得たハティたちは新入生の中ではかなり惰眠を貪ることが出来た。問題は教室の移動と、ロニーとフィリパの関係性であった。

 

 

「グーグルマップがいるわ。そうじゃないと、こんな城の中を遅刻もせずに移動できるわけがない。ふざけてる」

「ハティったら、なんの紙を握りしめているの」

「ただの羊皮紙。でもそのうち高性能なグーグルマップにするから」

「グーグル?」

「もうね、道順を覚える努力を重ねるよりもホグワーツマップを作る方が早いと思うの」

 水曜日の夕方、ハティは図書館で羊皮紙を握りしめながらプリシラにそう息巻いた。

 問題はフィリパとロニーに関係性であった。初対面の時にロニーがフィリパの言動に物言いたげな顔をしていたのは分かっていたが、はやり二人は相性が悪いようであった。二人とも男兄弟の末子で妹、という地位は共通していたが裕福な家庭で何の不自由もなく愛されて育ったフィリパと、貧乏な家庭で我慢を強いられて育ったロニーとではあまりにも物事に対する考え方が違った。

 フィリパは楽観的かつ天真爛漫で大抵のことは「なんとかなるでしょう」と口にし、周囲の助けを得ていた。しかし、そんなフィリパに対してロニーはどこか嫉妬している節があった。その為、出来るだけ二人が一緒になることを避ける必要があり、最初はフィリパの助けを借りて難なく教室移動していたハティも、ロニーと一緒だと苦労することとなったのだ。

 勿論、ロニーに対しては罪がないし彼女のユーモアのある性格をハティは愛していたので何の不満もないが、同室のフィリパから「一緒に教室に行きましょう」や「一緒に図書館に行きましょう」とせがまれるたびに時間を捻出し「今日は何故一緒に教室にいかないのか」とロニーに詰められるのは、辛かった。

 そのうち、優柔不断な人間だと双方から見放されそうだ。と思いながら、ハティは二人から逃れるように図書館に向かおうとしていたプリシラに強引に付き添うことにした。

 

「どうして私についてきたの」

「予習をしておこうと思って。プリシラは本が好きなの? ドミトリーの本棚にたくさん本を並べているでしょ」

「ええ、そう。実は、三度の食事よりも本が好きなの。だけど、こんなことを寮生の前で言ったらどうしてレイヴンクローに入らなかったのかって言われそうね」

 プリシラは自嘲気味に笑った。

「そんなことないわよ、どの寮にも読書家はいると思うわ。実は私もそうなの。入学前にダイアゴン横丁に寄った時は、授業とは関係のない本を買ったりしたし。それに時々読み返したいと思って、マグルの本も持ってきてるの」

「マグルの本! わたしも好きよ! 古典から近代の本まで色々読み込んでるの。祖母は魔法族の本にこそ価値があるっていうけど、私はマグルの社会で育まれた本が好きなの」

 プリシラはブルーグレーの瞳をきらきらと輝かせ、前のめりになりながら熱心に語った。

「ホグワーツの図書館にもマグル出身の魔法使いが寄贈した本があるって聞くわ。実は、どうしても読みたい本があるの。今、理事がホグワーツの図書館からマグルの本を撤去しようと動いてるから、今しかないと思ってるの」

「マグルの本を?」

「ええ、マグルが書いた本は魔法族の子どもに悪影響だって何人かの理事が主張してるの。マルフォイ、ヤックススリー、どいつも凝り固まった純血主義の魔法使いばっかりよ。自分の子弟がホグワーツに通っているから、マグルの文化に触れさせたくないのね」

「そうなんだ」

 ハティは絶句して頷くことしかできなかった。

 魔法族を尊ぶ純血主義というものが、そんなところにまで波及しているとは思わなかった。プリシラは「ついてきてくれる?」と席を立ち上がり、ハティにそう促した。ハティたちは図書館内での談笑を嫌うマダム・ピンスを避けて二階にいたので目的の本がおさめられた本棚に行くには一階に降りなければならなかった。道中、プリシラは「禁書棚の近くにあるのよ、貴重な本だから」と囁いて二人は禁書棚に向かった。

 

 目的の本棚へと到着した二人であったが、本棚の影で対峙する男子生徒四人人を見た時足を止めざるを得なかった。そこにいたのは、スリザリンを表わす緑の裏地のローブを纏った三人の男子生徒とハーミスであったのだ。

「グリフィンドールのハーミス・グレンジャーは本の虫で友達一人いないってきくが、ついにホームシックになってマグルの蔵書にまで手を出したのか?」

「君には関係ないだろ、マルフォイ」

 ハーミスは果敢にマルフォイを睨みつけた。

 背後に大きなスリザリン生を従えたマルフォイはハーミスの視線など少しも恐ろしくもないのか、薄い唇に冷笑をひらめかせて小首を傾げた。

「関係あるね。僕の父上はホグワーツの理事をしているんだ。健全な学校運営のために、今理事会ではホグワーツの図書館からマグルの本を撤去し焼いてしまえばいいという話が出ている。だけど、まだ案の段階で可決はされていなくてね。父上の手を煩わせる前に、僕が焼いてしまおうと思っているのさ」

「そんなことをマダム・ピンズが許すとでも?」

「あいつの許しが僕に必要だとでも? マダム一人この城から解雇することなんて、僕にとってはそんなに難しくないんだ。どけよ。グレンジャー」

 マルフォイが手で払いのけるような仕草をしたその時、背後の少年の一人が長い手を伸ばして拳をハーミスの顔に叩きこんだ。ハティが「あっ」とか細い悲鳴をあげている間に、思いのほか力が強かったようでハーミスは顔をおさえてその場にずるずると崩れ落ちた。指の合間から真っ赤な血がたらたらと零れている。

 拳を叩きこんだ当の本人は相棒とともにげらげらと下品な嘲笑をし、マルフォイはふんっと鼻を鳴らして冷ややかにハーミスを見下ろした。

 ハーミスは立ち上がることが出来ず、悔し気にマルフォイたちを睨みつけている。

 ハティが慌てて棚の影から出ようとすると、プリシラがハティを後ろから抱きしめて「我慢して」と言った。ハティが「もう辛抱ならん、あいつをぶん殴ってやる」と拳を震わせていると、マルフォイは棚から二冊ほど本をとって不快そうに顔を顰めた。

 

「こんな本の何がいいんだ、中庭で火にくべてやる」

 その時、ハティの耳元でプリシラが「あの本! 私が探していた二冊よ!」と息を呑む気配がした。ハティを拘束しているプリシラの腕の力が一瞬緩んだので、するりと抜け出すとハティは本棚の影から出て「マルフォイ」と彼らを睨みつけた。

「君は……なんだハリエット・ポッターか。僕に何か用かな?」

 マルフォイは気取った様子で本で肩を叩きながら、口元に笑みを浮かべ友好的なそぶりを見せた。

「そうね、用ならいくつかあるわ。長くかかりそう」

 ちらりとハーミスを一瞥する。

 ハーミスは鼻をつまんでおりどうにかして鼻血を止めようとしているようだ。歯が折れているわけではなさそうなので、ひそかに安堵の溜息をついて続けた。

「その前に後ろのトロール二匹を退席させてほしいわ」

「クラップとゴイルはトロールじゃない。僕の幼馴染だ」

 背後の二人が気色ばみ、マルフォイは顔を眦を吊り上げた。

 

「こいつらを侮辱しているのか」

「侮辱しているつもりはないわ。トロールを護衛にするために魔法使いに変身させてるのかと思って」

 マルフォイは呆気にとられていた。

 良家の御曹司なので護衛の一人や二人連れているだろうとは思ったが、クラッブとゴイルは一言も言葉を発さないので出来の悪い変身術でトロールを魔法使いに仕立てあげているのかとハティは思い込んでいた。しかし、マルフォイの反応を見る限り違ったようだ。

 

「僕は君が二人を侮辱するためにトロールと呼んだのかと思ったよ。それと、トロールを魔法使いに変身させるのは非効率的だ。僕の護衛としてホグワーツに紛れ込ませるなら、凄腕の魔法使いをポーションで若返らせた方が確実だと思わないか?」

「まあ、それもそうね。じゃあ、スリザリンにあなたの護衛がいるの?」

「いたとしても話さない。君が僕の友達になりたいというなら別だけどね?」

 マルフォイは口の端を吊り上げて笑った。「ポップルウェルはともかく、ウィーズリーやシャフィク、グリーングラスの傍系とつるむのはやめておいたほうがいい。君の価値を損ねることになる」

 ハティは小首を傾げた。

 

「あなたこそ、わたしと仲良くしていいの。あなたのお父さまはヴォルデモート卿の配下だったんでしょ? 主人の敵と仲良くするなんて、かつての信奉者が怒り心頭しそうな話ね。ただでさえ、ガリオン金貨を握らせてアズカバン行きを免れたのに、アズカバンの中で大人しく服役しているお友達の怒りを買うわよ」

 ヴォルデモート卿という言葉に、マルフォイは慄いて一歩後退った。背後の二人に至っては呻き声をあげて周囲を見渡している。その後に続く挑発するようなハティの言葉は、闇の帝王の名の前ではまるっきり霞んでしまったらしい。恐怖と怯えがない交ぜになった顔でマルフォイは「君、あの方の名を呼ぶなんて」と掠れた声で呟いた。

 

「わたしに敗れた男の名前がなんだって言うの。昔に欧米を席巻したゲラート・グリンデルヴァルドの名前だって、今では教科書の中の住人だわ。あと十年もすれば、ヴォルデモートもそうなるわよ」

「じゃあ、君があの方を滅ぼした新たな闇の主という話は本当なのか」

 マルフォイは胡乱な目で威嚇するようにこちらを睨みつけた。 

 ハティは一歩、二歩と徐々にマルフォイに距離をつめてどんと本棚にマルフォイの体を押し付けた。

 

「どう思う? それくらいの考察もできない頭脳の持ち主とは、仲良くできない。そもそも、あなたのお父さまの忠誠心には疑問が残るわね。だって、ヴォルデモートがわたしに倒されて真っ先にアズカバン行きを逃れたでしょ? 蝙蝠のように身をひるがえす男の息子が、信用できるとでも?」

「僕に言わせれば、血を裏切る者と公然と仲良くするような人間が次の闇の主だとは考えられないね」

 なぜマルフォイがハティに懐疑的な視線を向けているのか、ハティはすぐに理解できた。

 ヴォルデモート卿は純血主義を掲げて信奉者を集めた魔法使いである。彼のスローガンの中にはマグル生まれの魔法使いや魔女の差別が含まれていて、それは単なる偏見ですまずに破壊的な排外主義という名の暴力へと変貌した。マグル狩りという名目で、マグル生まれの魔法使いは魔女や凌辱され、蹂躙され、命を奪われた。純血主義を批判した魔法使いたちもなすすべもなく命を奪われ、集団的な悪意は社会をも呑み込んでいた。ヴォルデモート卿の名は恐怖の代名詞として、デスイーターという名は平和の破壊者として名を轟かせていたのだ。 

 だからマグル出身者や純血主義を批判するロニーたちと公然と戯れるハティをその器ではない、と指摘している。

 ハティは失笑した。

 

 

「あの時代の後に、公然と純血主義を掲げてスリザリンに入る馬鹿がどこにいるの。ヴォルデモートもスリザリンだったのよ? あいつの後釜がきましたってダンブルドアに宣言するようなもんじゃないの。本当に狡猾な魔女ならね、スリザリンなんかに入らずにマグル迎合を掲げる。そして、隠然と力を蓄えるものなのよ」

「それは、君が僕たちと同胞だということか? 同じ理想を掲げていると言いたいのか?」

 ▼お前も純血主義にならないか? と ドラコ・マルフォイがきたいのまなざしでハティをみている。

 

 

 ハティは笑いだしそうになった。彼は本当にハティをヴォルデモートに代わるダーク・ロードの器だと見込んでいるらしい。少女たちがオステリア・フィオレンティーナで話していた眉唾ものの話はどうやら本当に元デスイーターたちの間では有力な説なようだ。

 

「あなたの家族は教えてくれなかった? ヴォルデモートはグリンデルヴァルドが滅んですぐ頭角を現した。前時代の闇の魔法使いが滅んで生き残ったのは誰?」

「君だ。それじゃあ、君がその……」

 じわじわとマルフォイの顔に恐怖が広がっていく。ハティは口元だけで笑い、わなないたマルフォイの唇を親指でなぞって酷薄そうなグレイの瞳を覗き込んだ。

 

「それ以上言うな。こんなところで、わたしが真実を語るとでも? 迂闊で使えない部下はいらない」

「何が、真実ですって?」

 甲高い女の子の声が響き渡り、マルフォイの顔が強張った。マルフォイが振り向き、ハティが彼の肩越しに視線の先を辿るとスリザリンカラーのローブを身に着けたボブカットの少女がつんと顎を上げ、憤怒の表情でこちらを睨みつけていた。

 

「パーキンソン」

 マルフォイは浮気でもバレたかのような震えた声をあげた。しかし、すぐにそれを取り繕い、いつもの尊大な口調で「何の用だ」とパンジー・パーキンソンに訊ねた。

「なにって、夕食の時間だから貴方を迎えに来たのよ」と、パンジーは冷ややかに言った。「なのに、こんなところで密会かしら」

「君には関係ないね。それに、僕がいつ食事をとろうと僕の勝手だろう? 勝手に僕の学校生活をスケジューリングしないでくれ」

 このすげない返答には、パンジーは屈辱と怒りに顔を真っ赤にして奥歯を嚙みしめた。口の奥からひねり出すように「私たちは今、スリザリンの結束を固めるために社交活動を熱心に取り組まなければならない段階なのよ」

「女子は君に任せている。だが、男子は僕が統括しているからには問題ない。それに今は男子と女子で足並みを揃える段階とは思えないな」

「あら、そう。じゃあ、勝手にやらせてもらうわ。貴方はそこの尻軽女(Whore)で遊んでいるといいわ」

 そう吐き捨てたパンジーは、心底憎々し気な顔でハティを強く睥睨し踵を返して消えていった。

 ハティは呆然としていた。今までの人生で使用人扱いされたことはあっても、売春婦扱いされたことは未だかつて、ない。あの女——パンジー・パーキンソンはハティをマルフォイに遊ばれる商売女、と嘲笑したのである。

 

「尻軽女……ですって?」

「ポッター、あいつは何もわかってないんだ。君が何者なのか知れば、パーキンソンは君にあんな態度は二度ととれない」

 何故だか、正妻に侮辱された愛人を慰めるようにマルフォイが必死に言い募る。それさえも妙に癪に触って、ハティは燃えるような瞳でマルフォイを睨みつけて叫んだ。

「わたしは売春婦じゃないわ!」

「そうだ」

「わたしのこの純情可憐な美貌を見て、一体誰が売春婦だと思うのよ。わたしは今まで彼氏なんて一人も作ったことはないし、キスだってしたこともないのよ!」

「そ、そうなのか」

 マルフォイは気圧されて何度も頷いた。なぜか少し嬉しそうに笑っている。

「勿論、僕は君がそんな女の子じゃないってわかっているとも。君は高貴だからね」

「そうよ! だから、あいつにくぎを刺しといてよ! そうじゃないと、あのトロールたちを鞭で打って豚に変えてやるわ! 行く末はボンレスハムよ!」

 ハティの脳裏に豚のように肥え太った少年二人が全裸の状態で縄を巻き付けられ、黒い湖に沈みゆく光景が浮かんだ。なんて醜い姿なのか。

「わかった、僕が請け負おう」

 マルフォイは鷹揚に頷いてパンジー・パーキンソンを懲らしめることを確約した。パンジーはマルフォイに意見しつつも、完全に優位に立っている様子はないので二人のパワーバランスを見る限り、マルフォイはそれなりに対処してくれることだろう。少しばかり溜飲がさがったハティは当初の目的を思い出し、マルフォイの手を握って「下僕としてしっかり励めよ」と笑いかけた。そして、さりげなく二冊の本を回収したのだった。

 

「げ、下僕? この僕が?」

 マルフォイは呆気にとられてハティに聞き返した。

 ハティは傲然と頷いて「当たり前でしょう」ときびしい目つきでマルフォイを見た。

「わたしの下僕で、なにが不満なの?」

「僕はマルフォイ家の跡取りだ! その僕が、げ、下僕だって!? そんなの屈辱だ。それに僕がそんな立場に甘んじるなんて、父上と母上が許さない!」

「あんた、何言ってんの? あんたのお父さまもあんたがハイハイしてる頃、ヴォルデモートの足を舐めて下僕やってたのよ? だったら、あんたもわたしの側近になるためにまずは下僕から始めるのが当然でしょ? それとも、お父さまが家のため家族のために必死にやってきたことを屈辱的な行為だって否定するの? それってとっても親不孝なことだと思わない?」

「僕の父上は崇高な使命のためにダーク・ロードにお仕えしていたんだ。屈辱的な行為じゃない!」

「そうよ。だから、あんたがわたしに下僕として仕えることもマルフォイ家の名声を高めるための崇高な行いなの。わかった?」

「……本当なんだな? 本当に、君を信じるぞ」

「不安なら、お父さまとお母さまに言わない方がいいわよ。何でもパパとママにお伺いを立てないと行動できない駄目御曹司ってお父さまとお母さまに失望されるでしょうし。まずはわたしの下僕として徳を積む、そして将来的に側近になることであなたはわたしの栄光のおこぼれに預かるってわけ。わたしの第一の下僕になることを、喜びなさいよね」

 マルフォイはハティの傲岸不遜な物言いに、怒りで真っ赤になりながら「悔しい! でも家のためにビクンビクン……!」みたいな顔で頷いた。不承不承だったのだろうが、ハティの見立て通り生家と家族への忠誠心はよほど高いようで「使命は果たす」と苦虫を潰したような顔で言った。

 

「そう、期待してるわね。それとこの件は二人だけの秘密にしないとね」

 ハティは振り向いてでくの坊のように突っ立っているクラッブとゴイル、そして座り込んだまま唖然とこちらを仰いでいるハーミスを順番に見渡した。

「クラッブとゴイルは僕に忠実だ。命じれば秘密は守る」

「信用できないわよ、そんなの」

 ハティはすげなく一蹴した。「いい? こいつらはあなたという主人に屈してるんじゃないの。あなたの背後の、お父さまの権力に屈してるの。だから、あなたがどんなに命じても、外部に秘密を漏らす可能性がある」

 特にルシウス・マルフォイに。

 マルフォイは雷に打たれたようにショックを受けていた。

 

「いい? あなたがやるべきことは、まずこいつらを完全は支配下に置くこと。でも、それはまだ難しいからわたしがよりよいやり方を見せてあげる。犯罪というのはね、念入りに証拠を潰してこそ完璧に仕上がるのよ。よく見ておいて」

「な、何をするつもりだ」

 当惑するマルフォイの目の前でハティはローブのポケットより杖を取り出した。入学前に購入した〈闇の魔術を使わない 完全犯罪のすすめ〉という本にその呪文はあった。闇の魔術でないからには、罰せられることもない。ハティは目をぱちくりとさせて呆然とつったっているクラッブとゴイルの二人に向かって、杖を優雅にしならせた。

 

「オブリビエイト!」

 足元のハーミスが呻き声をあげて、マルフォイは苦渋に満ちた表情でそれを見ていた。

 当の魔法にかけられた二人は茫洋とした眼差しを虚空に向けて硬直していたが、ハティが足を踏んで刺激すると「あれ、俺はなんでここにいるんだろ」「さあ」と二人は顔を見合わせた。初めて使用した魔法であるが、成功したらしい。天才かもしれない、とハティは内心でほくそえんだ。

 

「今までわたしたちが何の話をしていたか、覚えてる?」

「夜ごはんの話だろ? 今日は七面鳥が出るって」

 マルフォイは「ゴイル、それはお前の実家の夜食のメニューだろう」と呻いて、クラッブに視線をやった。

「クラッブ、今日は何日だ?」

「えーっと、えっと、六月十二日……」

「大分、記憶力が後退した? それとも前からこんなにお馬鹿なの?」

「どう考えても魔法にが効きすぎだ!」

「仕方ないわね、わたしは忘却術師じゃないし。まあ、魔法は強力に越したことはないわ。とりあえず、わたしはこいつの後始末をするから。パーキンソンのことはよろしく」

闇の女王(ダーク・クイーン)のおおせのままに」

 マルフォイは舌打ちでもしたそうな顔をして、頷いた。

 ハティは「いくわよ、グレンジャー」と床に座り込んでいるハーミスを引きずり、その場を颯爽と去ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

「本は回収したわ、プリシラ。ついでにこっちも」

 図書館を出たハティはプリシラと正面玄関のベンチで再会した。

 ハティが回収した二冊は〈星の王子様〉と〈モーリス〉と綴られた黒い本であった。後者はともかく、前者は子どもから大人まで幅広い年齢層を対象にした世界的ベストセラーでハティのトランクの中にも眠っている一冊だ。

 

「ありがとう、ハティ。この二冊の本がほしかったの。でも、祖母が熱心なクリスチャンで純血主義者だから、許してくれなかったのよね。第二次世界大戦に従軍したマグルが書いた本なんて、とんでもないって言うの」

「それよりもさ、さっきの君の会話は何なんだよ! それから、スリザリンの二人にかけた魔法……あれって記憶操作だろう?」

 和やかな会話を打ち切られた二人は、闖入者であるハーミスをじっとりと見た。ハーミス・グレンジャーは相変わらず鼻腔から鼻血を垂らしていて、ハティが渡したなけなしにティッシュペーパーを鼻につっこみ間抜けな顔を晒していた。

 

「なにって、ちょっとした社交辞令よ」

「君って本当に例のあの人に勝る闇の魔法使いなの?」

 ハーミスのあけすけな物言いに、プリシラもハティに視線を注いだ。

 あまりにも無粋な質問にハティは笑って揶揄いでもしたくなったが、ハーミスのとがった目つきが嘘を許しそうになかったので嘆息をして両手をあげた。降参のポーズであった。

 

「嘘に決まってるでしょ。マルフォイ家を探る為に、あいつをスパイに仕立て上げようと思って餌を巻いたとこ」

「それにしては迫真の演技だった。あのドラコ・マルフォイを騙そうだなんて、度胸あるわね」

「そんなことの為に、人の記憶を操作するなんて最低だ。それに、あれは一年生が使うような魔法じゃない。習ってないし、呪文学の教科書にものってなかった!」

「上級生が習う高等な魔法だもの。わたしも初めてやってみたけど、案外できるものね」

 さらりとハティが豪語すると、ハーミスは唖然と口を開いてハティを凝視した。

 

「初めて?」

「そうよ、天才なのかも。だから、貴方に対しても失敗しないと思うわ。まあ、ハーミスがこのことを黙っているなら別だけど」

「僕はこのことは寮監のマクゴナガル教授に報告した方がいいと思う。君は、廊下でさえ使ってはいけない魔法を図書館で、それも同級生に向けて放ったんだ。それも危険な精神操作の魔法を。一歩間違えたら、あの二人の記憶が全部吹っ飛んでた。一体、いくつの規則を破ったと思ってるんだ?」

「ハーミス、あなたって規則ばかり気にして息が詰まらない?」

「はぐらかすな」

「じゃあ言うけど、あなたにわたしの気持ちわかる? 赤ちゃんの時に両親を殺されて、勝手に生き残った女の子だなんて有名人にされた女の子の気持ちが。しかもその子は、アズカバン行きを免れたヴォルデモートの信奉者に命を狙われているのかもしれない。だって、その女の子のせいで主人は失脚し、彼らは牢屋に入るところだった。そしてその信奉者の子どもがスリザリンにはたくさんいる。それでも安心して、ホグワーツで七年間を過ごせるって言える?」

 ハティのまっすぐな眼差しと深刻な声音を受けてハーミスは狼狽えて、視線を彷徨わせた。彼は何かを葛藤するように目を瞑ってぶつぶつと呟き始めたが、しばらくして奥歯を噛みしめながらゆっくりとハティに視線を戻した。

 

「自分の身の安全をはかりたいという君の気持ちはわかる。だけど、こういうことは倫理的にも許されないと思う」

「ふうん。でも、グレンジャー。帰結主義者によると、最良の結果をもたらすならばその行為は正しいっていうじゃない」

「僕は徳倫理学の視点で話をしている」

 プリシラに反論するようにハーミスは憮然と言い放った。

 

「そもそも倫理は時代によって宗教的影響、道徳的影響を受けるんだから一概には貴方の主張が正しいとは言えないでしょう。それにあなたの求める道徳性は結果に依存するんだから、終わりがければそれでいいの。そういう意味では、ハティが貴方に忘却魔法を使うのも理にかなってるわ。だって、ハティはそれで最良の結末を得るんだもの」

「生憎と僕は二人ほどノロマじゃない」

 ハーミスは警戒するようにさっと杖を取り出し、構えた。

 

「わたしの強力なオブリビエイトをお見舞いされて、この数日間に詰め込んだ知識を全部忘れたくなかったらその杖をおさめて、秘密を守ることね。グレンジャー」

 ハーミスは暫くの間、考え込んでいた。

 入学して数日間、テストがあるわけでもないのに何かに追われるように教授を質問責めにして、図書館に通い詰めていたハーミス・グレンジャーをハティは知っている。彼は自分の知らない知識に対して貪欲で、まるでレイヴンクローのように成績や教授からの評価に固執していた。その彼が、成績に直結する知識を人質にされて悩まないはずがない。

 タイムイズマネーという言葉があるが、彼の場合はガリオン金貨を差し出してでも時間は惜しい筈だ。

 

 世の中というのは残酷だが、ハーミスはあらゆることを天秤にかけた結果杖をおさめた。

 

「見逃すのは今回だけだ」

「そう。次回は気絶させるための魔法を習得してるから楽しみにしていて」

「君ほど野蛮な魔女は見たことない」

「誉め言葉かなあ?」

 ハーミスは口惜し気にハティを睥睨して足早に去っていった。

 その背中を見送った後、プリシラは二冊の本を手にベンチに腰を下ろした。

 

「それで――、私のことはオブリビエイトしないの」

「どうしようかなあと思ってる。プリシーの場合はハーミスほど弱みを握ってるわけじゃないから、うまく脅しがききそうにないのよね。だけど、そんなに警戒しているくせにどうしてハーミスからわたしを庇ったの?」

「おもしろそうだから」

 簡潔な物言いに、ハティは「は?」と呆気にとられた。思わぬ返答であったからだ。

 当の本人はあっけからんとしていて、夢見るようなブルーグレイの瞳で二冊の本を撫ぜながら穏やかに続けた。

 

「あのね。小説家のおばあさまが言ってたんだけど、登場人物に深みを出すには周囲の人間を観察するのが一番だって言うの。だけど、今まで私の周りには特に人間性に厚みのある人間はいなかったのよね。おかあさまは社交活動に忙しいし、おとうさまは仕事で多忙。従姉妹は典型的なスリザリン気質で、私を蹴落とすことしか考えてない。一番面白い人といえば、私のボーイズラブ小説を庭で燃やして”神への冒涜よ”って怒り狂ってたおばあさまくらいかしら」

「えーっと」

 顔をあげたプリシラの目がきらりと輝く。それは宝石というよりも、どこか飢えた肉食獣を思せるぎらついた目でハティは思わず身の危険を感じて後退った。彼女は鼻息も荒く続けた。

 

「そんな時ハティを見つけたの。最初は悲劇的な少女小説の主人公みたいだと思ったわ。でもふたを開けてみれば貴方って大分屈折した精神性を内包した美少女で、かなり倫理観がぶっ飛んでいて、エキセントリックで、イカれてる。新たな登場人物を生み出すために、観察するにはもってこいの人間だと思ったのよ!」

「あの、つまり?」

「今回の件も含めて貴方のクレイジーな行く末を見届けたいから、オブリビエイトしないで。プリシラ・プセットの名に誓って、秘密は守るわ。やぶれぬ誓いを結んだっていい」

「やぶれぬ誓いはいらないけど、わたしの味方になるって言うなら見逃してあげてもいいわよ」

「わかった。私は一番近くで貴方の波乱万丈な人生を観察する、貴方は私を覇道のために上手く使う。これでWIN-WINね」

「まあ、そうね」

 ハティは苦笑いをした。

 プリシラはなぜか今までで一番エネルギッシュに見えた。

 

「本当にわたしの秘密を守れるって証明できる?」

「証明できるわよ。ハーミスにしたように、私の弱みを握りたいんでしょう? それはこれよ」

 プリシラは真面目な顔で真っ黒な本をハティに差し出した。背表紙にはモーリスと綴られており、何の変哲もないマグルの本に見える。彼女は本を開いておもむろに美しい声で朗読を始めた。

 

「”イドリスは、ベッドの反対側に立ちすくんだまま、エドガーを睥睨した。『そうやって焦らすほど、男がけだものになるということを、教えてやろうか?』エドガーはイドリスの華奢な手首を掴み、乱暴にベッドに放り投げた。『やめろっ! あ――!』力ずくでイドリスに圧し掛かり、体に絡まる絹を引きはがして――”」

「もういい、もういいです!」

 ハティは慌ててプリシラを制止した。嫌な予感がした。

 

「それって、もしかして、ボーイズラブ小説なの?」

「そうよ。純血の家ではマグルの電子機器と同じくらいご法度な品なの。同性同士の恋愛ってね、数少ない純血を余計減らしてしまうから純血家系ではご法度なの。こんなことが他の純血の奴らに知られたら、火あぶりよ。だけど、私はこれが大好きで、私の家でマグルのボーイズラブ小説を見つけたその日、おばあさまは怒りで卒倒したわ。それからマグルの本を読むことを禁じられて、私はめっきり純血主義というものに嫌気がさしてしまったのよ」

 背中を丸めてベンチに座ったプリシラは社会に倦み疲れた大人のように見えた。

 まさかそんな理由が純血主義を棄てる理由になるのか。とハティは唖然とするばかりだったが、プリシラ本人は真剣なのか真面目な顔で続けた。

 

「だから、このホグワーツの七年間が私にとっての聖域なのよ。なのにルシウス・マルフォイがこの貴重なモーリスを図書館から撤去しようっていうのよ。許せないでしょう」

「私は星の王子様の方が本命なんだと思ってた」

「あら、星の王子様だって好きよ」

「そりゃあね、世界的なベストセラーだもの。作者は今でもマルセイユの海を飛んでいるに違いないわ」

「あら、貴方って素敵な考え方をするのね」

「……そう?」

「ともかく、私のことを信じてくれたのなら良いのだけど」

「そこまで言うのなら……」

「じゃあ、私たちは友達よ。ハティ。秘密を共有すると、とても仲の良い友達になれると母は言っていたわ。今日から貴方は私の友達で、記念すべき本の虫同盟の三人目になるの」

「本の虫同盟ってなに?」

「読書家の集いね。今まで回りにいた女の子たちは、将来の婿探ししか興味がない連中だったからわたしを入れて本の虫同盟は二人しかいなかったの」

「ちなみに、二人目は?」

「フィルよ」

 ハティは呻いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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